茨城県城里町(旧桂村)


穴沢館(城里町上阿野沢字堀之内)

*鳥瞰図の作成に際しては、Pの遺跡侵攻記を参考にした。

 穴沢館は、『茨城県遺跡地図』にも掲載されていないため、今までその存在を知ら。なかった。しかし、Pの遺跡侵攻記で紹介されているのを見て、さっそく行って見てきた。未登録とはいえ、下の記述にもあるように『御前山郷土誌』にそれについての記事が見え、「堀之内」地名が残り、遺構も一部残っているのだから、館跡としてはちゃんとしている方である。

 穴沢館は、那珂川の西岸、国道123号線沿いの上阿野沢地区にある。googlemapでは、「上阿野沢営農研修センター」が掲載されているが、それに隣接する東側一帯が館跡となる。

 遺構としては、北側の堀が残っている。水路となっており、深さ3m、幅5mほどの堀が東西110mほどにわたって延びている。もっともこれだけでは、ただの川の侵食による地形と見られなくもないのだが、その北西端には土塁が残っている。土塁はL字型に南に湾曲しており、それに付随して、堀も直角に曲がっている。しかしその途中から道路によって分断されてしまっている。本来は現在西側に国道と平行して走っている道路を越えた先まで堀が延びていたのだと思われる。
 土塁の外側には犬走り状の平場が見える。こういう館で犬走りを付随させているのは珍しい。

 国道に面する東側には土手状の段差があり、これが東側の区画を示しているように見える。これらの部分から想像すると、本来、100m四方ほどの規模の館であったのだろう。

 ただし、P殿の記事によれば、図のAの部分で、土塁がいったん南側に曲がるような名残を見せていることから、Aの部分が館の東端に当たるのではないかという。とはいえ、その東側にも土塁状の高まりが分断されるようになりながら残されており、だとすると、Aの部分を境目に2つの郭が並列していたのかもしれない。


 P殿によれば、『御前山村郷土史』の野口城の記述には次のようなことが書かれているという。
「野口城城主・川野辺(川辺)資明の子基通は1336年に那珂通辰に従って常陸太田の増井で自刃した。基通の子?川野辺次郎も吉野で討死し、その子?の某が佐竹義篤に降って出丸にいたが、後に穴沢の館に移った」

 館跡内部の2軒の大きなお宅はいずれも川野辺姓であるとのことで、この記述の川野辺氏の子孫にあたるのではないかと考えられる。


北側に残る堀。右側が館内部で、北西の角には土塁が見られる。 北東側。土塁状の高まりが2ヶ所に見られるが、遺構なのかどうか分からない。



阿波山堀ノ内館(城里町阿波山字堀ノ内)

 この遺跡は『茨城県遺跡地図』にも掲載されておらず、50stormの古道を訪ねてによって知ったものである。図も、このページを参考にした。

 城里町役場の桂支所(かつての桂村役場)の北西200mほどのところに「堀ノ内」の地名が残り、かつて館が存在していたと考えられる。航空写真を見てみると、確かに、民家となっている方50mほどの区画が館跡のように見えている。民家の敷地となっているので内部確認は行っていないが、現地を訪れてみると、東側には水堀跡らしきものが見られ、低い土塁も残っているようだ。やはり、ここが館の跡であるらしい。

 民家の敷地内であるため、内部探索はできていないのだが、航空写真を見た限りでは、西側にも何らかの区画が残っているように見える。いずれにせよ、「堀ノ内」地名があるので、ちょっとした城館があったことには間違いないであろう。


 歴史についてもよく分からないが、50stormの古道を訪ねては、佐竹家臣の粟氏との関連を指摘している。「粟」=「阿波」というわけである。

 また、館跡の南100mほどのところの山林内部にも長さ60mほどの土塁が残っている。城館に関連するものかどうかは不明だが、それなりの規模があるので、一応、紹介しておくこととする。

















Aの東側には水堀跡と思われる地形が残る。 館の遺構ではないかもしれないが、Bの所には土塁が残されている。




大山城(茨城県城里町阿波山字館山)



御前山城(城里町赤沢)



下圷(あくつ)館(城里町下圷字堀ノ内)

 国道123号線の「圷小学校」やJAのある信号から東に入って700mほど走ると、右手に低いこんもりした岡が見え、その下に写真の標柱と案内板とが立っている。桂村は史跡に力を入れているらしく、すべての城館跡にこのような標柱と案内板がある。うれしいことだ。桂村の城館の多くは、まとまった遺構のない小規模なものなので、こうした案内がなければとてもそれだと知ることはできないであろう。

