
札幌の思い出
何か無性に昔の札幌の思い出を書いてみたくなった、というよりも自分の生い立ちかな、ミッキーさんのミッドナイトサッポロを読んだからであろうか、こんな気持ちになるのはもう若くない証拠かな・・・
私が生まれたのは菊水というところである、以前相続の手続きに戸籍謄本を取り寄せてみて驚いたのだが、いろいろなことが判明した、地名が全然違うのである、菊水は当時、上白石村といっていたようだ、そういえば、以前のバス停に西白石、下白石、北白石、東白石という名があったり小学校の名前にも名残が残っている、私の出た小学校は、まさしく上白石小学校といい、開拓時代からの古い学校だった、
私の父は、この地で小さな鉄工所をやっていた、しかし生活は、いつも裕福なものではなく職人さんに給料を払って、経費を払うとほとんど何も残らない自転車操業のような経営だったようだ、そんな中で母が和服の仕立ての内職をして家計を助けていた、ただ子供は可愛がり、鉄くず(スクラップ)が溜まってくるとよく、雑品屋に売って、その金で休みに家族を連れて街に出て、食事をしたり、映画を見せてくれたり、茶谷碁盤店や中川ライター店に行って「どれでも好きなもの買ってやる」と得意そうに言うのであった、(当時、鉄くずは相当高い値で売れたのであろう、前日、若い衆三人ススキノのキャバレーに連れて行って遊んで帰りに寿司屋で寿司食べて家族分寿司折り買って来て、翌日、家族を街に連れて行ったようだ)私は、いつも鉄くず置き場の鉄くずがいっぱいになることをいつも夢みていた・・・
当時の札幌市は人口50万人、私が小学生の時、豊平町、手稲町と相次いで合併した、学校の朝礼で札幌市の旗の前で校長先生が、「札幌市は日本一大きな市になりまた」と自慢気に言った言葉が思い出される、(しかし、後に福島県のいわき市に抜かれるのだが・・・)
■昭和40年代、開発とオリンピックに沸いた札幌
私が高校に入学した時代ぐらいだと思うが、父の鉄工所に変化が見られた、自転車操業のような経営だった工場が急に忙しくなって株式会社になったことだ、工場も拡張して大きくなり従業員の数も5人程度だったものが数十人の大所帯となった、何と父は社長と呼ばれるようになったのである、一介の鉄工所のオヤジだった人が、オヤジから社長に昇格したのである、元々、父は国鉄時代から製缶場の職人のような仕事をしていた、製缶という仕事は、厚い鉄を丸くする仕事であり、SLを見ればわかるように
昔はあの厚い鉄を職人さん達がハンマーでたたいて芸術的なまでに丸くしていたのだ、父は市長賞、知事賞なども受けており当時からその仕事をさせると札幌で1、2をあらそうような人だったようです(後でわかったことですが)
父は昔気質の人だったので製缶の仕事しかしていなかったのですが(主に工場の煙突、タンク類)時代の要請で鉄骨の仕事をはじめたようです、その結果、開発局の仕事が増えました、河川の堰堤、道路のガードレールなどが多かったようです、そして札幌オリンピックが決まり、開発が拍車をかけ、当時鉄工所は日曜も休まず
仕事をし続けました、更に恵庭岳の滑降競技場のリフトの中継塔の仕事を請負、工場も鉄工団地に移転して5000坪の大きな敷地内に今までの5倍の大きさの工場を建設して作業は全開、札幌オリンピックを見届けて父は仕事中、脳卒中で帰らぬ人となったのである、
昭和40年代の札幌は、実にめまぐるしい発展と開発に沸いた時代であり、地下鉄、道路、ビルディングと30年代ゆっくりと流れていた時間が、この期間だけは、あっという間に通りすぎていってしまった時間である。
■オイルショックではじまった昭和50年代
札幌オリンピック景気に沸き開発に沸いた昭和40年代から一変してオイルショック、私の就職探しは、実に困難極まりないものであった、
大手の企業はもとより公務員に至るまで本年度新規採用試験見送りという年であった、
公務員試験にせっかく受かっても採用試験を実施してくれる省庁、機関がほとんどなく、一年見送り、就職浪人なども多数出る有様、今の学生さんも確かに大変だが、その当時の学生の方がずっと大変だったと思う、というのは当時今のようにまだ生活は裕福ではなく職に付くというのは絶対不可欠だったということ、必死で中小企業、零細企業まで就職活動のため足を運んだ、フリーターとか契約社員何て言葉がない時代、もちろんパートタイマーという言葉もまだ市民権を得ていない時代であり、大学を出て就職することの難しさを嫌というほど知らされた、しかし、当時と今の違いは当時は新しい産業の芽が徐徐に出つつある時代であった、今のように何も先が見えない時代ではなかった、
