法隆寺大工の口伝

次の文章は、kitunoがYahoo掲示板<日本史>に作成しているトピック「聖徳太子と織田信長に恋しています」において、2003年/7/31(No.46321)〜2003年/8/12(No.4662)においてHN.Bright21さんより投稿していただいた文章です。宮大工ならではの目で「法隆寺」について語られている大変貴重で心温まるお話ですので、HPにおいても紹介させていただきます。

宮大工棟梁 西岡常一氏 2003/ 7/31 1:59 メッセージ: 4632

投稿者: Bright21
西岡常一氏(1908-1995)は、法隆寺の金堂・五重塔や法輪寺三重塔、薬師寺金堂など堂塔の再建・復興で有名です。同氏は、1934年から始まった「昭和の大修理」と言われる法隆寺の解体修理を手がけ、1971年に奈良・薬師寺復興の大工棟梁となり、5年後に金堂を復興しました。続いて西塔、中門、玄奘三蔵院なども完成させました。また、飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することができる「最後の宮大工棟梁」と言われました。

同氏の著書に『木のいのち木のこころ』『木に学べ-法隆寺・薬師寺』がありますが、宮大工棟梁としての西岡氏の記述には実に興味深いものがあり、その中から抜粋して紹介させて頂きたいと思います。  (続く)

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檜の話 2003/ 7/31 2:48 メッセージ: 4633

投稿者: Bright21
宮大工棟梁 西岡常一氏の著書によると、寺社の堂や塔をつくるには檜が一番良いとのことです。このことは日本書紀にも記載されています。伝承として飛鳥の時代から現代まで伝えられているようです。

日本書紀 (巻第一 神代 上 八 素戔鳴尊の八岐大蛇退治)に下記の記述があります。

「素戔鳴尊の曰はく、『韓郷の嶋には、是、金銀有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国に、浮宝(うくたから)有らずは、未だ佳からじ。』とのたまふ。乃(すなは)ち鬚髭(ひげ)を抜き散(あか)ちたまえば、杉に成る。又胸毛を抜き散ちたまえば、是檜に成る。尻毛は是艨iまき)に成る。眉毛は是豫樟(くす)に成る。己(すで)にして其の用ゐるべきを定めたまひて、乃ち称へて曰はく、『杉と豫樟と、此の両樹(ふたつのき)は、以ちて浮宝にすべし。檜は、以ちて瑞宮(みずみや)の財にすべし。艪ヘ、以ちて顕見蒼生(うつしきあおひとくさ)の奥津(おきつ)棄戸(すたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)れくらふべき八十木種(やそこだね)、皆能く播(ほどこし)生(う)う。』とのたまふ。・・・」

(注)
若使=もし
浮宝=船。海上に浮かべて財宝を運び出すもの。
艨@=槙。イチイ科の常緑高木。
豫樟=楠。
瑞宮=宮殿
顕見蒼生=現実にこの世に生きて青草のごとき生命力を持った民草、人民。
棄戸=屍を入れる棺またはその場所

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檜の話 その2 2003/ 8/ 1 0:05 メッセージ: 4637 / 4694

投稿者: Bright21
日本書記の記述によると、木の種類によって、用途が定められているとのことです。
スギとクスノキは、浮宝(船)に、ヒノキは瑞宮(宮殿)、マキは死体を入れる棺として使えということです。法隆寺も薬師寺もすべてヒノキでできているそうです。

西岡常一氏の著書によると、「ヒノキが堂塔に使われる理由は、寿命が長いことと湿気が多い日本の風土に合っているからである。更に寿命を長くするために飛鳥の工人達によりさまざまな工夫が加えられている。
法隆寺の伽藍は、1000年から1300年で伐採され、材料になっており、このような長い耐用年数のものはヒノキ以外にない。飛鳥の時代には、樹齢1000年、2000年のヒノキがあった。現在の日本では、木曽の樹齢450年が最高とのことで、これではとても堂塔ができない。ヒノキは、日本と台湾だけのもので、台湾では樹齢2400年から2600年のヒノキがある。」

これは Bright21 さんの 4633 に対する返信です

檜の話 その3 2003/ 8/ 1 0:33 メッセージ: 4638 / 4694

投稿者: Bright21
「樹齢1000年のヒノキを伐採、材料にすれば、1000年、2000年のものなら2000年もつ。現在の建築基準法では、コンクリートの基礎を打ち回して土台をおいて柱を建てろと書いているが、これでは20年で腐ってしまう。法隆寺や薬師寺と同じく、石を置いてその上に柱を立てることが大事なのである。
それに比較すると、飛鳥時代の大工は賢い。中国の山西省應県に佛宮寺という600年前の八角五重塔があるが、直径が29mあるのに軒先が2mしかない。ところが夢殿は径が11mなのに軒(のき)の先は3mも出ている。ということは、飛鳥の工人は、大陸の雨の少ない建築を学んだが、日本の風土を理解して、新しい工法に変えたのだろう。」

