反革命の大天使 アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン 

4・逃避行

六月二十一日、大カトリック王党軍は、ナントの攻略に失敗し、『アンジューの聖者』と、呼ばれた初代総司令官カトリノーを失う。変わって選出されたのは、やはり信仰厚く、
農民たちに人気のあった四十一才のデルベである。
 一方、パリの国民公会も、ヴァンデの反乱が、共和国の存続にとって、真の脅威であることを悟った。議員バレールは、八月一日の演説で、
「ヴァンデを破壊せよ!」
 と、繰り返す。
「ヴァンデこそが、共和国の中枢を蝕む癌である。叩き潰さねばならぬ」
 と。
 ヴァンデの反乱の徹底的な鎮圧が決議された。そのためには、この地方を燃やし、生け垣を根こそぎにし、住人を追放しなければならない。こうして、ヴァンデ戦争区の南部では、青軍が住民たちを恐怖に陥れ始めた。
 そして、クレベール将軍の率いる精鋭、『マインツ方面軍』がヴァンデの反乱鎮圧に投入された。対仏同盟軍に対しては武器を取らない、という条件でマインツを撤退した軍隊である。彼らは九月にトルフーで王党軍に破れるが、十月十七日、ショレの戦いで雪辱を果たす。このときに至って、王党軍の損失は、はなはだしかった。総司令官のデルベを初め、恐らくはヴァンデ髄一の戦略家だったボンシャン、そしてレスキュールと、司令部の中心的人物が、次々と重症を負って戦闘不能に陥っていった。ヴァンデの戦局にもたらされたこの転機は、またアンリの信じがたい苦難の始まりでもあった。
「ロワールへ!」、「ロワールへ!」
 おびただしい群衆は、ロワール川を目指していた。大カトリック王党軍が大敗した今、共和国軍による、報復、虐殺に脅え、パニック状態になったヴァンデの民は、女も子供も老人も、或るものは家畜をつれ、車を引き、僅かばかりの財産を持てる限り持って、ロワール対岸へ渡ろうと必死になっていた。王党軍としては、ブルターニュの反革命勢力との合流など、ヴァンデを離れて右岸で戦いを続ける計画がないわけではなかった。だが、六万から八万とも言われる、少なくとも半分は非戦闘員の大移動は、予想外のことである。 無謀すぎる。彼らを止めなければ……。
 アンリはロワール河岸のサン・フロラン・ル・ヴィエイユで、避難民の群れを押しとどめようと試みた。
「ヴァンデを離れてどうしようというんだ。二度と戻れないかもしれないんだぞ!」
 大天使の言葉に耳を傾ける者はいない。呼びかけているのが、アンリだというのに気づけばいい方だ。
「くにに残ってたら、わしらは、女房も子供も、青のやつらに皆殺しにされちまう」
「まだ、ここでなら僕らは君たちを護れる。向こう岸には、なんの保証もないんだ!」 だれ一人、アンリの説得を理解するものはいない。
「どうして……、どうして僕の言うことを聞いてくれないんだ」
 群衆に対するいら立ちと、何もできない自分に対する怒りが、絶望感と混じりあい、嗚咽となって込み上げて来る。戦場では恐れを知らないアンリにも、自らの無力さを感じたときに、半ば発作的に泣き出してしまう神経質な一面があった。
「アンリさま、御命令を」
  副官で親友のアラールも、そう声をかけてはみたものの、激情に駆られて川原をさ迷い歩く上官同様、なすすべもなかった。
 ふいに、アンリの脳裏に従兄の姿が浮かぶ。そうだ、司令部に影響力のあるレスキュールならば何とかしてくれるかもしれない。アンリは侯爵のもとに走った。だが、ひどく衰弱したレスキュール侯爵は、怒りをあらわにするのがやっとだった。 
「私が負傷さえしていなければ、皆をロワールへ追いやった張本人の脳天を撃ち抜いてやるのだが」
 レスキュールの憤りは、タルモン公爵に向けられていた。メーヌ、ポワトゥー地方に広大な領地を持つフランスきっての名門、ラ・トレムワイユ家の次男として、ドイツ公女を母に生まれた公爵は、たてがみのような金髪をなびかせた、二十八歳の美丈夫である。公爵家という家柄にしても、財力にしても、アンリやレスキュールなど、王党軍の他の貴族たちとは、格が違った。一旦亡命したあとで、フランスに戻ってきたのだが、直ちに反革命容疑者として逮捕され、策を講じて脱獄したのちにヴァンデの反乱に身を投じた。 
