元寇長門襲来説

なにやらブームらしいが(2008/06/25 2009/06/04Last Update)
★追記(2008/07/01)★追々記(2008/10/21)★追々々記(2009/01/20)★追々々々記(2009/04/14)
★追々々々々記(2009/06/04)★蛇足(2008/11/27)

■ コラム ■

□ 真田六文銭と『蒙古襲来絵詞』

戦国時代に勃興した、武田氏旗下の信濃国豪族真田氏の家紋が「六文銭(「六連銭」とも)」であることは、よく知られています。真田氏が「六文銭」を家紋あるいは戦場の旗印としていつ頃用いるようになったのか、残念ながら詳しいことはわかりません(※1)

六連銭真田六文銭(もどき)。家紋としては非常に有名。

現在WEB上では、おおざっぱに集約すると「鎌倉時代の蒙古襲来に際し(真田氏と同族の信濃豪族によって)六文銭の旗が用いられた様子が『蒙古襲来絵詞』に載っている」という言説が、一部で流布(※2)しています。しかし、これが間違った認識であることは、実際に『蒙古襲来絵詞』に目を通せば明らかです。管見の限り、六文銭のイメージに関係のありそうな箇所は以下の部分(『蒙古襲来絵詞』詞十一) (※3)だけです。

せんはうをうしなひしところに連銭の旗たてたる大船をしきたりしをかうたの五郎城次郎殿の旗とおほゆるゆきむかてみよとて使者をつかハす

このように『蒙古襲来絵詞』の絵ではなく詞書に載っているわけですが、「六文銭」ではなく「連銭」であり、使用者とされるのは「城次郎殿」こと安達盛宗です。「六文銭」は「六文連銭」「六連銭」とも言いますから、「連銭」の語がすなわち「六連銭」「六文銭」であると短絡的に結びつけたり、それを使用するからには真田とゆかりの信濃豪族に違いないと勝手に想像してしまうウッカリさんがいるのでしょう。気をつけたいものですね。

「連銭」そのものについては、『蒙古襲来絵詞』のほか、『太平記』にもその名が見え(※4)、鎌倉時代末にはどこかの旗に使われていたことがわかります。また、長尾景虎(上杉政虎・謙信)が1560(永禄3)年から翌年にかけての関東出兵に際して作らせた「関東幕注文」(※5)には、箕輪衆の大戸氏、羽尾氏が「六連んてん」の紋を用いることが記されています。

いずれにせよ、真田氏の「六文銭」のルーツが『蒙古襲来絵詞』にあるとは言い難い状況です。まあ、本当に『蒙古襲来絵詞』に「六文銭」が描かれていれば、今の時代、WEB画像の提示くらいはあってもよいのですが、見当たらないし。手元の書籍などを参照すると、『蒙古襲来絵詞』には竹崎季長の旗印「三目結い吉」をはじめ、少弐氏「寄懸り目結(四目結)」や菊池氏「並び鷹の羽」、島津氏「鶴の丸(?)」「十字」、大矢野氏「丸に五三の桐(?)」、白石氏「丸に鶴亀松竹(?)」など(※6)が描かれています。そのあたりに注目してこの絵巻を眺めるのも、また一興かもしれません。

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※1
WEB上の記事によれば、『真武内伝』(信濃史料叢書四)に海野幸広が六連銭を家紋としたという治承・寿永の内乱の水島合戦譚があり、また『長倉追罰記』(改定史籍集覧一三・続群書類従二一輯下)や『大塔軍記』(改定史籍集覧一四・信濃史料叢書五・続群書類従二一輯下)にも海野氏が六連銭を家紋としていることが記されているというが、未確認。
「小助官兵衛の部屋」「小助の部屋/滋野一党/海野滋野氏」海野幸広
「日本家紋研究会」長野県の家紋と姓氏 「長野県より発生した代表的な家紋」2.六連銭

少なくとも「奥会津戦国風土記」の会津雑記「家紋の話U(長倉追罰記)」で引用紹介されている『長倉追罰記』(続群書類従)には「六連銭」に類するものはなく、大戸氏・羽尾氏は「飛つはめ(飛燕:ただし想定紋)」である。

