茨城県日立大宮市(旧緒川村)

 

大岩城(緒川村大岩)

 県道12号線沿いに大岩神社があるが、その1.3kmほど東南の比高70mの山上に城はあった。大岩城という名称なのにまったく大きな岩がない。この山の北西1.4kmほどの所に「高岩山」という山があるが、こちらの方が「大岩」という地名のもとなのだろうか。

 山は北西に突き出した尾根形状をしており、北側に向かって2つの尾根が延びている。麓にお堂があるが、この脇に「大岩城」の標柱が建っている。このお堂、何かの寺院の跡らしく、大僧正の墓などと言うものも残っている。

 お堂の所から、手前の北西側の尾根に取り付くとすぐに極めて小規模な腰曲輪が見えてくる。このような腰曲輪は山上までいくつも連なっているが、兵の駐屯を意識したものではなく、尾根に取り付きにくくするために切岸をたくさん形成したものである。三日月堀の下の尾根にも同様の構造が連なっている。この2つの尾根の間にはかなり広い平場があるが、これも城の施設として用いられていた場所である可能性がある。

 1郭は長軸40mほどの方形に近い形の郭である。削り残しの土塁が北側に延びてその下に比較的広い平場3がある。その先の腰曲輪は先端付近で三日月堀になっているのが印象的である。

 1郭の南西下に2の郭がある。腰曲輪の一部が尾根の続いている側に出張った所であるが、ここもそこそこの広さのある郭である。この先には空堀1がある。この堀は深さ5mほどあり、かなり登りにくい。さらに20mほど進むと深さ3mほどの堀切があるが、これが城域の末端を示すものらしく、ここから先は自然地形となっている。その先はだんだん地勢が高くなっていて1つのピークを迎え、その下がまた自然の谷となっている。しかし、ここは城域外とみてよいであろう。

 大岩城は基本的には単郭と腰曲輪だけの単純な砦といった趣の城である。規模もたいして大きくないが、堀切、竪堀などの基本構造をしっかりと押さえた上に三日月堀まである。戦国期につなぎのとりでとして用いられてきた城であろう。比高70mほどだが、天然の切岸のような山で登るのにはかなり骨が折れる。特に茨がたくさん生えているので、あちこち傷だらけになってしまうのがつらい。

北側の県道12号線から見た大岩城。比高70mほどの山上である。山城らしく、周囲は天然の切岸といっていいくらい切り立った山である。 1郭下の帯曲輪。犬走りていどのものである。この手前に竪堀2がある。
堀切1を降りるウモレンジャー隊員。深さ5mほどである。 堀切2。深さ3mほどで、これが城域の末端を示していたようだ。
竪堀1.正面は1郭の城塁。腰曲輪を完全に分断している。 三日月堀。長さは短いが、きれいにU字型を描いている。
(以前の記述)大岩城は、県道12号線の栃木県烏山町との境から1200mほどの県道の南側、小舟川を渡ってすぐの所にある、比高70mほどの独立した山にあった。県道12号線から、油河内地区に抜ける山道があるが、そのすぐ西側の山である。山の麓には人の住んでいない小さな寺院が建っている。城内は山林化しているようで登城道もよく分からない。しかし、緒川村は、城址に限らず、ありとあらゆる遺跡に標柱を立てているので、城址の位置だけはすぐ確認できるのがありがたい。人気のない寺院の脇にひっそりと標柱が立っている。

 城主等は未詳だが、佐竹氏に属した土豪の城であろう。



小瀬(おせ)城(上小瀬城・緒川村上小瀬)



小瀬出城(下小瀬城・緒川村上小瀬)

 *下小瀬城(小瀬出城)は、緒川村総合センターの建設で遺構はほぼ隠滅状態にある。そこで「重要遺跡報告書」の図面を基にしてラフにしてみたが、実際にこのような形態であったのかどうかはもはや知るすべがない。

 小瀬出城は、小瀬城の南西600m、緒川を挟んで小瀬城と向かい合う比高30mほどの台地上にあった。小瀬城の南側を守るための出城であったという。台地の周囲は切り立った斜面で、台地を巡るように緒川が流れ、城址らしさを感じさせるが、肝心の城址は「緒川村総合センター」の敷地となってしまっていて、すっかり跡形もない。台地先端部近くに形の整った櫓台のような整った土檀があるが、これは恐らく後世造られたものであろう。それにしても、この総合センター、この村には不似合いなほど立派な建物だ。緒川村の中心街には店も余りないのだが、このセンターはとても目立つ。