 下圷館は比高8mほどの低い台地上にある。周囲には水田があり、かつては沼地に面した地形であったと思われる。郭内は墓地となっており、30m×60mほどの単郭の居館であった。居館とはいえ、人工的な構造物の少ないものであり、どちらかというと、台地上に単に屋敷を建てただけ、という具合だったようである。

 台地上のほとんどは墓地となっている。この墓地の南側と東側に土塁らしきものが認められるが、これは城郭関連遺構というよりは、墓地に伴うもののように見える。また東側の尾根の先とその下の祠の南側には堀切状の窪みが見られるが、これも「堀切」と断定できるほど明確なものではない。

 台地は南側にも延びており、その先端近くにやはり祠があるが、この辺りは台地全体が自然地形そのままである。台地全体を防御するための土塁や堀なども見られず、実にシンプルな館であった。

 この場所を「堀ノ内」と呼んでいる。この地名からも分かるように中世前期の頃の館であったのだろう。また入口を「大門」、北側を「八幡平」とも言っている。


下圷館入口にある案内板。 郭内の中心部は墓地となっている。
下圷館には佐竹氏の家臣であった石塚宗義がすんでいたが、彼は戦国期になると石塚城を築いてそちらに移っていった。その後この館には石塚氏の家臣の桐原氏が住んだという。しかし遺構の状況からして、戦国時代まで使用されていたかどうかは、ちょっとあやしい感じがする。



 

高久館(城里町高久字館)

 高久館の位置はこの辺りである。

 高久館のある台地は結構先端近くが入り組んでいるので、この場所を探すのがわりと難しいかもしれない。城址を縦に2つに分けるようにして県道246号線が通っているのであるが、道が新しくなっている部分もあり、地図と実際とはちょっと異なっている。一番分かりやすいのは台地の東南下から上がっていく道を見つける事かもしれない。そうすると1郭の脇に出ることができるであろう。もしくは北側の「寄居」というバス停の辺りから南下してくるのであるが、この道は現在ではメインの通りではなくなってしまい、あまり使用されていない道のようである。しかしここを南下すると図の大手の辺りに出るので、道のすぐ脇に二重堀構造を見ることができる。

 城は台地先端部を中心として堀切によって連郭式に数郭を配置したものである。台地先端に近い1が主郭であったろう。ここは現在は墓地となっている。その南側の最先端部にも4の部分があるが、ここはヤブなのできちんと探索していないが、平坦地があるようであり、物見か何かがあった所であろうか。

 1郭と2郭との間には深さ5m、幅7mほどの堀切が現存している。この堀切は東側の先端近くで北東部分にきゅっと曲がっているのだが、注目すべきなのはその東側下の部分である。1郭の東側下の城塁は全体がえぐれるようにして削られている。自然崩落した部分もあるのであろうが、もともと厳しい切岸が存在していたのであろう。この部分、深さは10mほどある。そして下の5の腰曲輪の東側にはさらに土塁のようなものがある。この土塁はかなり複雑な形状をしており、土塁といっていいのかどうかちょっと分からないのだが、これによって挟まれた5の部分は自然と横堀形状を成している。つまり1郭の東側下はもともと深い横堀であった可能性があるといえるのである。

 2郭と3郭との間の切り通しの道路が堀切の跡であったのかどうか、現地で確認するのを忘れてしまったのだが、全体の構造から見て、ここも堀切であったと見てもよさそうである。つまり1郭の北側には2郭、3郭が横に配列されていたということになる。

 2郭、3郭を取り囲んでいた、その外側の空堀は、現在では畑地化や道路拡張のためにかなり埋められてしまってはいるが、2郭北側の堀は、その北側の「館」部分の土手がそのまま残っているので、位置ははっきりと確認できる。この堀は東側の部分で南側にクランクしていた。

 3郭北側の堀は道路を拡張するためにすっかり埋められてしまった。しかし現在の道路に沿って堀が存在していたという話は現地で確認することができた。だいたい道路がそのまま堀のラインと重なっているらしい。3郭の西側から南側にかけては城塁らしい土手がよく残っている。西側の土手下の畑は堀の跡のように見えたので、現地の方に確認した所、やはりもともとは堀が存在していたということである。この堀は3郭の南側では腰曲輪となっているが、この腰曲輪部分の一部には外側に土塁があって、横堀らしい形状を留めていることから、これも本来は横堀ではなかったかと思われる。3郭東南端の天王社のある部分は櫓台、あるいは物見台のようなものではなかったろうか。この3郭の東側の一部に土塁が残っている部分があるのだが、これはもともとあったものではなく、道路拡張工事を行った際に余った土を寄せただけのものであるという。つまりこれは偽土塁である。しかし、最初見たときには残存土塁かと。思ってしまった。こういうことは、やはり聞いてみないと分からないものだ。

