常陸太田市(旧里美村分)

*参考・関連サイト  北緯36度付近の中世城郭  

*参考資料  「図説 茨城の城郭」

上の台(うえのだい)館(常陸太田市徳田字上の台)

 上の台館は、福島県矢祭町との県境に程近いところにある。いわば境目の城を置くべき位置にあるということになる。旧里美村から街道を進んで棚倉に向かっていくと、東館羽黒山館寺山館赤館といった佐竹氏系の大規模な城郭が連続している。したがって、国境に近いこの位置にある上の台館もかなり規模の大きな城郭ではないかと期待してやってきた。

 しかし、台地上に上がってみて、見事に期待は裏切られてしまうことになる。確かに台地上はかなり広大な平坦地になってはいるが、明確に城郭遺構と思われるようなものはここにはなかった。だだっぴろい台地の先端に神社の祠が3つ、ぽつんと祭られているのみである。この台地の基部のネック部分には、段差があるので、これがあるいは堀切の名残であるのかもしれないが、いずれにせよ、明確に城と呼べるようなものではなかった。

 現在、この台地上には2段ほどの段差が見られる。しかしその段差の高さは1m未満の低いものばかりである。もちろんこれは城に関する地形ではないだろう。台地全体に杉が植林されていて、それに伴って造成されたものではないかと思う。これだけの広い台地であるから、城郭として使用していたなら、内部を区画する堀や土塁があっても不思議はないのだが、まったく見られない。あるいは植林や、それ以前の耕作地化などによって、遺構が破壊されてしまっているのだろうか。

 神社に続く台地先端部分近くには、一部、台地縁が土塁状の高まりを見せている部分がある。しかし、これも遺構というよりは、神社への参道として盛られたもの、というように見える。

 このように遺構らしきものが皆無に近い上の台館ではあるが、その立地や地形はまさに城郭を営むのにふさわしいものである。台地の比高は40mほどにすぎないが、先端近くは急峻な斜面であり、下を覗き込むと、吸い込まれていきそうなである。これを下から直登しろと言われたら、泣きたくなってしまうであろう。こうした急崖に囲まれているうえに、台地上は広大な平坦地となっているのだから、兵站地点としては、格好の地形である。そして国境近くに位置し、付近には現在の国道349号と県道22号とが交差しており、里川もこの城を取り巻くようにして流れている。ここに城を築かない方が不自然なくらいの場所にある。私が戦国期の佐竹当主であったら、ここに国境警備のための大規模な城を置きたい所である。

 しかし、上記の通り、ここは城らしい城ではない。その理由としては、次の2つが考えられる。

(1)本来、この城はそこそこの遺構を持っていたが、後世の改変によって失われてしまった。

(2)もともとこの城には遺構らしい遺構は存在していなかった。天険の要を頼んだだけの簡素な城館であった。

 で、結局どちらの可能性が高いかといえば、(2)の方であろう。実はここに限らず、国道359号沿いの城館は、常陸太田市に至るまで、みな小規模であり、たいした遺構を留めていないものが多いのである。つまり佐竹氏は、この街道沿いにそれほど大きな城郭を築く必要を感じていなかったのではないかと思われる。戦国期の佐竹氏は、奥州南郷に進出し、南郷の土地支配を確立するためにその意を注いでいた。つまり前線は常にはるか先の奥州内部にあり、この地域まで敵に攻め込まれてくるということは想定外のことであったのではないだろうか。奥州に近い佐竹氏の城が、みなそれほどのものではないという事実が、そのことを物語っているかのように思うのである。

 でも、実際に敵がこの地域まで攻め込んできたとしたら、防波堤になるような城が少ないので、ちょっと心配になってしまう。

西側から見た上の台館。比高40mほどの台地上にある。 台地基部の部分。この右側の上が館跡である。台地上はかなり広い平坦地になっている。
台地先端部にある神社。 神社の参道はこのように土塁状になっている。
〈以前の記述)上の台館は、国道349号線から、県道22号線に入って少し行ったところの南側に聳えている比高30mほどの独立台地上にあった。国道から県道22号線を200mほど東に走ると、里川に架かる橋を渡るが、そのすぐ脇に城址がある。この場所で北から来る川と東から来る川が合流しているが、この里川が北側と東側の堀の役目をも果たしていたようだ。さらに県道を東側に行くと道が左にカーブしている辺りから城址の方に上がっていく道が見える。行ってみたかったが、まだ蛇の出る季節なのでやめておいた。だって蛇こわいもんねー。

 城主として中野丹後という者の名が伝えられている。




大中館(竜蓋城・常陸太田市大中字舘) 

 大中館は竜蓋城(りゅうがい・・・すなわち要害)とも呼ばれており、城のある山がそこそこの規模でもあることから、おそらく旧里美村域では最大の城郭ではないかと想像していた。冬場になったらその全貌を確認しに行きたいとかねて思っていた場所であり、とうとう行って来たというわけである。