 駐車場の脇には「義民の碑」というのが建っている。詳しいことは知らないが、明治初めの頃にこの辺りで一揆を起こした人々の顕彰碑であるらしい。















梶内城(緒川村梶内) 

 梶内城は、「茨城県遺跡地図」にも掲載されていない。しかし、現地には写真の「陣向遺跡」という標柱と「梶内遺跡」という標柱が建っている。これだけでは何の遺跡なのかは不明であるが、地元の方に伺った所、「城は、那珂城と梶内城の2つがあった」という話であったので、ここも城址として紹介することにした。(遺構現況は那賀城の項目を参照していただきたい。)

 場所は那珂城の2つ南隣の台地上である。県道12号線の「石川病院」というバス停の西側にあたる。比高15mほどの東に突き出した台地上である。台地上は200m×150mほどとかなり広く、古代から高地性の集落が営まれていた所であるのかもしれない。城のある台地の北側と南側には低湿な水田があり、これが堀の跡のように見える。また、台地の周囲は削り落とされたかのような斜面となっている。

 城の歴史については未詳であるが、「陣向」という名称から、那珂城の向城として築かれたものなのかもしれない。










川崎城(緒川村下小瀬字川崎字要害)

 川崎城は、県道12号線の「小瀬沢」と「下小瀬タバコ店」というバス停の間辺りから緒川の東側に見える河岸段丘の上にあった。緒川はこの位置で西に曲がりさらに東に屈曲し、三角形の突出部を造りだしている。河原から50mほどの切り立った断崖上で、まさに要害の地である。

 県道12号線沿いに「椿橋」というバス停があり、この橋を渡って東側に渡ることができる。ただしこの橋、車も交差できないような古い橋で、橋を渡る入口の道もちょっと分かりにくいので気をつけていないと通り過ぎてしまう。橋から見ると北側の台地先端が高くそびえ西側に突き出しているのがよく見える。しかしよくよく考えてみると、ここで見えている部分は「川崎遺跡」の辺りであり、川崎城はそれよりももっと奥の部分になる。地形的にはさらに突き出したイメージであろう。

 この椿橋を渡って、台地の付け根の方から回っていくと、まず川崎遺跡の標柱が見えてくる。この川崎遺跡というのがどういう遺跡なのか分からないが、古代の高地性集落の跡であろうか。しかしこの部分、川崎城とほとんど並んでおり、堀のような切れ込みなども見られることから、あるいは出城として用いられていた可能性もあるかもしれない。そこを過ぎてさらに進んでいくと、道路の脇に「川崎城跡」の標柱が建っているのが見えてくる。正面の平地が城址ということである。  

 先端の主各部は1辺50mほどの方形を成しており、周囲ほど1mほど高くなっている。現在の比高差はその程度であるが、もともとはもっと深く土塁と空堀があったのではないかと思われる(と以前は思ったのであるが、どうもこの部分は、畑地造成で土が盛り上げられただけに過ぎないのかもしれない。) 

 この畑地の一段下の先端部も郭であったろう。ここを2郭としておいた。1郭は東側の部分との間にも40cmほどの段差がある。この東側の部分は40m×100mほどで、その東側には堀跡がある。ここの段差は南側では4mほどあり、幅10mほどはあったのであろう。2ヶ所に坂虎口らしき跡も見られるが、段差は北に行くほど小さくなり、北側ではほとんどなくなっている。この辺りも、後世、耕作によって改変されているのではないかと思われる。この堀の北端辺りには土塁と堀切の残決らしきものが認められる。本来ここまで堀はつながっていたのであろう。なお、現地で伺った話では、この北端の堀残欠の辺りは「城主の御寝所であった」という伝承があるらしい。堀底が御寝所というのではいかにもおかしいが、伝承されている場所がずれていってしまったのだろうか。

 また、この堀の南側には井戸があったという。今回は確認していないが、地元の伝承に残るほどであるから、それなりのものがあったのであろう。

 北側の断崖の手前には土塁が10mほど残っている。一部ごみ捨てのために切られてしまっているが、本来はつながっていたのであろう。
 さて、城址は川の側からは断崖になっているが、付け根の部分からは何の区画もされておらず、こちら側から攻撃されたらひとたまりもない。これはどういうことなのだろうか? 城址の東側は台地になっており、城址よりも高くなっている。こちらにも何らかの城郭的な施設があったと考えるのが自然であろう。詰の城的な施設があったかもしれない。また、この台地の脇を通って北に下がっていく道は切りとおしの虎口となっている。