 王党軍では新顔だったにもかかわらず、自信たっぷりのタルモンは、ヴァンデにおいて救世主の役割を果たすことを疑わなかった。ヴァンデの田舎貴族どもは、拍手喝采で自分を歓迎するに違いない。自分は亡命貴族軍で王弟アルトワ伯の副官を勤め、王家との繋がりも深いし、王党軍への資金援助もできる。意気込んで司令部に乗り込んだタルモンを迎えたのは、予想に反して士官たちのやっかみ交じりの冷たい視線だった。タルモンが、ヴァンデではよそものであることや、女と美食に目のない享楽的な生活習慣も、「聖戦」を標榜する真面目なヴァンデの人々の反感を買ったのである。
 ロワールを渡ってマイエンヌの首都ラヴァルにさえ行けば、ラ・トレムワイユ家の居城がある。もう異邦人ではない。メーヌやブルターニュの農民たちは、彼の名のもとに一斉蜂起するだろう。敗走する王党軍を待ち構えて、渡河のためのボートを多数用意し、部下たちに、 
「早く右岸に渡れ!我々の国では、皆が反革命派だ。君たちの必要なものは、何でもあるぞ!」
 と、叫ばせて、民衆を煽動したのは他ならぬタルモン公爵であった。
 ロワール渡河にあたり、五千名あまりの共和国軍捕虜は、足手まといになる。
「青服共を殺せ!処刑するのだ!」
 憎しみにかられた人々の間から声があがった。
 だが、瀕死のボンシャン侯爵は、最期の希望としてこれらの捕虜の恩赦を命じる。
「捕虜に恩赦を。ボンシャンの命令だ!」
 ただちにボンシャンの意思が伝えられ、捕虜たちは釈放された。このとき命拾いをした共和国軍兵士の息子に、彫刻家のダヴィッド・ダンジェがいた。彼自身は共和派だったが、
敵味方の恨みを越えたボンシャンの行為に敬意を表わし、このときのボンシャンの姿を彫刻としてその墓碑に残す。『ボンシャンの恩赦』は、ヴァンデ戦役の中のもっとも人間味溢れるエピソードとして、不滅の形を留めることになるのである。
 大カトリック王党軍と、難民からなる数万人の人々は、驚くべき早さで渡河を敢行した。
 のちに、ヴァンデ戦役を『巨人たちの戦い』と称賛したナポレオンは、このときのヴァンデの人々の迅速さを、「空気の精シルフのごとくであった」と評した。
 そのシルフたちの間から、幼い少女が一人、アンリの姿を見つけるや、駆け寄ってフロッ
ク・コートの裾にしがみつく。ラ・デュルブリエールの召使いの娘だ。
「かわいそうに、迷子になってしまったんだね」
 アンリは少女を抱き上げると、頬を寄せて優しく言い聞かせた。
「もう、大丈夫だよ。絶対、見捨てたりしないから」
 さきほどまでアンリの頬を濡らしていた涙は、秋風に乾いて、皮膚をひりひりとさせる。

 総司令官デルベは、共和国軍の目を逃れて、負傷した体を癒すために、大西洋のノワールムーティエ島に避難を余儀なくされた。今やロワール右岸に移動した王党軍がまずなすべきことは、新しい総司令官の選出であった。
 ボンシャン侯爵亡き今、その意見が司令部を動かせる者は、レスキュールのみである。レスキュールは自分の死期が遠くないことを知りながら、次期総司令官の人選にすべてを掛けようと思った。候補者を検討するまでもなく、彼にとっての答えはただ一つであった。
「私は、総司令官に、我が親友にして従弟のアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランを推薦する。全軍に愛され、農民たちの信頼を誰よりも勝ち得ている彼こそが、我々に救いをもたらすのだ」
 レスキュールの言葉に、司令部の人々は息を飲んでささやき交す。確かにアンリは王党軍のアイドル的存在である。農民たちの心を一つにまとめることができるのは、彼をおいて他にないだろう。しかし、総司令官の役目はそれだけではない。難局に面した王党軍を、
女や子供を交えた何万人もの人々を、やっと二十一になったばかりの青年が率いて行くというのか。まだあどけなさの残る、この子が……。