 だいぶ以前に来たときには、城館の位置情報しか分かっておらず、城の手前西側下の公園化されている部分が館跡だろうと思っていた。遺構らしきものも全然ない古い館の跡で、つまらない館だと思い込んでいたのである。だが、その後、「重要遺跡報告書」を見て、けっこう大規模な城郭かもしれないと感じるようになった。一度、自分でも描いてみたいとかねて思っていたのである。

 しかし・・・・結論を先に言ってしまうと・・・・確かに旧里美村域では最大の城郭かもしれないが、その規模はさほど大きなものではなく、遺構もそれほどメリハリが利いていない。つまり、あんまり面白い城郭ではないのである。この城をざっと歩いてみて「里美村には大規模で面白い城郭はないのだ」という結論に達することができた。少なくとも千葉県からわざわざ見に来るような城ではない。期待していただけに、城内をざっと歩いてがっかりしてしまったのであった。おりしもこの日、近くで「かかし祭」のようなものが行われていて(里美村でこれだけ人が出ているのを初めて見た)、そちらを見学する方がずっと楽しかった。

 比高70mほどの山頂部が1郭で、ここは長軸30mほどの三角形状の郭である。北東側の尾根方向にV字型の土塁らしきものが見られるが、土塁といってもそれほど明確なものではない。郭周囲の切岸加工も甘く、北東側や西側の尾根に対しても、堀切などは入れていない。つまり尾根を伝ってくれば、そのまま主郭内部に入れてしまうという格好である。虎口すら明確ではない。

 西側の尾根を下っていったところに細長い2郭がある。畑跡のように見える部分であるが、このようなところにぽつんと畑を造成するというのも不自然なので、郭であることに間違いはないのであろう。その先端からやはり北側に向かって尾根が下っていく。この尾根にも堀切のようなものはない。

 1郭の南側15mほど下に3郭がある。こことその下の4郭辺りがもっとも城郭らしく見える部分である。3郭も4郭もきちんと削平されており、周囲を切岸加工されているために、斜面の上り下りには苦労するほどである。また、3,4に隣接する8,9の腰曲輪もきちんと削平されている。ただし、8,9はその形状からしても、畑の跡のようにも見えてしまう。

 この城の登城道は、西側の尾根の公園部分から7,6,5の郭を通って、上がってくるルートだったと思われる。これらの郭も削平されており、城塁も多少は加工されているが、それほど鋭い切岸とはなっていない。

 ようするに、大中館は、かなり古いタイプの山城といった構造の城である。この形式は戦国前期より降ることはないのではないかという気がする。少なくとも佐竹氏が拠点城郭として使用したということはなかったのではないだろうか。

 ところで、『茨城県遺跡地図』ではこの城を「舘館」としている。「舘」という地名から取ったのであろうが、「舘」は城館を示す一般名称であるから、この名前の付け方は明らかにおかしい。ということで、このHPでは「大中館」もしくは「大中龍蓋城」と呼ぶことにする。

西側から見た大中館(竜蓋城)。比高50mほどの山である。手前の低い部分は公園となっている。 公園にある東屋。
3の郭と城塁。 1郭。長軸30mほどの三角形状をしている。
1郭の北東側にあるV字型の土塁。といっても、それほど明瞭なものではない。 4郭とその城塁。この辺りの切岸加工はなかなか見事である。
ちょうど山麓から西に行った所の広場では「かかし祭」をやっていて、大勢の人が来ていた。これは藁で作った鶴。なかなか見事である。 こちらは直立するアライグマの風太くん。実によくできている。目がなまなましい。これが実物大であったら怖いだろうなあ・・・・。
〈以前の記述)「茨城県史跡地図」には「舘館」とあるが、この名称はどう考えておかしい。大中地区舘にあるので、大中館とする方が順当だと思われるので、大中館としておく。

 大中館は、国道349号線の東側、里美村役場の800mほど東側の比高25mほどの台地上にあった。台地の北側には保険センターがある。この台地は公園化されており、各種の植物が植えられ、その案内の看板がたくさん建っているが、城址の案内を示すものは1つもない。里美村はどこに行っても、城址の案内がない。史跡には力を入れていないのだろう。

 写真の休憩所は台地先端部の平坦地にあったものである。50m×20mほどの広さである。周囲は郭のような急斜面でもなく、戦闘的な感じがしないので、ここが館跡だとすれば、中世初期の居住用の居館であろう。この北側の台地の基幹部の方は地図で見るとさらに一段高く平坦部もありそうだ。あるいはそちらが城址なのではないかとも思われるが、藪の中に入っていけず未確認。

 「城郭体系」には荒蒔義直の居城と伝える「大中城」の記述があるが、大中地区に他に城址はあまりなさそうなので、ここのことを指していると思われる。





小里(おざと)城(常陸太田市小里)

