茨城県城里町(旧七会村)

 

荻原長者屋敷(城里町大網)








2014年11月30日、図面を描きなおしました。














 荻原長者屋敷は旧七会村役場の南側に見える比高40mの山上にあった。ここは現在緑地広場として整備されている。

 この山の下は周囲をぐるりと幅20〜30mほどの水田が取り巻いている。これはかつては泥田堀であったものだろう。駐車場から急な階段を上がっていくと下から10mほどの高さの所に道路となっている腰曲輪がある。この腰曲輪は幅は2mほどであるが、山の周囲を4分の3周ほど取り巻いている。もともと通路としても用いられていたものであろう。この腰曲輪からさらに10mほど上がると郭内に入れる。

 郭の周囲は図のように深さ4m、幅6mほどの空堀が回されている。郭は方形(というか多角雑形)をしているのだが、空堀は何重にも横矢掛になっているので、一見、かなり複雑な形状をしているようにも見える。空堀の外側にも土塁が盛られている。これは石神城や石塚城といった佐竹系の城郭によく見られるものである。外側から上がって空堀の中に入り込んだ敵が、上にも上がれず、背後にも戻れなくなっているうちに突き倒してしまおうという戦闘上の配慮から工夫されたものである。ただし、石神城等と比べると土塁や空堀の規模はかなり小さい。

 郭の広さは長軸40mほどでさして広くはない。現在虎口は西側と北側、それに東側に2箇所と、計4箇所設けられているが、周囲の空堀の形状からして、かつては北、東、西の3ヶ所であったと思われる。このうち北側の虎口は両脇に横矢の張り出しがあり、なかなかしっかりとした造りである。大手口は2郭に東側の中央部分にある虎口であったと思われ、こちら側にも横矢の張り出しが見られる。

 西側の虎口がもともとのものであったのかどうか迷う所である。この規模の砦にしては3ヶ所の虎口は多すぎるように思われるからである。しかし、西側の虎口と接している堀に食い違いが認められることから、一応、この虎口も元からのものであると考えておくことにする。東南側の虎口だけは、公園化に際して土塁を崩して造ったものであろう。

 城はこのように単郭の小規模なものであるが、さらに台地基部側にも堀切が設けられている。このことから一応、2郭構造の砦というように解釈するのがよいであろう。

 この城の名称は「荻原長者屋敷」であって、この長者に関する伝承が残っているようであり、実際、ある時期この場所に屋敷が置かれていたことがあるのかもしれないが、現在見られる遺構は戦国期の物見、あるいは連絡用のつなぎの砦のもの、というように見てよいであろう。小規模ながらピリッとメリハリを利かせた構造は、戦国期、佐竹氏かその家臣によって築かれたものであると考えられる。したがって、「荻原長者屋敷」などという名称よりも「○○砦」といった名称の方が実態にあっているはずである。ただし、公園化の際の発掘時には、縄文時代など、かなり古い時代の遺物しか検出されなかったという。

 ここは非常に整備されていて全体の構造も分かりやすい。おすすめの城であるといえるだろう。ローラー滑り台もあるので、これに乗ってみるのもいいよなあ。 

「緑地広場」入口。比高20mの台地先端部に荻原長者屋敷がある。 南東角の城塁部分。
南側の虎口から中央の虎口土橋を見た所。この中央の虎口が本来のものであったろう。 南側の虎口から郭内と堀を見る。桜がまだきれいに咲いている。
西側の虎口付近を南側から見た所。 北側の虎口。虎口の両脇には見事な折れがある。
北側虎口から、西側の折れを見た所。正面奥にローラー滑り台が見えている。 台地基部とを区画する堀切。

 荻原長者屋敷は、この地の豪族であった大峰武郷の居館であったという。武郷の娘、徳姫は、この地に布教しにきていた弘法大師に恋をして歌を送った。しかし、弘法大師はこの恋に応えることができなかった。それを悲しんだ徳姫は井戸に身を投げて命を絶ったという。真実かどうかは分からないが、これがこの地に伝わっている、徳姫の恋物語である。大峰氏は後に荻原氏を名乗ったので、ここを荻原屋敷というのだそうだ。とすると、ここは平安時代からの古い屋敷ということになる。しかし、現在見られる空堀や土塁の遺構はあきらかに戦国時代のものであろう。おそらく戦国時代にこの居館は佐竹氏等の見張り城として改修されたものであろうと思う。

 公園化するにあたって、発掘も実施されたらしいが、その時には縄文土器と石器が発見されただけであったという。




四方(しぼう)とや城と二反田城(城里町小勝)

 四方とや城は県道112号線の「高田荘入口」というバス停の南側の比高30mほどの台地上にあった。高齢者コミュニティセンターのすぐ南側の台地で、一部は土取りによって削られてしまっている。周囲は水田によって囲まれているが、かつでは沼沢地に突き出した半島のような形態をしていたものであろう。城は東側から突き出した先端部を利用したものであり、台地基部との間にある切り通しの道路が、堀切の跡であったと考えられる。

 台地上の1郭は120m×30mほどのかなり広いスペースを持っている。周囲は切り立った崖になっているが、城郭遺構らしいものは特に見られない。北側には6段ほどの帯曲輪が見られるのだが、これはどちらかというと、後世、段々畑を造成した跡という印象が強いものである。しかし、これらが帯曲輪であったという可能性も完全には否定できないであろう。

