茨城県つくば市2

*参考資料  「筑波町史」
*関連サイト  美浦村お散歩団 

多気城(城山城・つくば市北条字城山)



館宿城(つくば市吉沼字館)



田中城(つくば市田中)

 「村史千代川村生活史」によると、田中城は田中の法伝寺の周辺にあったらしい。しかし、遺構らしきものは見られない。ただ、法伝寺にはなかなかいい感じの山門がある。藁葺きの山門は次第に少なくなってきているが(維持するの大変らしい、その技術を持っている人も少なくなっているそうだ) なかなか風情があるので好きだ。逆光になってしまったので画面が暗くなってしまったが、なかなか味のある門であった。

 城についての歴史等詳細は未詳。












玉取城(つくば市玉取)



 

玉取陣屋(つくば市玉取中新田) 

 玉取には陣屋もおかれていたという。遺構が残っているとも言うが、詳細は不明である。


筑波城(つくば市筑波字東山)



手子生(てごまる)城(つくば市手子生) 

 県道24号線の「手子生」と「重ヶ下」というバス停の間の南側一帯が手子生城の跡である。『重要遺跡報告書』の図を現在の地形に落としてみると、右の図のような感じになり、かつて城域は県道の北側にも一部張り出していたらしい。大まかに見て回の字城の平城であった。かつては内堀と外堀が存在していたと、地元の何人もの方がおっしゃっていた。堀が埋められてしまったのはそんなに古い時代のことではないらしい。しかし『重要遺跡報告書』の図と比較してみても、その後、かなりの部分が埋められて消滅してしまっているようである。平城というのはかくももろいものなのだ。大規模耕地化事業が行われてしまえば、あっという間に消滅してしまう。

 現在、主郭跡と思われる部分の南側の堀跡にかなり立派な城址碑と案内板が設置されており、周囲には障害物もないので、かなり離れたところからも探すことができる。この碑の東側に堀が残っている。現状では深さは1m、幅は6mほどであるが、本来ならばもっと大きかったのであろう。土塁も存在しておらず、土塁を持った土を用いて堀を埋め立ててしまっているのだと思われる。というのも、現状では郭外の部分の方が高くなっているのだが、もともとそのようであったはずはなく、郭内側の城塁の方が本来は高いものであったと想定されるからである。

 明確に遺構としての堀を見ることができるのはこの部分だけであるが、城址を散策していると、何ヶ所かに堀跡らしき地形が残存しているのが分かる。しかし、どれも痕跡的なものであり、いずれ消滅してしまいそうな気がする。

 『重要遺跡報告書』の図では、堀は二重になっているだけだが、城域はかなり広く、小田氏の勢力下にずっとあった城でもあるので、おそらく本来は小田城のように、技巧的で複雑な縄張り構造をしていたのではないか、たとえば馬出しのようなものも存在していたのではないかと思われるのであるが、現状からではこれ以上の推測はできない。かろうじて残っている主郭東側の堀跡も、立派な城址碑がなければ、一見して城郭遺構だと判別することは難しいであろう。



城址碑と案内板。堀跡の草刈をしてくれていた。ご苦労様です! 1郭の堀跡。かなり埋まっているようだが、幅6mほどの水堀だったようだ。
雄山寺跡に残る板碑。 八坂神社の北側に残る堀跡。
(以前の記述)手子生城は、戦国時代に小田氏の家臣の赤松則実が居城としていた城であったという。城を築いたのは手子丸という人物だったという伝承があるが詳細は分からない。戦国時代になると、佐竹氏と小田氏の戦が繰り返し行われ、小田氏は小田城を追われたりしているが、その際にこの手子生城に籠もって佐竹勢を迎え撃ったりしている。
 手子生城は、平城であった。そのため周辺は畑地や宅地になってしまうと遺構はほとんど分からなくなってしまう。かすかに水堀の跡が見られる程度であり、何もなければ城址として発見するのはとても困難であるだろう。しかし写真のような立派な城址碑が建っているので場所はすぐ分かる。



手代木鷲ノ宮館(つくば市手代木字鷲ノ宮)



寺具城・本多陣屋(つくば市寺具)