南側の橋の上から見た川崎城・・・・と言いたい所だが、これは川崎遺跡であり、川崎城本体はもっと奥の方であろうと思われる。蛇行する緒川に臨んだ比高20mほどの台地先端であった。 川崎城跡の標柱。道路のすぐ脇にある。城内は一面の芝になっているが、芝を栽培しているのだろうか。この標柱、何年かぶりに訪れたらだいぶ傾きかけていた。平成11年に立てたもののようだが、あと何年かで腐って倒れてしまうかもしれない。緒川村は統合されて常陸大宮市になってしまったが、常陸大宮市がこうした標柱の管理をしっかり引き継いでくれるのかどうか、ちょっと心配だ。
城塁の北側には高さ1.5mほどの土塁が残っている。 土塁の切れ目が堀切の名残のようになり、そこに墓地がある。この堀切は3の堀と接続していたのではないかと思われる。ところが、この墓地の辺りに「御寝所」という地名が残り、殿様が休んでいた所であると言う伝承もある。堀底が「御寝所」というのもちょっとおかしい。どういうことなのだろう。
先端中央辺りの1の郭は周囲よりも1mほど高い段差の上にある。これは後世の改変なのか。 3の堀跡。遺構としては最も明瞭な部分である。この中に井戸があった。
 城主等詳しいことは分からないが、戦国時代、小瀬氏に属した武将の城であったであろう。



小舟城(緒川村小舟)

*鳥瞰図作成に当たってはアオ殿の図を参考にした。

 小舟の吉田神社背後の山稜一帯が小舟城の跡である。

 小舟城の登り口は2ヶ所ある。1つは8の道路脇の道から上がっていくルートで、すぐ上の墓地を過ぎると、途中トレースしにくい道となってしまうが、4の南側の虎口につながっている。こちらは結構急な道だが、下から虎口まで15分もあれば行けるだろう。

 もう1つは吉田神社の背後にある山道をずっと上がっていくルートで、こちらは傾斜が緩やかなので楽な道ではあるが、山の斜面をぐるりと回りこむようにして付けられているために、主郭部までの距離はかなりある。このルートだと西端の二重堀切のすぐ手前に出るようになっている。

 城は基本的には山の尾根を簡単に削平しただけのもので、あまり広い郭はなく、居住性があるとはいいがたい。緊急時の立て籠もり用といった趣のものであるにすぎない。尾根が自然地形のままの部分も多い。ただし、西側の二重堀切や堀切1,2,3などはけっこうしっかりと造られている。これらの遺構から戦国期の城郭と見てよいかと思われる。構造的には本城であったといわれる上小瀬城をミニチュアにしたような形態の城である。

 図の1の郭が主郭であろう。といっても特別広い郭でもなく、幅は10mほど、南北に30mほどのもので、緩やかに3段に分かれている。北側には深い堀切1を配置している。この堀切は外側に古墳のような土壇があるのが特徴であるが、これは山入城など佐竹氏の山城の堀切によく見られるものである。また南側には2段堀切がある。二重堀切ではなく二段堀切と呼ぶのは、2つの堀切が平行して存在しているのではなく、堀切が5mほどの比高差をもって段々に配置されているからである。堀切2と3の間の部分は土塁ではなく、傾斜の急な斜面となっている。

 堀切1の北側には堀切4がある。この堀切は深さ2mほどで、竪堀も付属してはいないが、壁面が石垣のようになっているのが印象的である。もっともこれは岩盤を掘った部分が「石垣のように見える」だけであるかもしれないが。ここから北側の2の郭までは自然地形の尾根そのままで、地勢が下がって上がって2の郭に至るようになっている。2の部分も郭というよりは地勢が自然に高くなっているだけのところ、という感じである。しかしこの2の部分が城内では最高所に当たるので、重要な場所であったろう。2の部分から西側に尾根を進んでいくと、最後に城の最西端を示すかと思われる二重堀切がある。この二重堀切が城内最大の遺構である。特に二重目は城内側からでは8mほどの深さがあり、これによって城外と完全に分断しようとした意図がよく汲み取れる。この堀切に伴って竪堀も二重構造となっている。この部分から地勢は下がっていくが、7のピークとの間の鞍部の部分に、吉田神社に通じる山道が通っている。