 一番衝撃を受けたのは、アンリ自身であった。従兄は、頭がおかしくなってしまったのだろうか、これほど責任の重い役目を自分に押しつけるなど、冗談にしてもひどすぎる。嫌だ、絶対に嫌だ……。
 もちろん冗談のはずもなかった。ヴィクトリーヌの父で、大カトリック王党軍最高表議会の議長を努めるドニサン侯爵は、一同を見回して言った。
「それでは、第三代総司令官の投票を行います。ラ・ロシュジャクラン伯爵を指名する方は、挙手して下さい」
 アンリはいたたまれなくなって、ドニサンの言葉が終わるのを待たずに、ついと部屋を出た。皆が反対するだろうという、アンリの期待もむなしく、最高評議会は全員一致でアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランを総司令官に選出した。
「ムッシュー・アンリ万歳!」「新総司令官万歳!」
 歓声が、農民たちの間から巻き起こるが、本人の姿は一向に見えない。
「あの子を連れてきてくれないか」
 レスキュールは、妻に頼んだ。
 ヴィクトリーヌは、あちこち捜し回ったあげく、物陰に隠れて泣きじゃくっているアンリを発見した。こんなに嫌がっているのに可哀相だわと思いながら、従弟の薄い肩に手を触れて声を掛ける。
「主人が呼んでいるわ。行きましょう」
 レスキュールの元にやってくるなり、アンリはその枕許に跪き、頭に包帯を巻いた従兄の首にすがりついて訴えた。
「僕は若すぎるし、経験も才能もない。総司令官なんかには、ふさわしくない。それに、
他の野心を持った人たちが、僕の計画を邪魔しようとするのは、目に見えてる。傷が直ったら、僕の代わりに指揮をとってくれることを、約束してほしい」
「もう、私は助からないだろう。万が一、回復したとしても、お前の副官にしかなるつもりはない」
 レスキュールは、むせび泣く従弟の髪を撫でながら言い聞かせる。
「だが、心配することはない。お前は生まれつき備わった能力を、開花するにまかせればいいのだ。確かにお前は内気だが、心一つで乗り越えていける。私も、生きている限り助言を与えよう」
 アンリの不安には確かな根拠があった。ボンシャン、レスキュールのいなくなった司令部では、タルモン公爵を始め、ドニサン侯爵、ストッフレ、司祭のベルニエ師などが、軍をそれぞれの影響下に置こうと牽制し合い、口論や、あらゆる裏工作を続けていた。彼らが一番年若いアンリを総司令官の地位につけることに賛成したのも、そのほうが作戦会議を思い通りにできるとふんだからに違いない。カトリノー、デルベら歴代の総司令官も、一存で司令部を牛耳るタイプの人物ではなかった。 
「命令をしてくれさえすれば、自分は何でも実行しますから」
 まだ王党軍が勝ち進んでいた頃、アンリは、そう言って年長者の意見に従って来た。ボンシャンたちにだったら、安心して重要な判断を任せられたのである。自分は口下手だし、
めいめいが思うがままを口にして、いつ終わるとも知れぬ作戦会議は苦手だった。戦いの疲れから、会議の最中に居眠りをしているアンリの姿も見られたほどである。
「まだ若いのだから、仕方がない」
 と苦笑いする、従兄たちに守られ、甘えてきた自分だったのだ。
 これから王党軍はどこへ向かうのか、決断せねばならなかった。
「大勢の非戦闘員を連れて行軍するわけにはいきません。アンジェまたはナントを経由して、ヴァンデに戻りましょう」
 作戦会議でアンリは自分の意見を述べた。女性や子供、老人など、弱い人々に降りかかるであろう運命を思うと、アンリは耐えられない。だが、総司令官の切なる願いも、大人たちには、子供じみた感傷の発露としか映らなかった。
 議論を重ねた結果、アンリは当面レンヌに進軍し、ブルターニュ地方を蜂起させるという案に妥協する。タルモン公爵はさりげなく、自分に都合の良い計画を、決定に紛れ込ませた。
「レンヌにはラヴァル経由で進軍するのがいいと、私は思うのだが」
 反対する者はいなかった。ショレの戦い、ロワール渡河と、疲れ切った軍を休ませ、補給をせねばならない。
