茨城県つくば市 

*参考資料  「筑波町史」
*関連サイト  美浦村お散歩団

安食館(つくば市安食)

 「村史千代川村生活史」によると、安食館は、三次神社の東南200mほどの所にあったらしい。しかし、この地には特に遺構は見られない。はっきりした場所は不明らしい。県道133号線沿いのどこかにあったのではないかと思われるのであるが、確認できない。

 城主等歴史も未詳。


飯塚家(つくば市作谷)

 「村史千代川村生活史」によると、飯塚家は作谷の交差点の北200mほどの所にあったらしい。この辺りには立派なお宅がたくさんあるので、どれも居館跡のように思えるのだが、作谷郵便局北側のこのお宅あたりがそうらしい。

 入口には、写真のような土塁があるが、これが遺構なのか、それとも比較的新しいものなのかは、はっきりしない。

 小田氏に属した土豪層の居館であったと思われる。













今鹿島館(つくば市今鹿島新田)



上ノ室城(つくば市上ノ室)

 上ノ室城は、花室城と南に向かい合う比高10mほどの台地上にあった。現在、上ノ室保育園や一乗院のある辺りが城址であるという。藪化しているのでよく確認はできなかったが、土塁や空堀が残っているという。小田氏の家臣である・ ・・・・・・このように以前書いたのだが、ヤブの中には戦国期の遺構が残っているのかもしれない。というわけで、ヤブを掻き分けて内部探索してみることにした。

 城内には方形の人工的な窪みや堀の跡のようにも見える切り通し状の部分などがあった。しかしこれらは確実に城の遺構といえるのかどうかは分からない。

 台地先端近くはきちんとした削平地になっているが、この辺り、とにかく笹薮がひどい。ざっと歩いてみたが、行けども行けども笹薮だらけでさっぱり分からない。しかし笹薮になっていると言うことは、以前畑地として使用されていたのではないかと想像できる。ということは耕地整理などによってかなり早い時期に遺構が消滅してしまっている可能性もあるかと思われる。

 谷戸部を挟んで南側の台地には一乗院と言う寺院があるが、この寺院の周囲にも城の土手かなとも思われる部分が何ヶ所か見られる。

 この寺院は上の室城主吉原氏に関係したものであったらしい。以前は気が付かなかったのだが、今回訪問してみると、寺院内に吉原氏の子孫が建立した城主吉原越前守の供養塔が建っていた。





北側の花室城方向から見た上の室城のある台地。比高10mほどである。 図の「窪み部分」の土手。これは遺構なのか? 遺構としたらかなり妙なものである。
北東側の堀跡のようにも見える窪み。 一乗院境内にある城主吉原越前守の供養塔。

 「重要遺跡報告書」では、「城跡の中心の土佐山という地名から推して、小田氏の家臣吉原土佐守の築城と思われる。」とある。、また「上の室城は近くこある花室城とともに小田氏の出城であり、両者は深い関係にあったものと考えられる。小田氏末期の城主には、吉原土佐守、同越前守、同備前守の名がみえる。この吉原により上の室城は「吉原城」とも呼ばれていた。また、現在城の東約50mのところには「馬場」という地名が残っている。吉原越前守は小田氏の猛将で、土浦城の戦いには沼尻又五郎(金田城主)とともに奮戦したといわれ、また、吉原備前守は、小田幕下豊田家臣であったという。」などとも述べられている。 「東国戦記実録」に、「小田天庵の旗下に上の室の城主吉原越前云云」とあり、また、「平塚合戦記」には苅間城主小野崎城主のほか上の室城主吉原越前、花室城主大津長門の名が見えるという。「東国戦記実録」の記述はあまりあてに、ならないが、別資料でも吉原越前守の名が見えるようなので、城主吉原越前守というのは一応確かなことなのだろうか。ただし「平塚合戦記」というのがどういう書物なのかよく分からない。

 天正年間(1573〜1592)、北条、佐竹、上杉らに相次いで攻撃され、小田氏は滅亡に近い状態になるが、上の室城も、小田氏の没落にともなって、廃城の道をたどっていくことになったであろう。   



江戸家(つくば市作谷) 

 「村史千代川村生活史」によると、江戸家は作谷の信号の東南300mほどの所にあったらしい。美浦村お散歩団では、いかにも城館的な塀が掲載されていて、心惹かれるが、その場所を探し当てることができなかった。しかし、台地南側には、写真のように虎口状になっている所が何ヶ所か見られる。城館に伴う遺構である可能性があると思われる。

