反革命の大天使 アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン

1・ムッシュー・アンリ

「きれいな坊や、遊んでおいきよ。安くしてあげるからさ」
 街の女が声をかけてきた。安物の脂粉の香りが鼻をついた。目を伏せたまま足早に通り過ぎたアンリは、改めて息を吸った。なかなか日の暮れぬパリの路地は汚水や、汗や、道端で腐っていく野菜くずが混じりあった都の匂いがした。湿り気を帯びた、故郷の匂いを懐かしく思った。フランス西部にあるポワトゥーの土の香りだ。 
 アンリはラ・ロシュジャクラン侯爵の長男として、ラ・デュルブリエール城に生まれ、伯爵の称号を持つ。柔らかい色の金髪の巻毛にふちどられた色白の顔は、カメオ細工のように整い、繊細で優しい雰囲気をたたえている。その百八十一センチのほっそりとした長身がなければ、美少女と見扮うばかりである。
 ポワトゥーは、ボカージュと呼ばれる、生け垣や窪んだ道の織り成す迷路のような地形に覆われている。肩にかかるほどの髪を風に泳がせながら、馬を駆って軽々と生け垣を飛び越えていくアンリの姿を目にすると、農民たちは畑仕事の手を止め、驚嘆の眼差しで追った。
「ごらんよ、ムッシュー・アンリがいくよ。ラ・デュルブリエールの若様だよ」
 由緒ある帯剣貴族の跡取りとして、アンリは当然のように軍人の道を選んだ。十三才で幼年学校を終えた後は、父親の指揮下にある王立ポーランド騎兵連隊に少尉として配属された。ラ・ロシュジャクラン家の人々は連隊と共に各地に駐屯しているのだが、休暇のたびにポワトゥーに帰ってくるのはアンリの何よりの楽しみだった。両親はヴェルサイユの宮廷や、パリのサロンの数々にも出入りしてはいたが、アンリは十八世紀末の上流社会の浮ついた空気にも染まらず、華やかな集まりは苦手なほうだった。それよりもラ・デュルブリエール城のある、サン・トーバン・ド・ボービニェ教区の住人たちや、父の領民たちなどからなる、飾り気なく暖かな共同体の中に、真の居場所を見出せるような気がしていた。 
 やがてはアンリ自身が父の後を継ぎ、ラ・デュルブリエールの城主として、ラ・ロシュジャクラン侯爵として、人々の敬愛を一身に集めるに違いなかった。父親くらいの年齢には、同じ様に少将には昇進しているだろうか。そして彼の子供たちもまた、この地を愛し、
土地の人々を慈しんで成長していくのだろう。
 だが三年前に起こったフランス革命は、アンリの属する世界を葬り去ろうとしていた。神につかえる僧侶と、剣により教会と秩序を護る貴族と、生産にたずさわる平民たちからなる社会は幾世紀もの間、変わることなく存在していた。不変でゆるぎないものと思われたシステムや価値観を根こそぎにしていく革命というものを、アンリは半ば茫然と見守るばかりであった。
「これからは、住みやすい世の中がやって来る」
 サン・トーバン・ド・ボービニェの住人たちは、むしろ革命を歓迎していた。革命の発端となった三部会の招集に先立って、ポワトゥーでも選挙集会が開かれたが、そのときは、
父侯爵でさえ「民主的」貴族として、改革を進めようとしたほどである。人々を苦しめる税の軽減、無意味な封建的特権の廃止など、悪いことではないだろう。と、アンリは思った。
 しかし一旦動き始めた振り子の揺れは次第に勢いを増していく。一七九〇年の六月、ルイ十六世が王妃と共に、ヴァレンヌへの逃亡を試みてからは、王政の打倒が叫ばれるようになった。翌年の暮れに、アンリは国王と王家を護衛する立憲衛兵隊に志願し、入隊資格は、「四年以上の仕官経験があり、二十才以上三十才以下の長身で容姿端麗の者」という条件だったが、アンリはまだ十九才という年齢を、一年ごまかしてでも主君を守るつもりだった。
 やがて両親も、兄弟たちも、不穏な祖国を離れて亡命を決意する。
「フランスに残るという、お前の決心は変わらないのか」
 と、父侯爵は尋ねた。
「はい。私は、立憲衛兵隊の一員として、どこまでも国王陛下をお守りします」
 アンリは、いつも厳しかった父の前で、視線は落としながらもはっきりした口調で答えた。こうして、侯爵家の人々は年若い嫡男を一人残して、国境を越えた。しかし、立憲衛兵隊さえも、国王の警護はパリ国民衛兵隊のみにまかせるという理由で、解散させられるまでに時間はかからなかった。
 パリに残ってはみたものの、アンリの居場所はなかった。革命の熱に浮かされた首都では、王政廃止を唱えるパンフレットが配られ、新しい愛国歌「ラ・マルセイユエーズ」が口ずさまれた。国王一家は事実上テュイルリー宮殿に捕われの身になっていた。
 そして八月十日、連盟兵と民衆がテュイルイリー宮殿を包囲した際、国王一家のもとに馳せ参じた貴族たちの中に、アンリの姿もあった。
 民衆との衝突を回避するために、ルイ十六世は議会の保護を求めて、自ら宮殿を出ることになった。国王が側を通りすぎようとしたとき。アンリは反射的に剣を抜き、他の貴族たちに叫んだ。
「我々も、陛下に続こう! 陛下を、王妃さまを、お守りするんだ!」
 その言葉に振り返り、血気にはやった青年貴族の瞳を見つめながら制したのは、王妃だった。
「殿方は、どうぞここにお残りください。今は、わたくし共だけで行かねばならないのです。わたくし達は、また戻って参りますわ」
 国王の宮殿脱出によって一時は避けられるかにみえた戦闘だが、一発の弾丸が合図となってテュイルリー宮への攻撃は始まった。スイス衛兵たちと共に、貴族たちも窓から銃を打ち続け、決死の防戦を試みた。間もなく宮殿は落ち、なだれ込んだ暴徒による虐殺が始まった。アンリはどこをどう通ってテュイルリーを抜け出したのかよく思い出せなかった。ともかく、ボートでセーヌ川を横断し、左岸に逃れたのである。気がつくと、髪粉をふった鬘はむしり取られ、量の多い巻毛は手に負えぬほど乱れていた。シャツの袖口には誰のものとも知れぬ鮮血が染みを作っている。
 ただ悔しく、惨めだった。宮殿の方からは、いまだ鬨の声が、銃声が、断末魔のうめきが、風にのって聞こえてくる。このままではすまさない、いつか必ず革命に復讐してやる。
心の中でそう誓ったものの、反革命容疑者に容赦ない追求がなされるようになったパリを離れ、故郷に戻っていくしかなかった。
 九月にはついに王政が廃止され、フランス共和国が誕生したのである。

