元寇長門襲来説

還るを得たる者三人(2004/03/31)

■ 海外史料 ■

□ 『元史日本伝』


『元史』巻208外夷伝・日本
十八年正月、日本行省右丞相阿刺罕・右丞范文虎および忻都・洪茶丘等に命じ、十万人を率いて日本を征せしむ。二月、諸将陛辞す。帝勅していわく、「始め彼の国の使来りしに因り、故に朝廷もまた使を遣わして往かしむ。彼れ遂に我が使を留めて還さず。故に卿が輩をしてこの行をなさしむ。朕、聞く、漢人の言に『人の家国を取るには、百姓・土地を得んことを欲す』と。もし尽く百姓を殺さば、徒らに地を得るとも何の用かあらん。また一事あり、朕実にこれを憂う、おそらくは卿が輩和せざらんのみ。仮りにもし彼の国人至り、卿が輩と議する所あらば、当に同心協謀、一口に出ずるが如くこれに答うべし」と。五月、日本行省の参議裴国佐等言う、「本省の右丞相阿刺罕・范右丞・李左丞、先に忻都・茶丘と入朝せしとき、院の官と議し、舟師を領して高麗の金州に至り、忻都・茶丘の軍と会し、しかる後入りて日本を征せんことを定む。また風水便ならざるために、再び議して、一岐島に会せんことを定む。今年三月、日本の船風水のために漂い至る者あり。その水工をして地図を画かしむ。因りて見るに、太宰府の西に近く平壺島なる者あり。周囲皆水にして、軍船を屯すべし。この島はその防ぐ所にあらず。もし径ちに往きてこの島に拠り、人をして船に乗りて一岐に往き、忻都・茶丘を呼ばしめ、来り会して進み討たば利となさん」と。帝いわく、「この間は彼の中の事を悉さず。よろしく阿刺罕の輩必ず知り、それをして自からこれを処せしむべし」と。六月、阿刺罕病を以て行くこと能わず。阿塔海に命じ代りて軍事を総べしむ。

「十八年」は至元十八年、1281(弘安4)年である。いわゆる弘安の役の過程が描かれている。金州から出陣する忻都・洪茶丘らの東路軍、日本行省の阿刺罕・范文虎らの江南軍が壱岐で合流する作戦だったこと、また日本からの漂流民から沿岸の情報を得ていたことが記されている。末尾では江南軍の指揮官が阿塔海に交代したことが見える。


八月、諸将未だ敵を見ざるに、全師を喪って以て還る。乃ち言う、「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す。暴風舟を破る。なお戦わんことを議せんと欲せしも、万戸雌ソ彪・招討王国佐・水手総管陸文政等、節制を聴かず、輒ち逃れ去る。本省、余軍を載せて合浦に至り、散遣して郷里に還らしむ」と。未だいくばくならずして、敗卒于□[門に昌]脱れ帰りて言う、「官軍、六月、海に入り、七月、壺島に至り、五竜山に移る。八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主帥となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余の二、三万はそのために虜去せらる。九日、八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴となす。□[門に昌]が輩はこれなり」と。けだし行省の官、事を議して相下らず。故に皆軍を棄てて帰る。これを久しくして莫青と呉万五とまた逃れ還る。十万の衆、還るを得たる者三人のみ。

弘安の役の過程を、帰還者の報告から述べている。暴風の記述はあるが、長門における戦闘らしきものはない。


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