 小里城は、国道349号線と県道22号線が交差するところのすぐ東側、里川に望む微高地上にある。ここは里川と薄葉川とが合流する地点であり、平城とはいえ、2つの川に囲まれているため、天然の要害となっている。特に薄葉川に臨む土手は高さ5mほどの断崖となっており、なかなか堅固な印象を受ける。

 薄葉川に面した中央部分の方50mほどの方形に区画された部分が主郭であろう。この郭の周囲には明確な遺構を見ることができる。まず最も目立つのが西側に連なっている石垣である。このような明瞭な石垣は茨城県内の城では非常にめずらしいと思う。高さは50cmほどで、石も20〜30cm程度の小ぶりなものであるが、長さ40mほどに渡って長く延びている。これだけを見ると、畑の造成に伴うもののようにも思われるのであるが、この城には他のあちこちにも石積みが見られる。遺構といっていいだろう。

 主郭の北西部には深さ3m、幅5mほどの空堀が残っており、ここにも多少の石積みが見られる。この堀は主郭とぐるりと全周していたものと思われるが、他の部分では埋められてしまっているようだ。Bの辺りでは土塁がかなり低くなっているが、おそらくこの部分の土塁を崩して堀を埋めているのであろう。

 主郭の西側にはかなり大きな土塁が残っている。高さは2〜3mほどであるが、この土塁上には笹薮が繁茂していて形態が非常につかみにくい。しかし、Cの部分には石積みの名残が見られる。この辺りは土塁の幅が広くなっているようでもあり、櫓台であったと見られる。

 遺構が主郭部分であるが、おそらくその周囲にも郭は配置されていたものと思われる。とはいえ水田化のために地形がかなり改変されているようである。周囲にはあちこちに段差が見られるが、これらのほとんどは耕地整理によって生じたものであろう。しかし、Aの東側の道路との間の窪んだ部分は、薄葉川の方に続いており、堀の跡と見てよさそうに思われる。側面に道路が通っていると言うこともあり、ここが外郭のラインであったろうか。Aの部分も方形に区画されており、虎口に伴う何らかの遺構の可能性もある。

 さらに周辺部にも遺構があるのかもしれないが、今回はここまでである。このように小里城は、この辺りにはめずらしい平城であるだけでなく、石積みなどの遺構も見られる貴重な城址であるということができる。

 小里城の歴史について分からないことも多い。南北朝時代、北朝側の佐竹氏は、ここ小里で北朝側の北畠顕家の大軍と合戦したという。いわゆる「小里合戦」である。この戦いと、小里城や周辺の城郭が関連している可能性はある。

 その後、小里の地は佐竹一族の小田野氏が領していたが、山入一揆で佐竹氏が没落すると、白河結城氏に一時支配されたという。さらに戦国期には岩城氏が入り、支配していたというが、永禄年間から佐竹氏は南郷(福島県南部)への進出を図り、寺山館を拠点として南郷支配に成功している。小里城のある街道は、南郷へと続いているもので、佐竹氏の南郷支配の時代には街道途中の重要な拠点の1つであったはずで、いつの頃か佐竹氏が岩城氏を駆逐していたものと思われる。

 慶長8年に佐竹氏が秋田に転封になると城も廃されたのであろう。

主郭西側の石垣。これほどまとまったものは茨城の中世城郭ではまれである。 Cの櫓台の基部にある石垣の名残。
北側虎口脇に残る空堀。この土手にも石積みは見られる。 主郭西側の土塁を外側から見た所。実にしっかりとした土塁なのだが、笹薮が繁茂していて形態がよく分からない。



木の上館(常陸太田市折橋字清水) 

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 木の上館は、国道349号線と国道461号線とが交差する折橋の交差点のすぐ東側にある。交通の要衝を抑える位置である。城址の北側には横川が流れ、深い沢を形成しており、断崖となっている。こちら側からの攻撃は難しい要害の地である。
 しかし、西側や南側は緩やかな斜面であり、東側は山からの尾根続きになっている。斜面を削平し曲輪や切岸、堀などを造成すれば、そこそこの城となる地形であるが、そのような加工はほとんど施されていない。これが本当に城であるのかどうか、非常にあやしく思えてしまう所以である。

 山稜上の1郭までの比高は30mほどである。南側の墓地から上がっていくと、Aの横堀状の通路がある。一見横堀状に見える部分であるが、しかし、これは「堀」というよりは「山道」に過ぎないであろう。ただし、山上にはきちんと加工されたスペースはないから、なんのための山道なのかもよく分からない。

 1はまったくの自然地形の尾根である。ここから東側に向かって進んでいったが、どこまで行っても自然地形のままであった。南側の斜面も緩やかで、城のものとは思われない。この南側の斜面には腰曲輪状の平場が2ヶ所ほど認められる。しかし、いずれも館跡と呼べるような規模・形状のものではなく、植林か畑作に伴うものであろう。
 このような状況で、木の上館は、とうてい、城館であるとは思えない。どうしてこれを城館としたものだろうか。もしかしたら城郭関連地名があるのかもしれないが、たとえあったとしても、現状がこうでは、それも怪しいところである。