力のある企業は新規採用の主力を高卒から大卒に切り替え有能な人材を獲得するチャンスでもあった、力のある本州企業はどんどん北海道に進出し大量の求人を募集し、と同時に道内の大手企業も本社を本州に移して全国展開していくようになっていく、それが北海道経済に大きく影響していくこになるのだが・・・
■オイルショックから立ち直ったS50代後半
札幌には本州方面からの企業がどんどん進出してまさにリトル東京といわれるほど東京に本社をもつ企業の看板がどこかしこにも見られるようになり、サッチョン族なる言葉が流行して、本州企業は札幌に市場を求めるようになる、北海道や札幌市も当然のごとく本州の企業誘致を率先して行い、苫小牧東部開発会社のような大型の第三セクターをつくり、本州企業を迎え入れようとする、
この頃北海道観光が一躍ブームになり北海道じゅうの観光施設、ホテルが大型化になってゆく、どれもこれもが本州に頼った政策であった、この時点で官は気が付いていなかったのか・・・
札幌市にも本州の立派なホテルが次から次ぎへと出来てゆき、東急、そごうといった本州の大手のデパートが進出してくる、
地下鉄も東西線が出来、市電も円山方面は廃止され、この頃から交通網、街並みがどんどん変わっていく、マンション、住宅ブームの兆しが見え、人々の暮らしも、かなり楽になっていく、それは雇用問題が解決し失業率が低く、年金制度が確率され一億皆中流意識と言われた時代になり市民の生活が安定しているという点だけでの見せかけの豊かさと気づく人はその頃誰もいなかったであろう・・・
■昭和60年代は食の祭典からはじまった
全国に博覧会ブームがまきおこり北海道にもその余波が「食の祭典」という形で博覧会が開催された、世界じゅうの食料品を集めたり、道内の地域の食料品を一同に集結し北海道と各国の輪、地域活性化という目的を持ち食をテーマに掲げた博覧会は官主導の中で行われ100億の赤字を計上し道費、いわゆる道民から集めた税金でそのうち77億補填するという最悪の事態を招いた、
食の祭典は官主導で計画され計画の段階で道庁内では失敗するだろうという人も少なくはなかったようだ、目標の400万人は遠く及ばず85万人の観客動員しかできなかったのだからおそまつな仕事である、民間ならこんな仕事はいっさいしないであろうし90%を割ったら大変な失敗といえるのだがたった20%しか観客を集めることしかできなかった、
外国からも北海道の印象を悪くしてしまったし、これ以後大きな博覧会が行われないというのも実に残念である。
■平成の幕開けに本州方面からバブルの波が
昭和の末期のアメリカのブラックマンデーを背景に日銀が行った超金融緩和政策がバブルに火をつけた、株価、地価の上昇により「自己増殖のメカニズム」が働いた、「上がるから買う、買うから上がる。」これがバブルの本質であろう、バブルに踊らされたのは現実には一部の企業と金融機関そして裕福な個人だった、
北海道にも平成に入ってバブルの波がおしよせる、拓銀を中心にしたグループが巨大なリゾート、ゴルフ場などに手をのばし、土地の買い占め、投資へと走り出す、一介の町の床屋さんや商店主、不動産屋さん、土建屋さん、工務店さんといった地道に業績を伸ばしてきた北海道の経営者たちは銀行などの金融機関と手を組み、事業の拡大路線に乗り出す、
当時サラリーマンだった私がバブルを肌で感じたことと言えば年二回の賞与の他に決算手当を二回もらったことぐらいで、他に世の中景気がいいという風潮の中で自分に降りかかるものはなかった、強いて言えば人手不足で求人募集してもなかなか人が集まらず、ただただ多忙な毎日が続いていたような気がする、大卒新規採用は青田刈りで入社したら車をつけるとか、マンションつけるとか、ヘッドハンティング、デューダ、トラバーユとかという言葉もたしかこの頃はじまったような気がする、
札幌市内は中央区の一等地などで地上げ、買い占めが行われていたようだ、私の友人の家が南六条西九丁目でネコの死体ほどの土地で看板業を営んでいたが、一億円という価格で、ある不動産屋から誘いがあり、
