つくば市(旧茎崎町)

*関連サイト 「美浦村お散歩団」 

九万坪館(つくば市九万坪)

 九万坪館は、九万坪地区と桜が丘地区との境界辺りにあった。房内の方から房内橋を渡ると、正面に比高12mほどの谷田川に面した台地がある。この台地の先端部辺りが館跡であったらしい。しかし城址辺りは写真の様に地面が削られてしまっている。また、北側は桜が丘団地となって住宅が密集している。というわけで、遺構はほとんどなさそうである。台地先端近くの部分に何か残っているかもしれないが、ガサがひどくて、分け入ることができなかった。

 九万坪とは台地上の広大な土地を指しているのだろうか。城主等歴史は未詳。





*1970年代の航空写真を見ると、館跡付近に、なんとなくそれらしき形状が見えている。これがそのまま館を示しているのかどうかはっきりしないが、参考までに示しておくことにする。




小山城(古屋敷・つくば市小山字古屋敷) 

 小山地区には梅が丘団地(団地といっても住宅街)があるが、その北側の広大な畑の一角に、小山城が存在していた。しかし、30年ほど前(1975年頃)の耕地整理によって、城の土塁や堀はあらかた失われてしまったという。とはいえ、南側の堀などは、地元の古老にも、その存在の記憶がないくらいだから、そうとう古い時代に埋められてしまったのだと思われる。

 城址は古屋敷といい、地元の豪族の居館があったところではないかと想像できる。比高10mほどの台地の北西部がやや突き出した部分を利用したもので、台地端周囲には横堀が巡らされていたらしい。郭の規模は100m×80mほどではなかったかと思われる。

 城の周囲を巡っていた横堀は図にもあるように部分的にしか残されてはいないが、深さ3m、幅5mほどのものであった。北西端近い部分が一番よく残っており、土塁も一部しっかりと残存している。これが城の東側までも囲繞していたという話なのだが、上記の通り、30年ほど前に埋められてしまったということで、一部だけが残っている。この残存部分を東側から見ると、土塁が切られて、堀が埋められてしまっている断絶部分をよく観察することができる。

 城址の東南辺りには井戸と思われる古い窪みがあったという。また西側の台地下には西谷田川が流れている。ここにはかつて船着場もあったということである。しかしこれもご多分に漏れず、耕地整理のために消滅してしまったそうである。






古屋敷の郭内。一面の畑地となっている。 東側の土塁跡。
北側の土塁と横堀が埋められて切れている部分。 東側jに見えるガサ藪もかつての城塁の名残であるという。この近くには井戸の跡もあったらしい。
(以前の記述)小山城は、県道210号線の「梅ヶ丘団地」というバス停の600m北西にある。梅ヶ丘団地の北のはずれは畑地になっているのだが、この台地突端部の辺りにあったらしい。左の写真はその突端部辺りから南の梅ヶ丘団地方面を望んだものだが、右手には虎口の名残らしく、土塁が残っている。この先が郭内ということのなると思われるのだが、他にそれらしい遺構があるのかどうか分かりにくい。写真の左手奥のガサになっているあたりにも土塁状の高まりが見られるが全体像ははっきりしないのである。耕地整理が行われて、土塁は崩され、空堀も埋められてしまったのかもしれない。

 この手前側は台地の先端で、比高20mほどの急崖になっていて、要害性を感じさせる。台地の西側には西谷田川が流れ、これが前面の堀であったのであろう。

 城主等歴史は未詳だが、岡見氏の支城の1つであったであろうか。





三角山館(つくば市上岩崎)

 三角山館は、小山城の北西900m、やはり西谷田川に臨む低い台地上にあったらしい。上岩崎のゲートボール場のすぐ西側の辺りである。ここを回っているときにはすっかり日が落ちてしまって、どこが城址やらはっきり確認はできなかった。12月の夕方だったのだが、5時前には急に暗くなってしまう。いくつかガサなども見えたのだが、どれがなにやらさっぱり分からずじまいになってしまった。「遺跡地図」では遺構は消滅、とあった。