 やはり小田氏に属した土豪層の居館跡か。













大島城(つくば市上大島)

 以前の記述にもあるように、桜川の東岸の大島の集落が城址である。大島の集落は桜川に臨む微高地上にあり、かつては周囲の沼沢地に浮かぶ島状の地形であったという。「大島」という地名がその事をよくあらわしているといえよう。もともとは規模の大きな城郭であったらしいが、宅地化や、東側に新しい道路ができたりした事で、遺構はほぼ隠滅している。それでも、かつての堀跡が水田となってあちこちに残っているという話であったので、ざっとトレースできないかどうかと思って行ってみた。確かに集落全体を囲む水田が堀であったかのようには見える。しかし、これらの水田も大規模化でだいぶ変わってしまっているようだ。宅地化は思った以上に進んでおり、堀らしい名残もほとんど消えうせていたし、第一、民家が建て込んでいるので、あちこち歩きにくい。桜川の堤防も高く築かれているので、それによっても改変されているようだ。・・・・といったようなこともあり、実際にトレースする事はできなかった。ただ、雷神社の南側の水田は堀跡らしさを留めている。おそらく1郭の南側の城塁部分に当たるのではないかと思われるが、西側の角が南に出張っており、横矢構造であったことが推察される。ということは1郭の虎口も現在の道の所にあったものであろう。神社の東側の民家の前の水田も堀の跡らしく見える。

 つい最近までは雷神社の東側や、さらにその先の北側に土塁が残っていたらしいが、この部分も現在では消滅してしまっている。数少ない遺構も消滅し続けている。本来は少なくとも南北に3つの郭が配列されていたようで、南端の3郭の土塁が、わずかに墓地の脇に残っている。

 このように、かつての城としての形状は現在では知る由もなくなってしまっているが、南北に3連郭、さらにその周囲にも郭があった可能性があり、北西3.5kmほどの所にある海老ヶ島城と似たような構造の城ではなかったかと思われる。現在、城そのものが集落となっている点も共通しており、集落そのものを取り込むという意図を持った城であったことが考えられるであろうか。

 弘治2年(1556)4月8日付けの、正木弥五郎宛ての北条氏康書状には「5日未の刻(午後2時)、常州大島台において一戦を遂げ、敵1000余人を討ち取り、勝利を得た。遠山、太田美濃守、結城衆の三手をもって切り勝った」とある。これは小田氏治と戦った海老ヶ島合戦のことであり、この合戦に際して、ここ大島台でも合戦が行われていたことが分かる。この合戦は海老ヶ島城を巡っての戦いであったが、大島城も重要な拠点の1つであったのであろう。





南側の3郭にわずかに残る土塁。 雷神社の南側の堀跡。横矢張り出しになっていたようだ。
(以前の記述)大島城は、県道132号線を明野町からつくば市に入っていくと桜川を渡ってすぐの、上大島の集落があるところにあったという。ここは桜川に面した低地で、宅地化されているためか、はっきりとした遺構は見られない。ただ、集落のはずれの墓地に写真のような土塁の高まりがわずかに見られるのと(土塁の向こう側に聳えているのは筑波山!)、民家の間に、かつての堀の跡かと思われる、一段低くなった水田が見られるくらいである。

 というわけで、現在では城郭としては見る影もないが、戦国時代には、小田氏の一族の小田式部少輔が居城としていたという。また、文禄年間には、真壁房幹の居城となっていたという。小田氏、真壁氏が相次いで城主となっていたということからすると、かなり拠点的な城郭であったのであろうと想像されるが、現状で見る遺構からは大規模な城郭であったとは思えないが、桜川を前面に配していることからすると、西片よりの敵(多賀谷氏など)を意識した城だったのかもしれない。



大島館(つくば市上大島)

 「村史千代川村生活史」の城館地図によると、大島城のすぐそばに大島館というのも記載してある。上の大島城の写真の辺りで、この地図では道路を挟んで北側の辺りを大島城としている。この部分も大島城と一体化したところであると思っていたのだが、別に館として掲載している所を見ると、何か由来があるのかもしれないので、一応紹介しておく。しかし、詳細は不明。


大砂館(つくば市大砂) 



大曽根城(つくば市大曽根) 



大穂城(つくば市大穂)

 大穂城は、大穂刑部少輔の城で、南北朝時代に高師冬の陣営となった。また近世には堀氏の陣屋が置かれたという。この城は「茨城県遺跡地図」には採用されていないので、場所がよく分からないのであるが、美浦村お散歩団によると、高エネルギー加速器研究機構敷地内が城址で、遺構らしきものは特に見つからないという。