 しかし、帰ってきてからもう一度Googlemapを見てみると、西側の斜面にまとまった平場2があるのに気が付いた、今回、この2は確認できていないが、以前に北側の川越しに城址を見た時に、中腹に平場があるのが見え、これが館跡なのかと考えている(下の以前の記述)。
 そういうわけで、2の部分が館跡であったのかもしれない。

北側の横川越しに見た館跡。2の平場が見えている。 1の山稜部に続く山道。一部、横堀状に見えなくもない。
(以前の記述)木の上館は、国道349号線と国道461号線が交差する折橋の交差点の東南にある比高20mほどの、周囲の山より一段低い台地上にあった。台地の手前には、写真の比高5mほどの平坦地もある。この辺りにも居館的な建物があったのかもしれない。この平坦地の手前は、写真中央部にわずかに見えるが、一段低い水田面となっており、これが水堀の跡のように見える。また北側には横川が流れ、天然の堀となっている。城主等未詳。



小菅郷校(文部館・常陸太田市小菅)

 小菅郷校は、その名が示す通りに、城館ではない。しかし、川の断崖上に位置しており、現在も土塁などの遺構が良好に残されていることから、城館類似遺構といっていいだろう。少なくとも、旧里美村域では、もっとも「城郭的」な遺構が良好に残されている場所であるということができる場所である。(里美村の城には1つとして案内板がないのだが、ここには案内板がきちんとあるというのも評価できるポイントである。)城の登り口には「小菅郷校入口」の看板があり、遠くからでもそれが目に入ってくるし、入口には「小菅郷校跡です」といった手書きの看板もある。この看板の「・・です」という部分がなんともかわいくて、気に入ってしまった。

 さて、その位置であるが、国道349号線沿いにある里美郵便局の南400mほどのところに、クランクするように西側に入っていく細い道がある。(本当に細い道なので、ついうっかり通り過ぎてしまう。私も間違えて一本北側の道に入り込んでしまって、行き止まりに突き当たったのだが、小菅郷校はわりと地元では知られているらしく、現地の方に入り口を教えてもらうことができた。) この道をクランクしながら降りていくと、すぐに道は里川に架かる橋を渡って西岸に向かっていくことになる。この時正面に見える台地上が郷校の跡であり、上記の「小菅郷校入口」の看板がすぐに見えてくる。そこから急坂をあがって行くのである。台地に上がってすぐのところは墓地になっているが、そちらには行かず、まっすぐ進んで行けば、やがて土塁が目に入ってくる。

 東側の断崖に面して表門の跡があり、その脇には石垣も見られる。その内部が40m×60mほどの方形の窪地になっており、そこに学校の建造物があったのではないかと思われる。その西側と南側は一段高くなっており、そこが練兵場であったといわれる。

 さらにその西側には、深さ3m、幅7mほどの堀状部分が奥の方まで続いている。一見して空堀のように見える遺構である。2本の堀状部分のうち、北側のものは長さ100m以上あり、南側のものは長さ40mほどである。「重要遺跡報告書」を見ると、北側の長い方を「矢場」としているのだが、こちらは矢場にしては長すぎる。実際の所、矢場とは南側の堀状部分であったのではないかと思う。北側の堀状部分は、矢ではなく、鉄砲の射撃場だったのではないだろうか。実際ここは「百間矢場」と呼ばれているようで、百間も飛ばすことができるのは、矢ではなく鉄砲に他ならないであろう。

 郷校の周囲には山稜が近づいていて、図にある部分のすぐ背後は、山の斜面となっている。山麓の高台を利用して築かれえた学校であったといえるだろう。本館、練兵城、矢場〈射撃場)などの施設を備えていた。

 こういう郷校の跡でも、たいして遺構のないマイナー城館を見た後だと、とても興味深いものに感じるから不思議だ。見通しがよく、土塁の形状もよく見えるので、図面を描いていても、こういう場所はけっこう楽しいのである。

東側から見た小菅郷校のあった台地。こちら側からの比高は15mほどである。 北側の虎口。奥に土塁が延びているのが見える。
北側は川に面した断崖になっている。オーバーハングしているので、端の方によるとかなり危険だ。 馬場と思われる部分。深さ3m、幅7mほどで、100mほどに渡って延びている。「巨大横堀」といって紹介したら信じてしまいそうな遺構である。
矢場から馬場の方を見た所。こうしてみると、土塁が二重になっている様子がよく分かる。 表門跡の脇に残る石垣。
東側の土塁。 練兵場に続く土塁。
 小菅郷校は、安政4年(1856)3月25日、水戸藩9代藩主徳川斉昭が設置したものである。これを設置し教育活動を行うことによって、小里郷一帯の住民が藩政へ協力するようになることを意図して開校された。対象となった生徒は、地元の有力者層の子弟で、文武の教授を行うことを目的としていた。「文」では「大学」「論語」それにもちろん「大日本史」などの講義、「武」においては、剣、槍、弓、鉄砲術などが教授された。