 城の中心部分はこんな感じであるが、その北側には外郭部分が存在していた。外郭部分の遺構の大半はすでに消滅してしまっているが、図の「大手」とある辺りには二重堀がしっかりと残っている。この部分、道路の東側は二重堀となっているが、西側は幅の広い箱堀となっている。西側の部分はひょっとすると水堀であったのかもしれない。西側の堀の両側には土塁も残っている。大手北側の道路が土塁の所で直角に折れているのも、登城道であったことの名残なのだろう。この辺りの遺構はとても重厚なもので、この城が戦国期にかなり手を入れられたものであろうことがよく分かる。この外郭部分を中心とした地名が「館」なので、あるいは元もとの高久氏の館は、台地先端部ではなく、この辺りにあったのかもしれない。そのさらに北側に「寄居」という地名があるのも、その想像を補強してくれそうな気がする。外郭ラインは、西側の部分がどうなっていたのか分からないが、道に沿って3郭と接していたのであろうか。

 このように高久館は、「館」というよりも、かなり広大な「城」というのにふさわしい規模のものである。戦国期、この地域の支配拠点とするために佐竹氏のてこ入れによって拡張整備が施されたものではないかと思われる。

1郭の登り口。この脇に案内板と駐車スペースがある。郭内は墓地となっている。正面奥の高台が4の部分。 1郭と2郭との間の堀切。深さ5m、幅7mほど。
1郭東側下の城塁は見事に削られていて、とてもよじ登れない。 1郭東側下の腰曲輪にある土塁のようなもの。かなり複雑な形状をしている。この土塁によって、1郭東側下は横堀形状を為している。
2郭北側の堀跡。半分以上埋められてしまっている。幅10mほどの堀だったのであろう。 2郭と3郭との間の道路。これも堀の名残であろうか。
3郭西側の城塁と腰曲輪。腰曲輪は一部横堀状になっている。 3郭北西側の堀跡。
大手口東側の堀切。深さ6mほどあり、こちら側は二重堀になっている。写真は内側の堀。外側の堀はこれに比べると小規模である。 大手口西側の堀。両側に土塁が残存している。
(以前の記述)高久城は佐竹氏の一族である高久氏が天正年間に築いたという。高久氏は佐竹8代行義の6男馬淵小三郎景義が御前山村の野口城に移った後に、景義の子景有が更にこの地に拠り、高久を名乗るようになったものだという。しかし「館」「寄居」といった地名が残っていることからして、もっと古い時代から居館程度のものが存在していた可能性もある。実際、天文9年(1540)8月20日水戸城主江戸但馬守通雅攻が攻め寄せてきて高久城が落城したという伝承もあるようなので、かなり古い時期から館は存在していたのであろう。そして現在の規模になったのが天正年間、ということなのではなかろうか。

 高久城の位置は大山城の南2.5kmと近い場所にあるが、高久義景は大山義正と戦って敗れている。

 城址は東南西の三方が崖の台地上の先端部にあった。村指定の史跡となっている。

 県道246導線の「寄居」というバス停から南に入っていくと高久館の標柱が見えてくる。更に進むと写真の標柱や案内板がある。この坂を上った墓地になっているところが主郭であったと思われる。北側には空堀があるが、郭そのものはそんなに広くない。その北側の畑になっている部分や、虎口を挟んで神社のある辺りも郭であっただろう。中間の道路も切り通し状になっており空堀の跡のように見える。また看板の先の出張った部分にも郭らしきものが見える。台地続きの部分はあまり要害とはいえないが、台地の先端部は比高30mほどの切り立った崖になっており、こちら側からの防備は極めて強力であったろう。



 

仲丸城(なかまるき・城里町孫根字仲丸城・城の内)

 大山城の西2kmほどの孫根地区には仲丸城という地名がある。またそれに隣接して城の内という地名もある。この城についての伝承は知らないが、ここにもかつて城が存在していたのであろうと思われる。



平沢館(城里町孫根字平沢)

