茨城県古河市(旧総和町)

*総和町の城館跡については、倉持さんから、いろいろとご指摘を受けることができたので、このご指摘に従って内容を追加した。(05.5.6) 倉持さん、ありがとうございます。 

磯部館(総和町磯部字土手の内)



 磯部館は方80mほどの単郭方形の居館であった。現在、国道に面した部分だけが残存している。かつてトレンチを入れた際の調査では、堀は二重の可能性があるということであるが、実際どのように二重であったのか詳細は不明である。















  磯部館は、国道354号線の「磯部」の信号の南西側にある。すでに国道脇から空堀と土塁が見えている。この北側の空堀は西側に続いていき、写真の角の部分で、今度は南側に折れていく。この辺りが最もよく遺構を残している部分で、空堀の深さ5m、幅7m、ほどある。土塁は郭内からは1mほどの高さである。土塁と空堀は南に20mほど続いて、後は消滅している。もともと単郭の居館であったようだが、周囲を取り巻いていた土塁と空堀は、大正時代に大半が埋め立てられてしまったということである。

 西側の空堀が消滅している部分との境界が印象的であった。遺構の残っている部分と完全に埋め立てられて部分とが隣接していて、その境界部分までがどのように埋め立てられたのかよく分かるのである。埋め立てられた部分はすっかりならされて、土塁も空堀も分からなくなっている。よく、耕地整理で跡形のなくなっている城址があるが、このようにして破壊されているのだなということを実感として知ることのできる城址である。破壊前は100m四方ほどの規模があったようだ。

 たまたま郭内のお宅に住む城主の御子孫というおじいさんに城の歴史を伺うことができた。それによると磯辺館の城主は簗田持助の配下で岩瀬豊前といった。岩瀬豊前は簗田氏の有力な家臣であったが、大阪の陣に出陣して破れ、以後は帰農したと言う。大阪の陣に出陣して敗れたというあたりがよく分からないのであるが、かつて水海城主であった簗田助利は、徳川家に千石の旗本として召抱えられていたが、大阪夏の陣で徳川方として出陣し、息子助吉と共に討死したという。(簗田氏系図に「水海主 貞助 初助利ト云、平七郎、奉仕東照宮、元和元卯五月七日、於大阪父子討死ス」とある。) その時に岩瀬氏も出陣しており、主君の討死と共に、帰農したということなのだろうか。岩瀬氏のお宅は現在でも屋号を「土手の内」といい、城が築かれた時に造られた立派な薬師如来像を蔵しているという。なんでも茨城県下でも有数のすばらしい像で、県史の調査員が調査に来たりしているとの事であった。


*磯部館について、倉持さんから、以下のようなご指摘をいただきました。

「D磯部館址(簗田氏家来岩瀬豊前=一時期水海簗田氏は開城後この磯部館址に身を寄せ、三和町の諸川城主甘露寺氏と同時期に大阪の陣出向いたとも言われています)は現状の通りですが、かつてトレンチ棒による地中調査では二重の堀跡が認められています。但し、発掘をしておりませんので詳細は分かりません。

●簗田氏の家臣団は、水海在住の山中家や下大野の塚田家などがあります。岩瀬家なども含め簗田氏家老であったと言っているところが面白いところです。


 *さて、城とは何も関係がないのだが、磯部館を訪れた後、国道354号線を少し南下した所の道路沿いにある竹中庵という店でそばを食べたのだが、これがいかにも手打ちという感じでなかなかおいしかった。気に入ったので紹介しておく。






稲宮砦(総和町稲宮)

 「村史千代川村生活史」によると、稲宮砦は稲宮の鷲神社の東北500mほどの所にあったらしい。大和田の信号の北西400mほどの所である。ここには写真のガサがあるが、その周囲の水田に水が入っていて内部に入れない。内部探索は冬になってからであるが、「遺跡地図」にも採用されていないので、遺構はあまり期待できそうにない。平地なので単郭の居館的な構造のものであったろう。

 稲宮砦に関して、倉持さんから以下のようなご指摘をいただきました。

「A稲宮砦に関しては、所在不明でしたので当時の遺跡調査において比定致しませんでした。

ただ、鷲神社近辺であったと言われております。村史千代川村生活史からの引用として、鷲神社の北東500Mとの記載がありましたが、これは旧鎌倉街道(三和町大字大和田の二十五里<つうへいじ>地区)を指しているものと思います。この地域には縄文期の遺跡はありますが地元にはそのような伝承は見聞致しておりません。

地元では、鷲神社の南西2〜300Mの高圧送電線のある微高地「高草」近辺に所在していたと伝承されています。砦の将主「稲宮八郎左衛門」と同一であるか不明ですが、この地には「高草四郎左衛門」が屋敷を構えていたとの伝承もあります。

