茨城県土浦市(旧新治村分)

*関連サイト  美浦村お散歩団
*参考資料   『新治村史』

岡の宮館(小神野宮館・新治村高岡根)

 岡の宮館は藤沢城と西側に向かい合う細長く東南に突き出した台地上にあったという。現在鹿島神社のある台地で、ふるさとの森になっている。岡の宮というのは、もとは御神野宮と書いていたようで、もともと神社のある地形のことを指していたらしい。

 この半島状台地は長さ200mほどで、比高15mほどある。藤沢城との間にある池が天然の堀という感じである。

 台地基部近くに鹿島神社があるが、その背後には土手があり、一応の区画せいが見られる。つまり台地を独立させようとする意図が見てとられ、その辺り「館跡」らしい遺構といえるのかもしれない。

 台地の縁部分は切岸形成されてはおらず、それほど急峻にはなっていないが、ある程度古い時代の館ということであるので、自然地形のままでも防御性は高いと思っていたのであろうか。城塁の途中には腰曲輪と思われる部分もあるが、公園化に際して道をつけたときに生じた部分もあると思われるので、どこまでを遺構と見てよいものなのか判然としないのである。

 全体的に見て、城館跡と想定してもよさそうな地形上にあるということだけはいえる。しかし、さほど人口の手が入っていない、天険の要を頼んだ館である。






藤沢城との間の池越しに見た岡の宮館。台地上は「ふるさとの森」となっている。 先端から上がっていくと、「マムシちゅうい」という立て札が2ヶ所にも立っている。こんな所に・・・と思ってしまうのだが、水辺周辺というのが特に危ないのかもしれない。
台地上には公園施設もある。このような展望台も何ヶ所かあるのだが、いかにも昔の物見台っていうように感じるのは私だけだろうか・・・・。 城塁途中にある腰曲輪のような地形。
岡の宮館の館主は小田氏4代時知の三男時義に始まり、その後、10代の経憲に至るまで300年も在城したという。初代の時義は小神野宮(鹿島社)を深く信仰していて、小神野宮氏を名乗るようになったという。その後、小神野宮氏は甲山に城を築いて移っていったという。



小高館(新治郡新治村小高字寄居)



上坂田館(新治村上坂田字館の内、堀の内)

上坂田館は、県道199号線の「下坂田」と言うバス停の辺りにある医王神社の脇を通って500m坂を上った所にある東北に向かう小道を200mほど行ったところにあったという。「館の内」「堀の内」「武者塚」「天王」などの地名が残っており、ここに何者かの居館があったことは間違いないと思われる。しかし現在この辺りは一面の畑地になっており、遺構らしきものは確認できない。耕地整理によって破壊されてしまったようである。

 土豪層の居館であろうか。藤沢城とは近い位置にあるので、その出城的な機能を有していた可能性もある。



 

甲山城(新治村大志戸字三十番神)



沢部将監館(新治村沢辺字古屋敷)

 沢部将監館は古屋敷とも呼ばれ、「新治村史」によると、天の川の北側の微高地上にあり、周囲を水田に囲まれているというので、この図の辺りが館跡と見てもよいものと思われる。館跡は一面の畑となっており、遺構らしきものは特に見られないのだが、周囲よりも2mほど高いこの地形そのものが城塁の名残であるのかもしれない。遠目に見ると確かに島状に見え、そこそこ要害の地であったように見ることもできる。

 沢辺将監の出自はよく分からないが、伝承ではこの館は東城寺と国府街道守護のために置かれたというので、小高氏と同様、大掾系の氏族であったのではないかと想像される。その後、この地域は小田氏によって支配されるようになるので、沢辺将監がその時代以降の人物であったとすれば、大掾ではなく小田氏系であった可能性も高い。







天の川越しに見た館跡。天の川とはしゃれた名前であるが、実際にはほとんど水量もない小さな川である。 東側から館跡を見た所。水田地帯に浮かぶその姿は、まさに城館という趣がある。



高岡丸ノ内館(新治村高岡字丸ノ内)

