『常陸風土記』

風土記編纂の背景

『常陸風土記』は、現存の物は全本ではなく諸所を省略した抄本で、和銅の詔によってできたものであるらしく、菅政友の「常陸風土記考証」や伴信友の「風土記考」などでも「和銅のもの」と推理されています。

『常陸風土記』は、「古老相伝の旧聞」の物語的伝承の記録に重点を置き、その用語といいその文章といい非常に美しく優れたものでかなり漢文学に通達した人の手によってなったものであり、菅政友は養老年間(717−723)に、常陸国守であった藤原宇合によって編纂されたのではないかと推察しています。(参考:『常陸風土記新講』 井上雄一郎・著)

『常陸風土記』が編纂された時期は、大和朝廷による東北経営が積極的になり、蝦夷征討の最中でした。常陸国は、陸奥国と境を接する辺要の地として重要視され、基地としての役割を担っていました。

『常陸風土記』の特性

その巻頭に
「常陸の司、解す。古老の相伝ふる旧聞を申す事」
と記されているように、その意図は、 「古老相伝の旧聞異事を蒐集(しゅうしゅう)し、それらを整理して常陸国の歴史的・地理的性格を明確にすること」にあります。
・農業の開拓状況
・蛇神信仰
・神社の沿革
・先住民の分布と討伐の具体相
など、興味深い事が記されており、 さらに、各郡の冒頭には国造の始祖を入念に記しています。

また、最後のまとめには藤原宇合が関与したと思われます。 それは、常陸国の開拓の歴史を強調しながら、中臣氏祖先の活躍の様相を詳細に記載しているからです。『常陸風土記』久慈郡条に「天智天皇の御世に、使いをつかわして藤原内大臣(中臣鎌足)の封戸とを検せしむ」という記述があり、さらに孝徳天皇時、中臣幡織田臣等が関東を総領していることなどからも、「常陸」が中臣氏と由々しき縁があることが推察できます。

<藤原宇合>

藤原宇合は、藤原不比等の第三子、藤原四家のうち式家の祖です。
この宇合が国守となり常陸に派遣されたということからも、大和朝廷がいかに常陸の地を重用視していたかがわかります。

藤原の祖、中臣鎌足が常陸出身だったという説があります。
藤原氏の前身である中臣氏は、一説に鹿島出身とされています。
中臣鎌足の父御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間にできた子が鎌足だというのです。 しかし、もともと中臣氏は常陸の鹿島神宮の祭祀者であったらしいのです。 鎌足が鹿島出身ということは、「大鏡」や多武峰の談山神社伝承に記されています。

中臣氏は、神八井耳命を祖とする多臣系中臣氏(神と人との中をとりもつ忌人として朝廷の祭祀の役職をなす)と天児屋根命を祖とする中臣・卜部氏(天神寿詞をいう中臣の下で卜占に従事した)の二派に分かれています。
常陸の中臣氏は、多臣系中臣氏だとされています。大元は九州出身です。

常陸国の開拓の大半は、この多臣系中臣氏によってなされました。

藤原宇合が国守に選任された目的としては、
1.中臣氏に縁故の深い常陸国において律令政治の確立を要望されたこと。
2.常陸国に従事した自家の祖先たる中臣氏の活躍称揚すること。
があったと思われます。
その理由としては、『常陸風土記』の中で、常陸国の開拓の歴史を強調しながら、中臣氏の祖先の活躍の様相を詳細に掲載してあることがあげられます。


常陸の名の由来

『常陸風土記』の総記に当たる部分に「常陸の名の起こり」について書かれています。

常陸の名の由来は、この国の道が沼や海を渡ることなく、郡や郷などの各地の境も、山の峰や河の谷を陸続きに手軽に往来する事ができたので、「陸続きの道」という意味の直道(ひたみち)から「ひたち」という名称にされたということです。