 *鳥瞰図の作成に際しては「筑波町史」の図を参照した。

 国道125号線沿いに「西筑波ゴルフガーデン」があるが、その北側の対岸辺りが寺具城の跡である。国道から見ると、沼沢地の中に島状に浮いているかのような地形がよく分かる。比高5mほどの低い台地である。

 西側の台地の遺構の範囲は広大で、南北500mほどもある。おおまかに1,2と2つの郭に分けたが、北側の2郭だけでも200m×300mほどあって、そうとう広い。陣屋にしては大きすぎるのではないかとも思われる。

 道路を挟んで、東側の台地にも遺構が存在している。こちらは単郭方形であるが、やはり方200mほどあり、広大な面積がある。北方2kmほどのところにある赤浜堀ノ内館と、規模・構造が似ている。

 1郭は台地の細くなっている南端部を利用しており、現在、宅地や芝生畑になっている。2郭との間の堀は、東側半分が埋められているが、西側はよく残っている。深さ3m、幅6mほどのものである。

 堀を隔てた北側が2郭であるが、ここはとにかく広い。1つの郭としては広すぎる観もあるので、本来はもう少し細かい仕切りが存在していたのかもしれない。2郭は大まかに南半分が芝生畑と宅地、北東部分が一面の笹薮、北西部分が、杉林になっている。この部分の遺構の特徴はとにかく土塁の規模が大きいということである。大きいといっても高さはそれほどでもない。ただ、幅が広いのである。上端幅でも2〜4mほどの規模があり、広い部分では多聞櫓でも建ちそうなくらいなほどである。これだけの大きさの土塁を盛るのは大変な土木量であったはずで、そうとう多くの人員が動員されたものと思われる。堀そのものはだいぶ埋まっていて、現状では3〜4mほどの深さしかないが、これだけの規模の土塁と堀が200mにも渡って延びているのは実に壮観である。こうした土木規模からすると、確かに中世豪族の城といったイメージではなく、近世城郭的な雰囲気があるといっていいだろう。

 2郭北側の虎口を入った所にちょっと面白い遺構がある。浅い堀のようなものが郭内にあるのだが、その南側に隣接してドーナッツ状の窪みが存在しているのである。窪みは長軸10mほどの楕円形で、深さは1.5mほど、周囲には低い土塁が巡らされている。一見、井戸のようにも見えるが、井戸にしては大きすぎるし、底が平坦すぎる。おそらくは穴蔵の跡か何かの跡ではないかと思うのだが、実際の所、よく分からない遺構である。

 近世初期の慶長8年(1603)、小張城16000石の領主であった松下重綱は、寺具5000石の領地を維持するためにこの地に陣屋を置いた。元和元年(1615)、松下氏が烏山に転封した後、当地は10年ほどの間天領となっていたが、寛永2年(1625)、本多重良が3000石で領主となり、寺具に陣屋を築いた。そして、明治維新にいたるのであるが、つまり、当地には2度にわたって陣屋が営まれていたということになる。東西の台地にある遺構(1.2と3)はそれぞれ趣を異にしており、同じ時期に存在していたものとは思われないことから、このうちのいずれかが松下氏のものであり、もう一方が本多氏によるものだというように見ることもできるであろう。ただし遺構面だけからそれを云々するのは難しい。常識的に考えれば、5000石を管理していた松下氏の時代の遺構の方が大きいものというように見ることもできるが、それにも具体的な根拠は欠けている。地名を見てみると、陣屋地名が残っているのは、図の1郭部分である。北側の2郭にも「中屋舗」という地名があるので、陣屋に関連した屋敷が営まれていたのであろう。東側の台地部分は「御林」「御花畑」という地名で、直接陣屋施設を意味するような名称は残っていない。ということからすると、陣屋遺構は1郭部分を中心に存在していたというように見ていいだろう。

 この場所には中世の寺具城という城もあったといわれるが、これについて詳細は不明である。現在見られる遺構に、その時代のものがあるのかどうか分からない。2郭の北側は特に遺構の規模が大きく、「陣屋構築」という名目でこれだけのものを築くであろうかという疑問もある。となると、北側の特に城郭的な部分が、寺具城の構造を留めているのではないかという向きもあるだろう。もし、これが中世城郭の堀と土塁であるとしたら、寺具城は兵站基地として築かれた、広大な城郭であったということになろう。しかし、始めにも述べたように、この城の土塁は「近世的」な感じがするのである。やはり城郭的な規模を持った陣屋として構築されたもの、とみるのが一番合っているのかもしれない。

