kitunoの謎シリ−ズ

(この「謎シリ−ズ」はkitunoの妄想・kitunoのトンデモ推理です。それを念頭にお読み下さい^^;)


1)秦氏の謎

中国側の史料『隋書』には、筑紫から東に行く途中に「秦王国」なる国があったことが書かれています。「秦王国」とは「秦氏の国」と思われるのですが、何処にあった国を指すのかがわからないのです。
この「秦王国」について、「其の人華夏と同じ」と居住している人のことを書いているところを見ると中国系渡来人が多く住んでいた所なのではないか、と推理できます。

聖徳太子の最も重要なブレ−ン「秦河勝」とは何者なのか?この「秦王国」に関わりがあるのだろうか?
この疑問がきっかけとなり、2000年夏に京都太秦を(kitunoの旅「太秦」参照)、2001年春に「播磨の旅」を決行しました(kitunoの旅「播磨編」参照)。播磨には聖徳太子が「勝鬘経」の講読を行った際に推古天皇から送られた土地があったり、また古くから渡来人(特に辛国など)に関する遺跡が豊富にあるとされていることから、「秦王国播磨説」が説かれてきました。

隋書にある「秦王国」については、梅原猛氏の「聖徳太子」下巻に、「秦王国という以上、秦氏の国に違いないが、秦氏は、応神帝の時に来朝した弓月(ゆみつき)君の子孫である。姓氏録はこの弓月君なるものは、秦の始皇帝の五世の孫・融通王であるとする。秦王国は、この秦氏の多くいた国に違いないが、周防(山口県東部)、豊前(福岡県の一部と大分県の一部)ともいわれるが、明らかでない。」とあります。

・秦氏はどこから来たのか?

秦氏は弓月君にひきつられて百済から帰化した中国系住民で、各地に住んで機織りなどの技術で多大の貢献をすることになり、平安期の資料(新撰姓氏録)によれば、一族は一万八千七百六十人の多くに上っているそうです。しかし、秦氏についていろいろ調べていくと、「百済系」という『日本書紀』の記述には疑問が生じ、むしろ「新羅系」ではないかと思えてきます。
実際、秦氏は「新羅系」とする説が有力なようです。

その根拠としては、秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は「新羅系」の瓦が殆どであったり、また秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」にある国宝第一号として有名な「弥勒菩薩半迦思惟像」も、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像(現在、韓国国立中央博物館所蔵)と材質以外はうりふたつであり、しかも広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明していることなどがあげられるようです。

私も、秦氏は新羅系の帰化人であることは間違いないのではないかと思います。

・秦氏関連の神社は何故多いのか?

広隆寺は秦氏のお寺ですが、秦氏は新羅系の帰化人でありながら仏教よりも神祇信仰に縁が深いのです。
京都の中心にある上賀茂神社、嵐山の松尾大社、南の伏見稲荷、大分県の宇佐八幡などの八幡神社などは全て秦氏の勧請とされています。これらの神々は、新羅に仏教が伝来する以前の古い神々であるようです。
ここで新たな謎が生まれます。
日本古来とされている「神道」は、本当はどこから生じたのでしょうか?
縄文時代以来、日本にはすべての「もの」に神が宿るという「アミニズム」が存在していましたが、このアミニズムと秦氏が持ち込んだ「神道」が結びついて、「日本神道」が生まれたのではないでしょうか?

秦氏が関係しているという「八幡」信仰。
もしかしたら、この「八幡=ヤハタ=ヤマタイ」ではないか、という妄想も浮かんでしまいます。

・「秦王国」は「邪馬台国」ではないのか?

私は邪馬台国は九州にあったと考えています。
神武東遷とは「邪馬台国東遷」であるという説を支持しています。
「秦王国」について調べていくうちに、どうしても「邪馬台国」と重なってしまうkitunoです。

宇佐神宮には「誉田別尊」「比売大神」「神功皇后」が祀られています。誉田別尊は「応神天皇」のことで「神功皇后」と一緒に祀られていることに納得できますが、では、比売大神とは誰なのでしょうか?
もしかしたら、「卑弥呼」のことなのではないのでしょうか?(具体的な根拠があるわけではなく、妄想ですが^^;)

『日本書紀』は神功皇后を「卑弥呼」にあてていますが、『日本書紀』は、宇佐神宮の祭神からこの二人を結びつけようとしたとは考えられないでしょうか。神武東遷が応神天皇の大和入りのコ−スとダブっていることはよく指摘されていますが、これは九州の勢力が大和入りし、天皇家となったということを暗示しているようにも思います。
こう考えますと、天皇家が道鏡事件などの際に何故わざわざ宇佐に神託を受けに行くのか、その謎も氷解していくように思えます。宇佐神宮には霊力の強い「巫女」が祀られている、つまり魏志倭人伝でいう「卑弥呼」が祀られているからではないでしょうか。「卑弥呼」からの神託を受けに行くのではないでしょうか。

天皇家はそもそも百済からの渡来人である、と言われていますが、本来は新羅系だった「秦氏」を「百済系」と『日本書紀』の中で記さなくてはならなかった理由もこの辺りに隠されているように思えるのですが、kitunoはまだ十分にその謎を解くに至っていません。^^;;

・聖徳太子にとって秦氏とは?