それに応じて売って、郊外に大きな土地を取得して移転したが、その後その不動産屋は倒産して、もう十年以上も経つというのに今でも更地になって買い手もなく空き地になっている、バブルで儲けた奴もいる、そいつの家は、その後イオングループのツルハ、ホーマックの看板を請け負って、この不景気に今順風漫歩に営業が伸びているというから、立派なものだというか、ツキがあるというか・・・
■バブル崩壊から拓銀消滅そして慢性的不況
それではバブルとはどれぐらいの期間続いたのであろうか、ある経済学者によると平成元年から二年にかけてのわずか二年間であるいう、株価は二年の12月29日をピークに下落し続け四年の8月には底値の14309円まで暴落している、地価も三年に大都市圏で下落がはじまる、そう判断すると長くても3年そこそこの期間にすぎない、その後金融機関の不良債権問題
が大問題となり企業の倒産、個人の破産が社会問題になってゆく、そんな矢先の平成九年11月17日百周年を目前にしていた北海道経済の屋台骨、北海道拓殖銀行が消滅する・・・
拓銀は1900年北海道開拓の指命を受け政府系特殊銀行として設立された文字通りの北海道の金融の要が四分の一の規模のしかも第二地銀の北洋銀行に身売りするという劇的な形で幕を閉じることになった、
絶望的なダメージを受けた北海道経済は、その後札幌テルメ、エイベックス洞爺など拓銀傘下の企業の倒産、不良債権の回収、企業の借入金の北洋銀行への移行などで大揺れに揺れ、個人投資家の抵当証券の保護と北海道は山積みの問題を抱えることになる、
不良債権で傾きかけた札幌の老舗丸井今井や地崎工業は一部救済を受け再建の道を歩むが、救済を受けることが出来ない中小の企業は倒産の道を辿った、この間多数の企業や個人が拓銀破綻の巻き添えをくって倒れていった、北海道にとって道民にとって拓銀はエリート銀行、拓銀から融資を受けているというだけで会社の看板になるような存在、拓銀の行員はエリート社員で札幌の街を風をきって歩いていた、企業も道民もこの権威ある銀行を信じ切っていたのだが・・・
皮肉なことに拓銀傘下に入れず道銀グループの番頭さん的存在に甘んじていたニトリは今絶好調である。
■慢性的不況の続く現在
今までみてきたように北海道経済そして札幌市の経済は拓銀破綻後、先の見えない長い不況のトンネルの中に入って行く、
拓銀破綻から三年経過しているが、あっという間にすぎてしまった、昨日のことように思える
、いやもうずっとずつと前の過去のように思えることもある、もう何年かすると名前さえ忘れ去られてしまうのであろう、
札幌では今でも不良債権問題で明日をもしれない企業がたくさんあるというが、毎月のように地元の大型企業の倒産があり、そのつど暗い気持ちにさせられるが、若い人たちは、そういう問題に何故か冷ややかで、「またつぶれたか」
程度にしか考えてくれていないのが寂しい、21世紀はあなたたちの時代なのに・・・
しかし道内企業でも元気のある企業はたくさんある、今道内の特徴は一社一人勝ちというそうだ、産業ごとに一社だけが強力で後は全滅という現象らしい、
ラルズ、ホーマック、ニトリ、ツルハ、セイコーマートという好調な企業がその例である、
こういった企業の後についていく企業がどんどん出てくることを希望します、
またジェトロは道内企業の海外進出が二年連続増加したと発表したり、函館市は昨年度道外での物産展で史上最高の売上げを記録したと発表している、
それこそが、これからの本道経済の進む道ではないか、食の祭典や拓銀破綻をみても、間違いなく裏に官の存在がいて官主導で市場を道内において本州の人を道内に呼び寄せるために大きなゴルフ場やホテルをつくったり、失敗したカナディアンワールド、エイベックス洞爺のような巨大なリゾートに手を出した、観光も本州客を沖縄や海外にとられて伸びず、ただ設備投資させてホテルの経営を悪化させているだけです、また本州企業をいくら誘致しても失業対策にしかならない、それどころか道内企業を弱体化する恐れだってある・・・
これからは道内企業が民間ベースで本州、海外に進出して北海道に税金をもたらすための基盤づくりを道に期待したい、こういう不況という経済の中では待ちの姿勢では何も解決しない、外に出て北海道を売り込む姿勢が必要だ、北海道には、本州にないたくさんの資源があり、道産子にはヨサコイにみられたような大地を揺るがすようなバイタリティがある。
(2000/5 masa's room日記より抜粋)