茨城県小美玉市(旧美野里町)

*参考資料  『美野里町史』 

片倉長塁(堅倉砦・小美玉市堅倉) 

 片倉長塁は、堅倉小学校のすぐ西側から南に向かって延びている。堅倉小学校の南側には美野里運送という会社の倉庫があるが、その間の道に沿って南北に長く延びており、南端付近には案内板も設置されている。しかし、改変やヤブ化も著しく、なんだかよく分からなくなってしまっている。

 それでも、南端付近は土塁と堀の形状が明確であり、櫓台の張り出しのような部分も見られる。現地案内板によると、張り出しは2ヶ所にあったらしいが、現状では確認できるのは1ヶ所だけである。

 途中分断されているが、北側の先端は高池につながっていたのではないかと思われる。また、当方200mほどの所にもこれと平行した堀跡があるらしいが、こちらは確認できなかった。

 さらに、堅倉小学校の手前辺りで、これと直交する土塁が存在している。こちらも高さ1mほどの小規模なものだが、案内板によるとそちらは猪土手であるという。高さ1mほどでは猪を避けることなどできそうもなく、本当に猪土手であるのか疑問も残る。


 江戸通長・同通澄連署書状写には「其地之御用心仕置・片倉之普請彼是候間」とある。天正13年の大掾氏との争いの最中に、大掾氏からの攻撃に備えるために、江戸氏は片倉に普請を行っているのである。これが一般に片倉(堅倉)砦と呼ばれているものであり、それがこの遺構だというように伝承されている。しかし、見れば分かる通り、これは城や砦などというものではなく、長塁と呼ぶのがふさわしいものである。したがってここではこれを片倉長塁という名称で呼ぶことにする。

 案内板によれば、片倉長塁は、大掾氏の竹原城に対峙し、南北600mほどに渡って延びていたという。かつて堀の深さは2,3mほどもあったというが、現状ではせいぜい1mほどであるにすぎない。堀幅もそれほどないし、「2,3mの深さ」というのが真実であるならば、そうとう改変されてしまっていることになる。周囲の道路建設、耕地整理などによって、本来の遺構の規模がかなり縮小されてしまっていると考えればよいのであろうか。

 それにしても小さい。果たしてこれが本当に防塁としての機能を成していたのであろうか? オカちゃんの説によると、「これは防塁というよりも、鉄砲兵を並べるための塹壕ではないか」という。確かに現状から見た感じではそう考える方が説得力がある。実際の所はどうだったものであろうか。

片倉土塁。こんな感じで延びている。だいぶ破壊されているのかもしれないが、現状では高さ1mほどもない、防御性に欠けるものである。 張り出し部分の土塁。この内側にヤブになっているが、櫓台のような高まりがある。
(以前の記述)堅倉城は堅倉小学校のすぐ東側の裏手にあったという。小学校のグランドの裏側は土手のようになっている。城塁のように見えるが、グランドを整備する際に盛り土をしたものかもしれず注意が必要だ。しかし、その土手の西側には写真のような水がたまったところがある。これは水堀の跡と見てよさそうである。この南側は山林化しているが、この中にも若干の土塁が残っているように見える。

 歴史等については未詳である。地元の人に伺ったところ「堅倉城なんてないな。城と言えば小幡城くらいだね」ということであった。しかし地元の人が状況をよく知らない場合もあり、「城なんかない」というのも、当てにはならない場合もある。 
 天正年間、大掾氏を攻撃するための拠点として佐竹氏が築いたものであるという。「竪倉城(片倉城)」「竪倉砦」などと呼ばれているが、「美野里町史」の図を見る限りでは、城というよりも、長塁であったのではないかと思われる。



 

高原城(小美玉市竹原中郷) 

 高原城は、園部川を挟んで石岡市と向かい合った比高8mほどの台地先端部にあったらしい。永福寺の東南900mほどのところに写真の農村公園があるが、「遺跡地図」によるとこの辺りということになる。しかし、城郭らしい要害な地形はこの辺りには見あたらない。あるいはこのすぐ北側の鳳林寺の地がそうなのかもしれないが、いずれにしても、確信を持って城址ということはできない。