※2
以下全て引用はコピペ

「家紋の湊」器物紋「銭」
「鎌倉時代にはすでに家紋として成立していたようで「蒙古襲来絵巻」に六連銭の旗が翻っています」

「家紋職人korobiyaの一日一力」2007/8/28「☆家紋☆34話「真田の本懐」真田家の家紋」
「六連銭文が初めて史籍に顔を出すのは「蒙古襲来絵巻」で、信濃の滋野氏の家紋になっている」

「日本家紋研究会」長野県の家紋と姓氏 「長野県より発生した代表的な家紋」2.六連銭
「家紋として史籍に現れるのは『蒙古襲来絵詞』であり、さらに『太平記』『大塔軍記』にも掲載されている」

「古寛永銭収集研究」「古寛永用語解説−2」銭紋(せんもん)
「銭を家紋・旗印とした武将は多い、最初に使用したのは『蒙古襲来絵巻』の六連銭という家紋として記載されている」

SANADA GLOSSARY05.「他 ET CETERA」六文銭紋
「鎌倉時代に成立した「蒙古襲来絵詞」にも五郎城次郎の指物として「連銭の旗」が描かれており、真田氏が考案したわけではないらしい」

※3
大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』より。
九大デジタル・アーカイブGALLARY「蒙古襲来絵詞」では引用部(「詞十一」)ほか全て参照可能。

※4
J-TEXTS 日本文学電子図書館の荒山慶一氏作成「太平記・国民文庫本」から引用。(『太平記』巻17「山攻事付日吉神託事」)
又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三■、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。
※5
東京大学史料編纂所「公開データベース」古文書フルテキストDB「関東幕注文」から引用。(大日本古文書 家わけ第十二 上杉家文書之一(482)p.457「関東幕注文」)
箕輪衆
(中略)
大戸中務少輔 六連んてん
(中略)
羽尾修理亮 六連んてん
※6
以下、テキストは大倉隆二『「蒙古襲来絵詞」を読む』より、画像は九大デジタル・アーカイブGALLARY「蒙古襲来絵詞」より。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)に見られる旗印
三目結吉竹崎季長の旗印「三目結吉」。持っているのは旗指三郎二郎資安。
少弐経資の旗印少弐経資の旗印「寄懸り目結(四目結)」。デジタル・アーカイブ九大本では欠落していますが、三の丸尚蔵館本では少弐景資の本陣にもっとはっきり描かれた場面があります。
並び鷹の羽菊池武房の旗印「並び鷹の羽」。九大本にはないが、三の丸尚蔵館本には画中墨書「菊池次郎旗」とあります。
島津久親の旗印島津久親の旗印。WEB上では「鶴の丸」「十字」とされることが多いが、「十字」はともかく上はよくわかりません。
大矢野氏の旗印大矢野氏の旗印。WEB上では「丸に五三の桐」とされることが多いが、よくわかりません。
白石通泰の旗印白石通泰の旗印。WEB上では「丸に鶴亀松竹」とされることが多いが、よくわかりません。
謎の旗印石築地の端に座る人物が持つ旗印。何の紋かわかりません。

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★追記(2008/07/01)

機会があったので、近隣の市立図書館でこの頁に関連した事項をいくつかあたってみた。

ぜにのもん(銭紋)(加藤秀幸)
古くは連銭紋が『蒙古襲来絵詞』に城(じょう)次郎(安達盛宗)の旗紋として記されるが、形体・箇数は不明。

銭紋がはじめて文献にあらわれてくるのは「蒙古襲来絵詞」で、城次郎が六連銭の旗をひるがえしている。(p.364)
2.六連銭紋
六連銭紋がはじめて文献にみえるのは「蒙古襲来絵詞」である。「滋野氏三系図」によれば、海野弥太四郎幸広のとき六連銭を用いたという。「太平記」「大塔軍記」にも六連銭はみえ、「関東幕注文」には箕輪衆の大戸中務少輔、羽尾修理亮のニ氏とある。(p.366)