 家族のいないラ・デュルブリエール城は、アンリにとって一際広く感じられた。革命の喧噪の渦中にあるパリは悪夢に過ぎなかったかと錯覚するほど、ポワトゥーのボカージュは静かであったが、こんな田舎であっても当局の監視の目が自らに向けられているのを、アンリは感じていた。
「一人でいても心細いだろう。私達のクリッソン城で一緒に住んだらどうかね。今のところ、私たちは革命政府から睨まれてもいないし、お前にとっても安全だ。遠慮することはない、他にも大勢親戚や友人たちが頼ってきているのだから……」
 声をかけてくれたのは、六才年上で遠縁にあたるレスキュール侯爵だった。アンリは侯爵の申し出を受け、二十キロほど離れたクリッソン城に赴いた。ルイ・マリー・ド・レスキュール侯爵は、端正な顔立ちの黒髪の貴公子で、アンリと同じように元騎兵士官だった。
昔からラ・ロシュジャクラン家と親交があり、「従弟」であるアンリを弟のようにかわいがってくれた。昨年、ドニサン侯爵の一人娘、ヴィクトワールを妻に迎えたばかりだ。
 ヴィクトリーヌ、と親しい人々が呼ぶ侯爵夫人はアンリとおない年で、美人というよりは可愛らしい女性だ。才気に富んだ青い瞳が、魅力的である。読書が趣味で物静かな夫とは対照的に社交好きで、快活な笑いを絶やさない人だった。アンリはヴィクトリーヌが新しく家族の輪に加わった自分に注ぐ眼差しをまぶしく感じた。 
「あなたは、フランス人というよりは、アングロ・サクソン系の男の子みたいだわ」
 今日のような、何が起きてもおかしくない世の中では、女性でも馬に乗れたほうがいいという夫の勧めに従って、ヴィクトリーヌも乗馬を習い始めた。レスキュール侯爵の乗馬の腕前も、相当のものだったが、アクロバット的な技術まで身に付けているアンリにはかなわない。
「あなたほど身のこなしの敏捷な人を見たことがないわ」
 と、ヴィクトリーヌが感嘆の声をあげると、アンリは、むしろ自信なさそうにただはにかんでいた。
「射撃の腕もずば抜けているのさ」
 レスキュール侯爵がつけ加える。
「怖くないから……。手綱を引っ張りすぎてはだめだよ、馬が止まってしまうじゃないか。体を馬の動きに任せれば、自然に乗れるんだ」 
 早足を出した馬に恐れをなして、思わず両手に力を込めたヴィクトリーヌに、アンリは楽しそうに指導する。こうしているときのアンリは、無邪気な微笑みを浮かべ、本当にいきいきとしている。
 夕食後のごく内輪の集まりでさえ、口数少なく、大きな切れ長の瞳に長いまつ毛の影を落としているアンリとは別人のようだった。レスキュールの親戚筋で、クリッソンに身を寄せているベルナール・ド・マリニーが、酔ったついでにアンリに軽口を浴びせかけるのを、ヴィクトリーヌはよくさえぎった。
「おとなしいからといって、アンリをからかったりしないで下さいな」
 アンリはレスキュールとは違って読書家ではなかった。天気が悪く、外に遠乗りや、散歩にいけない日はひどく退屈で、レスキュールの膨大な蔵書から、幾冊かを手に取っても直にあきあきして投げ出してしまう。
「その本だけは、何度も読み返しているようね、気に入っているの?」
 ヴィクトリーヌの問いに、アンリは慌てて本を閉じ、脇に置いた。題名には、「テュレンヌの生涯」とあった。ルイ十四世の名将テュレンヌ元帥の伝記である。

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