宝 く じ 忠 臣 蔵

東京泉岳寺の「義士祭」

 

 

 

 

 12月になると 恒例の年末行事が目白押しのなか やはり我々にとって一番は
年末ジャンボ宝くじだ。!! 

 ’03年の年末ジャンボ宝くじ (全国466回)発売では、新聞、テレビのコマーシャルに 所ジョージ 
扮する大石内蔵助とその浪士が大勢登場しているが、賞金1万円の 「年末ラッキー賞」 が 288万本も
用意されており、1万円以上の当せん本数が史上最多となっていること、12月14日の討ち入りに
ちなんでのことと思われる。

 !03年は その討ち入り(元禄15年:1702年)から300年にあたるが、江戸幕府は、”富くじ”は
元禄5年(1692年)には禁令を出していた。しかし、その後も寺社にだけは、修復費用調達の
一方法として、“富くじ”の発売を許していたので、当時これを天下御免の富くじ“御免富”と
呼ばれて庶民から親しまれて、 特に、“江戸の三富”として有名だったのは、谷中の感応寺、
目黒の瀧泉寺、それに湯島天神の御免富であった。 その後天保13年(1842年)の「天保の改革」
によって禁止された。

 もしかすると当時 町民になりすました浪士たちも “富くじ” を買っていたかもしれない〜。

 そこで 宝くじと忠臣蔵の関係を調べてみると

 直接的な図柄としては、東京と赤穂の 「義士祭」がある。
 また 一方では、吉良邸から泉岳寺までの経路や 忠臣蔵ゆかりの地にまつわる図柄もあった。

 

 
’03年の年末ジャンボ宝くじ (全国466回)

 

 

 

 事件の発端

 

元禄14年(1701)3月14日、
事件の発端は江戸城、松の廊下で起こった。
 
 
 お家の一大事 !!
主君刃傷の知らせを持って、早水藤左衛門・萱野三平の二人が
夜通し駕籠を走らせ、不眠不休の早駕籠で到着し、
息も絶え絶えに悲報を伝える。
 

 

 

 討ち入りまで

 

大石内蔵助は、京都:山科に居を構えて、
討ち入りの決意を固め、1年余、秘策を練る
 
 
中山(堀部)安兵衛が義兄弟菅野六郎左衛門の助太刀
をして村上三兄弟と高田馬場の決闘をした江戸:高田馬場
 
 
討ち入りに前に浪士たちが相談した所が
富岡八幡宮の前の茶屋
 

 

 討ち入り

 

元禄15年(1702)12月14日夜、本所 松板町(現墨田区両国3丁目)にある

上野之介義央の屋敷に、主君浅野内匠守長矩の仇を討つため、大石内蔵助率いる

赤穂浪士 47人が討ち入る。

 

 

 

 
「一打ち、二打ち、三流れ、あれは山鹿の陣太鼓
ついに来たか、赤穂の浪人ども!」

 

 

上野介の首を槍の柄にくくりつけて吉良邸を出たあと、一行は回向院へ向かったが

入門を断られため 急遽内匠頭の墓所である高輪の泉岳寺へ向かう。

 その経路は

  吉良邸 → 回向院 → 永代橋(隅田川) → 霊岸島 → 

                 →  鉄砲洲 → 汐留橋 → 金杉橋 → 泉岳寺

 

   
新しく架け替えられた永代橋をわたる

 

 
   
   
鉄砲洲(中央区築地)にあった浅野家の上屋敷前を通る
 
 
   
ようやくたどり着いた泉岳寺
   
 
   
   
   
   
■ 地元赤穂関係
   
 
地元赤穂の「義士祭」
 
 
赤穂御崎
桜の名所 浅野内匠頭の辞世の句
「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」
はここの桜か? また 大石内蔵助の名残の松や銅像がある

澤瀉屋

 

 

 

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    設置03.12.11