図書館には小松茂美『日本絵巻大成(14)蒙古襲来絵詞』(中央公論社1978年)があり、底本が三の丸尚蔵館本であったので絵の部分を一通り確認したが、やはり六連銭らしきものは見当たらなかった。従って、やはり『国史大辞典』の記述を是とするべきであり、『家紋大辞典』の記述は不適切と考える。また、丹羽基二『苗字百科・家紋百科』(近藤出版社1987年)も確認したが、「六文銭紋」の説明で『蒙古襲来絵詞』には触れていない。ただし、知られている通り『蒙古襲来絵詞』にはいくつも写本があるので、あるいはそのいずれかで「六連銭」を見ることができるのかもしれない。

もっとも、私は積極的に探す気は(悪魔の証明なので)しないが。それは「鎌倉時代の蒙古襲来に際し(真田氏と同族の信濃豪族によって)六文銭の旗が用いられた様子が『蒙古襲来絵詞』に載っている」という言説を、是とする立場が為すべきことである。

また、『続群書類従(第二十一輯下合戦部)』(続群書類従完成会大正14年発行/昭和57年訂正三版第六刷)所収の「長倉追罰記」「大塔物語」も確認した。「長倉追罰記」には見当たらないが、「大塔物語」には「旗笠験幕文」として挙げられた中に「連銭」の語がある。

各相分十一手。方々取陳。思々旗笠験。幕文社■[言慈]。一文字二文字。二引両。三引両。木合。輪違乱文菱形亀甲。連銭裾濃。蝶丸。■[雨のしたに鵠]丸。三葉柏。日本唐笠。三本松。天盖。■[手偏に委]嵐。耀夕日之景。■[示兆]亘為体。

近隣図書館で手に取ることが可能な『国史大辞典』と『家紋大図鑑』を比較すると、WEBで流通する誤った言説の原因は後者と言えよう。家紋に興味を持ち、総覧的な情報発信を行っているサイトにあっても、基本的には単体の辞書の記述をなぞるだけのことが多いようである。これはむしろ情報受信者のリテラシーに拠るべきところかもしれない。

しかしながら、家紋を愛好したり、画像データを配布するほど拘っているにも関わらず、最古の描写の存在を単体の辞書に拠るだけで、どう描かれているかを自分の目で確認せずに済ませているということが、私にはなんとも理解しがたい。実際の配色とか配置とかサイズとか使い方とか、気にならないんだろうか。『蒙古襲来絵詞』なら大手の図書館ならたいてい置いているわけで、探せば手の届くところにあるというのに、もったいない。

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★追々記(2008/10/21)

機会があったので、別の市立図書館でこの頁に関連した書籍をあたってみた。

第九五話 六文銭物語
連銭の歴史
連銭紋は、かなり古くからあったようだ。
『蒙古襲来絵詞』を見ると、「連銭の旗たてたる大船をしきたりしを、かうたの五郎、城次郎殿の旗とおほゆる」とあって、すでに鎌倉中期に連銭紋があったことがわかる。次いで『太平記』にも連銭紋が見え、『大塔軍記』にも連銭がある。
『関東幕注文』には、連銭のことばに、はじめて「六」の数字を付け、大戸氏と羽尾氏が用いたとある。羽尾氏は、上野国吾妻郡羽尾村出身の豪族で、大戸氏も同国同郡大戸村の住人である。羽尾氏とは姻戚関係にある。
この二氏は、ともに「飛つばめ」紋を用いたが、前文をみると六連銭も用いたことがわかる。これは何によるか?
もともと羽尾氏は信州が本拠で、滋野姓海野氏流である。従って、本家の紋を用いたことがわかり、大戸氏もこれに従った。『蒙古襲来絵詞』にでてくる「かうたの五郎」と「城次郎」はどうか?
かうたは合田で、もと会田氏のこと。この氏は信濃国東筑摩郡会田村出で、滋野姓海野氏流、城氏も信濃発祥の滋野姓望月氏流である。
以上を考えると、滋野氏流はみな六連銭を用いていたと推してもまちがいなかろう。なお、『信濃滋野氏三家系図』には、海野弥太郎幸広のとき六連銭を用いたとある。幸広は鎌倉初期の人物だから、このころ、六連銭がすでに用いられたのである。

この『家紋百話』(上下巻)は、『歴史と旅』(秋田書店)に「紋章百話」の題で1978年から1988年まで、100回連載されたものを加筆訂正して出版されたとのこと。現在WEB上の一部で流布している「鎌倉時代の蒙古襲来に際し(真田氏と同族の信濃豪族によって)六文銭の旗が用いられた様子が『蒙古襲来絵詞』に載っている」(さんにゃんによる大雑把なまとめ)という言説のモトは、おそらくコレと推測される。もっとも、著者の丹羽基二氏は家紋関連の書籍を大量に書いているので、この本とは限らないが。

