伊予湯岡碑文の考察

伊予湯岡碑文とは

碑の現物は亡失し、文面のみ『釈日本紀』巻14所引の『伊予風土記』逸文に残っています。 『釈日本紀』や『万葉集註釈』が引用した「伊予風土記逸文」には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧思と葛城臣なる人物を伴って赴き、その時湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたされています。


では、その原文を紹介しましょう。

『釈日本紀』が引用した古書「伊予風土記」逸文

「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首  惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)

「?」の部分は、ワードでは変換できているのに、HPビルダーでは読みとれず、変換できない文字です。()内に現代文字または無理矢理原文に近い字を作成してみました。
その点、ご了承下さい。

この文章は、非常に難解で、専門家によって読み下しの仕方が違っているようです。
現代語訳も様々あるので、その中で梅原猛氏が著書「聖徳太子」の中の現代語訳を引用させてもらいます。
梅原氏は福永光司氏の読み下し文に従って現代語訳されています。

「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。 思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事(まつりごと)は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。 かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」(『聖徳太子』梅原猛・著。集英社)

「伊予湯岡碑文」について、誰もが先ず疑問に思うことは、「果たして太子の作なのか」ということです。
そして
・何故、 わざわざ碑に刻んだ聖徳太子の言葉として、「伊予風土記」に載せたのか
・ 湯岡では舒明天皇も斉明天皇も歌を詠んでいたにも関わらず、何故「伊予風土記」は聖徳太子の歌のみ掲載したのか
という疑問も湧いてきます。

『伊予風土記逸文』には、聖徳太子他5度の行幸を記しています。
1.景行天皇とその皇后
2.仲哀天皇と神功皇后
3.聖徳太子
4.舒明天皇とその皇后
5.斉明天皇・天智天皇・天武天皇

「伊予風土記」が奈良時代に編纂されたものであるか否かはさておいて、『釈日本紀』や『万葉集註釈』に「伊予風土記」が引用されたということは、それなりの史料価値があったからではないでしょうか。
『釈日本紀』の著者・卜部兼方の卜部家は平安時代以来『日本書紀』の講演を行ってきた家柄ですし、『万葉集註釈』の仙覚は後嵯峨天皇に自らの著を献上するほどの鎌倉時代の万葉学者です。曖昧な古書の記述だとしたら、鎌倉時代の見識ある学者が用いたりするでしょうか。
『懐風藻』に載っていないことから、碑文の詩は当時存在していなかったとする意見もあります。
(『懐風藻』…751年成立。撰者は不明。詩宴などで詠まれた詩が多く、私的な心情を詠まれた詩は少ない。 )
私は『懐風藻』の撰者が聖徳太子の詩を知らなかったことにさほど疑問を感じません。
聖徳太子が「湯岡で詠んだとされる詩」は遠路・伊予湯岡においてであり、そして「私情そのもの」だからです。

聖徳太子は、推古元年(「日本書紀」年齢…20歳)で政治を委ねられています(摂政)が、すでに聖徳太子はそれだけの教養を身につけていたからこそ、政治を任されたのだと思います。聖徳太子は幼年のころから経典や漢文に興味を持ち学んでいたことが『伝暦』などの伝承からも推察することができます。 湯岡碑文に刻まれていたという「法興6年」は推古4年・23歳にあたり、十分漢詩を読むだけの教養があり、さらに聖徳太子の脳裏に自分が目指そうとする政治の理想が浮かび始めた頃ではないかと思います。 聖徳太子の生涯の中で、摂政になってから斑鳩宮に移るまでの約十年間は政治家としての実績は殆どありません。 つまり、その期間は他国の状況を把握し蘇我馬子らの政治姿勢を学ぶ期間であり、推古4年頃(法興寺の落成に馬子が夢中になっていた頃)に瀬戸内海を九州に向かい、そこから隋に私的に使者を送った可能性があるのではないかと思うのです。

「596年頃伊予に立ち寄り、600年には隋に使者が派遣された」
聖徳太子の動向として、その可能性があるように思うのです。ここでこの頃の聖徳太子の事績を、法興の年号(詳しくは後述します)も記しながら追ってみましょう。

・ 593年(法興3年・推古元年)【書紀年齢20歳】…聖徳太子摂政となる
・ 594年(法興4年・推古2年)…三宝興隆の詔
・ 595年(法興5年・推古3年)…慧慈法師来日
596年(法興6年・推古4年)…伊予湯岡訪問
・ 600年(法興10年・推古8年)…「阿輩鶏彌・アメノタリシヒコ」遣隋使派遣

となるのですが、想像を楽しませてもらえば、

*義経に追われた平家が、播磨から四国屋島へそして瀬戸内海「航路」で豊前に落ちたのと同様のルートで、聖徳太子一行は瀬戸内海を通り、古代から天皇家に縁のある伊予湯岡に立ち寄り一服^^;して、「豊」に向かった。
*そして、早くから中国との交流があった「豊」から「大王」として隋に使者を送った。
*隋から戻った使者の報告を聞いて聖徳太子は、隋と肩を並べるだけの国を造るために
○官位の制定
○法律の制定
○仏教の普及
○歴史書の編纂
○都の整備(たぶん難波に)
の必要性を痛感した。

・ 601年(法興11年・推古9年)…斑鳩宮造営
・ 603年(法興13年・推古11年)…冠位制定
・ 604年(法興14年・推古12年)…17条憲法
・ 607年(法興17年・推古15年)…公的遣隋使派遣