 この農村公園の脇には看板があり、この公園を造成する際に出土した経石の解説があった。享保4年(1719)当時、鳳林寺に修行に来ていた層が、飢饉や災害から民衆を救うために、石に一字ずつお経を彫って埋めたものであったといい、現在町指定の文化財となっている。このような近世の遺物が出たということからすると、ここが中世城郭というのはどうも怪しい。というようなこともあり、城についてはまったくよく分からない

 中世に竹原郷を領した高原氏の居館であったという。高原氏と竹原氏というのがどうも混同されているようで、あるいは2種の高原(竹原)氏というのがいたのかもしれない。その辺り、後日もう少し調べてみたい。

 その後、よくよく遺跡地図を見てみると、城址は上の記述に隣接した東南側の部分であったようである。というわけで、再訪してみることにした。
 遺跡地図で城址一帯になっている部分の南西部にはBの細長い尾根状の地形が見られる。両端は切岸状になっており、一見城跡らしく見えるが、台地上は非常に細長く、居住性はまったくない。ここを城址としていいのか、ためらわれてしまう。台地先端部の上には、墓碑のようなものが1つある。

 また、谷戸を挟んで、北東側の民家の裏には土塁らしきものが一部残っている。外側には堀跡のように窪んでいる部分も見られるのだが、残存部分が非常に少ないので、これが遺構なのかどうかなんとも判断しかねる。といったわけで、結局の所、城の全体構造はどうにも把握できないのであった。


Bの台地西側の切岸。城跡といえば、それらしく見えないこともない。 民家の背後に残るAの土塁。外側には堀跡らしき窪みも見られるが、残存しているのはごく一部のようである。
 高原城の歴史、城主等は未詳である。



竹原城(小美玉市竹原字館) 

 石岡市と美野里町との境界を園部川が流れているが、この川が西側に湾曲している部分の高台の上に竹原城はあった。昭文社の地図などにも位置が記載されているので、場所の辺りはつけやすい。全体が周囲の水田地帯よりも2mほど高い微高地上にあるが、その中でも先端の本丸は一段と高い所にあり、本丸の城塁は最も高い部分では6m余りの高さもある。この部分が目立っているので、遠目にも城址らしき場所はなんとなく分かるはずである。

 本丸は長軸100mほどあり、削平されているが、緩やかな傾斜によって2段に分かれている。北側には幅の広い土塁があり、その上に八幡社の祠が祭られている。東側に虎口らしい部分があり、その入口近くに案内板が立てられている。本丸の周囲にはかつては堀がめぐらされていたのではないかと思われ、北東側に一部それらしい名残が残っているが、後は埋められてしまっているようである。全体に整備されていないので、本丸内部の様子はよく分からない。

 本丸の北東側の畑地が二の丸と三の丸であったという。しかし、この辺りの地名はすべて「館(たて)」であり、御城や中城といった地名は残されていない。本丸、二の丸という呼び方も、「美野里町史」の図から取ったのだが、本来戦国期にそのような呼ばれ方をしていたかどうかは怪しいものだと思っている。(しかし、便宜上それを踏襲しておく)

 二の丸・三の丸の北東側には堀が残っている。この堀も一部埋められてしまっているが、深さ5m、幅は広いところでは15mほどもある大きなものであった。内部には現在でも水が残っているように、もともと水堀だったのではないかと思われる。二の丸の北東側には土塁も残っているが、これも郭内からの高さが2m以上ある大きなものである。現在この北端辺りに作道がついているが、これは畑に行く道をつけるため後世切られた切り通しであろう。実際の虎口は二の丸と三の丸との間の土橋で接続していたと思われるが、この辺り、堀は埋められ、土塁も崩されている気配があるので、旧状がどのようであったのかは不明である。しかし堀の規模や、通路が曲がっていることなどからして、折れや枡形のような形状があった可能性もある。

 本丸の南側方向に、園部川に架かる橋があるが、この橋は現在でも「大手橋」と呼ばれている。ということからすると、南側から河を越えて渡ってくるのが大手道であったということになる。これも通常、台地基部の側を大手とする発想とは少し異なった様相を見せている。

 城の概要はこんなところである。城のある場所そのものは低地であるが、その中の微高地をうまく取り込んでいることや、周囲が現在も水田であるように、かつては沼地であったと想像され、かなり要害の地形であったと思われる。