2郭の辺りから1郭方向を見たところ。比高5mほどの島状地形の上にある。 1郭西側に造られた切り通し部分。奥の堀と接続しているが、近年削られた跡があり、もともと存在していたのかどうかは不明である。
1郭北西側に残存している堀。深さ3m、幅6mほどと、そこそこの規模がある。 2郭北東辺りの堀・・・っていってもただの藪にしか見えない。
2郭北側の土塁。この城の土塁はとにかく上端幅が広くて2〜4mほどある。近世城郭的な雰囲気である。 2郭北側の虎口。手前の土橋は軽トラが走れるよう広げられているが、一応、本来のものと考えておく。
土橋の脇の堀。深さ3m、幅8mほどと、深さに比して幅が広いのが印象的である。 2郭の北東側にあるドーナツ状の遺構。穴蔵か何かの跡であろうか。
2郭北側の西部分の土塁を郭内から見たところ。郭内からの高さは2mほどである。 左の土塁の外側の堀の状態。堀の北側部分が埋め立てられて、だいぶ迫ってきている。
東側の台地にある3郭の西側の土塁と堀。きれいに残っている。深さ2m、幅4mほどである。 同じく北側の堀。規模は似たようなものだが、だいぶ埋まっている感じがする。
東側に一部だけ残っている土塁。 同じく、南側にわずかに残る土塁。
(以前の記述)寺具城は、国道125号線で、下妻市からつくば市に入って800mほどの所の信号を北に向かって左折した所の左前方に大きく広がっている、比高6mほどの低い台地上にあった。この台地はかなり広く東西200m、南北600mはある。台地全体が1つの巨大な城であったとは思われないので、台地上のあちこちを歩いて、遺構を探してみた。そこで発見したのが写真の空堀と土塁である。といっても、藪なのでよくわからない・・・・。この台地に中央から入っていく道の途中の左手の藪の中で、堀の幅は4mほどで、土塁は高さ3mほどあって、この脇が虎口のようになっている。内部が郭内ということになろうが、そこは50m×100mほどの平坦地で、芝の畑となっている。この郭の先端部は横矢が掛かり、下の郭との段差が1mほどある。・・・と書いてきたが、この2つの平坦地はどうも近年作られたもののような気がする。芝の畑を作るために機械でならしたものかもしれない。とすると実際の郭の様子がどのようであったかはもはや分からない。

 この台地に入る道の最奥まで行くと、切通しの虎口のような部分がある。あるいは遺構かも知れない。さらに、台地の北側の方に行くと、東の土手の方に低い土塁が延々と続いている。だいぶ崩れて低くなっているが、これは遺構のように見える。このように、台地内のところどころに遺構のようなものが見えるので、中心がどこにあったのかは正直言ってよく分からない。城主等も未詳だ。

 つくば市寺具には近世には本多氏の陣屋が置かれたというが、その場所もここなのだろうか。残念ながら、よく分からない。



中根屋敷(つくば市中根)

 中根屋敷は、県道201号線の八竜神社の東側の道を200m入ったところにあったと言うが、表面観察ではそれらしい遺構も地形も確認できない。詳細も未詳。


 

長峰城(つくば市上郷) 

 長峰城は県道24号線沿いで、小貝川に架かる長峰橋の東岸にあった。県道沿いにかなり立派な城址碑が建っているので、城址であることはすぐに分かる。しかし、城址は山林化している上に、かなり埋められてしまったようで、遺構らしきものは明確ではない。


 「重要遺跡報告書」の解説によると、東西58m、南北80mほどの単郭方形の城であり、その周囲には、幅15m、深さ4mほどの堀がめぐらされていたという。郭の規模はそれほどでもないが、幅15mとはまた大きな堀である。しかし現状では東西に2本の堀跡らしき窪みがあるだけで、南北の堀というのは痕跡も認められない。この堀跡らしきものというのも、現状では幅10m、深さ2mほどしかないので、これが上記の堀跡と見ていいのかどうかにも疑問が残る。ほぼ隠滅と言ってしまった方が合っているのだろう。