 しかし、その機能が十分発揮されることはなかったようだ。元治元年(1864)には天狗派、諸生派による政争が次第に激しくなり、そうした抗争により郷校はその機能を失っていった。さらに諸生派が実権を握ると、斉昭たち改革派の構想によって建設された小菅郷校は廃止されることになってしまった。

 明治維新政府樹立後、天狗派の失権回復がはかられ、再び郷校が再建されることとなり、明治4年5月に小菅郷校は再び開枚されることとなった。しかし、同年8月に学制が発布され、郷校はその週末を迎えることとなる。



十殿坂(じっとのさか)館(常陸太田市上深荻) 

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 国道349号線と県道36号線とが合流する「里美大橋入口」の交差点からすぐ北側に見える比高70mほどの山が十殿坂館の跡である。十殿坂とは珍しい地名で、何かのいわれがありそうだが、残念ながらそれは分からない。

 「里美大橋入口」から国道を300mほど北上すると、道路のすぐ脇に神社の鳥居が建っているのが見える。上深荻地区の鎮守である白羽神社である。そこから山の中に入っていく道が見えている。どうやら山林作業用の道であるらしい。

 この道をずっと奥まで歩いて行くと、城址のかなり奥辺りまで入り込むことになる。道はやがて突き当たって2つに分かれる。このうち、右手前の山の尾根に戻るように上がっていく方を進んでいく。そうすると、尾根の途中に出て道は終わる。その地点は、城址のある尾根のかなり上である。ここから尾根を20mほど降り、先端近くなって地形が再び高くなる地点に城は築かれている。

 このルートならば、たいして疲れもせずに城址に到達することができる。とはいえ、山道を奥までずっと進んでいった後に手前に引き返し、さらに20mほども降って行くのだから、けっこうな遠回りである。直登に自信のある人は、白羽神社のすぐ脇から、斜面を直登していった方がはるかに手っ取り早いという気もする。ただし、このルートは初めの方がかなり急なので、ちょっと取り付きにくいかもしれない。(私は上記のルートで城に到達し、帰りは西側斜面を直下した。)
 
 城は先端のピークを利用したものであるが、全体として削平は甘い。中心部分は60m×20mほどの規模で、1,2,3と3段に分かれている。1から見ると、2,3はそれぞれ虎口関連の仕掛けのようにも見えるのであるが、それは好意的な見方であり、実際は、傾斜した地形を削平して生じたものであろう。2郭と3郭との間は、3郭北側土塁上を通って登るようになっている。

 城の両脇の斜面はかなりの急傾斜になっているのだが、ここにも切岸造成が行われているため、両脇には腰曲輪が見られる。北側の腰曲輪は途中で区切れているが、これは自然崩落によって失われたためであるかもしれない。

 先端の西側は、比較的傾斜が緩やかであったらしく、数段の腰曲輪を置いている。堀切もここに見られるが、わりと小規模なものである。この西側の腰曲輪から斜面を降って行くと、白羽神社の脇に達する。

 尾根続きの東側には二重堀切が見られ、これが城内最大の見どころであろう。
 しょぼい城の多い国道346号線沿いでは、比較的充実した遺構を持つ城であるといえるだろうか。


 城の歴史についてはよく分からない。しかし、茨城街道(国道349号線)沿いにあることから、この街道を抑えることを目的としたものであったろう。
 戦国前期の佐竹氏は、内部抗争(山入の乱)によって弱体化しており、北方からは岩城氏によって攻め込まれ、北方からは白河結城氏に圧迫されていた。

 棚倉方向から攻め込まれると、この位置が、佐竹領防衛のための、北方拠点となる。また、ここから1km北側には十王地区に抜ける街道があり、岩城氏がこの方面に回り込んできたときにもやはり、防衛のための重要ポイントとなる地点である。これが実際に、いつ築かれたのかは明らかではないが、そうした時代背景の中で佐竹氏によって取り立てられた城であったのだと思う。構造的に見ても、戦国前期の城といった印象である。戦国後期になり、佐竹氏の領国支配が安定化すると、この城の重要性は失われ、使用されなくなっていった可能性が高い。
 
 さて、後で、地形図を見ていて気が付いたのだが、この城の南側下では、里川が蛇行しており、川に囲まれた200m四方ほどの区画がある。常陸には、背後の山を防壁とし、蛇行する河岸段丘を利用した城がいくつもある。もしかすると、この城の南の河岸段丘部分も、城にとって重要な場所であったのかもしれない。

県道36号線の里美大橋から見た十殿坂館のある山。下の国道からの比高は60mほどである。 国道349号線沿いにある上深荻鎮守の白羽神社。この右側の坂道をどんどん進んでいくと、城のある部分の上に出る。
二重堀切の内側部分。左側の3の郭の城塁の高さは5mほど、二重堀切中央の土塁は高さ2mほどである。 1郭から西側下の腰曲輪を見たところ。
南側の腰曲輪。 北側下の堀切。
(以前の記述)十殿坂館は国道349号線と県道36号線が交差する「里美橋」バス停のすぐ東南に聳えている比高70m近くありそうな山の上にあった。里川に望む急峻な山であるが、里美村にはこういうロケーションの古城址が多い。