北側から見た竹原城本丸。沼地に突き出した島のような地形である。 南側から見た三の丸。比高3mほどの土手になっている。
二の丸の外側に残る堀の跡。 二の丸の土塁。かなり削られてしまっているが、高さは2m余りもある大きなものである。
本丸の東側下にある案内板。本丸は全体が藪だが、この脇に郭内に上がっていく道が付けられている。 案内板の所から上がっていくと、虎口らしい地形が見える。
本丸の北側土塁上にある八幡社の祠。 三の丸の土橋跡脇の堀。この辺りの堀幅は15mほどある。
(以前の記述)竹原城は、石岡市との境の園部川に臨んだ比高10mほどの低い台地上にあった。城と言うより、居館といった形態である。案内板はこの台地の東側に建っている。二の丸、三の丸もあったらしいが、それぞれが独立した居館といった配置になっている。城主は常陸大掾の一族の竹原氏で、石岡城の支城の一つであったという。



竹原城の出城

 竹原城の北側背後には出城と思われるものが複数存在している。そのうち、明瞭に城郭遺構を残しているものが、右の出城1と出城2である。竹原城は南側の低地にあるため、背後の方が比高が高くなっている。背後の丘陵部分を監視するために、これらの出城が有効だったのであろう。

 出城1は、竹原城の東300mほどのところにある。比高15mほどの台地先端部で、内部は山林化しているが、3本の堀切や切岸など、意外にしっかりとしたものである。南側からアクセスしていくと、すぐに城郭らしい切岸が見えてくる。高さは5mほどだが、急峻に削られているので、簡単には登れない。その先にも傾斜部分を削平したために生じた段差があり、その上が1郭である。1郭には神社がまつられた土壇がある。

 1郭の背後には堀切1があり、折れながら1郭北側を画している。さらに進むと堀切2があるが、こちらはごく浅いものである。中央には土橋があり、その先の3郭に接続している。3郭と台地基部との間には堀切3があるが、こちらはだいぶ攪乱されているようで、城塁のあちこちが崩されており、斜面の鋭さは失われている。

 出城1は、出城としては実にしっかりと構築されたものである。


 一方、出城2は、竹原城の北東300mほどのところにある。出城1の台地続きの西側にある張り出し部分を利用して築かれたものである。全面が近代の工事によって削り取られ、出城1とは違ってかなりヤブ化しているため、ざっと歩くのも大変だが、中心部分と思われるところに古墳状の土塁があり、それを巡るように折れを伴った堀が掘られている。堀の形状からすると、台地基部からの防御を意識したものである。しかし、ごく浅いものである。

 その外側にもさらに折れを伴った堀があるが、こちらも浅く、あまり堅固であるとは言えない。出城1に比べると、かなりテキトーに造られたものといった印象を受ける。


 これらの他にも、東南側の永福寺北側の台地も、城塁のような土手に囲まれており、ここにも出城があった可能性があるだろう。ただし、明確な城郭遺構の存在は確認していない。

 出城2の北西側にある羽黒山古墳も、ちょっとした出城になりそうな部分である。



出城1の南側の城塁。高さは5mほどだが、鋭く削られている。 1郭内部に祭られている祠。
1郭背後にある堀切。深さ3m、幅5mほどのもの。 その後ろにある堀切2。深さ1mほどと、かなり小規模である。
出城2の堀の折れ部分にある櫓台。 北側の折れを伴った堀だが、かなり不明瞭になってしまっている。




鶴田城(小美玉市鶴田)

 鶴田城は県道59号線の「下鶴田」と言うバス停の西側300mの所にある。比高10mほどの、東側の低地に突き出した台地の中ほどのところに城址はある。県道沿いに「下鶴田」という目立つ看板があるが、こちら側から城のある台地には上って行けないので気をつけよう。南側の「上鶴田」というバス停の辺りから北に向かっていくと500mほどで、道路の右脇に案内板が見えてくる。この案内板の裏手は空堀のようになっている。(以前はこのように書いたが、現在、城の北側をかすめるようにして新しい道が付けられており、こちら側からアクセスする方が分かりやすいかと思われる。)

 案内板を見るとこの右手奥が本郭のようで、長方形の郭の周囲はすべて土塁と空堀で囲まれていたようだ。しかし、畑地になっているせいか、空堀もかなり埋められ、土塁も崩されているようにみえる。櫓台のようなものもあったらしいが削られてしまったとある。単純な方形構造であるが、郭内はかなり広い。南西角に天王山と呼ばれていた区画があったらしく、そこを案内板では「本郭部」としている。となると、実際には環郭式の2郭構造であったのかもしれない。また、郭内北西角近くにかつては「狼煙台」と呼ばれる土壇があったらしいが、現在ではこれは消滅してしまっている。