 城主等も未詳。




高崎城(つくば市高崎城山)

 高崎城のメイン部分は、現在ではその名も「城山団地」という住宅街に変貌してしまっており、遺構は完全消滅状態にある。しかし、1947年の航空写真を見てみると、右の図のような地形を看取することができる。沼沢地に突き出した台地の中央部分を加工した城郭であったようである。

 城山団地の造成はかなり早い時期から進められていたようで1974年の航空写真を見ると、ちょうど団地造成作業中のようで、この時点ですでに城は破壊されてしまっているようである。「城山団地」の「城山」という名称だけがむなしく響いて聞こえる。

 このような状況のため、遺構はほぼ湮滅してしまっているのだが、図の大手門とある部分の東側には合計3本ほどの小規模な堀跡と思われるものが残存している。下がその堀の写真である。おそらく外郭部分を形成していた堀の名残であると思われるのだが、現在は私有地となっているようで、歩き回ることができなかった。この東側の部分もまとまりがよい地形となっていて、出城のようなものであった可能性が高いと思われる。

 (以前の記述)高崎城は、県道46号線の「天玉喜」というバス停の600m北側の地点にある。この辺りには、その名も「城山」という住宅街があるのだが、その東のはずれの道の脇に写真の「高崎城大手門跡」の標柱が立っている。

 ここが大手門というからには、この道の東側の台地が城址ということなのだろうか。大手門跡の脇には写真の土塁があり、北側のガサの中には空堀があるようにも見える。ここから内部に入っていくと、宅地や畑地が広がっている。南北200mほどの間に、浅い空堀が2本あり、郭を分けているように見える。といっても、これが本当に空堀なのかもはっきりしない程度のものであり、縄張りは明確ではない。むしろ、この大手門跡の西側の畑地の方が、城址的な雰囲気がある。台地縁に土塁が残っているし、その北側の台地との間には幅15mほどの空堀の跡も見られるのである。しかし「茨城県遺跡地図」では「大手門跡」の東側が城址となっている。というわけで、どこが正真正銘の城址なのかもよく分からない。この標柱がなかったら、城址の場所の検討もつかなかったかもししれない。(というよりも東側の畑地の方を確実に城址だと思ったことであろう。こちらが城山という地番でもあることだし・・・・・。)

 城の歴史も分からないが、やはり岡見氏の支城の1つと見るべきであろうか。





 

 

館山館(つくば市下岩崎字館山)

 館山館は、貴船神社の北西300mほどの所にあったらしい。下岩崎の館山というところにあった館なので、「下岩崎館」とでも呼ぶのが正しいのかもしれない。「遺跡地図」では、この辺りの住宅地の中に印がついていたと思うが、その辺はまったく平坦な土地で、遺構らしきものもない。

 この北側に谷津を挟んで、北西に細長く伸びた台地があるが、あるいはここに何かあったものかもしれない。

 下岩崎館は、岡見氏に属した城館であったようだが、天正年間の多賀谷氏の侵攻によって攻められ、落城したという。「多賀谷家譜」によると、岩崎城の城主は只越尾張守といい、多賀谷氏の攻撃によって城の落城とともに討ち死にしたという。ということになれば、戦国期の拠点的な城郭の1つということになりそうだが、それにしては遺構がぱっとしないのが不思議である。(しかし、後で中城という城址が近くにあることが分かった。岩崎城の正体はこの中城であろうかと思う。)




岩崎城(中城・つくば市下岩崎字中城)

 中城(地元ではそう呼ばれているが、岩崎城と呼称するのが正しいと思われる)については下の以前の記述で詳しく述べているが、前回は遺構をきちんと確認していなかった。そこで、今回はできるだけ周辺部を歩いてみて図化してみることにした。

