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中山忠光遭難夜話

誘い出された(2015/01/10)

■ 遺跡 ■

★大田新右衛門旧宅

◆山口県下関市豊北町田耕杣地

◆風景

大田新右衛門旧宅は、下関市豊北町田耕杣地、国道435号線を田耕神社のところで白滝山方面に曲がり、本宮中山神社に行く途中にある。豊北町観光協会による案内板が建てられている。1864(元治1)年11月上旬、この家に滞在していた中山忠光は、夜半に川上の四恩寺への移動を促され、誘い出されて暗殺された。忠光の大田家滞在期間ははっきりしないが、8月上旬の黒井村(現在の下関市豊浦町黒井)道源家滞在以後のこととされる。現在の建物は、中山忠光滞在時より後に、建て直したものである。

大田新右衛門旧宅・風景
大田新右衛門旧宅白滝山麓、本宮中山神社へ向かう道の途中。現在の建物とは違うが、中山忠光はこの家に滞在していた1864年11月上旬、誘い出されて上流の四恩寺に移動する途中に暗殺された。2014年10月撮影。
本宮中山神社方面を望む本宮中山神社方面を望む。2014年10月撮影。
旧・現地案内板旧・現地案内板。1980(昭和55)年に建てられた。西嶋量三郎『中山忠光暗殺始末』(新人物往来社/1983年)をもとに書かれているようだ。2013年9月撮影。
現地案内板2014(平成26)年に建てられた現地案内板。内容は旧版にほぼ準拠。2014年10月撮影。
◇現地案内板(2014年)
中山忠光卿隠棲の地 大田新右衛門旧宅

忠光卿は、長州藩の国司直記に護られて元治元年(一八六四年)八月下旬、室津観音院からひそかにこの家に着いたという。
この大田家の表の間と中の間で一行六名の生活がはじまり、宮原力蔵を雑役夫として雇い、他の者は殆どこの間から出ず、夜は雨戸を閉めての生活であったと聞く。
今も残してある上の井戸は、縁からそのまま汲め、水がきれいで美味しく、当時は梅の木も傍らにあって風情があると忠光卿も大変喜ばれ「梅の井」と名付けられたという。
その後、十月中旬に大林家に移るまで、この家に滞在したが、米や野菜の心配と他に漏れない心遣いが、家中をどんなに緊張させたことか計り知れないものである。
十一月五日の夕方、庄屋山田幸八の忠告により一行は、急遽、ここ大田家に移された。そのため縁にたくさん置いてあった籾。筵を大急ぎで納屋に片付けて迎えたという。
そして、十一月八日夜九時、発熱で伏せていた忠光卿に戸をたたいて危険が迫っていることが告げられ、四恩寺への避難のすすめに従い、長瀬の渓谷で、待ち伏せていた刺客により、あの痛恨の惨事に遭われたのであった。

思いきや野田の案山子の梓弓引きも放たで朽ち果つるとは

   平成二十六年二月 豊北町観光協会
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◆来歴

大田新右衛門旧宅・来歴
年代月日事項出典
1864(元治1)年8月中山忠光一行が到着、滞在。現地案内板
1864(元治1)年10月中旬中山忠光一行が移動。現地案内板
1864(元治1)年11/5中山忠光一行が到着、滞在。現地案内板
1864(元治1)年11/8中山忠光が一人誘い出される。襲われた報を聞いて恩地トミほかも移動。『中山忠光暗殺始末』

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◆アクセス

国道435号線から、バス停「五千原」「出合」の間で、白滝山・田耕神社方面に曲がる。松崎橋を渡り、田耕神社の鳥居の下の右の道を、ひたすらまっすぐ白滝山に向かう。途中、杣地集会所、白滝山CEF(風車)の機材置き場を左に見ながら進むと、左手に大田家がある。国道435号線からは車で約5分。現地案内板の前の道が少し広くなっていて停車可能。白滝山へ向けてさらに進めば本宮中山神社、さらに四恩寺跡に至る。

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★忠光遺跡★

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