 この遺跡は『茨城県遺跡地図』にも掲載されておらず、50stormの古道を訪ねてによって知ったものである。図も、このページを参考にした。

 平沢館は孫根城の西側300ほどのところにあったらしい。孫根城とは台地続きのような位置にあり、出城を置くのによさそうな場所である。

 しかし、台地上は民家の敷地内となっているので、内部確認はしていない。50stormの古道を訪ねては、台地縁にある竪堀状のものが、台地上にまで接続し、横堀状の地形を成しているという。上の小屋がある部分の周囲が箱型にくぼんだ地形となっているのは道路上からも確認できたのだが、これを館の堀とすると、館の規模が小さくなりすぎるような気がする。箱堀部分の脇には土塁状のものも見えたのだgだ、どうも城館遺構としては中途半端なもののように思われる。

 台地北側の土手は、かなりヤブ化してしまっているが、ここに入り込んでみると、腰曲輪状の地形が2段になっているのが確認できる。北側なので、畑を造るには不適当な位置であることから、これは腰曲輪と見てよいものではないかと思われる。


 50stormの古道を訪ねてによると、平沢館の館主は、佐竹一族の東氏に属した平沢氏であったという。







北側の台地下から館のあったという部分の土手を見たところ。ひどいヤブ状態である。




平治館(土丸城・城里町北方)

 平治館も、高久館と同じ台地続きにあるが、やはり場所が分かりにくい。最も分かりやすいのは北方小学校からアクセスするルートであり、小学校のすぐ近くに、東側に直線的に延びている「農免道路」がある。(農免道路という看板が出ているのですぐに分かる) この道を東にまっすぐ進むと道はやがて台地下に降りていくことになるが、道が曲がって台地下に差し掛かるすぐ手前に「平治館」の案内板が見えてくる。この看板の裏が城址である。

 台地下に降りるこの切り通しの道路が、堀切の名残であるようである。これによって切り取られた北西の部分は長軸200mほどもある楕円形の郭で、こうして独立した部分を利用した単郭の居館であった。

 城内は一面の畑となっているが、遺構らしき明確なものはほとんど存在していない。城内で畑作業をしていた方に伺ったのだが「時々、尋ねてくる人がいて質問されるのだが、どの部分が城であるのかよく分からない」ということであった。実際、明確に遺構と言える部分は案内板の裏にある土塁だけだったので「遺構はほとんど残っておらず、この土塁だけです、くらいに説明してあげたらいいかと思います」とアドバイスしておいた。この土塁は高さ2mほどで、L字型に曲がっている。北西側には谷津が入り込んでいるのだが、土塁はその方向に向かって延びている。つまり台地基部との間の区画を意識したものであるということは明らかである。この土塁の西側は畑になっているのだが、本来はここも堀であったはずである。北側に入り込んでいる谷津と、南側の切り通しによって、城内は台地から台地基部から独立することができる。台地の南側下には池がある。また台地先端は高さ20m近い急峻な崖となっており、要害の地形であるといってもいいだろう。

 北西の谷津の部分に面した下側の方には腰曲輪のような地形が見える。これも遺構と言ってもいいだろうか。

 しかし、城としてきちんと造られたもののような感じはしない。台地基部との間を切り離し、土塁を配置してとりあえず急造した臨時の砦といったイメージの強い構造である。伝承では、天正年間の頓(徳)ヶ原合戦の際に、大山城の出城として用いられたということであるので、この時に急造された臨時の砦であったというのが実際の所なのかもしれない。

 とはいえ「平治」という、由緒のありそうな名前を持っていることから、もともと古い時代の居館が存在していたという可能性も捨てきれない。


平治館入口にある案内板。背後が土塁である。 平治館の入口。右側の切り通しの道路(農免道路)は堀切の名残であろうか。
東側の城塁。下には腰曲輪らしきものがある。 入口の土塁の台地基部側の部分。この左側の畑はもとは堀切であったものだろう。
 平治館は国道123号線の「川端」というバス停の南西700mほどの所にある。桂川に臨む比高30mほどの段丘部の先端を利用した館である。西側の入口に標柱と案内板が立っており、比高4mほどの段差がある。郭内は方100mほどあるが、一面に耕された畑地になっており、遺構は見られない。

 平治館は元弘2年(1332)、佐貫氏によって築かれたという。後には穂高平治という者が居城としたという。平治館の名はこの「平治」によるものであると思われるが、平氏出身の大掾氏一族の城であることから「平氏」=「平治」の関連で平治館と呼ばれるようになったとも言う。

 天正年間、頓(徳)ヶ原合戦の際には大山城の大山氏の出城として用いられていた。



孫根城(城里町孫根字御城)




























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