法隆寺建立 と隋に対抗するだけの政治基盤作りをし、その後は、法隆寺を起点に推古天皇や官吏らへの仏教の理解・普及に尽力します。

・ 620年(法興30年・推古28年)…天皇記・国記の撰録
・ 621年(法興31年・推古29年)…太子の母・間人皇后没
・ 622年(推古30年)…太子没 ・ 623年(推古31年)…慧慈没・法隆寺金堂釈迦三尊像を作る。「法興31年」の文字あり。

このように改めて聖徳太子の事跡を追ってみると、聖徳太子の「伊予訪問」が矛盾した時期であったわけではないことがわかります。

「法興」の年号について

法隆寺金堂釈迦三尊像にも「法興」の年号が記されているのですが、それは聖徳太子の生存中のみの琴についてで、太子没後については「法興」の年号が用いられていません。 もちろん「法興」なる年号は『日本書紀』には用いられていません。 このことから「法興」年号は、聖徳太子が生存中のみ使用されていた「私的な年号」であると考えることができます。
もし「法興」の年号を定めたのが聖徳太子だったとしたら、何故「法興」という言葉を用いたのか、さらに「法興元年」を「崇峻4年」・西暦591年にしたのかという疑問が生じます。
崇峻4年、この時太子は18歳。
法興寺の着工を記念して「法興」という説などもありますが、着工は588年ですのでズレが生じます。そこで、私は次のように考えています。 聖徳太子14歳(書紀年齢)の時に用明天皇が病気になり、穴穂部皇子が病気平癒のため「豊国法師」を招き入れたことが『日本書紀』に書かれていますが、この頃は九州(豊国)を通じて仏教や隋の情報がある程度伝えられていたことが想像できます。 「法興元年」は、隋は開皇11年でその年に隋の文帝が「三宝紹隆」の詔を出して仏法の興隆を公に示した記念すべき年であり、聖徳太子が「法興」という年号を定めた時(たぶん法興寺落成時?)に、そこまで遡って「法興の年号」を制定したのではないでしょうか。 つまり、「法興」とは「法興寺の落成」を記念して定められた年号ではないでしょうか。
天皇記や国記にも、「法興」などの馬子と聖徳太子が考えた年号が用いられていたのではないかと思います。

「法王大王」について

596年の伊予巡幸の頃には、太子の仏法に対する理解・修行がすでに慧慈さえ驚く程の域に達しており、慧慈がこの時には厩戸皇子を「法王大王」と呼んでいたのではないでしょうか。 ここから、「法王」の呼び名が広まり、斑鳩から定着していったのではないでしょうか。

私は「大王=天皇」とは考えていません。 皇子の中で母親(皇女に限定)を同じくする血族の長を「大王」と呼んでいたのではないかと考えています。 天皇のことを「治天下大王」(天の下しろしめす大王)と表現しますよね。これはただの大王では別格であることを示しているのだと思います。 天皇とは「大王」の中でも「天下をおさめる大王」のことであり、当時「大王」と称された人物は数名いたのではないでしょうか。

厩戸皇子(後世・聖徳太子とよばれた)は、大王の中でも特に仏法に興味を持っていました。そこで、慧慈は厩戸皇子を「法王大王」と呼んだのです。慧慈と葛城臣を伴っての伊予訪問は、伊予の地に伝承として残ったに違いありません。そしてその時の「法王大王」の名称も。



まとめ

伊予湯岡碑文がいつ不明になってしまったのかはわかりません。 また、伊予風土記の編纂時、その碑文の内容がどのように伝えられていたのかもわかりません。しかし、「伊予風土記」に書かれていた【「法興」の年号が刻まれている碑文】は、【聖徳太子が伊予を訪れたことを示すものとして存在していた可能性がある】と推理することは可能だと思います。

碑文は聖徳太子が伊予を訪問してしばらくしてから建てられたに違いありません。たぶん、聖徳太子の名声が広まってからのことでしょう。
伊予湯岡に伝えられていた聖徳太子訪問の話とその時詠んだ詩を、何とかして後世に伝えたいと地元の人が考えるのは当然のことのように思います。
そして、風土記編纂時に碑文の内容も記録されたのでしょう。

冷静に考えれば、「そういう伝承が文字に残された」ということ「だけ」が「事実」として今に残っているにすぎません。

その伝承が「史実か否か」という態度だと結論が合意されることはないと思います。 しかし、「史実か否か」という視点からでもお互いの意見を論じ合うことが私にとっては価値があることなのです。

「伊予湯岡碑文」否定説

最後に、kituno作成のYahoo日本史掲示板トピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」の中で、abenomaroさんが書き込んで下さった「否定説」の論拠を提示しておきます。

1.「伝略」をはじめ聖徳太子の伝記を記した古い資料には「伊予湯岡碑文」どころか、伊予および西国歴訪の記事がない。

2.わが国最初の漢詩集「懐風藻」の序文には「聖徳太子は仏教興隆に尽力せねばならず、詩文に力を注ぐひまがなかった」と書かれている。もちろん「伊予湯岡碑文」は「懐風藻」には載っていない。

3.碑文にある法興6年は西暦596年にあたり「隋書」における最初の遣隋使が600年である。中国との交流が途絶えていた状況下で聖徳太子があれだけの漢詩を作る能力があったとは思われない。