 (以前の記述)長峰城は、長峰氏の城であったという。石下の豊田城の方から県道土浦境線を東に走ると、小貝川を渡ってすぐに左手に城址碑が建っているのを発見することができる。この城址碑のある部分より300mほど北の河岸段丘沿いに城址があるらしいのだが、山林化していて道も分からず遺構がどのような状況になっているのかは分からない。


 その後冬になって遺構を確認するために再度訪れてみた。「重要遺跡報告書」によれば方形に堀を巡らせているらしい。しかし、ざっと見た所明らかに遺構と分かるものはなかった。地形的には、西が小貝川の土手で、東側にも低地があり、南北に堀切を入れれば独立性の高い要害となりうる場所ではある。実際に南北には堀の跡かと思われる幅10m、深さ1m程度の低地の部分がある。南側の低地から上がった先には、枡形かと思われる土塁の痕跡も見られる。しかし、本当にそうであるのかどうか分からない。どうもこの城は、後世、地形が大分改変されているような気がする。というわけで、図面もかけないのであった。










中山家(つくば市山口)

 「村史千代川村生活史」によると、中山家は山口小学校の北200mほどの所にあったらしい。詳細は後日。


日輪寺城(つくば市金田)



沼崎城(つくば市沼崎本北谷ヶ城)

 (以前の記述)沼崎城は本谷ヶ城と呼ばれる土地にあった。小川を挟んで北の篠崎地区と向かい合う地区である。県道200号線の「沼崎小前」の信号から北上する。1.5km進んだ所にある十字路を西に曲がって200m行くと、南側に芝畑が広がり、中央に小屋が一軒見える。その東側の奥が城址である。小屋の東側は芝畑になっているが、そこはかつての堀を埋めたものだという。その奥は山林になっているが、この辺りが郭であったらしい。郭の中には排水溝として用いられていたのか、溝の跡が残っている。また城の東側の堀は、畑にはなっているが、堀の形態を残している所がある。この辺りに多い、平地の掻き上げ式の城であったと思われるが、郭がどのように配置されていたのかは現在ではわかりにくくなってしまっている。

 05.5.27. この日久しぶりに訪れてみたら、芝畑にはヒノキが植えられ、すっかり風景が変わってしまっていた。遺構もほとんど耕地整理で埋められてしまったというので、地元の方にお願いして、かつての遺構配置図を描いていただいた。それによると、堀によって区画された40アールほどの郭が2つ東西に配列されていたと言う。(図の1,2郭) その周囲には水堀が取り巻いていた。堀は深さ1m、幅6mほどであったが、雨の後など水が溜まると、そこで泳いだりして遊んだものだという。「けっこうきれいな水だったんだよ」ということであった。「遺構はまったく残っていませんか」と尋ねると「まったくないよ」と言われた。確かにヒノキ林(かつての芝畑)だった所はきれいに整地されていて、遺構らしきものは見えない。しかし、その東側の方には図の3,4,5のように堀や土塁の名残らしきものがいくらか見受けられる。これらも遺構であるとしたらさらにいくつもの郭が配置されていたということになるが、これが遺構といえるのかどうかは不明である。この城については古図も残っているという。残念ながらそれを目にしたことはないのであるが、3,4,5の部分と古図とがどのように対応しているのか、そのうち確認してみたいものである。




1郭から3の郭辺りを見た所。水田は泥田堀の名残であろうかと思われる。 1郭脇にある堀状の窪み。堀の名残ではないだろうか。
4の郭脇の堀状の窪み。なんとなく郭の形状がトレースできるようである。 城址脇にある熊野神社。
沼崎城の城主として、戦国時代に沼崎播磨守という者がいたと言われる。



沼崎南館(つくば市沼崎)

 この城館については「茨城県遺跡地図」にも載っていない。しかし、たまたま車を走らせていて、道路わきにどう見ても土塁としか見えないものを発見したので掲載した。とりあえず沼崎地区の南なので沼崎館と仮称しておく。