 ラヴァルではタルモン公爵に忠誠を誓う、ジャン・コットローとその配下が、王党軍に加わった。塩の密売人でもある貧しいジャンは、みみずくを意味するジャン・シュアンのあだ名を持ち、のちにこの名がメーヌ、ブルターニュ、ノルマンディーの反革命勢力を指す、「シュアン(ふくろう党)」の語源となる。得意の絶頂にあった公爵は満足げであったが、六千名あまりのジャン・シュアンの部隊は、当初公爵が大言壮語していたような、メーヌ地方の一斉蜂起には程遠いものであった。
 作戦会議では誰も耳を傾けてくれなくても、一旦戦闘となれば、僕が必要なことがわかるだろう。アンリには密かな自負心があった。クレベールはすでに動き始めていた。ヴェステルマン将軍率いる共和国軍は、ラヴァルの王党軍攻撃に向け、進軍を開始した。一刻の猶予もない。自分がタルモンの思っているような、ただのみてくれのいい人形ではないことを示すときである。戦闘を前にアンリは全軍に伝えた。
「わが同胞たちよ。我々に救済をもたらすのは勝利のみであることを承知してほしい。君たちの妻子も放火や死によって君たち同様に故郷を追われ、不安の中で戦いの結果を待っ
ている。我々が護るのは、神と国王とすべての家族である。今日という日が、我々を故郷から追放した、忌まわしき敗戦の挽回の日とならんことを!」 
 農民たちには馴染みとなった濃紺のフロックコートに身を包み、細い腰に白い寒冷紗のサッシュ・ベルトを巻いたアンリの麗姿は、現実離れさえして見えた。いざ戦闘となると、
華奢な全身から光輪のように闘気が放たれ、双眸はオパールの輝きを見せる。総司令官になりたくないと、頼りなげに泣いていた少年はどこに行ったのだろう。
 ヴェステルマンの共和国軍は、ラヴァルから八キロほど南に位置する、アントラムの高地の占領を試みるが、兵士たちの疲労がひどく、目的を達することができない。アンリは、
敵に先んじて高地に扇形の陣を張った。
「ストッフレとマリニーは中央に、タルモン公爵は右翼、ラ・ヴィル・ボージェは左翼の指揮を」
 その駿足から「鹿」と名づけられた愛馬を駆って、総司令官は縦横に走り回り、布陣を見回った。誰が見ても、王党軍を統べるのはこの若者なのだ、というのが納得できる。
 正午、アンリの双眼鏡には、一筋の川の流れのように長い縦隊を作って進軍して来る青軍が映し出された。率いるのは、ボーピュイ将軍である。
「約……、二万……か。思ったよりも少ないな」
 こちらの兵力は、新たに加わった「小ヴァンデ」と呼ばれるジャン・シュアンの部隊を加えて、約四万。しかし、敵の後ろには、さらなる予備軍が控えているはずであった。
「今のうちに、敵を分断しなければ」
 アンリは縦隊が中央に到達するまで引き付けておき、やにわに両翼から敵の側面に銃撃を命じた。それまで敵の目から巧妙に隠されていた砲が姿を表すと、空気を切り裂きながら砲弾が弾きだされ、土くれを巻き上げながら、容赦なく青服をなぎ倒す。
 ボーピュイは、部隊を散開しようと試みるが、遅すぎた。前衛が退却を始めるや、後方の予備軍も戦わずして敗走を始めた。
 クレベール将軍は、マインツ軍を率いて救援に駆けつけ、三回に渡る突撃を行ったが、そのたびにアンリの猛烈な反撃に阻まれた。
「我々を故郷から追い出したやつらだぞ!おめおめと引き下がるのか?」
 アンリは、兵士たちを叱咤しながら、目前の敵を見据える。ここで負けたら、兵士はおろか、ラヴァルの非戦闘員たちも、残らず虐殺されるだろう。自分の体は砲弾に引き裂かれようと、敗退するわけにはいかない。 
「なんということだ」
 クレベールは我が目を疑う。マインツ軍が敗走しているのである。
「マインツ軍が敵に後ろを見せるなど、見たことがない……」
 王党軍は、アントラムからさらに三十キロほど南の都市、シャトー・ゴンティエを目指して退却を始めた共和国軍を追撃するが、シャトー・ゴンティエへの唯一の通路である橋で、青軍の銃撃に足止めされる。
「君たち……」
 アンリは、微笑みを浮かべながら、兵士たちを振り返った。
「戦いに負けたやつらが、のうのうとこの町で夜を明かせるのに、勝った僕らは、町の外で野営しなければいけないのかい? ここまで来て、敵にシャトー・ゴンティエを占領させて、平気だというのか?」