 城の南西側に建つ案内板の位置から100mほど北に行くと、道の左側に「鶴田城」という標柱が立っている。城址はこの右手の土手の上までも続いていたようだ。基本的には100m×200mほどの単郭の居館だったようで、その周囲には土塁が巡らされ、堀も回ってたらしい。と現在ではあちこち埋められて改変されつつある。規模からすると栃木県小川町の神田城にも匹敵するほどのものであったともいえる。しかし、土塁と堀の残存状況は断片的なものとなっているために、言われなければ城館跡であるとは気がつかないかもしれない。宅地化や耕地整理によって大分埋められてしまったものと思われる。












 

北西部分の土塁。現在はこのすぐ北側を新しい道が通っている。 東南部分の堀。深さ3m、幅6mほどで最も規模が大きい辺りだが、倒竹でこんな状態である。
城主や歴史については不明であるが、大掾氏関連の城館であったと推測される。




羽鳥館(小美玉市羽鳥)

 羽鳥館は、羽鳥駅の南300mほどの所にあったらしい。現在羽鳥保育園があるところ辺りがそうだったらしいのであるが、この辺りは宅地化が進み、現在では遺構が見られなくなってしまっている。城域は線路にもまたがっていたらしく、線路の脇に削り残されたような土手がわずかに見えるが、これが土塁の名残なのであるのかどうかは不明である。宅地の脇に土が積まれて土塁状にあっているところもあるが、これはかなり新しそうだ。

 1948年の航空写真を見ると、なんとなく右の図のような地形を見ることができる。これが館の旧状を示しているのかどうかははっきりしないが、参考までに図示しておく。

 城主等歴史も未詳。























富士館(小美玉市竹原中郷)

 富士館の位置はなんとも分かりにくい。というかとても到達しにくい所にある。場所を説明するのも難しいが、地番でいうと竹原中郷の448番地辺りである。館のある地形は、東南側に延びた台地のようになっており、北側と南側の下は水田となっている。土手のガサ藪がひどいのと、民家が建っていることとで、北西側から以外の接近は難しい。しかし、北西側の道路から未舗装の道を進んでいくとすぐに館跡の土塁が目の前に見えてくる。この方向から接近するのが一番いいだろう。

 館は80m×60mほどの単郭である。北、東、南の三方向は高さ3mほどの切岸となり、台地続きに当たる西側には土塁が築かれている。その下は堀であったのではないかと思われるが、埋められてしまっているのか、ほとんど平坦になっている。この西側の土塁は出枡形のような張り出し部分を持っているのが特徴的である。この張り出し部分は、土塁そのものが凸型に張り出しているのではなく、郭内から見ると、土塁は一直線に延びている。つまり張り出し部分はそのまま櫓台のごとく土塁が出っ張ったような構造になっているのである。この張り出し部分にそのものにも土塁が巡らされている。ここには櫓でも建っていたのであろうか。あるいは何か宗教的な祭祀物でもあったのだろうか。まあ普通に考えれば、戦闘的な構造ということになろう。

 虎口がどこなのかはっきりしないが、現在は土塁の北の端辺りに上がってくる道が附けられている。その脇には立て札が建っていたので、城の案内板かと思ったら、そうではなく「ここは富士館の土塁なので、勝手に削らないように」という注意書きであった。この土塁を無断で削ってしまった人がいるのだろうか。また、郭の南側下には腰曲輪が一段ある。

 館は台地先端部にあるのではなく、やや奥に入り込んだ部分にある。これは先端部の地勢が低くなっているからだと思われるが、この先端部を郭として取り込んだ方が、防御的にはかなり有利である。このように考えてみると、この先端部を2郭と見る向きもあるであろう。実際にどうであったのかははっきりしない。