●この高草の地から北に向かって、総和町大字上大野、そして上大野古内地区を経て栃木県野木・間々田・小山に至る農道が走り、道沿いには大日堂址など鉄滓遺跡があります。また、この地から沼沢地沿いに移動すると、前記@の柳橋愛宕神社の西方に至り、途中に小規模の古墳群や寺院址?、またはこれを類推させる地名があります。同時に、鷲神社の南西5〜600Mの大字下大野の鹿島神社の北西100Mには「城」と言う場所があります。

●この高草の地からは薄くですが、中世末の生活に供した土器片が散見されておりました。但し、遺跡としては価値を見いだせませんでしたので当時はこれを認定致しませんでした。」





小堤(こづつみ)城(総和町小堤) 

 小堤地区の円満寺が城址であり、そのため円満寺城とも呼ばれる。かつては環郭式の平城であったらしいが、現在は円満寺の北側半分を取り囲むようにして、土塁と堀が残っている。堀は水堀であったらしく、現在でも堀底がかなりじめじめしており、一部には水が溜まっていた。

 「重要遺跡報告書」の図面を見ると、主郭の外側の外郭は、周囲の道に沿ったラインが形成されており、堀が存在していたと言うことであるが、この外郭部分の堀はすでに失われてしまっているらしい。(ただし全部歩いて確認したわけではないので、少しくらいは痕跡が残っている部分もあるのかもしれない) また、東側には「枡形」という地名が残っており、実際に枡形が存在していた可能性がある。この城は現在の県道を城内に取り込んでおり、枡形も、その街道沿いにあって、関所の機能を果たしていたのではないかと思われる。


*小堤城に関して倉持さんから以下のようなご指摘をいただきました。

「C小堤城趾(諏訪氏居城)に関しては、円満寺境内に土塁の一部と周辺部に堀跡が現在も確認されます。また昭和30年代までは南北に通じる県道に沿って堀跡があり、のち県道拡張に伴い埋められました。一部は東西に通じる国道の民家の北側にも堀跡がありました。この堀跡は、名主の諏訪氏屋敷地の北にある土塁の痕跡が認められない長堀(北の勢力小山氏に対するものとの説もあります)と並行の位置にありました。

それ以上に確認しなければならないのは、この長堀の北方・沼沢地をはさんだ同じ大字の神明寺地内のお堂や神社の存在かと思います。

●小堤城趾(諏訪三河守頼方=古河公方の家臣・現在の古河城諏訪郭、出城関連)は別名円満寺城とも言われますが、古い円満寺は南の大字関戸(伝承として南側の大字下大野との間に関所があったと言われる地=古河公方の家臣野田氏または遠藤氏の給付地)に近い民家宅にあり一説にここが小堤城の跡とも言われております。土塁・壕の跡も現存します。
●円満寺の南東にある農協の支所の南側は、〃枡形〃と呼ばれる字名です。

●円満寺の東方、沼沢地(水田)をはさんだ大字上大野には、A稲宮砦に関連して前記した多量の鉄滓を包含した小さな舌状の小山が水田中にありましたが、今は壊滅しました。」

西側の堀。深さ2mほどだが、水堀だったらしく、現在もじめじめしている。 このように堀底には水が残っている部分もあった。
北側の堀に面している土塁。高さ2mほど。 東側の土塁は駐車場の造成でかなり削られてしまったようだ。
(以前の記述)小堤城は円満寺城とも言われ、現在ここには円満寺という寺院がある。小堤城は古河公方の家臣であった諏訪三河守が築城したものという。「古河志」には「城跡と云伝へたるは円満寺の三町ほど南字寺家山と云所の西に、堀の内に農家ある地也、諏訪三河守といふ人の居城或は陣屋とも云ひ伝ふ」とあるという。それによると円満寺より南の堀の内に城跡があるということになっているが、これがこの小堤城のことを指すのか、別の城があったのかはっきりしない。

 諏訪三河守のことも不明であるが、成氏が永享の乱で信濃に一時逃れていたことがあるので、その時に家臣となった人物ではないかなどと言われている。あるいは秩父地方にいた諏訪氏のことであろうか。

 城は大永年間には廃城となったと言うが詳しいことは明らかではない。

 円満寺は国道125号線の小堤の交差点のすぐ北側にある。寺院の裏手には、写真のような土塁が残っている。おそらくはここも、結氏の山川館などと同様、この地域によく見られる、土塁と堀を巡らせた方形の居館であったのであろう。土塁はかつては周囲をくるりと取り巻いていたと思われるが、現在はこの裏手にしか見られない。土塁の外側には水堀があったと思われるが、その痕跡もかすかにしか見られない。

 円満寺の境内には、ちょっと古いトイレがあるが、中に入ったら、昔のトイレのようなにおいがした。丸い銀色の樟脳の匂いと、トイレの匂いとが渾然と一体化した匂いなのである。それが昔、母親の実家にあったトイレと同じにおいで、これをきっかけとして、ふと幼い頃のことを思い出してしまったのであった。プルーストは「聴覚や嗅覚などを伴う無意識的過去の連想こそが、失われた時を取り戻す唯一の手段である」(「失われた時を求めて」)とか言ったが、まさにそんな感じ。このトイレの中で私は、一瞬幼い頃に戻ってしまったのであった。(城の歴史と全然関係ない・・・・・)