 高岡丸ノ内館は、現在写真の斗利出小学校のあるところにあったという。この「斗利出」という名前も「砦」にちなんだ地名によるものであろう。また、ここは「丸ノ内」という地名で古くから呼ばれている場所でもあった。

  江戸時代の高岡村古図には、コの字型の土手が見られ、その一辺は100mほどであったという。方形の居館であったものと推測される。明治18年に高岡小学校がこの地に建設された時に、北西側の土手は破壊されてしまったらしい。

 小学校の南西側には確かにAの土塁がしっかり残っており、残存部分の長さは約100mほどある。高さ2mで、基底部の幅も5mほどはある大きなものである。もともとは堀もあったのだろうが、埋められてしまったようで現在は見られない。

 この反対側のBの部分にも低い、土塁の名残のような部分が見られる。一見後世のものとしか見えないのであるが、Aの位置から想定してみると、ちょうど反対側の城塁のありそうな場所であるので、遺構と見てもよさそうに思われる。

 これ以外の部分は隠滅してしまっているので、分からない部分も多いが、おそらく一辺が100mほどの方形居館であったのではないだろうか。


斗利出小学校。名前もすごいが、なかなかしゃれた建物である。 南西部に残っている土塁。
高岡丸ノ内館の城主等は未詳であるが、南西800mに田土部城、東1.5kmには藤沢城がある。これらの城郭の出城(いわゆる砦)として用いられていたものかも知れない。



田土部城(新治村田土部) 



田宮館(新治村田宮字天神山)

 田宮館は、国道125号線の旧道とバイパスとが交差する地点の東北脇辺りにあったらしい。地元の方に館のことを伺った所「館や城なんてない。土手や堀も見たことがないなあ」とのこと。しかし裏庭を散策させていただくと、比高2、3mほどの微高地上に、塚や土塁の残痕らしきものが見える。この塚にはかつては祠が祭ってあったということである。また、南側の廃屋との間には、かなり埋まってしまっているが、写真の空堀の跡らしきものも見られる。

 再び、地元の方にお伺いすると、この裏手の部分は「天神山と言って、むかしイトーシローという者が住んでいた」という。昔というのがいつ頃なのか知りたい所なのであるが、「さあ、ずいぶん昔だ」としか教えてもらえなかった。

 この館主は「伊藤四郎」なのか「伊東四朗」なのか定かではないが、この辺りの土豪であったのかもしれない。

 「新治村史」には、一説によるととして、文和元年(1254)、後光厳天皇の勅命を受けた小田治久が、法雲寺を建設する際に、次男の知村をこの地に配して、法雲寺の守護としたという。(田宮家の御子孫の田宮家の文書) となると、法雲寺の背後を守るための城館であったということになる。そのように考えてみると、法雲寺そのものも城館的な機能を有していたと見るのがよさそうである。

 長禄二年正月(1458)の「法雲寺荘主寮年貢納目録」には田宮孫太郎入道の名前が記されている。この田宮氏は田宮知村の子孫で田宮館の城主であったと思われる。田宮氏は、守護神として追手門に水天宮を、鬼門除けに弁才天、稲荷社、妙見社を祭ったという。



永井館(新治村永井字中台)



 

藤沢城(新治村藤沢字城の内) 

 この城については小田天庵と藤沢城で、詳しく考察しています。

 藤沢城は、国道125号線の藤沢十字路の交差点から県道201号線を南下し、300m行ったところから右手に上がっていく道を登ったところにある。比高10〜15mほどの台地上で、台地の西側は特に切り立っていて垂直に近い崖である。地図にも城址は載っているので、場所はすぐにしれるであろう。しかし、台地上は宅地化されており、城址を示す案内なども特にないので、位置を確認するには台地上を歩き回る必要がある。

 道を進んで台地の先端近くまで行くと「藤原藤房の碑」がある。後醍醐天皇の側近であった藤原藤房は、正中の変の後、北条氏によってこの地に流されて小田治久の監視下に置かれることになった。建武の新政が成ると藤房は京都に戻るが、彼が髪を切って埋めて塚としたものが「髪頭塚」であるという。確かに高さ2mほどの塚が1つあり、上には祠が建っている。これが県指定の史跡にもなっているその塚らしい。