 1郭南側の2段堀切の南側には3のピークがある。しかし、この部分は自然地形のままの傾斜であり、加工されている気配はない。とはいえこの部分は4や5の部分からは10mほど高くなっているので、物見を置くのには適当な場所であると言える。また、4や5の尾根の付け根の要となる部分でもある。

 4の部分は地勢が南に傾斜しており、自然の尾根のままのようである。その南端に下から登ってくる道と接続している虎口がある。この虎口、堀切状と言えなくもないが、深さが1m未満なので、堀切というには小さすぎる。この虎口から南側には2mほどの土手があり、その先に6の郭がある。6は削平もきちんとされており、幅も10m余りあって、これが城内では最もまとまった広さを持つ郭である。自然地形のままの3,4,5の部分を城外とみなさなかったのは、先端のこの6の郭がわりとしっかりと造られているからである。6の郭は下の街道と最も近い位置にあるので、物見を置いていたところなのであろう。ただし6の郭の南側の先端部分は自然地形のままであり、特に加工の跡は見られない。

 3から5の部分にも尾根が長く延びている。基本的には自然地形のままであると思われるが、地勢は平坦であり、ある程度作平されているのかもしれない。途中、5の辺りに1mほどの段差があり、そこから東南端に向かって尾根はずっと続いている。

 このように小舟城は、基本的には尾根を加工しただけの小規模な城郭ではあるが、きちんとした堀切、竪堀などを伴っていることから、戦国期、佐竹氏に利用されていた城と考えてみたいと思う。

 ここで問題となるのが、吉田神社のある部分をどう見るかということである。城内には居住性のある広い郭がほとんどなく、多くの兵をこめることができないのはもちろん、城主が住むスペースも確保されているとは言いがたい。それに対して神社のある部分は2段ほど、比較的広い郭が配列されており、こちらは中世領主の居館が営まれていた所と解釈しても不自然ではない。このようなことから、神社のある部分は居住空間というように理解できそうに思われる。ただし、この解釈だと不自然になってくるのが、神社と城との位置関係である。神社が居館であったとすると、城とはかなり離れており、連携が非常に悪いのである。神社部分の詰めの城を築くのであるならば、図の7の辺りに主郭を持ってきて、そこから城域を展開させるのがセオリーではないかと思う。このように考えると、神社のある部分と、城郭部分はきちんと連携されていなかった可能性もあるかとも考えられる。このことをどう見るべきか。

 神社のある部分は、古い時代の領主の居館があった場所としては適地であるといえるかもしれない。このようなことから、神社は古い時代の高沢氏、あるいは内田氏の居館の跡、城郭部分は戦国期に軍事拠点として佐竹氏が築いたもの、というように分離して考えることもできるのではないだろうか。神社がある時期の城館であったとするなら、下の鳥居脇に立つ城址標柱も、あながち場所がおかしいとは言えなくなる。


烏山の番衆として、初番として野口東野高部小舟の者共を、次番として小瀬檜沢の衆を差し向ける」(佐竹義篤書状)

 すでにあちこちで何度も取り上げた天文期の佐竹義篤の書状である。烏山に対する兵を動員するための佐竹義篤の指令を示したものであり、この地名の箇所にはそれぞれ呼応するかのように戦国期のものと思われる城館が存在しているため、この文書は、佐竹氏の軍勢集結ポイントを示しているものであると想定できる。

 また、永禄年間かと思われる佐竹義昭の書状に「山能番高部・小舟者庄内とかく附而」といった文面のものがある。山能は「やまのう」すなわち山尾(やまのお)城のことであると想像され、岩城氏に対する備えとしての山尾城に在番衆を置いていたことが知られるのであるが、ここで注目したいのが「高部・小舟者」という記述である。これは単純に高部小舟に在住していた者というようにも理解できるが、

(1)高部、小舟には戦国期のものと思われる城郭(高部城小舟城)が存在していること。
(2)この2つの城には鎌倉時代、あるいは中世中期までの伝承は残っているが、戦国期領主の伝承がないといっていい。これは特定の城主によらない番城であった可能性を示しているのではないか。
(3)佐竹義昭が兵力を展開させていた那須地域(現在の烏山馬頭)から常陸国内に進入するルートをこの2つの城がそれぞれ押さえていること。

 といった理由からこの両者は佐竹義昭時代には対那須用の番城であり佐竹の軍事拠点であった可能性が高いと思われる。城の規模も佐竹義昭時代のもの考えてみれば、確かにそのようなものであろう。