 東南側から見た富士館のある台地。先端ではなく、少し奥に引っ込んだ所に館がある。 富士館の北側の城塁。高さ3mほど。この道はあるいは腰曲輪と見るべきか。
北側の入口脇にある土塁。そういえば、ちょっと削られているように見える。 西側城塁の張り出し部分。この上には櫓でも建っていたのであろう。
富士館の歴史について詳しいことは分からない。現地の立て札によると、鎌倉時代から室町時代にかけての館であったという。付近には竹原城があるので、竹原城と関連していた城館であったのではないかという想像はできる。櫓台の張り出しなどを見ると、戦国期のものではないかとも思われるのだが、館そのものは規模も小さく、全体として戦闘的な気もしないので、なんとも言えない。




弓削館(小美玉市竹原字弓削)

 以前、弓削館は、下の記述にもある稲荷神社のある場所かと思っていたのだが、遺跡地図の指定している範囲をよく見ると、南西側の舌状台地も範囲に入れている。こちらならば、確かに城郭を置きそうな地形である。弓削館の実際の場所はこちらであったのだと思う。

 台地の周囲は高さ10mほどの鋭い土手によって囲まれており、なかなか堅固である。先端部は国道6号線によって削り取られている。

 後は台地基部の部分に堀を入れれば、城郭が完成するわけであるが、こちらは埋められてしまったようで、現在、それらしいものは見られない。現地の人にも伺ってみたのだが、「堀などは記憶にない」とのことであった。これについては古い航空写真も見てみたのだが、やはり堀が分かるようなものはなかった。よほど古い時代に埋められてしまったものと思われる。
 
 話を伺った現地の方は、「竹原城の出城ならしっているが、弓削館などというものは聞いたことがない。伝承もない。ただし、この場所からは土器がたくさん出土するんだ」とおっしゃっていた。つまり古い時代から集落が営まれていた場所であったらしい。

 「要害とは城山とかいった地名はないですか?」と伺ったところ、その方は「そんなのは知らないよ。この辺りは ゆうげっていうんだ」とおっしゃる。

 ゆうげ! ゆうげ→ゆうがい→ようがい、で、茨城ではおなじみの城郭関連地形ではないか! では確かに城郭が存在していたということであろう。

 だが、地元の方がおっしゃていた「ゆうげ」とは、この地の地名である「弓削」のことであった。そこでふと思ったのであるが、この「弓削」という地名は「要害」がなまったものなのではないだろうか。つまりもともと「要害」だったものが「ゆうげ」と呼ばれるようになり、それにいつしか「弓削」の字があてられたのではないか。

 となると、弓削の道鏡との関連というのは、ますます怪しいことになる。もっとも、もともと実際に道鏡と関連があるとは思っていなかったわけなのであるが、「弓削」が「要害」の転だと思ったら、もやもやしていたものが、すとんと胸に落ちたのであった。




弓削館南側の城塁。

 (以前の記述)
 弓削館は、竹原小学校のすぐ西側の尾山稲荷神社のある場所にあったという。現地の案内板によると、どうやらここは弓削道鏡が住んだところであるらしい。

「道鏡を守る会」が建てたこの案内板の説明によると、

「奈良時代の高僧である道鏡さんは、法王にまで上がった偉い坊さんであった。ところが時の権力者からねたまれ、悪僧とされた。そして、下野の薬師寺に流されたが、それを知った土地の人が、ここに道鏡さんお呼びして住んでもらうようにした。以来、道鏡様と呼ばれて慕われて、安産や商売繁盛の守として栄えたという」

 まあ、ざっとこういう内容なのであるが、こんな説明をして本当によいものなのかと思ってしまう。歴史上の人物の評価は人によって違うものなのだが、われわれの歴史常識とはちょっと(というかかなり?)かけ離れているようだ。だが、地元の人がそう信じているのなら、まあそれはそれでよいのかもしれない。それにしても道鏡が安産の神様とは・・・・・・。また、国道6号線を挟んだ反対側には、孝謙天皇宮があるという・・・・。

 まあ、それはともかくとして、どうしてこれが城館になるのかが、よく分からない。「茨城県遺跡地図」にはどういう根拠で城館としているのか分からないものが時々あるのである。

 大掾氏が江戸氏に備えて築いた「弓削の砦」というのが、ここに比定されているようである。天正13年、江戸氏は大掾氏との取り合いでこの地域まで侵攻してきて、弓削砦を攻め落とした、という記事が『常陸編年』に見える。しかし、ここにはどうにも城館跡として明確な遺構が見られないのである。弓削砦の位置は本当にここでよいのだろうか。



































大竹屋旅館