 

大和田氏屋敷(つくば市大白硲)

 大和田氏屋敷は、万博記念公園のすぐ南側にある。「日本テキサスインスツルメンツ」という会社の工場があるが、その南西部分にあったらしい。しかし、現在はこの工場の敷地内になってしまっているので、遺構は湮滅してしまったらしい。


長高野(おさこうや)城(つくば市長高野)



長高野(おさこうや)岩崎館(つくば市長高野) 



 

小田城(つくば市小田)



小野崎城(つくば市小野崎字味城)

 小野崎城は、松代公園の東600mほどの位置にある。図にもある八坂神社の北西側一帯である。城内は一軒のお宅の敷地内となっているので、勝手に歩き回る事もできなかった。そこで図も非常に印象的なものに過ぎないが、周囲を巡る堀はよく残っているようだ。

 少なくとも2つの郭が残っている。北側の1郭は芝畑の跡ででもあろうか、一面の空き地となっている。その南側に堀を隔てて荒井家の敷地がある。この2つの郭の間は堀によって区画され、また、これら全体を堀が取り囲んでいる。堀はだいぶ埋められているようにも見えるが、形状は維持されている。

 この2つの郭辺りを「未城」といっている。「重要遺跡報告書」を見ると、「土塁と堀は三重になっていた」とあり、実際そのような図が掲載されている。2郭を主郭としてみた場合、北側には1郭の堀、さらに1郭北側には二重構造のようになっている部分もあり、確かに三重になっているといえるかもしれない。しかし両サイドは現状では一重の堀があるだけである。1郭辺りは広い畑になっているので、ある程度の部分が埋められているのかもしれない。また、図の3の部分には現在遺構は見られないが、本来はこの部分も堀によって囲まれていたらしい。3の部分の南側には、枡形遺構もあったということである。

 2郭の南側の堀もかなり埋められているようだが、それでも形状は理解できる。中央東寄りに土橋があり、そこに荒井家の門があるが、これがまた城門のような形状をしているのが印象的だ。その東側の堀はかなり幅が広くなっている。堀底は一見、池の跡のようでもあり、少なくともこの部分は水堀であったのだろう。

 このように小野崎城は細部がかなり改変されている気配はあるが、それでもある程度まとまった遺構をとどめているということができるであろう。城域もそこそこ広く、戦国期の豪族荒井氏の居城というにふさわしい規模であった。


 城郭遺構は、小野崎城の東側にもあったらしい。八坂神社の東側に隣接して、かつては土塁と堀に囲まれた方形の区画があったという。向屋敷と呼ばれ、小野崎城と関連した居館であったと思われる。「重要遺跡報告書」の図を見てみると、南北に長い長方形をしており、南側に内枡形のような方形の窪みが見られる。しかし、この遺跡については遺構はすべては解されてしまったようで、ざっと歩いてみてもそれらしいものを発見する事はできなかった。

北側の堀。雨の上に藪だから暗くて、こんな感じでしか映らない。 1郭南側の堀。だいぶ埋まっているようだ。
2郭南側の堀。きれいに残っているが、だいぶ埋められている感じがする。 同じく2郭南側の堀の東部分。幅が広く、20m近くある。ここは水堀であったろう。
(以前の記述)小野崎城は、すみれ保育園の北東200mほどの所にある。味城と呼ばれているところであるが、味城とは「御城」のことである。江戸時代になって、この地が細川家の所有になると、藩主に遠慮して「御城」を「味城」と改めたのであるという。

 この周囲(北側や西側)には写真のような空堀がよく残されている。この写真では分かりにくいが、深さ3m、幅5mほどで、堀の内側だけでなく、外側にも低い土塁を配している。

 城内は荒井家の敷地内となっていて、詳細は分からないが「重要遺跡報告書」の図で見る限りでは、何重かに土塁と堀を巡らせた複郭の城館であったようである。また、城の南には宿と言う地名が残っており、この辺りに城下が形成されていたかと思われる。

 荒井氏はもともとは岡見氏の一族であったが、戦国時代の当主荒井縫殿介照信は小田天奄に属していたと言う。後、佐竹氏によって小田氏が滅ぼされてしまうと、荒井氏は府川の豊島氏を頼って落ちていったと言う。さらにその後、荒井氏はこの土地に戻って帰農したという。

小野崎向屋敷(つくば市小野崎字向屋敷)