 宅地が建て込んでいるので、遺構は分かりにくくなっているが、図の1,2や神宮寺、松岳寺などのある部分が城の主要部であったと思われる。

 殊に1の周囲には土塁や虎口、堀跡なども見られることから、ここが主郭であったと見ていいかと思われる。隣り合っている2の部分が2郭であったものであろう。北側の神宮寺の脇にも土塁が見られるので、神宮寺が3郭であったかもしれない。神宮寺の北側は急斜面になっており、これらが城の主要部であったと思われる。

 地元の人に聞いたところ、この台地上を宅地化する際にかなりの堀を埋めて平坦にしたということなので、城址の遺構はその時にかなり失われてしまっているらしい。本来はもっと堀などによる明確な区画性があったものと思われる。

 しかし、城はそれだけでなく、周囲の台地全域を取り込んだ広大な外郭部も備えていたと思われる。これらの部分の遺構については、多くの部分がすでに失われていると思われるが、主要部を谷戸部を挟んで東側に向かい合っている台地は「中城」と呼ばれ、ここには明瞭な折れを伴った土塁が残っている。しかしこの土塁は台地の中央付近に独立形状で残っているものであり、周囲の地形とどのように連動していたのか、やや分かりにくい。

 もっとはっきりとした遺構が見られるのは、台地の北端辺りである。具体的に言うと、遍照寺の東側から精泉寺にかけての600mほどの長さに渡って堀と土塁が残っているのである。この堀と土塁はあちこちで分断されているが、基本的には深さ5m、幅7mほどのもので、その規模は一定している。特に精泉寺の北西側ではきれいに虎口状になって残っている。これが城の北限を示す遺構ではなかったかと考えられるのである。この堀の存在からして、この図に示されている範囲がすべて城域であったと見てよさそうであるが、かなりの大規模城郭である。小田城の詰めの城と単純に考えるよりも、もっと別の理由で大規模な兵站地点として利用されていた城というように見るのがよいのではないか。

南側から見た藤沢城のある台地。水田面からの比高は10mほどである。 1郭の虎口かと思われる部分。
1郭の城塁と堀の跡。 左の写真の左奥の先端にある土塁の張り出し。
1郭北西側の民家の敷地内に残る土塁。 1郭と藤原隆房の塚との間にある切り通し。これも堀切であったものだろう。
2郭にある藤原隆房の塚。 神宮寺の墓地脇に残る土塁。
中城の中央には横矢折れを持つ高さ2mほどの土塁が残っている。 藤沢城の周囲にはこのような池がいくつかある。水堀の名残であったものだろうか。
北側の外郭ラインは遍照寺から精泉寺まで続く堀と土塁のラインである。何ヶ所か分断されているが、それでも長さ600mほどに渡り、残っている。 精泉寺背後の土塁部分は、きれいに整備された虎口のようである。
 藤沢城についてはだいたい次のように言われてきたのではないかと思う・・・・藤沢城は小田氏の城であった。小田氏は小田城が落とされる度にこの藤沢城にやってきて立て籠もっていた。一度目は、永禄8年(1565)、上杉謙信に敗れた小田氏治は、藤沢城に後退して籠城した。やがて謙信が越後に帰ると、再び小田城を奪回したという。しかし、永禄12年にもまた、小田城を落とされ、藤沢城に籠もっている。

 次は天正2年(1574)、佐竹側の片野城の太田三楽斎資正が攻め寄せてきて、小田城は三たび落城、氏治はまたまた藤沢城に籠もることになる。このように藤沢城は小田氏にとって詰めの城のような存在であったらしい。