 台地の北側下には「老人福祉センター高田荘」があるが、ここは山麓の居館といった雰囲気のある場所である。


 一方、二反田城は、県道を挟んで四方とや城と北に向かい合う山上にあった。比高60mほどの山の上である。東南に突き出した尾根の先端部近くを利用したものであるが、尾根続きの部分はかなり細くなっているので、実際にはほぼ独立した形状にあるといっていい。

 図の「農産物直売センター」の所の橋を北側に渡るとすぐに左手に入っていく道がある。(車で進みにくい道なので車はこの橋のあたりに留めておいた方がよい) この道を奥まで進んでいくと、やがて山の方に入り山道となる。この道は山のかなり奥まで続いているようだが、城址は南側の先端近くなので、後は適当な所から左側の斜面を直登するしかない。だが、それほど高くもないので、すぐに尾根に取り付くことができる。

 山上はわりとまとまった広さのある郭となっている。しかし削平は十分ではなく、城としてはかなり急造したものという印象が強い。1郭の西側には腰曲輪が延びているのだが、よく見るとこの腰曲輪、外側が盛り上がっているようで、もともとこれは横堀ではなかったかと思われる。実際、現地で伺った話でも、「城内には堀があって、今ではだいぶ埋まってしまっているが、自分が子供の頃はまだきちんとV字型に深くなっていたんだよ」という内容のことを聞くことができた。というわけで、これは横堀であったと見ておく。この横堀は地勢に沿って南側に延びて、南側の尾根辺りでは堀切となっている。この堀切は東側の端ではさらに竪堀となって落ちていく。

 この横堀の一段下にも同様の腰曲輪がある。しかし、こちらは上の段に比べて、外側が盛り上がっている感じがしないので、もともと腰曲輪であったと見てよいだろう。面白いのはこの途中の少し下に、井戸のような窪みが何ヶ所か見られることである。このような窪みは城内に少なくとも4ヶ所はある。これは井戸の跡か、あるいは「狼煙で連絡を取っていた」という伝承から、狼煙台の跡かもしれないと思ったのであるが、現地で伺った話では、「昔、山で炭を焼いていた。穴を掘ってそこに木を入れて燃やして炭を作っていたそうだ」ということで、どうもこれは炭焼き窯の跡であるらしい。ただし、このうちのどれかが狼煙台であったという可能性もありそうな気はするが・・・・。

 この2つの城について、詳しい歴史は未詳であるが、戦国期に連絡用のつなぎの城として用いられていたものと考えるのがよさそうである。 狼煙台があったという伝承もあり、狼煙を上げるための小規模な見張り用の砦、というのがそのイメージに近いかもしれない。

 ただ1つ、疑問もある。このようにすぐ正面に向かい合った城郭を配置する必要があるであろうか。狼煙で連絡を取り合うなら、、もっと離れた場所につなぎの城を造ればいいのではないだろうか。この両者の位置関係はどちらかというと、「向かい城」という雰囲気のようにも見える。しかし、それを示す明確な証拠はない。そのことは今後検討してみたいと思う。

西側の県道112号線から見た四方とや城。変わった名前の城である。県道からの比高は40mほどであろうか。 台地基部側の道が切り通しになっている所から上がっていく。一応公園らしく、東屋が1つ建っている。
1郭内部。何もないが、平坦地がひたすら広がっている。 北側の帯曲輪群。合計6段ほどあり、台地下まで連なっている。段々畑の跡と思われるが、遺構の可能性もあるだろう。
東側下から見たニ反田城。比高60mほどの山である。この道の突き当たりあたりから、山道が付いている。 1郭西側下の横堀跡。かなり痕跡的になってしまっている。
1郭南側下の堀切。これもかなり痕跡的である。 城内に何ヶ所かある窪み。炭焼きをした跡だということである。
 四方(しぼう)とや、とは面白い名前であるが、城内はかつて稲荷が祭られており、それにちなんだ名称であるということである。一方ニ反田というのは、城のある山の南側下の集落の名称であり、これを取って城の名前としたらしい。城のある山そのものにはこれといった名称はないということであった。

 地元に伝わる伝承には城主など詳しいことは残っていないが、この2つの城は狼煙によって連絡を取り合っていたというように言われているということであった。狼煙による連絡はさらに、東側の農産品直売所の裏の山(県道51号線どの合流点の辺り。山桜のある所だそうだ)、その先の小間津という所に中継していったという。とすると、この山桜のある山、小間津の山にも狼煙台があったということになるが、これらについてはまだ確認していない。




戸倉館(城里町徳蔵)

 戸倉館は西小学校や徳蔵寺、鹿島神社などのある比高10mほどの高台にあったという。徳蔵氏の居館である。遺構の詳細は不明だが、徳蔵寺の脇には写真のような土手や土檀などが何箇所も見られる。この土手は人工的に削られたものであろう。「茨城県遺跡地図」では、小学校の敷地に城址の印を付けている。とすると、小学校の建設によって主要部分は消滅してしまっているのかもしれない。

 徳蔵寺は弘仁年間(810〜823)ころ弘法大師によって建てられた古い寺院である。ということなので、この寺院も、中世になって要塞化していた可能性がある。













『戸倉館跡発掘調査報告書』の図を基にしたラフを参考までに掲げておく。中心部分は小学校の敷地となって消滅してしまっているようだ。




























大竹屋旅館