 小野崎城の東側には八坂神社があるが、そのさらに東側は「向屋敷」と呼ばれているところで、かつては方形の土塁で区画された土地があったと言う。現在は宅地化のせいか、あるいは民家がコンクリート塀を造る際に壊してしまったものかわからないが、その土塁は見られない。

 小野崎城と関連した何かの施設があったところであろうと想像されるのであるが、正確なところは不明である。



面野井城(つくば市面野井) 

 面野井城は県道123号線で、日本自動車研究所の北西700mほどのところ(北側の旧エキスポ通りの方)にある信号の所から、谷田川の方に300mほど入っていったところにある。新豊年橋の南側の辺りち言った方がわかりやすいだろうか。川沿いの比高5,6mほどの微高地にあった平城のようである。一番川に近い先端の部分はガサになっていて、遺構があるのかどうか分からない。その北側は畑地となっていて見通しはよいが、やはり遺構らしきものはない。耕地整理で消滅してしまったのか。ただ、西側は2mほどの比高差のある断崖状になっている。これが城の名残かもしれない。

 畑地の中央を抜ける道の30mほど北側に写真のような虎口がある。ただし、これは上の墓地に車を通すために後世切通しにしたものかもしれない。ここを上がると南北に切りとおしの道、西側に低い土塁らしきものがあるが、これも遺構かどうか確信はもてない。これが遺構とすれば、中央の切通しの部分を挟んで、東西に郭があり、ここが城の中心部であったかと思われる。城域はさらに北に延びているが、県道123号線によって分断されている。城址の東側は何かの橋脚の工事をしている。数年後には城址はさらに改変されてしまっているかもしれない。

 面野井城の、築城者は多賀谷氏麾下の平井伊賀守であったという。多賀谷氏は谷田部城の岡見氏と幾度となく合戦を行っているが、その際に拠点として築かれたものであろう。後に佐竹氏に破れ、佐竹の属城となったという。谷田部城同様、この地域に多い平地の城であった。


笠根城(つくば市吉沼) 



 

片岡上館(つくば市柴崎)



 

苅間城(つくば市刈間)



苅間神田屋敷(つくば市苅間字古屋敷)

 苅間城は、かつらぎ公園の南西200mほどの所にあった。かつらぎ公園の南側辺りから南部に細い道を入っていくと右手に谷津が見えてくる。この谷津の北側の先端近くを利用して城は築かれていた。西側には蓮沼川が流れている低地があるが、その低地に突き出した半島状の低い台地となっている。かつては三方を沼地に囲まれているような地形であったのだろうと思われる。城といっても、現状ではわずかに土塁を残すだけの簡素な居館といった感じである。しかし、かつては土塁と堀が全周していたはずである。規模は100m四方ほどの方形で、城と呼ぶほど大規模なものではなく、館といった方がピッタリとくる。南側に虎口があり、虎口の右手脇の土塁が二重構造であったように見える。西側には土塁が長く延びている。


 神田屋敷は、苅間城の南300mほどの所にある。昭文社の地図を見ると、すぐ北側に隣接した道路に「古屋敷」というバス停がある辺りであるが、現在、北の苅間城との間に新しいバイパスの道路ができており、道路が手持ちの地図と変わってしまっていたために、場所を探すのにはちょっと苦労した。神田屋敷も、立地といい、規模といい、構造といい、苅間城とほぼ同様の居館であったものと思われる。南側に虎口があり、その右手に土塁の二重構造のようなものが見られることまで共通している。このような類似性から、築城の主体は同一の勢力であったものと推定される。

 苅間城は野中瀬氏の居館であったというから、神田屋敷もそれに関連した遺跡であると見ていいだろう。要するに野中瀬氏は、苅間に2つの居館を持っていたのであろう。













刈間城の土塁。比高二重土塁であったようだ。 同じく西側の土塁。
神田屋敷に残る土塁。この西側には堀の跡らしき部分もある。ここもやはり二重構造になっていたように見える。 神田屋敷西側の土塁(右側)と堀跡。かなり改変が進んでいる。
(以前の記述)刈間城は、県道123号線の「葛城小入口」の信号を北に入って1km進み、「篠」というバス停の東側一帯にあった。掻き上げの平城である。水堀の跡は写真のように畑地となってかなり埋められてしまってはいるが、それでも堀の地形はよく留めている。城との比高差は1.5mほどであるが、幌の幅は20m以上ある。写真中央の竹藪の中には土塁も残っている。土塁の手前には、すっかり埋まっているが、空堀の跡(あるいは溝?)が見て取れる。似たような島状の地形は他にもあるので、2の城、3の城と並んでいたのかもしれない。近所のおじいさんに尋ねたところ、「宅地開発でだいぶ壊されているが、東側の方には石碑も残っているよ」ということだったので、あちこち探し回ってみたが、城址碑は発見できなかった。