 言い終わるなり、アンリは傍らの軍旗を手に取った。百合と、王冠と、十字架があしらわれた白絹の旗は、出陣にあたって叔母が贈ってくれた、アンリの旗だ。上の方には、「ルイ十七世万歳」、下の方にはラテン語で、「祭壇と、国王と、家家の為に」と、書かれている。アンリの護るべきものが、すべてこの旗に表されていた。
「前進だ!どこまでも前進!」
 皆があっと反応する間もなく、白い旗は風を孕んで、橋の上を滑りだした。その一瞬後には、
「ムッシュー・アンリに続け!」
 と、白軍の兵士たちが殺到する。
 シャトー・ゴンティエから共和国軍は駆逐され、白軍は都市を占領した。この日、青軍の側では、重症を負ったボーピュイ将軍の傍らで、バリスという名の若い砲兵将校が命を落としていた。アンリの幼年学校時代の仲間である。
 クレベールは、アントラム、シャトーゴンティエの戦いの後、国民公会にこう書き送る。
「我々が対決した敵には、一人の若者の発する、称賛に値する闘志と、意気込みが波及していた。若者の名はアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランという。彼は我々にとって不運だったこの戦いで、トルフー以来賊軍には見られなかった戦術と、用兵の妙を示した。今回の共和国の敗退は、この若者の先見の明と、冷静さによるものである」
 当時、敗戦した将軍は、責任を取って断頭台に送られる危険があったにもかかわらず、クレベールは敵に対する最大級の賛辞を連ねて憚らなかったのである。だが、手紙には続けて次のようにあった。
「……それゆえに、《ヴァンデはすでに死んだ》などと公言する者たちに、耳を傾けてはいけない、ヴァンデはまだ生きているのだから。しかし、息の根を止めることは可能なのだ」
 アンジェの方角を見つめながら、アンリは傍らの副官アラールに呟く。
「まだ遅くはない。今ならば、ポワトゥーに帰れる」
 アンリは、ロワール左岸に戻るのを、決してあきらめてはいなかった。だが、そのためには、作戦会議で最も苦手とする戦いに臨まねばならない。

 残敵掃討を続けるアンリを残して、タルモン以下ほとんどの将官たちは、一足先にラヴァルに帰還していた。ポワトゥーやアンジューのささやかな領主館を住居としている田舎貴族たちはラヴァル城の威容に圧倒され、改めてラ・トレムワイユ家の権勢を印象づけられた。 
「我がラヴァル城で、ゆっくりとご休憩下さい」
 公爵は殿様風を吹かせながら、将官たちに豪華な料理や、酒類を振る舞い、懐柔を試みる。
 ラヴァルにおける作戦会議で、タルモン公爵アントワーヌ・フィリップ・ド・ラ・トレムワイユと、総司令官アンリ・ド・ラ・ロシュジャクランが対峙するさまは、傍から見ても、一見の価値のある光景であろう。これほど見事に対をなし、同時に対照的な二人というのも珍しい。生真面目な表情を崩さず、白百合の芳香が漂うような、清浄な風情のアンリに比べ、不敵な笑みを浮かべたタルモンは、二十代後半であらゆる快楽を味わい尽くした者の、頽廃した空気に包まれている。確かに「神のように美しい」と形容されるだけの容姿の持ち主ではあるが、放蕩にまみれたその肉体は、いささか体重がかさみ過ぎ、この若さにして通風を病む。片方が「大天使」ならば、もう片方は、「堕天使」でなくてはならないというものだ。
「我々は共和国軍を撃退し、ロワール左岸へ至る道が開かれています。私の考えは、変わりません。アンジェもしくは、ナント経由でヴァンデに戻ることを提案します」
 アンリの意見は作戦会議の中では少数派のものだった。
「しかし、せっかくここまで進軍したというのに、ブルターニュの反革命勢力を利用しない手はないと思うのだが」
 ドニサン侯爵が反論した。
「それに、総司令官閣下は、ボンシャン侯爵の案を支持していらっしゃったのではないですか。ロワール右岸に王党軍の地歩を固めるという……」