 岩崎城は『茨城県遺跡地図』から漏れている城であるが、以前、地元で聞き取り調査を行って発見した城である。

 この城のある台地は宅地化が進んでいるために、あまり自由に歩き回ることができない。したがって、歩ききれていない部分がけっこうあり、見落としもあちこちにあると思われる。だが、おおまかな雰囲気だけは右の図面で理解することができるのではないかと思われる。

 遺構を見るためには南端の切通しの道を上がっていくのがよい。駐車場などはないが、南端下の道路の路肩辺りに迷惑にならないように停めさせてもらった。

 南端から台地に上がっていくと、切通しの通路となっているのだが、この通路は車道を付けるために切り広げられている感じである。ただし、北東部分にこの通路に沿って土塁が盛られていることからすると、本来、切通しの虎口が存在していた場所ではなかったかと思われる。

 その脇に西側に入っていく帯曲輪のようなものがある。それを進んでいくと、帯曲輪は横堀となっていく。わりとしっかりとした横堀であり、城側の切岸は鋭くなっている。堀幅は進んでいくにしたがって広がっており、西端ではちょっとした郭のようになっている。

 そこで堀はクランクして北側に曲がって延びていく。Aの部分である。この辺りの城塁が最も高く、8mほどはある切岸状になっている。堀はそこから北側に30mほど延びているが、突き当たりで民家の敷地となって消滅している。ある程度の部分、埋められてしまっているのではないかと思われる。

 一方、南端の切通しから台地縁部を東側に進んでいくと、そこにもやはり横堀が造成されている。深さは5mほどと、西側の横堀に比較するとだいぶ規模は落ちるが、それでもしっかりと横堀形状を成しており、残存状態は良好である。

 この台地の東南端部分には神社が祭られているのだが、そこが方6mほどの櫓台Bとなっている。もしかすると、神社の建設に伴って造成されたものなのかもしれないが、城の櫓台と見てもまったく不自然さのない位置・形状のものである。ここから台地縁部を北側に進んでみたかったのだが、宅地となっているために確認できていない。

 もう1つ、明確な遺構が見られるのはこのさらに北側のCの部分である。ここにはっきりとした堀の跡が見られる。深さは6mほどの鋭いものである。

 ざっと確認できたのはこの程度であるが、それでも岩崎城がしっかりとした構造の城郭であったことはよく理解できる。それなりの拠点城郭というべき城である。

 不思議なのはこの城が地元では「中城」と呼ばれているということだ。「中城」は中世城郭では二ノ丸を示す名称である。ちなみに本丸は「御城(みじょう)」と呼ばれることが多い。中城単独でこれだけの城郭を形成していたとは思われず、おそらく「御城」部分は台地南端部辺りにあり、かつては堀で区画されていたのではないかと思われるが、そうした堀は埋められてしまい、「御城」の名称も失われてしまったのではないだろうか。

 なお、下の以前の記述に書いてあるが、守徳寺の西側には「馬場先」という地名が残っているとのことである。守徳寺の西側にそのような城郭関連地名が残っていること、地元の方からうかがった話、さらには全体の位置・構造から見ても、守徳寺のある台地も城郭構造の一翼を担っていたものではないかと思われる。かなり大規模な城域を誇っている。

 これだけのちゃんとした城でありながら、この城は『茨城県遺跡地図』にも掲載されていないのだが、この城を発見した経緯については、下の以前の記述を参考にしていただきたい。


(以前の記述)
 岩崎地区には天正年間に多賀谷氏に落とされた只越尾張守の岩崎城という城があったはずである。とはいいながら、この地域で『茨城県遺跡地図』にノミネートされている城館は「館山館」だけであり、ここには城らしい遺構や伝承すらもないことから、おかしいなあと思っていた。しかし、今回再訪して現地の何人かの方にお話を伺った所、「館山には城があったということは聞かないが、守徳寺の東側に中城というのがある。またレイクサイド茎崎の北側にも古館(ふるたて)というのがある。」という情報を得ることができた。