さて、引用部の史料紹介については、特に異論がない。「この二氏は、ともに「飛つばめ」紋を用いた」という箇所は、『長倉追罰記』の「大戸羽尾か飛つはめ」に拠るものだろう。「本家の紋」云々の表現も、後述される『信濃滋野氏三家系図』の海野幸広が六連銭を用いたというエピソードに拠るか。「信州滋野氏三家系図」は『続群書類従』七輯上に収められているらしいので、機会をみて確認したいところ。

しかしながら、『蒙古襲来絵詞』該当箇所の解釈については、ふたつばかり問題がある。ひとつは、ここに登場する「連銭の旗」を、「かうたの五郎」「城次郎」両者が共通して使用している「旗」と捉えているところ。もうひとつは、「城次郎」「信濃発祥の滋野姓望月氏流」城氏の一族と捉えているところだ。

まずひとつめ。これはそもそも、引用の仕方に問題がある。もう一度、句読点その他を加えて該当箇所を引用すると、以下の通り。

せんはうをうしなひしところに、“連銭の旗たてたる大船”をしきたりしを、かうたの五郎「城次郎殿の旗とおほゆる。ゆきむかてみよ」とて、使者をつかハす。

「かうたの五郎」は、目前に現れた大船に立っている「連銭の旗」を見て、「城次郎殿の旗」と判断し、「城次郎殿の旗とおほゆる。ゆきむかてみよ」というセリフを言って、使者を出したのである。

このような書き方は、例えばこの場面の直前にもある。肥後国御家人の「しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候」という報告と、竹崎季長の「ふねにのせ候はよきものにてそ候覧、これを一人もうちとゝめたくこそ候へ」という意見を受けての場面。

かうたの五郎「『“異賊はやにけかへり候”と申候。せいをさしむけたく候』と少弐殿へ申へし」とて、使者をつかはす。

「かうたの五郎」は、指揮官の「少弐殿」へ「異賊は逃げ帰ったということなので、追撃したい」という意見を具申する使者を出している。このように、「かうたの五郎○○とて使者をつかはす」と書かれる時、○○は「かうたの五郎」が表明する意志であり、使者に求める行動なのである。

著者の丹羽基二氏は、「大船」に立てられた「連銭の旗」を「かうたの五郎、ならびに城次郎の旗」と捉えているが、誤りである。この場合、「連銭の旗」「城次郎殿」の旗ではあっても、「かうたの五郎」の旗ではありえない。

もうひとつ、「連銭の旗」を立てている「城次郎」は誰か、という点。これについては、『蒙古襲来絵詞』絵二十一に明記されている。竹崎季長が「分捕り首」を見参に入れている相手、「肥後国時之守護人城次郎盛宗」こと、安達盛宗である。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵二十一に描かれた城次郎
城次郎画中墨書は「肥後國/時之守護人/城次郎/盛宗」

なぜ安達盛宗が「城次郎」と称しているかといえば、父親の安達泰盛が「秋田城介」だからである。試みに、手近なところで主要な御家人が鎌倉将軍の前に居並んだ『吾妻鏡』弘長三(1263)年正月一日条から、「城」のつく人物をざっと拾ってみる。使用したのは国史大系『吾妻鏡(4)』(吉川弘文館/昭和58年)である。

冒頭、庭に整列した場面では「秋田城介」「城四郎左衛門尉」「城六郎兵衛尉」「城弥九郎」がおり、馬揃えでは「城六郎兵衛尉顕盛」「同九郎長景」がいる。相州禅室(北条時頼)亭供奉人には将軍の側に「秋田城介泰盛」「同九郎長景」が、中御所(将軍夫人)の側に「城四郎左衛門尉時盛」がいる。

このように、安達泰盛が「秋田城介」であり、一族はそこから一字をとって「城○○」を通称としているのである。これは当時の通例で、例えば当時「相州禅室」(正確には前相模守)と称される北条時頼の子息は、独自に官職を有している(左馬権頭)嫡男の時宗を除き、「相模四郎宗政」「相模三郎時輔」「相模七郎宗頼」である。そして、連署である「相模守」北条政村の子息は「相模左近大夫将監時村」である。