「ボンシャンの計画していたのは、ブルターニュ勢力と共同して、右岸を白軍の手に掌握するということです。ボンシャン侯爵の麾下にあった精鋭部隊は、今なお健在ですから、
右岸を彼らや、「小ヴァンデ」の人々に任せることは可能でしょう。我々全員が、ヴァンデを見捨てていくという意味ではありません」
 アンリは冷静さを保とうとするが、苛立った口調は隠せない。
 タルモンは、暗色の瞳の奥から、ライヴァルの大天使を睨つけながら、居丈高に言い放つ。
「ヴァンデに戻るというのか、略奪され、焼きつくされた土地に? 私はヴァンデで飢えて惨めな最期を遂げるくらいなら、パリの城壁の下で玉砕するほうがよい!」
 さすがに、このまま首都に向かうというのは、あまりにも無茶な考えで、一同は首を振るばかりであった。タルモンは、動じずに続ける。
「ならば、せめてパリを迂回して国境のピカルディーに向かい、オーストリア軍と合流したのち、改めて首都を攻めるというのは」
 まだ、王党軍がヴァンデで勝利を収めていた頃ならば、この案は検討の余地があった。首都侵攻はかってアンリも夢みたではないか……。しかし、現在置かれている状況はどうだ、王党軍は故郷を失った難民の群れではないのか。
「それで……、女の人や、子供までを従えてピカルディーまでも行くと、貴官はおっしゃるのですね?」
「足でまといになる者たちは、どこかの都市に置いていくしかないだろう」
 血の気が失せたアンリの白皙の膚の下で、怒りがたゆたっているのが傍目にもわかる。 タルモンや、その他多くの将官にとって、非戦闘員は邪魔な穀潰しでしかないのだ。そもそも、難民が流出してしまうことになったのは、誰の責任か解っているのか……。この戦いは彼らを守るために始めたものだ。少なくとも、自分はそう思っている。農民たちを苦しめ、犠牲にして、王党軍の存在価値があるのだろうか。
「ヴァンデの人々は、愛する故郷を離れて、見知らぬ土地で長い間戦うことなど、耐えられないでしょう」
 たかだかはたちの小僧が、生意気な……。かっとしてタルモンは言い返す。
「私のほうが、貴官よりも農民たちの考えは、よくわかっているつもりだ」
 アンリも彼にしては珍しく、辛らつな調子で反論した。
「公爵、確かにパリの遊び女たちのことなら、貴官のほうが私よりもよくご存じでしょう。しかし、ヴァンデの農民たちのことなら、私のほうがよく知っています」
「何を……この……」
 ダ−ク・ブロンドのたてがみを逆立たせ、激高したタルモンの抗議の声は、一同の爆笑にかき消される。
 やがて、分裂した司令部に新たな展開がもたらされた。王党軍に合流してきた亡命貴族が、イギリスからの援軍の可能性を持ち出したのである。フランス共和国と戦争状態にあるイギリス政府は、反革命勢力に経済的、軍事的援助を与えるつもりだというのだ。そのためには、サン・マロ、もしくはグランヴィルいずれかの英仏海峡沿岸の港町を奪取し、イギリス艦隊を出迎えねばならない。タルモン以下、司令部のメンバーは、この計画に魅了された。
「不可能だ。農民たちは、目的を果たす前に戦意を失うに違いない。我々は、自滅するかもしれないんだ」
 魂を引き裂くように発せられる、アンリの説得の言葉も、多数意見の前でむなしく消えていく。瀕死のレスキュールも、アンリを励ますことしかできない。アンリは口の達者な年長者たちに、押し切られていった。
 そして、総司令官は不本意ながら、ノルマンディー海岸の都市、グランヴィル占領を試みることに合意する。ラヴァルでの決定に時間を費やしている間に、共和国軍も態勢を立て直し、退路も絶たれつつあったのだ。
 少なくとも、グランヴィルを占領しさえすれば、安全な場所に非戦闘員を待避させることができる。アンリは何度となく、自分に言い聞かせた。
 大カトリック王党軍の、ロワール渡河より始まる、約二ヵ月に渡る転戦と逃避行は、後に、「ガレルヌ彷徨」と呼ばれる。ガレルヌというのは、アンジュー地方の方言で、雨を運んでくる西風のことを指す。ヴァンデの人々にとって、ロワール右岸の「ガレルヌの国」は、この風を送り込んでくる異郷なのだ。王党軍は、十一月一日にラヴァルを発った。