 遺構のない館山館が『茨城県遺跡地図』に登録されているというのに、遺構の残っているらしい中城、古館の2つが、ここに登録されていないというのはなんとも不思議な話だ。地元の方のお話だと「中城には城の遺構はない。古館は、周囲を堀が巡っていて、昔は上がって遊んだものだが、今は荒れていて入れないと思うよ」ということであった。そこでまず、中城に行ってみることにした。

 守徳寺の入口前から見ると、中城は南側に突き出した比高10m余りの台地上にあり、いかにも城を築くのにふさわしい場所のように思える。台地基部の方から進入して行くと、まず台地入口に切岸の跡が見えていた。ここから城内ということなのであろう。しかし台地上は民家がけっこう建て込んでいて、遺構らしきものがあるのかどうかもよく分からない状態である。外側から見た目で「この台地は山林だろう」と思っていたのに、これだけ住宅があるとは実に意外であった。その道をさらに南に進んでいくと先端近くに、土手が切岸状になっている部分が見えた。この辺りが先端の1郭(御城)なのであろうか。しかし、どうにも民家が迫っているので探索するのは難しい。庭先には土塁らしきものが見える部分もあったが、遺構だかなんだか分からない。そういう状況であり、住宅地を探索することはできないので、今回はこんなラフ図しか書けない・・・。

 後で古館を探索するためにレイクサイド茎崎の前で、農作業をしている方にお話を伺ったら、その方は中城にお住まいの方で、けっこう城や歴史に詳しい人なのであった。その方のお話をまとめると

(1)中城、古館ともに泊崎城の出城であったのではないか。
(2)守徳寺の先には「馬場先」という地名があり、その辺りが大手で、そこまで中城の広義の城域であったと考えられる。
(3)中城は今ではほとんど遺構がなくなってしまっているが、本来は遺構は存在しており、現在でもその方のお宅の奥に堀が30mほどだけ残っている。

 といった所である。中城というのは一般名詞であるから、本来別の名称があったはずである。この城はもともと何という名前で呼ばれていたのであろうか。

 冒頭でも書いた通りに、この地域には多賀谷氏が攻め落とし、その後多賀谷氏の支城となった岩崎城というのがあったといわれている。この中城こそが岩崎城であったと見てよいのではないだろうか。

 中城の城域はけっこう広く、地形や残存する切岸などから見て、わりあいと規模の大きな城郭であったと思われる。この規模の城郭であるならば、ある程度まとまった数の兵を篭めることも可能であろう。また現在宅地が密集していることでも分かるように、もともと居住性の高い場所であったと想像できる。こうしたことから、ここにはもともと地元の豪族の城があったのではないかと思われる。

 この城には外郭部も存在していた可能性がある。地元の方から聞いたお話では、守徳寺の先に馬場先という地名が残っているという。馬場は大手口にあることが多いし、城郭関連地名の1つだから、この場所が大手口であったとすると、間にある守徳寺のある台地そのものも郭であったと想定することが可能である。この寺院のある所も、台地上で、郭を置いてもよさそうな所である。となるとこの城は、守徳寺辺りまでを取り込んだ広大な城郭であったということになる。

 こういったことからまとめ、想像するに、この城はもともと豪族の居館があったところであり、後には城域が拡大され大規模城郭に成長した城ではなかったかと思われる。それゆえ、この中城こそが、軍記物などに出てくる岩崎城であったと見るべきものだと想定する。