 場所は県道200号線の南側で、「ゆかりの森」の北西500mほどの所である。写真のような高さ2m、の土塁が20mほど残っている。西側は耕地整理で削られた感じがするし、また東側も神社の敷地となって削られた跡がある。それゆえかつてはもっと長く延びていたのではないかと思う。

 この裏手は竹林となっている。ここが郭内であると思われるのであるが、雨であまり歩き回れなかったので、館としての形状をきちんと確認することはできなかった。
 あるいはこれは館ではなく、土塁であるのかもしれない。ただ、背後の竹林が郭内のように思えることと、県道と並行して延びていることから、一応戦国土塁ではなく、館跡の土塁と見るべきであろうか。
 







沼田竜替城(つくば市沼田字竜替)

 竜替は「ゆうがい」と呼ばれており、「要害」の転である。つまり竜替城とは要するに要害城のことである。このことから、戦国期に営まれた城郭であったと思われる。場所は筑波山の南麓で、燧(ひうち)ヶ池のすぐ北側である。地図で見ると池のそばなので、場所がすぐに分かりそうに見える。ところがこの池、水がほとんど溜まっていないので、池らしく見えない。池を目標にしていくと、なかなか場所が分からずに付近をぐるぐる走り回ることになる。前回来た時にその事はよく分かっていたはずなのだが、今回もけっこう迷ってしまったのであった。それに途中の道が狭いことといったら・・・。

 城址はかなり改変されてしまっている。中心となっている1郭は、神社のある郭で、現状では20m×30mほどの規模である。南側半分が断崖になっており、水路もあっていかにも堀跡らしく見えるのだが、「筑波町史」の図を見てみると、昭和60年代に南側が削られてしまったようで、断崖に見えたのはその際の削り跡であるあるらしい。実際には1郭はもっと南側まで延びていた。1郭の周囲には堀もめぐらされていたようである。この横堀は、北東から東側部分にかけて、今でもなんとか横堀らしく残っている。(とはいえかなり埋まっている感じはする) しかし、それ以外の部分はほぼ完全に埋まってしまっている感じで、堀の形態を成していない。ある時期、耕地整理などが行われたものであろう。そのために、横堀に限らず、遺構らしい雰囲気はほとんど失われてしまっているというのが現状である。

 ざっと見たところではこれだけしか分からない。1郭以外にも堀と土塁で形成された郭があった可能性もあるが、表面観察では復元する事はできなくなっている。

 筑波山の麓にあることから、戦国期に筑波城の支城として築かれた要害の一種であったものと推察される。









1郭の南側部分。堀と城塁のように見えたのだが、実際には、後世に削られた跡であるらしい。 1郭西側にわずかに残る土塁。
1郭北側の神社脇の土塁。その先は土橋となっており、虎口を形成していたもののようだ。 1郭東側下の横堀。これもだいぶ埋まっている。
(以前の記述)竜替(ゆうがい)は要害がなまったものだと思われるから、実際には沼田要害城と呼ぶべきであろう。要害城は、「わんわんランド」の東900m、燧ヶ池のすぐ北側の比高5mほどの微高地にある。地図に池がはっきり載っているのですぐ分かるかと思ったのだが、この池を探すのは結構難しい。土手の上の高台にあるため、池の水面が周辺からは見えないのである。おまけに、周辺は道が狭い上に、渋滞の抜け道として使われているらしく、車がどんどん来る。

 神社のある主郭部は、20m×30mほど。東側は2mほど低く、腰曲輪のような低地があり、下に続く。南側とは5mほどの比高差があり、その先が池になっている。西側には低い土塁が10mほど残り、西下の畑とは1mほどの比高差がある。この畑の西側は低地の水田である。北側が写真の部分である。わかりにくいが、右手が土塁、左側には土橋が映っている。この土橋の両側は小規模だが空堀のように窪んでいる。その更に北側は宅地となり、遺構は分からない。

 全体として小規模な館跡のような趣である。土豪層の居館であったろうか。



野畑高野館(つくば市野畑字高野)



花畑城(方穂城・つくば市花畑3丁目花畑公園)