 現在の常陸大宮市域における拠点的な城郭は、山方上小瀬の2城、そのうち小瀬城の支城であり、対那須防衛網の一角として、高部城、小舟城が機能していた可能性があると思う。





 2013年1月19日(土)、小舟城の西側遺構を見落としていたことが分かったので、その部分の図を描きに久しぶりに再訪してみた。確かに西側の山麓にかけて多数のテラス状の小郭が連続して構築されている。ただし、居住性のあるようなものではなく、純粋に防御遺構というべきものである。

 段郭の尾根は途中で2つに分かれ、南側の方は最終段が横堀となっている。中央に土橋のある横堀である。この横堀の西側端は谷戸内部へと続く道となっている。

 一方、分岐西側の先には、虎口状に土が抉り取られた地形が見られる。ちょっと変わった枡形のようにも見られなくもない構造物なのだが、それにしては形状がはっきりとしていない。後世の改変されて分かりにくくなっているのかもしれない。

 こんな感じで、西側部分の遺構を描き足してみたわけだが、この城には他にも多数に尾根が分岐している。すべて歩けば、さらに遺構があるのかもしれない。

 さて、久しぶりに訪れて、改めてこの城のことを考えてみたのだが、やはりこの城は、山城部分を主体とする城ではなく、谷戸部にこそ主体があり、山城部分は防塁のようなものであったのだろうと思う。佐竹氏が「小舟衆」を集結させたのは、小舟川に囲まれた山麓の一角であったのではないだろうか。









やすらぎの里公園から見た小舟城。主郭部分の比高は、下から100mほどである。左側の一番高く見えるところが図の7の辺り。 県道沿いの吉田神社の鳥居脇にある城址標柱。ここにあったのでは、神社が城址と勘違いしてしまうであろう。
図の8の部分に登り口がある。写真のようにしっかりとした道になっているので、すぐに分かるであろう。ただし、すぐ上の墓地を過ぎると、ちょっと分かりにくい道になってしまう。 この道を上がっていくと、4と6との間の虎口形状の部分に出る。堀切状とも言えるが、深さは1mほどしかない。
6の郭の北側の土手は高さ2mほどの切岸になっている。ただしこの郭、北側(城内側)は切岸整形をしているのに、南端の方は自然地形のままである。 3の方向から4の尾根を見た所。この城は基本的にはこのような尾根そのままの部分が多い。幅も概して10m未満である。
2段堀切になっている南側の堀切3。深さは北側で3mほど。 2段堀切北側(城内側)の堀切2。深さは6mほどあり、壁面は岩盤が露出するほどの切岸となっていて、現在でもよじ登るのが大変なほどである。
1郭土塁。削り残したもので、高さは1mもない。比較的幅が広い。 1郭北側の堀切1。堀切の外側に古墳のような土壇を築いて堀の深さを深くしている。城内側で5mほどの深さがある。
堀切1を横から見た所。右側が1郭城塁。 堀切1の北側には堀切4がある。この堀切には竪堀がなく、深さも2m程度しかないが、壁面にはこのように石積みのようなものが見える。(自然地形なのかもしれないが) ここから北側は傾斜のある自然地形となっている。
城址北西端の二重堀切を城外側から見た所。中央の土塁部分がよく分かる。深さは城外側の1重目で4m、二重目はとても深く8mほどある。 吉田神社の境内も、神社には不必要なほどの広さのスペースが段になっており、居館が営まれていた可能性がある。
(以前の記述)小舟城は、県道12号線と39号線が交わる交差点の北側にある比高50mほどの山中にあった。道路を挟んで西側には「やすらぎの里公園」や、その展望台などがよく見える。

 標柱のあるところから上がっていくと、そこは吉田神社である。急な石段を20mほど上がると、両脇を土塁に囲まれた細い道が神社に向かって続いている。道の両側は切り立った崖である。まっすぐ50mほど行くと本殿の下の郭にでる。方30mほど。そこから10mほど石段を登ると本殿のある郭である。この辺りに城主の居館などがあったのかもしれない。

 本殿の背後も高くなっており、城址はさらに山中に続いている。

 小舟城は、鎌倉時代に高沢氏によって築かれたのに始まるという。
 また天文期には、小瀬城主小瀬氏の家老で内田弾正左衛門という者が小舟城主であった。位置的にも小瀬城の北西3kmほどと、近接した場所にある。天文9年(1540)春、部垂義元が佐竹本家に対して乱を起こしたとき、小舟城主内田弾正左衛門は、兵を率いて部垂城の救援に向かった。しかし、部垂に近づいてくると城がすでに燃え上がっているのが見えた。