確かに、筑波山や栃木、福島県境の山地まで常陸は延々とした平地が続きます。
栃木から山越えをして常陸入りすると、まず広大な平地が目の前に広がり、海まで続くことに感動するはずです。

また一説に、倭武の天皇(やまとたけるのすめらみこと)が東方の蝦夷の国を巡って新治の地を通ったとき、その際派遣されていた国造・比奈良珠命(ヒナラスノミコト)に命じて井戸を掘らせたところ、清く澄んだ良い水がわき出てきました。そこで乗っていた御輿から降りてその水を誉め、手を洗われました。その時に倭武の天皇の袖が垂れて水に濡れてしまいました。その「袖を水に浸した」ことから「ひたち」になったとも言われていることが『風土記』に書かれています。

さてこの倭武の天皇とは、日本武尊だとされています。
久慈郡の助川の里で、「倭武天皇が皇后と再会した」ことが記されており、多珂郡の章に「倭武天皇が橘皇后と一緒に獲物を捕った」ことが書かれています。 この橘皇后=弟橘媛とみられることからも、「倭武天皇=日本武尊」とされているのではないでしょうか。
日本武尊は天皇になっていないのに、何故『常陸風土記』には「倭武の天皇」と書かれているのでしょう?
古代では、自らは即位しなくても子が天皇になったら、その親にも天皇の尊称が与えられるケ−スがみられるそうで、日本武尊の子が第14代仲哀天皇になっていますので、日本武尊も「天皇」と称されたのではないかという説が有力です。

日本武尊という人物が実在したかしなかったかははっきりわかりませんが、一人の固有名詞ではなく、大和政権の全国制覇にあたって、その先頭に立って活躍した人々の総称であり、全ての事跡がこの名に収斂(しゅうれん)されていったとみるべきだとされています。
しかし、『常陸風土記』に登場するヤマトタケルは、武勇の英雄ではなく、常陸の国の人々の暮らしを助ける慈愛に満ちた人間味溢れる姿として描かれているのです。

『常陸風土記』中では、上記のように「倭武天皇「息長帯比売天皇」という天皇名が書かれている のですが、「倭武天皇=日本武尊」「息長帯比売(おきながたらしひめ)天皇=神功皇后」 と説明されています。 『記紀』ではどちらも天皇ではなかったので、『常陸風土記』のこの記述は特徴的なものとして捉えることができます。 崇神天皇のことは美麻(または万)貴(みまき)天皇、応神天皇のことは品太(ほむだ) 天皇とちゃんと書かれていますが、歴代天皇の呼称制度以前に書かれたものなので、 日本武尊も神功皇后も「天皇」と『常陸風土記』では書かれたようです。 日本武尊も神功皇后も地方では「天皇」と称されるほどの人物として伝わっていたのだと と思います 。

*日本武尊・・・
本名は、小碓命(オウスノミコト)で景行天皇の皇子。
母は皇后の播磨稲日大郎女姫(はりまのいなひのおおいらつめ)。
天皇に命じられて九州南部の熊襲を平定し、さらに東国に派遣されて蝦夷を討ち、帰途近江・伊吹山の賊徒を征伐する際病を得て、伊勢・野褒野(のぼの)に没しました。
往途、駿河で草薙の剣によって野火の難を払い、走水の海では妃・弟橘姫の犠牲によって海上の難を逃れた話は有名です。
この時入水して亡くなったはずの弟橘姫との再会話が、『常陸風土記』には書かれています。

*比奈良珠命・・・
出雲系氏族の族長です。

常陸と中臣氏・物部氏などの関わり

常陸は、多臣系中臣氏の他に出雲系氏族と物部氏によっても開拓されました。
『記紀』の中で欠かすことのできない「出雲」「物部」が、常陸において「中臣」と関わっていたのです。