問題の「城次郎」こと安達盛宗がいないのは、父の安達泰盛の年齢(弘長3年には33歳)からして、幼少ゆえであろう。上記のうち、城九郎(あるいは弥九郎)長景は、『蒙古襲来絵詞』絵十に「やすもりのしやていしやうの九らうハんくわん」(泰盛の舎弟城九郎判官)として登場している。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵十に描かれた城九郎判官
城九郎判官画中墨書は「やすもりのしやてい/しやうの九らうハんくわん」

著者の丹羽基二氏は、「城次郎」「城」を苗字と捉え、「信濃発祥の滋野姓望月氏流」城氏としているが、誤りである。「城次郎」は、父安達泰盛が「秋田城介」であることによる、安達盛宗の通称であって、城氏とは関係ない。

従って、『蒙古襲来絵詞』において、「かうたの五郎」「連銭の旗」を使っておらず、「連銭の旗」を使っている「城次郎」こと安達盛宗も「滋野姓望月氏流」城氏ではない。『蒙古襲来絵詞』には確かに「連銭の旗」が登場するが、それをもって現在WEB上の一部で流布しているように、「鎌倉時代の蒙古襲来に際し(真田氏と同族の信濃豪族によって)六文銭の旗が用いられた様子が『蒙古襲来絵詞』に載っている」(さんにゃんによる大雑把なまとめ)と言うことは、できないだろう。

以上、丹羽基二『家紋百話』中の『蒙古襲来絵詞』解釈に対して、気づいたところの異論を述べてみた。発表されて数十年が経とうというテキストであり、同様の指摘がすでになされているかもしれない。しかし、少なくともWEB上でざっと調べたところでは見当たらなかったので、指摘することが無駄にはなるまいと考え、当頁を作成した。

当頁の指摘が、いわゆる重箱の隅をつつくものであることは、改めて述べるまでもなかろう。もとより、丹羽基二氏の業績は、当頁における指摘のごとき若干の瑕疵によって、ゆらぐものではない。

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★追々々記(2009/01/20)

東京堂出版から2008年発行の、日本家紋研究会関係者による『家紋の事典』を図書館で見つけたので、チェックしてみた。

第2部 家紋総覧 銭(ぜに)―器材紋
銭紋はその名の通り通過を象った文様である。『蒙古襲来絵詞』にみえる連銭が初見で、これは使者の柩に入れる六道銭を象った信仰的な意義を持つ文様である。(中略)

この書き方だと『蒙古襲来絵詞』にみえる「連銭」が「六道銭」を象っていたように読めるので、紛らわしいと思う。連銭が全て六文というわけではないのだし、第二文は前後を入れ替えた方が良いのではないだろうか。

【使用家】無文銭と有文銭では、その初期においてはほとんど使用家に共通性がなく、その意義も異なると考えられる。『蒙古襲来絵詞』に「連銭の旗たてたる大船をしきたりしを合田の五郎城次郎殿の旗」と記され、弘安の役の軍奉行合田氏が連銭文を使用していた。(以下略)

これまでの見解を引き継ぎ、「連銭」を合田氏のものとしている。いやだからココ、「大船」「連銭の旗」「城次郎殿の旗」らしいと「合田の五郎」が言っているシーンなんだってば。引用が絶妙なところで切られていて気にかかる。

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★追々々々記(2009/04/14)

専門の中世史研究者が蒙古襲来絵詞に見られる「連銭」に言及していたので紹介する。

季長は、弘安四年(1281)の再度の蒙古の襲来で海戦に参加する。肥後国守護代安達盛宗の「連銭」の家紋をたてた大船にのり、小船に乗り移り傷を負い奮戦した。敵船に乗り移ることはできなかったが、合戦後、盛宗の記録には一番に季長の名が載せられた。討死した土佐房道戒の証人に盛宗家臣の玉村盛清をたて、恩賞にあずかる責任もはたした。ちなみに、「連銭」の家紋には真田家の六文銭が著名で、六道銭にちなむともいう。『蒙古襲来絵詞』の盛宗の鎧のすそに連銭らしい紋様がみえる。これが安達家の家紋であろうか。(166頁参照)