 その後、数年たって再び、小堤城を訪れた。またあの懐かしい思いに浸ろうと思って私はまた、例のトイレに入ってみた。ところが、トイレは新しくなってしまっていた。当然のことながら、例の懐かしいにおいは、もはやしない。このトイレは私の過去を喚起する機能をこうして失ってしまったのであった。





水海城(総和町水海)

 水海城は、写真の水海小学校や、南側の神明神社を中心とする辺りにあったという。利根川脇の低地を利用した平城であったらしいが、現在では遺構らしき遺構は見られない。堀の跡などを探してみたのだが、ざっと見たところ、それらしい地形と発見することができなかった。見渡す限りの平坦地である。水海の城は「毛利家文書」にも、天正末期頃の有力な城郭として名前が出てきている。それなのに遺構すらないというのは、非常に不思議である。あるいは、別の城と混同されているのであろうか。

 水海城は、室町時代に簗田政助によって築かれ、天正年間に廃城となったという。簗田氏系図では「水海主 持助 同河内守、成氏公入狐河城(古河城)時、築水海」とある。次の成助の項では「関宿主 成助 同河内守 従水海移関宿城」とあるので、成助の代には早くも本拠地を関宿城に移したことが分かる。


*水海城について、倉持さんから次のようなご指摘をいただきました。

「B水海城趾のうち古水海城と呼ばれるものは、今利根川の北側の水田で地元では蔵屋敷跡と呼ばれています。現在・水海城趾として比定されているのは水海小学校の地ですが、前面の畑地には中世末の土器片が薄く見られますが散布地域は考古学の遺跡としては認定致しませんでした。なおこの城趾は10年ぐらい前に城郭研究家により発掘調査がなされ、一部の遺構が認められています。

●近隣の三島神社には、簗田氏寄進の銘文のある鰐口あり(または、あった)、江戸期のものと思われる富士の巻狩りを描いた絵師による大きな絵馬が掲げられています。」





水海古城(伝水海城・総和町水海)

 水海城の南800mのところに、「茨城県遺跡地図」に伝水海城として記載されているところがある。利根川の土手のすぐ北の辺りなのであるが、やはり遺構らしきものは見られない。伝水海城というので、ここも城址の伝承地なのか、あるいは古城のあったところであろうと思われるが、詳しいことは未詳。




柳橋(やぎはし)城(総和町柳橋字弁才天)

 「城郭体系」には柳橋城が載っており「古河公方の家臣柳橋豊前守の居城。現在は畑地となる。」とあり、「遺跡地図」にも一応場所が掲載されてはいるが、「総和町史」付録の地図には記載されていない。はっきりした遺構がないため、場所が特定できていないということなのだろう。「遺跡地図」では、柳橋の愛宕神社の北西側の、沼沢地を前にした微高地となっている。

 しかし、やはり神社北側には何の遺構も見られない。ただ、キャベツ畑が広がっているだけだ。湮滅してしまったのか、もともと場所がここではないのかもはっきりしない。ただ、古文書にも柳橋地名が出てくるので、どこかに柳橋城があったことは間違いない。

 神社の脇には写真の能舞台があった。私の故郷佐渡では、神社でよく見かけるものであるが、関東では珍しい。しかも赤い舞台だ。珍しいので紹介しておく。
 
*柳橋城について、倉持さんから以下のようなご指摘をいただいた。

「@柳橋城趾=伝承によれば総和町大字柳橋の龍蔵院の北方、愛宕神社の北西の沼沢地(現況水田)を前にした微高地(現況畑地)にあったと推認されますが、遺構らしきものは確認できません。ただ、愛宕神社の北側・前記の微高地の西側に伝承として〃馬場〃であったといわれる土地があります。またそれにふさわしい農道らしきものがありました。また、前面の沼沢地からは鉄滓がある程度の量出土していました。同時に愛宕神社西方の畑地には中世末(?)の生活用具の陶器片が薄く散布しております。

●江戸時代初期成立した「東国闘戦見聞私記」(3級資料)には、天文23年に栃木県南部に勢力を持っていた小山氏がA稲宮砦と共に攻撃しております。

●龍蔵院の切通し(場所不詳)においては天文23年のこの戦い、及び永禄3年の古河公方の配下簗田氏(後の関宿・水海城主関係)は結城・山川氏との間で同士討ち行われたと言います。

●前記沼沢地の南側、龍蔵院墓域の北側の民家の庭から浅堀された複数の土坑(ピット)から伸葬された人骨が当方の調査により発見されております。また、近隣からは金泥板碑が数点出土しております。

●城主・柳橋豊前の直系の子孫は筑波郡に在住しております。 」




























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