 花畑城は、花畑3丁目の花畑公園の敷地内である。この公園そのものが城址であった。といっても、城は平地の居館で、例によって、土塁を用いて堀を埋めてしまったらしく、堀もほとんど消滅、土塁も根の部分しか残っていないと言う状態である。それでも公園の北西部には虎口の跡、南東部には屈曲しながら連なる土塁の跡が見て取れる。東側の畑は一段低くなっていて、これが水堀の跡であろう事は確認できる。

 遺構の名残かな、と思われる部分は二ヶ所ある。

1つは、北の先端部分Aで、土塁が横矢折れの形状を示している。堀も埋められ、土塁もかなり低くなってしまっているが、一応これは城塁の名残であると見てよいであろう。

 また南西のプール脇Bには、虎口の名残らしきものがある。プールの南西側の城塁跡から見ると、この部分は10mほど奥に引っ込んだ所にあり、これは内枡形であったように見える。

 現在の所、遺構らしく見えるのはこれくらいしかないのであるが、公園そのものの形状が館跡を示しているようであり、公園の形をトレースするとなんとなく旧状を復元できるようである。単郭ながらも、横矢張り出しや内枡形を備えた戦国期の城館だったのであろう。












Bの付近の土塁の名残。先端部分は横矢折れの形状を残している。 Aの虎口跡の土塁。なんとなく内枡形であったかのように見える。
城主は小田氏の一族の久保田氏で、鎌倉時代の築城であろうという。館の内部には「花畑」や「泉水」「築山」などが築かれていたという。「花畑城」と言う名は、この花畑から来ているのであろう。



 

花室城(つくば市花室)

 花室城は県道24号線の旧道とバイパスに囲まれた、比高6mほどの低い台地上にある。かなり広大な台地で、城址の中心がどの辺りであったかよく分からないのであるが、周囲にはかつての掘であったと思われる一段低くなった水田が取り巻き、土手も城塁状になっている。地形から考えると、台地の南端の辺りが本丸であったろうか。城址内には覚王寺や八坂神社がある。

 宅地化や県道のバイパスによって分断されていることによって遺構の多くの部分が破壊されているが、それでもあちこちにその名残があり、城の形態はなんとなく復元できる。現地の方にも旧状を伺うことができたので、その話なども参考にしてざっと城内を歩いてみた。

 県道バイパスによって分断された台地南側の中央部分に方50mほどの主郭があった。ここは現在でも「御城」と呼ばれている畑となっている。だいぶ埋められているが、かつては周囲をみな堀で囲まれていた。この堀は「一の堀」と呼ばれていたもので、現在は西側にしか残存していないが、城塁の土手は今でも一段高く畑地の中にそびえており、1郭の形状を知ることは容易である。県道バイパスはこの堀の北側部分を削って切り通しになっているらしい。

 県道バイパスの北側には八坂神社が祭られているが、この背後に堀の跡と思われる窪みが残っている。これが「二の堀」の跡であるということであった。一の堀とは位置的に近接しているので、この二本の堀は、あるいは二重堀に近いものであったのかもしれない。

 県道バイパスの北側台地は宅地化が進んでいるので、遺構はほとんど見られない。しかし覚王寺の北側の台地下が「三の堀」のあったところであるという。確かに地勢が窪んでいて、堀の名残らしき地形がこの辺りにも残っている。深さや幅から考えると、三の堀は水堀であった可能性が高いと思われる。

 さて、二の堀と三の堀との間にはかなり距離があり、これで1つの郭であったとはとても思えない。覚王寺の南側には切り通しになっている道路などもあり、このような区画がいくつかあったのではないかと思われるが、旧状の復元は難しい。あるいはこの辺りは外郭部分であったのかもしれない。宿などをここに置いてもよさそうにも見えるが、三の堀の北側に「宿畑」という字の畑地が残っており、やはり、この広大な部分も城内であったと考えるのがよさそうである。