 刈間城は狩間城とも書き、小田氏治の与党で古河公方麾下の柳橋氏の妹婿であった野中瀬左右衛門入道鈍斎の居城であった。佐竹氏によって小田氏が滅びるのと共に野中瀬氏も滅び、城も廃城となった。



神郡(かんごおり)館(つくば市神郡字館)



日下部家(つくば市水守) 

 「村史千代川村生活史」によると、日下部家は水守の八巻神社の辺りにあったようだ。日下部家は八巻神社の神主の家系で、この地の土豪でもあったのではないかと思われる。神社は比高7mほどの台地上にあるが、台地の先端部は削られて山木運動公園となってしまっている。遺構の中心は先端部にあったと思われるので、肝心な部分は消滅してしまったらしい。














熊の山城(つくば市高須賀字熊の山) 



栗崎城(つくば市吉沼)



鴻巣家(つくば市山口)

 「村史千代川村生活史」によると、鴻巣家は、筑峯学園とつくばね学園との中間点くらいのところにあったらしい。詳細は後日。


小和田(こわだ)台(つくば市山口) 

 「村史千代川村生活史」によると、小和田台は、大和田入口の信号の北東400mほどの所にあったらしい。これも詳細は後日。


小和田屋敷(つくば市山口)

 「村史千代川村生活史」によると、小和田屋敷は大和田台の北東200mほどの所にあったらしい。これも詳細は後日。


金田(こんだ)城(つくば市金田)



佐城(つくば市佐)

 佐城は、国道408号線の「北部工業団地入口」のバス停の辺りの信号を東に800m行ったところにある。やがて道は県道19号線に突き当たるが、その手前の、道によって削られた比高10mほどの台地上が城址である。台地の根の部分には写真のような堀の跡がある。深さは2mほどであるが、幅は20m以上はあり、かなり大規模なものだ。この辺りから台地を上がっていくと、畑が2段になっている。更に進むと土塁がある。手前に空堀はないが、外側からは3m、郭内からは2mほどの高さの土塁で、虎口もある。その中は竹藪になっているが、ここが主郭部分であろうと思われる。

 城の中心部は一辺が50mほどある区画であるが、方形ではなく、三角形に近い変形四角形の形状を示している。2郭側には土塁が盛られており、幅6mほどの堀の跡も痕跡が認められる。

 2郭の西側下には腰曲輪と思われる3郭があり、その西側が上記の堀の跡と思われる水田である。こうしてみると、単純な構造ながらしっかりと城としての区画性を持っていたことが分かる。

 「茨城県遺跡地図」では切り通しを挟んで南側も城址の範囲としている。というわけで、この南側の部分もざっと歩いてみた。しかし、こちらの方は明確に城らしい地形を見ることはできなかった。しかし4の郭の南側に台地下に降りていく切り通しの道があり、それに沿って4の郭の東側には腰曲輪らしい畑も見られる。この辺りまでが城域であったのだろうか。











町道によって城址は南北に分断されている。城のある台地は比高10mほどである。 西側は幅20mほどの水田によって区画されている。これが堀の跡であろう。
1郭の城塁。高さ3mほどで、周囲には幅6mほどの堀の跡がある。 1郭の土塁。郭内からの高さは1m余り。
城主等は未詳であるが、すぐ南に、小田氏攻撃のために佐竹義重が布陣した若森城などがあり、何らかの関連性が考えられる。また上杉謙信の小田城攻めで陣として使用されていたのではないかとも言われている。



信太氏館(つくば市篠崎)

 「村史千代川村生活史」によると、信太氏館は、ベターリング建築試験センター北側辺りにあったらしい。しかし、城館跡とおぼしき遺構は確認できない。信田弥四郎の城館といわれ、史料にも出てくるらしいのであるが、かなり早い時期に開発されてしまって、消滅してしまったものであろうか。


篠崎館(つくば市篠崎字堀ノ内) 



柴崎大堀(つくば市柴崎)

 県道201号線の途中にあるという。昭文社の地図で、「藤沢荒川沖線」と書いてある部分の「川」の字の辺りにあるという。しかし、どこにその堀があるのかよく分からない。すでに湮滅してしまっているのかもしれない。


 

大祥寺城(つくば市吉沼) 



 

高須賀城(つくば市高須賀)





























大竹屋旅館