『常陸風土記』久慈郡に、常陸において初めて機織りをした場所として「静織の里」という記事があります。
「昔まだ織る機を知る人がなかったときに初めてこの里で織った」と記されています。 『常陸風土記』には、秦氏に関する記事は見当たらないのですが、この「静織の里」の記事の後の「太田の郷・長幡部神社」にとても興味深い記事があります。
・皇孫ニニギ命が降臨なされたとき、御服を織ろうとして、従ってきた神の名は綺日女命(かむはたひめのみこと)といい、もと筑紫の日向の二所の峯より、美濃の国の引津根の丘にいたこと
・崇神天皇の世になって長幡部の遠祖タテノ命は美濃を去って久慈に移り、機殿を造って初めて布をおったこと
などが書かれています。

久慈郡の記事の冒頭には、天智天皇の世に藤原鎌足の封戸の検査が行われたことが書かれており、機織技術が「中臣氏」または「多氏」によって伝えられたように読みとれます。
綺日女命(かむはたひめのみこと)は、機織の女神で、火明命の男子天香山命から出たとされています。 機織の技術は本来秦氏が伝来したものだと思われますが、それが東国に伝播したときには「中臣氏(または多氏)」によって伝えられたようになっています。

静織の里にはこの古伝に因んで「静神社」が建てられています。祭神は「建葉槌命」で、常陸の星香々背男を武甕槌神が倒した時に協力した神様です。 武甕槌は藤原氏の氏社春日大社の祭神であり、建葉槌命は「天の岩戸」の時に活躍した「手力雄命」の孫・天羽槌命の別名とされ、武甕槌神と建葉槌命の伝説は、常陸に大和の勢力が進出してきた時の情勢を暗示しているように思います。

二条兼良の『日本記纂疏』には
「建葉槌命 當陸出 倭文 之地 倭文神 恐是武甕槌之属也」
と書かれており、建葉槌命は倭文神と伝えられています。

また卜部兼方の『釈日本紀』によれば
「倭文神 座常陸国依之諸祭幣物不内 倭文者 常陸之所M也」
とあることから、倭文神が常陸に根源地を求められるとの説もあります。 静神社の祭神が「建葉槌命」ですので、「静」は元は「倭文」だったと考えられます。 また久慈郡には実際に「倭文神社」があります。 「倭文」は「シズオリ」または「シドリ」と読むのが正しいようで、「シドリ」は筋織の義であり、古代の織物である白衣に対して、青緑またはその他の染色を緯糸に施し帯や衣裳にしたものを「シドリ」と称しました。 倭文布は古代よりあり、これを「志豆波多(シヅハタ)」または「阿衣(アヤ)」と言ったそうです。(増訂工芸資料) 「志豆波多」という言葉! 「波多」が「秦」と関連性があるという大和説に従えば、「秦氏」と「倭文」の関連も見えてきます。

「シズハタ」の地名が古代秦氏の影響の強かった土地名だとしたら、常陸の静織の里も本来は秦氏に由来していたのかも知れません。

建葉槌命は「武甕槌神の属」ですから当然中臣氏と関わりが考えられ、本来倭文神は「秦氏の神」であったのに「中臣氏の神」に置き換えられてしまった可能性があると思います。 『常陸風土記』久慈郡の「藤原鎌足の封戸」の記述からも、「機織の技術は本来秦氏が伝来したものだと思われますが、それが東国に伝播したときには中臣氏(または多氏)によって伝えられたようになっている」と考えることは可能だと思います。

先述の「常陸風土記の特性」にも記しましたが、このように『常陸風土記』は中臣氏祖先の活躍の様相を詳細に記載しています。

物部氏と常陸との関わりですが、中臣氏ほどの関わりは発見できません。
常陸に多くの香取神社や鹿島神社の小社があります。どうやら戦死者の亡霊などを祀る軍事関係部民として各地に分布したようです。 「モノノベ」の「モノ」とは、本来 「鬼」つまり「精霊」を指したもので、この氏族はそうしたものを支配する力を持つ司霊者であると折口信夫氏はしています。

(続く)

中臣鎌足は常陸出身?

常陸国の話

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