「う〜ん無念、あれは部垂城が燃えているのだ。救援に掛けつけたというのに、間に合わないとは申し訳ない」
そう言って弾正左衛門は切腹して果てたという。もっともこれは伝承に過ぎず、実際にこの人物が城主であったのかどうか明確な証拠はない。





高館城(緒川村上小瀬)

 高館山城は緒川村の北端近く、標高230mの高館山にあった。緒川村の名のもととなった緒川の東南にそびえ立って見える険しそうな山である。比高は130mほどもあり、かなり遠くからでもその威容を見ることができる。

 城主は佐竹氏の一族で小瀬義春という者であったと言われている。上小瀬城に移る前の小瀬氏の居城であったということである。

 県道163号線で北側から来ると、「野沢口」の橋を過ぎてすぐに台地上に上がる道があるのが分かる。よく見るとその脇には「高館城」の城址標柱も立っている。これが城址の入口である。この道を一番上の民家まで上がると、右側に登っていく道(A)が見える。これ以上車ではいけないので、そこに車を留めておくのがよいだろう。現地で伺った際にもこの道を行くことを勧められた。「かなり荒れているよ」と言われたのだが、実際にはけっこうちゃんとした山道で、何の問題もなかった。ただし、道の両脇は木が生い茂っているので、周囲を見渡すことがほとんどできない。城址に入るためには途中から山頂の方に向かわなければならないのだが、この入り口がちょっと分からない。実際、どんどん上がっていくと、峠らしき所まで来たが遺構がない。途中、Cの辺りで切り通しの道が横堀状に見えるところがあって「ここかな」と思ったのだが、そうでもないようだった。「こんなに遠くに見えなかったはずだが・・・・」などと思いながら進んでいくと道が土橋状(D)になっていく。さらに進むと今度は道が降り始めた。ここまできてはっきりと行き過ぎてしまったことに気が付いた。「城はどこだったのか」と思って振り返ってみると後方の木の合間から、高館山らしきものが見えていた。「城はあそこか!」と思って、今度はかすかに見えるその山の位置をイメージしながら戻ることにした。

 Cの切通しがある辺りが怪しかったので、その上を歩いてみたが、平坦地はあるものの自然地形に過ぎない。それに地勢が低すぎる感じがする。仕方がないのでさらに戻ってみると、Bの辺りのヤブから上が地勢が高くなっているような。それになんとなく道のようなものもあるような気がする。そこでBの所から藪の中を進み始めた。するとすぐに2mほどの高さの切岸のようなものが見えてきたので、この上が城らしいということがやっと分かったのであった。

 しかしその先は緩やかな斜面になっており、郭内に入っているのかどうかもよく分からない。それにこの山はけっこうヤブであり、夏場はきつい。それでもどんどん上がっていくと次に6の横堀が見えてきた。藪の中を進んでいて、こうして城らしいところに出ることができるとほっとする。ここから先が城の中心部となるということだろう。堀はだいぶ埋まっている様子だが、それでも高さ3mほどはあり、横堀状の形状は明確である。外側にも土塁が盛られていて、堀底を深くしていたようだ。ここから郭内に上がるには正面の城塁を斜めに上がっていく坂虎口が付けられているので、そこを通って郭内に入っていくこととなる。

 だが、その先も地勢が斜めの場所である。削平はほとんどされていないようで、郭であるといえるような雰囲気でもない。そこをさらに上がっていくと再び横堀5が見えてきた。途中にあった横堀6と規模も構造も似たようなものである。ただしこちらの堀は、両端を竪堀でしっかりと区画していることと、その竪堀の先に腰曲輪が続いていることで、念入りな印象を受けるものであり、主郭がここであるということを想像させるのに十分なものである。特に西側は構造がかなり複雑になっており、3段の腰曲輪、竪堀、横堀などが組み合わされているために非常に描きにくい場所である。一応ざっと縄張り図も描いたのだが、きちんと書くためには冬になって再訪しなければならない所である。もう1つ、この城は主郭周辺でも、削平がきちんとされている部分と、自然地形の傾斜の部分とが複雑に混在しており、腰曲輪や堀の接続がどこにどうなっているのか、ぱっと見ただけで把握しにくいのである。そういうことも城の構造が理解しにくくなっている原因の1つである。