 山の上までは行けなかったが、北側の下に白羽神社がある。この奥の山が城址である。

 また、その北側の山の中腹には愛宕神社がある。この愛宕神社まではとても急峻な石段が続く。年輩の人や子供にはかなり危険な石段だ。神社の入口は写真のように虎口状になっており、周囲の斜面も切岸のように切り立っている。しかし、神社のある面積は極めて狭く、家一軒建ちそうにない。ここは郭とするには少し狭すぎるようだ。周囲の急斜面も自然地形によるものであろう。

 山頂には館跡の平坦地があり、また中腹にかけて何段かの腰曲輪と堀切が見られるということである。城主等は未詳だが、戦国時代、現里美村の小里一帯が岩城氏の支配となった頃には、この辺りが佐竹氏の最前線であった。境目の城であり、見張りのための砦といった側面もあったろう。



  

舘の台館(塩ノ草館・常陸太田市小里字舘の台)

*鳥瞰図の作成に際しては北緯36度付近の中世城郭を参考にした。

 舘の台館は、国道349号線が、県道22号線と合流する「猪鼻峠入口」交差点の北東600mほどの位置にある。国道の西側には小妻宿、小中宿といった古くからの集落があり、宿場として栄えていた地域であるらしい。
 館跡は国道の東側を平行して走っている市道のすぐ西側であり、この道路の西側には里川が流れている。小字名は「塩ノ草」となっている。館のすぐ南西側には小里城がある。

 ところで。この「舘の台館」という城館名には異論がある。「舘の台」は館があったことを示す一般地名に過ぎないから、それをそのまま城館名にするのはどうかと思うのである。この場所の小字は「塩ノ草」であるから、塩ノ草館とするべきではないだろうか。というわけで、以下の記述は塩ノ草館でいくことにしたいと思う。

 さて、館跡に行くには、市道脇の作業所のところから入って行く。作業所の背後はものすごいヤブになっていて、とても通り抜けられそうにないのだが、その先の茶畑の脇から小道が付いており、これに従って進むと、Aの腰曲輪のところまで行くことができる。このすぐ上が1の郭である。

 ただし、Aの腰曲輪に面した城塁は、岩盤が露出するほどに見事に削られており、登攀不可能な斜面となっており、ここを直登して1郭に入ることはできない。それゆえ、そこから西側に回りこむことになる。そこが2の腰曲輪である。この辺りがもっとも城館らしく見える部分で、1郭の城塁の高さは3mほどある。
 2の腰曲輪から下はだらだらとした地形となっている。人工的に加工された跡はほとんど見られず、自然地形のままである。どうやら、2から下はすでに城域ではないらしい。

 といったわけで、この館は1郭と周囲の腰曲輪だけの単郭構造のものと見るのがよさそうである。1郭は20m×50mほどあり、館を営むにはほぼ十分な広さである。
 1郭の東南側角には何かの祠が祭られている。館の祭神が現在でも残っているのであろうか。1郭の東側も3mほどの城塁になっており、尾根続きのこちら側下にはk、堀跡のような部分も見られる。
 この尾根を東側に進んでいくと、地勢が段々に高くなり、板碑などが祭られている部分にいたる。この部分は東側の斜面と土手で接触しており、独立性には欠けていて、郭であったとは思いにくい。やはり塩ノ草館は単郭の館であった、とみてよい。

 小里城と隣接していることから、以前はこの館のことを、小里城の詰めの城と言う具合に考えていた。しかし、規模が小さく、比高も20m程度と、たいして要害でもないことから、詰めの城というよりは、別個に形成された館である、というように見たほうがよいような気がする。むしろ見方によっては小里城よりも古い城館、というようにも考えられる。

西側道から見た舘の台館。作業所の奥にある比高20mほどの杉林の奥が館跡である。 1郭の南側下の城塁は削られており、このような岩盤が露出している。高さは2mほどしかないが、これではちょっと登れない。
1郭の東南角には何かの祠が祭られている。 1郭西側の城塁を下の腰曲輪から見たところ。城塁の高さは3mほどである。
(以前の記述)舘の台館は、小里城のすぐ東側の独立台地にあった。比高は20mほどで、台地上は平坦地になっている。城主等未詳であるが、すぐ側に、小里城があるので、小里城の戦時用の要害であったかもしれない。とすると、岩城氏との関係が考えられるが、詳しいことは分からない。



 

行石(なめし)館(常陸太田市小妻字行石)

*鳥瞰図の作成に際しては、Pの遺跡侵攻記を参考にした。

 国道349号線(棚倉街道)を北上していくと、「小妻馬場」といったバス停のところで、県道245号線と合流する。この県道にしたがって里川を渡り、台地を少し登っていった辺りが行石館の跡である。