 以上の話は「関八州古戦録」や「小田天庵記」「東国闘戦見聞私記」等に載っているものであり、一般的に藤沢城の性格として引用されている部分である。しかし、このところ「牛久市史」の「中世史料編」などを読んでいて、小田天庵が佐竹や上杉氏に小田城を攻撃されて、土浦城に逃げ籠もったという話は出てくるものの、藤沢城に逃げたという話は史料上から見つけることはできなかった。ということは、小田天庵が藤沢城に逃げ籠もったというのは軍記物のみに見られる記述であり、実際、その通りであったのかどうかはやや心もとない。「小田味方の地利」という史料には小田氏方の城郭が列記してあるが、ここにも藤沢城の名前はない。また、この時期の史料を読んでいると「小田」「土浦」「木田余」といった地名はよく出てくるが、「藤沢」はなぜか登場しない。というように考えてくると、この時期にはまだ藤沢城という拠点的な城郭は存在してはいなかったのではなかろうか。

 このように、小田氏の詰めの城であったというのは軍記物が作り出した話に過ぎず、実際はむしろ小田城の付け城として佐竹義重によって取り立てられた城であった可能性もあるのかもしれない。「那須文書」中の佐竹義重書状に「小田城近辺に2,3ヶ所の付け城を取り立てた」といった記述が見られ、小田城から3kmしか離れていないこの城はまさにその位置にふさわしい。この佐竹義重による付け城については多気山城のページでも述べているが、多気山、若森、藤沢の3つの城は、小田城を三方向から囲むような位置関係にある。実際、佐竹氏に小田城を落とされた後、すぐ間近の城を天庵が維持できたかどうか疑問である。(本人は土浦城まで逃げ込んでしまっているのである。)

 しかし、天正10年代に入り、佐竹義重と小田天庵とが和睦するようになると、小田城こそは返却されなかったものの、菩提寺とも言うべき法雲寺のある藤沢の地は再び天庵に返されることとなる。天正13年の史料には「藤沢再興鍬立」という記事が見える。この再興というのをどう見るべきであろうか。天庵がずっと藤沢城を城として維持していたのならば「再興」などとは言うまい。これも想像するならば「小田城の付け城として佐竹によって築かれた藤沢の城がその後廃城となっていたのを、天正13年に小田天庵が再興して、居城とした」というように読めるかもしれない。史料上の藤沢城の初見はこれになる。藤沢城に大外郭部が築かれたのもこの時なのであろう。佐竹や上杉謙信に領土を侵犯され、城下や領民をひどくいたぶられてしまった経験を持つ天庵にとって、集落防衛ラインを持つ城を築くというのは必然的なことであったといえる。

 「毛利家文書」の「関八州諸城覚書」には小田氏治の持ち城として藤沢の城が見える。最終的にはこの藤沢城が天庵の居城となり、小田原の役を迎えるのである。小田原の役で天庵は北条側に立ってしまったために、戦後没落してしまうことになる。佐竹と和睦したのだから、北条と距離を置いて、小田原に参陣していたら、名門小田氏は近世大名として存続することも可能であったろう。つくづく小田天庵は運のない男である。 



藤戸屋敷(新治村藤沢)

 「城郭体系」によると、南北朝時代に藤原藤房の配所であったという。藤沢城内の一角か。この藤原藤房の塚は岩間町の町営グランドの南西にある。


法雲寺館(新治村高岡)

 法雲寺は、国道125号線の「高岡」の信号の所を南西に入り、300m先を右手に入ったところにある。村指定史跡の1号になっている寺院である。なぜか「茨城県遺跡地図」にはここに城館跡のマークが付いていた。行ってみたところ、北西側の崖の手前に立派な土塁があった。高さ3m〜5mほどはあり、寺院の西側から北側に向かって延びている。確かに城郭遺構のような土塁である。崖も削り落とされたもののように見える。

 寺院そのものは崖下のような地形にあって、一見城郭的な地形ではないかのように見える。しかし、寺院の背後の崖上には、土塁や堀の痕跡がはっきりと残っている。だいぶ改変もされていると思われるのであるが、本来、二重土塁、二重堀が、この背後の崖上に存在していたと思われる。それにしても、背後の堀の位置に比べ、寺院そのものが低い位置にありすぎるように思われるが、このような形態の城館というのは茨城地方にはいくつか存在している。阿見町の塙城、玉里村の飯塚城、稲敷市の沼田城、牛久市の桂城などは、ここと同類系の城館であるといっていいだろう。特に桂城などは、かなり形態的に類似したものを感じさせる。