「参照」とされている166頁の掲載写真は、絵二十一で季長が首ふたつを安達盛宗の実見に入れている図である。この「連銭らしい紋様」とは、九大本では省略されているが、本書ならびに大倉隆二『蒙古襲来絵詞を読む』の三の丸尚蔵館本では、盛宗の脇に置かれた鎧の草摺の裾の畦目の部分に描かれた「◎」を指すものであろう。脱いで置かれた状態なのでわかりにくいが、前草摺の裾に中央と左右の端で「◎」が三つと、足で隠れているが射向草摺の裾の端に「◎」一つが見える。ただ、鎧のこの部分に家紋を描く例を他に知らないので、容易には首肯しがたい。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵二十一に描かれた安達盛宗と鎧
安達盛宗と鎧九大本では草摺の紋様は省略されている。ちょうど籠手の部分に描かれたような「◎」の紋様が、三の丸尚蔵館本では畦目の部分に描かれている。

なお、この「◎」のならびをもって「連銭」とし、安達氏の家紋と考えるならば、絵十に描かれた「やすもりのしやていしやうの九らうハんくわん」(泰盛の舎弟城九郎判官)の直垂も、「連銭」紋様なのかもしれない。九大本では白描の水玉模様だが、三の丸尚蔵館本では青地に白抜きで「◎」が散っている。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵十に描かれた城九郎判官
城九郎判官画中墨書は「やすもりのしやてい/しやうの九らうハんくわん」
直垂が水玉模様。あるいは「連銭」か。

直垂に家紋を散らす類例は、絵九で白地に濃色で北条氏の「三つ鱗」を散らした直垂の人物が見えるなど、いくつかある。九大本では、塗りが途中でとまっている。改めて見返していて気づいたので、付記しておく。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵九に描かれた三つ鱗の直垂
三つ鱗の直垂直垂が三つ鱗模様。九大本では塗りが中途半端だが、三の丸尚蔵館本では三つ鱗が全体に散っている。
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★追々々々々記(2009/06/04)

読んだことをすっかり忘れていたが、再読していて『蒙古襲来絵詞』の連銭に関する記述を見つけたので紹介する。

人々は回航してきた兵船に乗り込んで、つぎつぎに出撃するが、季長は自分の兵船がこないので、大いにあせる。その時、連銭(銭はドーナッツ様の紋章で安達家の家紋。『蒙古襲来絵詞』では、泰盛の弟の九郎判官の直垂や、子の盛宗の甲冑に描かれている)の旗をたてた大船がきた。幕府が派遣した奉行の合田五郎が「城次郎殿(安達盛宗)の船らしいから見てまいれ」と使者を使わした。

読みやすい現代語訳とあわせて、追々々々記(2009/04/14)で指摘したことが書かれている。『安達泰盛と鎌倉幕府―霜月騒動とその周辺』より先に読んでたはずだが、当時は連銭紋に興味がなかったので読み流し、すっかり忘れていたもよう。それともどこか記憶にあったから、城九郎判官の直垂が目についたんだろうか。この指摘が自分だけでないと知って、自信を持ったような、残念なような。

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★蛇足(2008/11/27)

旗印ではないが、『蒙古襲来絵詞』に「連銭」ぽいものが描かれていることに気づいた。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵十二に描かれた連銭らしきもの
描かれた「連銭」らしきもの

上図は、石築地に陣取る菊池武房の前を、竹崎季長の一行が通っている場面。ここに旗印ではないが、いわゆる「連銭」ぽいものが描かれている。詞書を見ても特に「連銭」とは書かれていないので確証はないが、おそらく「連銭」のつもりで描いたと想像される。

注目すべきは、である。

九大デジタル・アーカイブ「蒙古襲来絵詞」(九大本)絵十二に描かれた馬
馬中央の馬に注目。毛並みの模様が「連銭」ぽく描かれている。

石築地の手前、竹崎季長一行に、連銭ぽい毛並みの馬に乗っている武者がいる。でも、見回した限り、これを指して「『蒙古襲来絵詞』に描かれた六文銭」と言ってる人はいないようだ。…当たり前か。

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★参考文献・サイト








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