 5の堀にもやはり同様な坂虎口が付いている。ここを上がっていった所が主郭ということになる。主郭内にも微妙な段差が3段ほどある。また自然地形も混じっており、郭の縁部分が明瞭ではない。それでも道らしきものがついていて、どうしてなのかと思ったのだが、先に進むと祠が祭られていて、道はそれに伴う参道であったらしい。どうやらこの祠を祭っていた関係上、一部改変されている所もありそうだ。それにしても、この祠、近年ではまったく人が訪れている様子はない。

 主郭は南北に細長く60m×20mほどはある。このうち北、東、南の3方向はきちんと切岸整形されており、郭の形状が明瞭である。北側は断崖になっているが、北東部にはわりと形のいい横堀2がある。この辺りの切岸面は、一部岩盤を削っているらしく、深さ6mほどだが、なかなか堅固なものである。横堀はやがて帯曲輪となり、さらに犬走り状に細くなって、5の脇の竪堀の所まで続いている。

 一方1郭の西側は城塁が切岸整形されておらず、縁部が不明瞭な形をしている。それでも下の方は削平がきちんとされており、その部分は腰曲輪のようにも見える。そしてそこから4mほど下にきちんと削平された腰曲輪3がある。この腰曲輪は南側の5の虎口に至るまでに、先に述べた通り、竪堀、横堀、3段の腰曲輪を経由するという複雑な構造を示している。かなり技巧的な登城路を形成しようとしていた名残とも見られ、そういうことになると、城はけっこう新しい時代まで改修されて用いられてきたということになるかもしれない。

 さて、帰りに6の下の部分を降りていくと、途中の脇にEの円形の窪みを発見した。井戸の跡のようにも見えるのだが、三方に土塁らしきものがめぐらされている。あるいはこれは炭焼きの跡ででもあろうか。

 この辺りから、来る時に通った道に戻ろうと思っていたのだが、道らしき部分をトレースしていくうちに結局、来た道には戻れずに、別の降りていく道に出てしまった。仕方がないのでこの道をそのまま降りて行ったら、一番上の民家の脇に出てきた。登る時の、尾根をぐるりと回る道に比べて、こちらの道は城に直行できる道である。本来の登城道はこちらであったのかもしれない。ただしこの道、湧水点がどこかにあるのか、けっこうじめじめしていて、あまりいい感じの道ではなかった。

 さて、城の様子はざっとこのような感じである。伝承ではこの城は小瀬氏の初期の居館といったものであったらしい。しかし、削平が不十分な所がありながらも、横堀、竪堀などが組み合わされており、設計思想は比較的新しいもののようにも思える。また、中世の早い時期から、このような山頂に居館を置くだろうかという疑問もある。居館を置くのには、Aの下の「塙」と言う字名のかなり広い畑地部分の方がよさそうに見えるのである。このようなことから、小瀬氏の初期の居館は「塙」の辺りであり(詰めの砦程度のものが当時から山頂にあったかもしれないが)、戦国期に籠城用に回収されたのが上の城の部分、といったような仮定もありかなと想像してみたのだが、実際はどのようであったものか。

川を挟んで西側から見た高館山。川面からの比高は130mほどある。 県道163号線脇にある城址標柱。ここから一番上の民家まで車で進むことができる。(ただし道はかなり狭い)
Aの登り口。車は通ることがないというので、ここに車を留めさせていただいて上まで歩いていった。ここからの比高は80mほどであろうか。尾根をぐるりと回りこむ道で、傾斜が緩やかなので、かなり遠回りになるが、ぜんぜんきつくない道である。 左の道をずっと歩いていると、見通しが利かない山林のためにいつしか、城址を通り過ぎてしまう。この写真のような土橋状になる部分(右手は杉林)まで来たら完全に行き過ぎである。よく見ると背後の木の合間に高館山らしいものがなんとなく見えるので、それを目指して引き返さねばならない。
城への分岐点(B)の道はとても分かりにくいので、当たりをつけて藪の中に進んでいくしかない。しかし少し進むと高さ2mほどの土手が見えてくるので城が近づいてくる感じがする。さらに進むと6の堀切の所に出る。かなり埋まっているようで現状での深さは3mほどである。 6の堀切には城塁を斜めに上がっていく坂虎口がある。
この上の部分は郭というよりも、地勢が傾いていて自然地形に近い。その先に5の堀切がある。深さはやはり3mほどで、似たような構造である。坂虎口の形状も同様。両端を竪堀でしっかりと区画しているのが印象的である。 1郭内部も削平が不十分で、けっこう自然地形の部分が残っている。その中央部分には写真の祠がある。もう人がお参りに来ている形跡はない。
1郭東側下の横堀(2の部分)。深さ5mほどで鋭く掘り切っているために岩盤があちこち露出している。 同じく3の部分。1郭西側下にはきちんと削平された腰曲輪がある。
小瀬氏の古い時代の居館であったという。また、現地で伺った話では「戦国時代に佐竹氏の物見のようなものがあったところだ」ということであった。部分的に鋭くなった堀、きちんと掘られた竪堀などからして、戦国期まで使用されている可能性は高いと思われる。