 この台地の北側付近にある1が館の跡であると思われる。現在、ここは一軒の民家となっているが、その周囲には現在でも土塁が残っている。広さは30m四方ほどであろうか。
 ここだけ見ると、単郭の小規模な館に見えてしまうが、城域はここだけではあるまい。

 1の南側にはたくさんの民家が建ち並んでいるが、この部分の地形はひな壇状になっている。この一帯も城内であったのではなかろうか。ここは1の部分とは隣接した位置にあり、あるいは家臣団の屋敷地といった部分であったものれないかもし。

 また、県道245号線を進んでいくと、すぐ脇に、3つの祠が祭られている長軸15mほどのAの土壇がある。Aの北東側には土塁が盛られており、その先の土手との間が堀状に深くなっている。この部分も城館の一部であったのではないだろうか。

 民家が建ち並んでいるために本来の形状は分かりにくくなっているが、おそらくは単郭の館ではなく、上記の家臣団屋敷も含め、ある程度まとまった規模の城館であったのではないかと思われる。


 下の以前の記述では、城主は不明としているが、荒蒔下総守が城主であったという伝承があるらしい。そのため、行石館は、別名、荒蒔城とも呼ばれるという。

 荒蒔氏といえば、大子町の荒蒔城の城主である。佐竹氏家臣で、大子町北部の守備を任せられたのが荒蒔氏であった。
 荒蒔氏は、ここにも城を築き、棚倉街道の守備も任せられていたのであろう。







1の郭南側の土塁。この下が水路となっている。 1の郭東側に残る土塁。
1の郭北側の土塁。 Aの北東側下の堀状の部分。
(以前の記述)行石館は、国道349号線と県道245号線が交わる辺りにある。県道245号線を東に進み里川を渡ると、道は細くなりくねくねと台地へ上がっていく。この台地の上はかなり広い平坦地になっている。ここが館の跡らしい。台地の下には祠がある。その先にきれいな水の小川が流れているのだが、これが空堀の下を流れる水堀のようになっている。それが写真の部分である。わかりにくいが、郭内(奥)と手前の土手との間は空堀状になっており、その深さは3mほどある。この底の部分を小川が流れているのである。台地の高さは脇の道路からは、1.5〜2mほどしかないが、その外側は切り立った崖となっており、台地下までの高さは10mほどある。郭内は畑地となってだいぶ改変されているようだ。城主等未詳。



 

 

行名(なめな)館(常陸太田市小菅) 

 『城郭体系』によると、「行名館は里美村南部の小菅地区にあり、荒蒔下総守の居館の1つであった」という。荒蒔下総守の城館ということからすると、これは行石館の誤植ではないかと思われる。ただし、行石は小菅地区ではなく、そこがよく分からない。


羽黒山城(常陸太田市小中)

 羽黒神社の境内が城址であるので、場所は比較的探しやすいといえる。麓の道を走っていると、道路脇に「村社羽黒神社」という碑があり、鳥居と石段とが目に入ってくる。この石段を登っていった先に神社本殿がある。神社のある境内は、麓からの比高50mほどで、10分もあれば到達することができる。道が付いているのだから登るのは楽勝だ。・・・・とはいっても、道が水流によって削られてしまっているために、けっこう歩きにくい道になってしまっている。お年寄りがこの神社に詣でるのは、かなり大変なのではないかと思う。

 山頂に近づくと、道が尾根を左手に見るようにして迂回し、神社下の石段の所に出る。よく見ると、左側に堀切1が見えている。どうやら本来の登城道は、尾根をそのまま伝ってきて、最後に堀切1の木橋を通って郭内に進入するするようになっていたのではないかと思われる。

 本殿の周囲には土塁状の高まりがあるが、神社に伴って形成されてものなのかどうか、はっきりしない。このうち背後の土塁は、いかにも城館の土塁らしいしっかりとしたものであるが、本殿内部の方が深くなっている土塁であり、城館本来のものであったかどうかには疑問が残る。

 土塁の背後にも本郭が続いている。その周囲は高さ6mほどの切岸になっており、防御用に加工された跡が伺える。

 本郭の東側にも平場があるが、その間には堀切が入れられている。これがこの城でもっとも立派な遺構である。ただし、地勢が傾斜しているので、堀切と呼ぶよりも「中央の土橋から両脇を削った竪堀」と形容した方が実態にかなっている。

 本郭の西側と北側下にはやはり平場がある。といっても、その周囲には切岸加工された跡が見られないので、郭というべきなのかどうか迷うところである。本郭部の城塁を削ったために若干の平場が生じただけのもの、といってもいいかもしれない。

 このように見てくると、羽黒山城は、本郭部だけの単郭の城であったというべきであろう。その規模も小さく、多くの兵を籠城させることもかなわない。物見の砦程度のものであったというべきであろう。ただし、旧里美村域では、わりと城館らしい遺構をみることができる数少ない城であるといってもいい。