 法雲寺そのものは鎌倉時代の頃から存在していたようだから、これ自体が城であったというのは当たらないが、周囲に防御遺構を築いて、武装化しようという意図を持っていた時代があったのだろう。「法雲寺雑記便覧法」には天正年間に佐竹氏によって焼き討ちされたという記事が掲載されているが、それは、この寺院が佐竹氏によって、小田方の「城郭」とみなされていたからではないかと思うのである。





 

法雲寺の本堂。実に大きく立派であり、寺院の格の高さを窺い知る事ができる。 廊下で結ばれた上のお堂。これが立っている部分も郭のような場所である。この建物の背後には古そうな宝筐印塔がいくつも建っているが、これらは小田氏に関係のあるものであろうか。
寺院背後の土手上にある堀の名残。だいぶ埋められてしまっている感じがする。 堀の内側には土塁がずっと延びている。土塁は崖ぎりぎりの所にもあり、二重堀を形成していたのであろう。
寺院東側の城塁と堀跡。 法雲寺本堂の車寄せ。なかなか立派なものだ。
 「法雲寺雑記便覧法」によると、法雲寺の第2世は小田治久の猶子であり、小田氏とはかなり深い関係にあったことが分かる。また、天正年間、佐竹氏の攻撃によって小田天庵が越前まで逃亡すると(実際には、小田原の役後、天庵は浪人となったが、結城秀康に仕え、後に越前に移り住むようになる。このことをひどく要約して言っているのであろうか)、法雲寺の堂塔伽藍は佐竹氏によって灰燼と帰したといった記述も見られる。佐竹氏に焼き打ちにあったことの真相は不明であるが、あるいは寺院そのものが武装して何らかの抵抗を試みるということがあったのかもしれない。そうすると、この寺院の遺構はやはり城郭関連遺構と見てよいと言えるかもしれない。



本郷館(新治村本郷字館)

 この館のある辺りには、水田中に浮かぶような地形の島状の台地がいくつもあって、いかにも城館跡らしく見える。「茨城県遺跡地図」によると、県道53号線の「三台塚」の信号のある部分の北西側の水田中の微高地が本郷館の跡であるということらしい。Aの台地がそれにあたる。しかし台地そのものはとても広大なので、実際にはその一部を利用して館が築かれていたのではないかと思われる。「新治村史」には「一部の堀と土塁を残す」とある。

 そこでAの台地に上がってみると、南側は一面の畑になっていて、特に堀や土塁らしきものは認められない。一方北側はかなりのガサ藪になってしまっている。とても入って行けない藪なのだが、その手前には水が溜まっている部分があった。もしかするとこれが堀の跡なのであろうか。そういえば、その北側部分がやや高くなっているようにも見える。しかし、藪がひどくて地形が高いかのように見えるだけなのかもしれない。実際の所、確実に遺構と思われるものがどこにあるのかはよく分からない状態である。











 館跡があると思われる微高地。周囲の水田よりは3mほど高くなっている。 台地上にはこのような池とガサ藪があった。これが「一部堀と土塁が残る」という部分のようにも思われるのだが、藪がひどくてまったく確認できない。
(以前の記述)本郷館は、県道53号線の「三台塚」信号の100m西側の小道を北に入っていった時、右手一帯に見える比高2〜3mの低い台地上にあった。周囲は水田となっているが、これが堀の跡らしく見える。台地上は畑になっているが、方150mほどの円形をしている。土豪の館か、環濠集落の跡であろう。

 この地域はもともと大掾氏の支配下にあったので、本郷館の館主も大掾氏系の人物であったと思われる。

 「小田天庵記」では城主として岩瀬弾正という者がいたという。その後佐竹氏の支配が固まると、高野九衛門という者が奉行となり、大志戸に陣屋を構えていたという。

 慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田に転封となると、幕府旗本の領地となった。さらに後、元禄12年(1698)に、土浦藩の支配となり、明治維新まで続いたという。



峯台館(新治村上坂田字峯台)






























大竹屋旅館