那賀城(緒川村那珂字御城)

 *鳥瞰図作成には「「重要遺跡報告書」所収の図面を参考にした。

 県道12号線を北上していくと、道路の左脇に「那賀城跡」という緒川村おなじみの遺跡標柱が目に入ってくる。この西側の比高10mほどの台地上が那賀城の跡である。確かに東側の土手は城塁のように見える。

 切り通しの道を通って台地上に登ると、そこは一面の畑地となっている。しかし台地上は広大な平野になっていると言うだけで、これという遺構らしきものは見られない。耕地整理によって埋められてしまったのか、古い時代の城館のために、もともとそういう戦国期の城のような遺構をもっていなかったのか、どちらなのか分からないが、とにかく現状ではただ広大な台地であるだけに過ぎない。

 唯一、遺構らしく見えるのは、北側に先端にある墓地の東側の土手で、これが堀の名残であったように思われる。実際、北側の先端部分は堀のように両側が窪んでいる。この部分から想像すると堀の規模は深さ5m、幅7mほどあったように思われる。しかし旧状を留めているのは先端の7m分ほどにしかすぎず、その部分より南側は、墓地側(西側)の部分にのみ高さ3mほどの土手があるだけである。(下の写真)しかし、これは堀の名残と見てよいだろう。

 藤原通資が、里川からこの地に移り住んできた那賀氏を称するようになったのは平安時代も末期のことであると言うから、城がその時代のものであり、それ以降(特に戦国期)改修が行われていなかったとすると、城といっても単に台地上に居館を置いただけのものであったと見るのがよいのかもしれない。平安時代末期の居館といえば、千葉県東庄町の大友城などもあるが、こちらも有名なわりには現状はただの台地で、遺構らしきものはほとんど見られない。


 那賀氏の先祖は藤原秀郷だということで、平安時代に常陸太田に来て太田大夫と名乗っていたが、後に6代道直は野口館に移り河辺大夫を名乗った。さらに7代通資がここを居館とし、那賀氏を名乗ったという。その後那賀氏は、源頼朝に仕えて鎌倉幕府に仕えるに至るが、その後、建武の新政に際しては、南朝側にに立ち佐竹氏と激しく戦った。しかし武運つたなく、那賀通辰をはじめ一族43人は常陸太田市増井勝楽寺境内で自刃し、一族はほぼ滅亡した。しかしその時に生き延びた。この時ただ一人生き残った幼い子供(通泰)が後に江戸氏の初代となる。・・・ってこの記述、那珂西城の項目でも書いたような気がする。つまり那賀氏の発祥の地で、居館となっていたのは、那珂西城であるという説と、ここ那賀城であるという説と2つあるということなのだろうか。しかし、どちらが正しいのか、証拠となるものは今のところ、持ち合わせていない。


県道12号線沿いにある標柱。背後に土手が見えているが、比高10m余りの台地先端を利用した城であった。 郭内の様子。一面の畑地となり、遺構らしきものはほとんど見られない。
那賀城の堀跡。北側の墓地の脇辺り。
(以前の記述)那珂城は、緒川村の南端部、那珂地区にあったという。比高10mほどの台地上で、鹿島神社の西側にあたる。県道12号線沿いのすぐ左手に写真の標柱があるので、すぐに城址と知れる。この背後の台地が城址である。しかし、城内は一面の畑地となっており、特に遺構は見られない。ただし、周囲は削り落としの斜面である。

 藤原秀郷流の通直はこの地に居住して那珂城を築いたという。後、その子孫は現在の城北町に進出して那珂西城を築いてそちらに移っていった。つまりこの城は那珂氏の発祥の地というわけである。





























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