 レスキュール侯爵が長い苦しみの後、馬車の中で二十七年の生涯を終えたのは、それから四日後だった。
「主人が、この世で私の次に大切に思っていたのは、あなただったのよ」
 ヴィクトリーヌを抱きしめて、アンリは言った。
「僕が身代わりになって、あの人が生き返るものなら、この命をあげるよ……」
 ラヴァルでの決定は、アンリの魂の一部を殺してしまったかのようだった。総司令官という立場など、何になるというのだろう。結局、野心ある人々の道具にしか過ぎないではないか。自分は、レスキュールの信頼に答えることができなかったのだ。
 だが、アンリにはもちろん、苦悩に我を忘れる余裕などなかった。どこで一夜を明かすか、どうやって食料を調達するか、どのように人々の安全を確保するか、常に考えねばならない。 
 戦闘や、職務の合間に、アンリはボンシャン侯爵の遺児で、五歳になる少年エルメネーの面倒をよく見ていた。侯爵は死ぬ前に、妻と子供たちをアンリに託していったのだ。やはり未亡人となったヴィクトリーヌも、アンリの保護下にあった。考えてみれば、王党軍自体が孤児の群れのようなものだ。もはや、貴族も平民もなく、運命を分かち合う大家族である。アンリはその家長の役目を果たさねばならないのである。エルメネーと、他愛なく遊び戯れながら、アンリは気を紛らわし、いっしょに笑い声を立てたりもする。しかし、
その笑顔の裏側で心は冷え、ヴァンデと共に死につつあった。
 王党軍は、さしたる敵の抵抗にも遭遇せずに、マイエンヌ、フージェール、ドルを通過し、アヴランシュに避難民を待避させると、十一月十四日には、グランヴィルの攻略にかかった。王党軍司令部は、グランヴィルは簡単に落ちると甘くみていた。しかし、王党軍が港町に侵攻しているとの情報を得るや、グランヴィル市民たちは、一丸となって迎え撃つ準備を始めていたのである。
「英仏海峡沿いのいかなる都市も、賊軍の手に渡してはならない」
 城壁の補強工事には、女たちまでが駆り出され、近隣の村からも物資が届けられる。
 白軍の方でも、ヴァンデの民の命運がかかっているこの戦いに、負けるわけにはいかなかった。
 攻撃は夜になってから始まった。王党軍は城壁外の下町を占領し、アンリも城壁の真下に陣取って銃撃を続ける。ふいに港町の夜空が、明るく照らされた。グランヴィルを守備する青軍のヴァショ将軍が、白軍を阻止するため城壁外の下町に火を放ったのだ。だが、火災によって、市民たちの間にも恐慌が広がった。
「市街に突入するのは、今だ!」
 アンリは敵の銃撃の間を縫って、トゥアール戦の時のように、城壁の亀裂を広げようとするが、梯子が短すぎて届かない。王党軍には、包囲戦に必要な迫撃砲や爆破装置はおろか、鉞さえないのだ。梯子も、近くの農場からかき集めてきたものでしかない。
「銃剣を使おう」
 銃剣を装着した銃が二本ずつ城壁に立てかけられ、紐で間を繋いで梯子が作られた。青軍の銃撃は激しく、連なって城壁をよじ登ろうと試みる白軍兵は、次々と弾丸を受けて転がり落ちていく。やがて白軍の側から、
「逃げろ!」
 の叫びが上がった。 
「裏切り者!」
 アラールのピストルが火を噴き、不届き者の頭蓋を打ち砕いたが、恐慌は瞬く間に農民たちに伝染していった。アンリと将官たちが止めようとしても無駄で、撤退せざるをえない。 
「城壁側からの攻撃は犠牲が多すぎる。干潮時を狙って海側から攻めよう」
 そして翌日、海側からの攻撃が試みられた。あと僅かで市街を占領するかに思えたが、青軍の方も最後まで抵抗を続けた。
「今、ここであきらめたら、大きな犠牲を払ってここまできた意味が、なくなってしまうんだぞ!」
 アンリの叱咤激励にもかかわらず、最初に戦意を喪失したのは白軍の側であった。
 そして、約束のイギリス艦隊は? 祈るような気持ちで水平線を見つめ続けても、帆影さえ見えない。アンリが、ボタン穴からのぞかせたロザリオの十字架をきつく握りしめると、頼りなく糸が切れ、無数の水晶玉が足もとに散らばる。

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