南側の上の室城の方向から見た花室城の南端部分。水田面からの比高8mほどの微高地上にあった。 八坂神社の背後に残る二の堀跡。現状では深さ2m、幅6mほど。
御城の周囲をぐるりと取り巻いていた一の堀の跡。西側は旧状通り残っている。深さ3m、幅6mほど。 南側から御城部分の土塁を見た所。かつては城塁の手前に堀があった。
城の西側下の水田地帯。かつて泥田堀であったものだろう。 覚王寺の北側にある三の堀跡。水堀だったのではないだろうか。
 大津長門之助という者が花室城の城主であったと伝えられている。彼がどのような人物であったか明らかではないが、おそらく小田氏の家臣の一人であろう。天正2年、土浦で佐竹氏との合戦が行われ、大津長門之助は討ち死にし、長門之助の子供大津図書は佐竹氏に降伏し、以降城は佐竹氏のものになったという。



平沢官衙(つくば市平沢)



 

藤原宗成館(つくば市水守字殿坪)

 「城郭体系」によると、藤原宗成館は水守城と接した所にあり、殿坪と呼ばれているというが、「茨城県遺跡地図」には採用されておらず、詳細は不明。


古来館(つくば市古来) 

 古来館は、古来の鹿島神社のすぐ東南の所にあったという。この辺りにはかつては寺院があったようだが、現在では墓地だけが残っている。鹿島神社の東南にある墓地の裏には土塁が存在している。その他にも竹藪にの中にまだまだ遺構が残っていそうである。城主等詳細は未詳。


古館(ふるだて)(熊倉館・つくば市古館)

 つくば市の堺田地区から、古館地区の集会所に向かう道を西に進んでいくと、道は谷津田に降りていく。すると前方右手に水田地帯に突き出した写真の低い台地が見えてくる。この先端部に古館はあったらしい。

 台地上は比高2mほどで、さほどの高さはないが、周囲の土手を取り巻く部分がなんとなく堀の跡に見える。

 古館は、熊倉氏の居館で、熊倉氏は根崎・飯田地方を治めていたという。古館というのは一般的名称であろうから、熊倉氏の居館であれば、熊倉館とするのが正しいであろう。

 美浦村お散歩団によると、下妻の多賀谷大膳との軍に破れて出奔したという。

 また、ジグザクの土塁も残っているらしい。







宝篋山城(つくば市小田宝篋山) 



北条城(つくば市北条)



 

前木館(つくば市沼崎字前木字丸の内)

 前木館は、県道45号線と200号線とが交わる信号の東200mほどの所にあったらしい。交番のすぐ北側の一帯辺りのようであるが、やはり遺構などは見られない。耕地整理や宅地化で湮滅してしまったものであろうか。

 しかし美浦村お散歩団では、わずかに残る宇賀神社脇の堀が紹介されている。それを頼りに遺構を探しに行ってきた。

 この宇賀神社の祠は県道200号の南側の水田地帯の中にあるのだが、とても小さなもので見つけるのはとても難しいと思う。小さな松が建っているので、これを目当てにするしかない。その周囲には確かに深さ1m、幅6mほどの堀の跡らしきものが残っている。これは外堀で、これより北側が城内であったと言うことである。

 城の中心部は、県道の北側の「丸の内」と呼ばれている一帯であったのだと思う。しかし耕地整理で堀や土塁はすっかり消滅してしまったらいい。「丸の内」には、かつての城塁の名残のようにも見える段差などもあるのだが、本当にそれが遺構の名残であるのかは不明である。現地の方何人かにも伺ってみたのだが、すでに遺構のあった古い時代のことはよく分からなくなってしまっているようであった。

 というわけで、城はほぼ隠滅に近い状態で、かろうじて宇賀神社の祠の脇に堀の跡を残すだけになってしまっているということらしい。









丸の内部分。この辺りが城の中心部分だったと思われるのだが、明確な遺構はない。しかし、写真の部分はわずかに高くなっており、城塁のように見えなくもない。 宇賀神社の祠(といっても潅木に囲まれておりよく見えない)とその脇にわずかに残る堀の跡。堀は深さ50cm、幅6mほどである。
前木館は、前沼崎城とも呼ばれ、現在の地に沼崎城が移る前の居館があったところであるという。



前山城(つくば市小田)



水堀跡(つくば市御幸が丘)