「村社羽黒神社」の碑のある登り口。山頂の神社が城址である。 神社本殿のある主郭手前の堀切1。本来はこの堀切に木橋を架けて渡るようになっていたのであろう。
神社背後の土塁。しかし、これは神社に伴うものである可能性が高い。 堀切2は中央の土橋から竪堀状に降っている。その堀底から中央の土橋を見た所。
(以前の記述)羽黒山城は、国道349号線の「生田」というバス停の東北500mにある。比高50mほどの独立した山で、山頂には羽黒山神社がある。また、南側には小川が流れている。

 下の鳥居から羽黒山神社の急坂を登っていく。この道は切通のような道であるが、人工的に削り取ったものというよりは、長年、雨水の流れに削られて低くなったものという感じである。途中までは両脇の斜面も緩やかで、あまり城址という感じはしない。しかし、山頂部近くになると、急に両脇が削り立てたような斜面になってくる。この辺りからが城域といえるだろうか。堀切等はないが、大きな石がごろごろと転がっている。あるいはこれは石垣の名残かもしれない。この辺りに城門があったのではないかと思われる。

 そこをさらに進むと、神社の一段下の郭に出る。鳥居の西側には写真の堀切がある。現在は鳥居の先の石段から本殿に上がるようになっているが、かつては、写真左手の土手の上を通るようになっていたのではないだろうか。というのも、この堀切の中央部は少し削り残され、土橋のようになっているからである。

 一段高い主郭部に本殿がある。20m×30mほどの広さである。本殿の周囲には土塁がある。高さは内側から1.5m、外側では1mほどと、内側の方が低くなっているが、これは神社を建設するときに、平坦部を作るため内側を削ったためであると思われる。 神社の奥(東側)は急斜面になり、6mほど下に腰曲輪のような人工的な平坦部が2段に見える。このような造作から見ると戦国期の城址といってよさそうだ。山中には探せばさらに郭や堀切などがあるかもしれないが、まだ下草が多い時期なので今回はここまで。

 城主等未詳だが、戦国期の岩城貞隆との関係が考えられるだろう。



 

和台館(常陸太田市徳田字和台)

 和台館は、国道349号線の「徳田宿上」というバス停の西側に聳えている台地上にあったという。この辺り、国道の西側は、台地の斜面が迫ってきている。少し上がってみると、草の中にとぎれとぎれに道が見える。写真の、鳥居も見えるが、これを中心に台地が何本も見える。地形的にはどこに館があってもおかしくない気がするが、明確にどこが城址なのかはよく分からない。台地の上は下草がかなり生えていたので、藪の中まで行けなかった。(夏だしね。)この鳥居の左手の台地は、比高30mほどでかなり切り立っているので、城址はそちらの方なのかもしれない。城主等未詳。














愛宕神社(常陸太田市大中)

*鳥瞰図の作成に際しては、Pの遺跡侵攻記を参考にした。

 大中宿の南西にある比高50mほどの山には愛宕神社が祭られているが、これが城館のようである、といったPの遺跡侵攻記を見て、私も確認しに行って来た。

 というわけで城内をざっと歩いてみたのだが、私の印象では残念ながらこれは城ではない、と思う。神社のある1の部分は、まさに神社そのものであり、周囲にある土塁も神社に伴うものである。南側こそは切岸状になっているが、西側や北側など、緩斜面のままであり、防御構造が見られない。
 これが城であるならば、山上に営まれた多くの神社が城ということになるであろう。

 北側に続く2のピークも、基本的に自然地形のままである。やや帯曲輪状に見える部分もあるが、城郭遺構と呼べるほどのものではない。ただ、下の方にあるBの部分の下に、城のような切岸が見られる。これが最も城らしいといえば言えるところであるが、明確な切岸が見られるのはこの部分だけであり、城としての全体構造を成していない。

 最も城郭遺構らしく見えるのは、尾根をだいぶ進んだところにあるAの堀切状の部分ということになる。深さ3mほどで、尾根筋を見事に掘り切っている。しかし、よく見ると、切り通しの間は通路となっており、その先には山の西側に抜ける道が造られている。

 どうやら、これは堀切というよりは切り通しの通路とみるべきものである。堀切にしては位置が城本体から半端に離れすぎている。遺構というよりも、単なる通路とみた方が良いのではないだろうか。

 愛宕神社の参道には切り通し部分が延々と続いているが、これも、参道の造成に伴うものに過ぎないと思う。

 といったわけで、これは城館跡ではないと思う。ただし、すぐ東側山麓に隣接して、大中宿が形成されており、この宿に住む住人たちが、いざという時にはこの山稜に逃げ込むといったこともあったかもしれない。
 そういう点では、広義の城郭といえる要素がないわけではないが。

















愛宕神社南側の切通し。こうして見ると虎口のようにも見える。 Aの切通し。堀切、というよりは通路の造成に伴うものである。






 




 





















大竹屋旅館