『隋書』倭国伝に書かれていて『日本書紀』には記載のない「600年の遣隋使」...。
『隋書』に書かれている「阿蘇山」の記述や「宇佐神宮」との関わりなどから、私は「秦王国」の所在地として、豊国(大分)説を取りたいと思います。そして、この時、遣隋使を派遣したのは「秦王国」の大王ではないか、と考えるようになりました。

小野妹子が派遣されたときには、通訳として鞍作福利が伴われていますが、600年に隋に派遣したときの通訳はどうなっていたのでしょう?
でも「其の人華夏と同じ」という「秦王国」からなら、言葉の問題もなく、隋に使者を容易に派遣できたのではないでしょうか。

聖徳太子は秦河勝を通じて、「秦王国」が隋に使者を送ったことを知り(もしかしたら、聖徳太子が秦王国から使者を派遣したのかも?)、その報告を受けて本格的に国使としての「遣隋使」派遣を検討するようになったのではないかと思います。
もし第1回600年の遣隋使が「秦王国」から派遣されていたとすれば、阿蘇山の記述についても、また小野妹子とともに来日した裴世清が筑紫のあとに「秦王国」に立ち寄った理由も説明がつくように思います。

また、 国史の編纂などで馬子と協力する一方で、仏教の取り入れ方で晩年の聖徳太子(厩戸皇子)が蘇我氏と対立する関係になったという見方がありますが、これは、蘇我氏が百済仏教であったのに対して、聖徳太子は新羅仏教であったからだとされています。
このことは、「蘇我馬子−漢」と「聖徳太子(厩戸皇子)−秦河勝」という勢力的結合という見方にも通じています。

用明天皇の時に、「豊国法師」が用明天皇の病気治癒のために呼ばれています。
「法師」ということからも、豊国には早くから仏教が伝えられており、独自の発展を成していたと考えられます。この「豊国法師」の仏教こそ秦氏が伝えた「新羅仏教」ではないかと考えられます。
聖徳太子は、「秦王国」を通じても新羅仏教の知識を得ていたのではないでしょうか。

593年に摂政になってからの約10年間、聖徳太子による主だった政策はありません。596年には伊予を訪れています。
伊予と豊国は僅かな海を隔てての隣同士です。このときに、聖徳太子が「秦王国」まで足を伸ばしてした可能性はないのでしょうか。

また、宇佐神宮の祭祀者の宇佐家の方が記された著書に、新羅で救世観音を拝した花郎集団が太子に深く関わっていたとの記事もあるそうです。(Syokoさんよりメ−ルで情報を提供していただきました。)

さて、ではこんなにも聖徳太子に近い存在だった秦河勝が、何故山背大兄皇子事件にその姿を見せないのでしょうか?

山背大兄皇子が蘇我入鹿に攻められた際、最も聖徳太子に近いブレ−ンであった秦氏が、山背大兄皇子の味方に付いた様子は『日本書紀』から読みとることはできません。
しかし、山背大兄皇子が入鹿らに攻められたとき、従っていた三輪君が深草の屯倉から東国に逃げて再起をはかるよう進言していますね。山背の深草が秦氏の地盤であったことは明らかです。
「深草屯倉」は天皇の直轄地であっても蘇我氏の力が及ばなかったので、三輪文屋は深草に逃げるよう進言しました。
秦河勝はこの深草の財力をバックに上宮王家に経済的支援をしていました。

この事件で、秦河勝が表面だって山背大兄皇子を救うことができなかった理由には、秦氏は古くから大和朝廷に仕える技術者集団であったことがあげられると思います。推古天皇時、摂政として厩戸皇子は「秦河勝」という優秀な人材と財力に着目し、聖徳太子のブレ−ンとして重用したのだと思います。

しかし、厩戸皇子は推古天皇よりも早く没してしまい、山背大兄皇子は世継ぎ候補には挙がっていたものの反対勢力も根強く、また皇太子として正式な立場にあったわけでもないので、天皇家に使えている秦氏としては、山背大兄皇子を救う立場にはなかったのではないでしょうか。

秦河勝は、その後皇極天皇の元で東国に派遣されたり、天皇家の服属者としての任務を全うしています。

また、平安遷都の際、土地の提供をしたのは「秦氏である」という説もあります。 

<参考>大酒神社の由緒書き
知る人ぞ知る「秦氏」の神社)

<参考文献>
『秦氏の研究』   大和岩雄・著     大和書房
『聖徳太子』    梅原 猛・著     集英社文庫
『聖徳太子の本』              学習研究社
『秦氏の謎』    飛鳥昭雄・三神たける・著   学習研究社

kitunoの謎シリ−ズ
(2)小姉君の謎

(3)法隆寺の謎

(4)中臣鎌足の謎