守徳院入口の辺りから中城のある台地を見たところ。比高10mほどである。 守徳院の入口。この寺院のある所も、城の一部のように思われる。
中城台地基部辺りにある切岸。 Aの横堀が大きくクランクしている部分。といっても竹ヤブでよく分かりにくい。城内側の切岸は高さ8mほどもあり、大規模な遺構である。
Bの櫓台下の横堀。堀は東側に回りこんではおらず、東端で行き止まって終了する。 Cの堀を、堀の北側の土塁上から見たところ。竹が密集していて形状を把握しづらい。
 上の解説で述べているように、牛久の岡見氏の家臣であった只越尾張守が居城とする岩崎城というのは、この城のことではなかったかと想像する。岩崎城は天正年間に多賀谷重経によって攻め落とされ、尾張守も討ち死にした。その後、岩崎城は多賀谷氏の支城となり、岡見氏攻撃の拠点となっていくのである。





泊崎(はつざき)城(つくば市泊崎)  



古館(ふるたて・つくば市下岩崎字古館)

 古舘はレイクサイド茎崎のすぐ北側の、比高10mほどの台地先端部にある。中城の南600mほどの位置にあり、中城とは向かい合うような位置関係となっている。ちなみに岡見氏に対する多賀谷氏の橋頭堡、泊崎城は、この古館の南2kmほどの所にあり、ここはつなぎの支城を置くのにはちょうどいい場所であるといえるだろう。

 中城と違って、こちらは宅地にはなっていないので、遠慮せずに内部を歩き回ることができるのだが、しかしこちらはなんとも藪がひどいことといったら・・・・。地元の人に「子供の頃は古舘でよく遊んだものだが、今は荒れていてとても入れないんじゃないか」と言われたた時も、「普通の人にはそうでも、ヤブレンジャーならどうってことないだろう」と多寡をくくっていたのだが、実際に訪れてみると、いやはやここの藪は並大抵ではない。ヤブレンジャーといえどもここを踏破するのはかなりきつい。従ってこの図も多分にイメージ的なものであるに過ぎないので注意していただきたい。

 ゴルフ練習場の前からレイクサイド茎崎の前を通って道が台地下に降っていく途中に、台地先端部に上がれそうな藪道が見えてくる。そこに車を置いて内部に進入するとすぐに2郭の西側の堀が見えてくる。深さ2m、幅4mほどの小規模な堀であるが、これが台地基部とを区画する堀であり、土橋も残っている。この2郭の南側下の部分は腰曲輪となっている。

 2郭を東側の先端方向に進んでいくと、深さ2m弱の窪みがある。そしてその先がやはり2mほどの土手になっている。どうやらこれも堀の跡であるらしい。となると、その先端部分が1郭というべきなのであろう。1郭は南北に細長く、長軸70mほどはあろうか。横堀は東側の城塁に面する部分では竪堀となっている。土塁などは見られないが、この周囲の横堀には横矢の折れが見られる部分がある。南側下の堀底は腰曲輪形状となっている。その下が切岸となり、底の低地部分が窪んで、水堀の跡のようにも見える。

 このような感じで、古舘は遺構の規模は小さいとはいえ、単郭の居館ではなく、堀で区画された2郭式の城であったことは明らかである。規模や構造などからして、陣城に近い形態の城ではないかというように思われる。



北側から見た古館。比高10mほどの台地の先端部近くにある。 この城は藪がひどすぎてわけの分からない写真しか撮影できなかった。これは1郭腰曲輪の城塁。
 古館という名称から、もともとは地元の豪族の居館があったところであると思われるが、現在見られる連郭式の構造、浅いが折れを伴った堀、急造したかのような堀の掘り方、などを総合的に考えてみると、現在見られる城の形態は、臨時に急造した砦といった趣のものであることが分かる。地元の方は「中城もここも共に多賀谷氏の泊崎城の出城であったのではないか」というように言っていた。実際、戦時の城郭として一気に築城された城であるという印象はけっこう合っているのではないだろうか。つまりもともと豪族の居館があったところを、天正年間に多賀谷氏が占拠し、堀を巡らせて臨時の砦とした所、というのが遺構の実態に合っているように考えられるのである。




若栗城(つくば市若栗字御城) 




 


























大竹屋旅館