 「水堀跡」ではただの一般名詞ではないかと思うのであるが、「13年度版遺跡地図」ではそう記載しているので、そのまま紹介しておく。場所は万博公園のすぐ北側である。ダイキンの工場の北西角の辺りにあったらしい。万博会場工事のためか、あるいは工場敷設のためか分からないが、発掘調査が行われ、その後埋め戻されたということである。というわけで、どういう遺構なのか、現在では見ることもできない。


 

水守(みもり)城(つくば市水守)



谷田部城・谷田部陣屋(つくば市谷田部)

『重要遺跡報告書』に掲載されている古図を基にして、谷田部城の復元図を描いてみたが、ほぼ想像の産物といっていい。その古図、白黒印刷のため、水堀と道路が同じ色に描かれていて判然としない。さらに、その道路というのも廃城後に城を破壊して造られているようで、城の遺構とは一致していないように見られる。虎口がどこであったのかも不明である。
 それでも3つの曲輪を南北に並べた形式のものだったようである。西側が大手のようで角馬出しBがあるのが目を引く。また、二ノ丸脇にもAの独立状の小郭があるが、これも馬出しの一種であったのだろうか。

小さな旅と四季の風景のページに掲載されていた陣屋図を参考にして谷田部陣屋の復元図を描いてみた。しかし、あくまでも想像の産物であるにすぎない。

 谷田部城を最初に築いたのは岡見氏であったという。岡見氏は後に牛久・足高・谷田部の3カ所の城主となったが、戦国期には谷田部城主岡見頼忠は、小田氏に属していた。元亀元年(1570)、多賀谷氏の攻撃によって谷手部城は落城して、城は多賀谷氏のものとなった。しかし天正8年(1580)、北条氏の援軍を得た岡見頼忠は、多賀谷経伯・経明を戦死させたが、自身も流れ矢を受けて死亡した。その後も多賀谷氏と岡見氏の間で戦闘は繰り返されたが、関ヶ原の役後は、細川興元が谷田部・茂木合わせて1万6千石の領主として赴き、陣屋を置いた。

 谷田部陣屋の跡は現在の谷田部小学校の敷地である。平地の城であったせいか、堀もすっかり埋め立てられ、遺構らしきものはない。ただし、陣屋の玄関が公民館に、陣屋門が民家に払い下げられて現存している。

 戦国期の谷田部城は、かつては「二の丸坪」と呼ばれる南側の台地上にあったと言うが、場所ははっきりしない。だいたいこの南側には台地がない。他の方面には比高5〜6mくらいの台地があるが、高さは低くたいして要害でもないように思われる。小学校の玄関前には写真の「谷田部城址」の碑が建っている。







谷田部大堀(つくば市谷田部福田坪) 

 

由良氏陣屋(つくば市梶内)

 由良氏陣屋は、小野川に臨む微高地上にあり、常磐自動車道の高架のすぐ北側辺りにあったらしい。「城郭体系」には「現在、新田神社となる」とあるが、この神社がどこなのかよく分からなかった。遺構らしきものも見られない。その辺りに竹やぶがあり、その中に「南無妙法蓮華経」と書いた石塔や、廃屋らしきものがあるが、あるいはこの辺りにあったのであろうか。由良氏はもともとは上野の豪族なのだから、新田神社というのは祖先にちなんだものなのかもしれない。

 天正18年の小田原の役の後、由良氏は牛久を領するようになるが、その間のいきさつは謎が多い。由良氏はもともと上野金山城ノ城主だったのに、北条氏の国替えで常陸に来たという。しかし、小田原の役で改易になっても不思議はなのに、母が秀吉に気に入られたということで、牛久領を得たのである。実際、天正18年8月の、「由良長尾老母宛豊臣秀吉朱印状」や慶長年正月の「由良貞繁宛豊臣秀吉朱印状」などが残っている。しかし、この間のいきさつには何か裏がありそうだ。 

 由良氏の陣屋は伊奈町の高岡にもあったらしいが、詳細は未詳。小田原の役以降、慶長3年に秀吉によって改めて朱印状をもらうまで、由良氏はこの辺りを転々としていたのであろうか。


吉沼大坪館(つくば市吉沼) 



 

若森城・堀田氏陣屋・若森藩庁(つくば市若森字館山) 

























大竹屋旅館