これは Bright21 さんの 4637 に対する返信です

檜の話 その4 2003/ 8/ 2 16:48 メッセージ: 4644 / 4694

投稿者: Bright21
法隆寺の解体修理の時、屋根瓦を取り外すと今まで重荷がかかっていた垂木(たるぎ)が反り返ってきたそうです。昭和17年に五重塔、昭和20年に金堂の解体修理をするまで、創建以来この時まで部分修理はあったものの解体修理はされていません。鉋(カンナ)をかければ1000年以上経った今でも品のいいヒノキの香りがするそうです。

これは Bright21 さんの 4638 に対する返信です

古代工法に驚嘆! 2003/ 8/ 2 23:20 メッセージ: 4645 / 4694

投稿者: kituno_i
>法隆寺の伽藍は、1000年から1300年で伐採され、材料になっており、このような長い耐用年数のものはヒノキ以外にない。
>樹齢1000年のヒノキを伐採、材料にすれば、1000年、2000年のものなら2000年もつ。
>法隆寺や薬師寺と同じく、石を置いてその上に柱を立てることが大事なのである。
>鉋(カンナ)をかければ1000年以上経った今でも品のいいヒノキの香りがするそうです。

日本の気候風土を十分考慮しての古代工法(建築法)に大変な驚きを覚えます。
当時、檜での建築は宮殿やお寺などに限られていたでしょうから、樹齢1000〜1300年という大きな檜が生育していたのでしょうね。後世まで残そうという当時の職人の意気込みが伝わってくるようです。

たくさんの樹木の中から用途により選別する古代の知恵や知識に驚嘆し、檜を選び世界に誇る「法隆寺」という建物を残してくれた古代の工人たちに感謝したい気持ちになりました。どれくらいの人数で、どれくらいの日数をかけて建設されたのでしょうか?
大型機械や電動工具などで建設している現代の建築物ですが、当時の「職人の腕」には到底かなわないような気がしてしまいました。
科学技術の進歩は、昔から伝えられてきた知恵や知識を人間の記憶から消し去ってしまい、人から人へ伝えられてきた人間の持つ技術さえも奪っているのかもしれません。

それから、法隆寺が幸運だったのは、戦火を免れたことですね。
学問寺として、欲に捕らわれず、地味に布教活動していたからでしょうか。
信長の焼き討ちにもあいませんでした。

Bright21さん、本当に貴重な書き込みをありがとうございます。

これは Bright21 さんの 4644 に対する返信です

>古代工法に驚嘆! 2003/ 8/ 3 0:59 メッセージ: 4647 / 4694

投稿者: Bright21
>どれくらいの人数で、どれくらいの日数をかけて建設されたのでしょうか?

飛鳥の時代七堂伽藍全部とほかに14棟の建物を14年かけてつくられたそうです。しかも手作業で。仕事が早かったのですね。現在の西岡氏でも、金堂・西塔だけで19年かかったそうです。飛鳥の時代には優秀な工人が数多くいたのだろうということです。
飛鳥時代とのちの時代との工法の違いも本に書いてあるのですが、専門語が多く説明が難しいです。(^^)

>>法隆寺や薬師寺と同じく、石を置いてその上に柱を立てることが大事なのである。

これが湿気の多い日本で腐りにくい構造であるのと同時に地震にも強い構造になっているようです。創建以来、畿内で40回の大地震あったそうですが、倒壊しませんでした。これは本当にすごいことです。

法隆寺再建説がありますが、火災で焼失した建物と残った建物があったのではないでしょうか。焼失した建物も再建時に飛鳥時代の優秀な工法を受け継いだ工人がそっくり同じように再建したのではないかと思います。

これは kituno_i さんの 4645 に対する返信です

>>古代工法に驚嘆! 2003/ 8/ 6 16:20 メッセージ: 4649 / 4694

投稿者: kituno_i
>飛鳥の時代七堂伽藍全部とほかに14棟の建物を14年かけてつくられたそうです。
>飛鳥の時代には優秀な工人が数多くいたのだろうということです。

この優秀な工人は、渡来人が多くいたのでしょうか。
以前にも書き込んだことがあるのですが、斑鳩宮周辺には、この工人達を集めて住まわせていたのではないかと思います。
法隆寺の五重塔などに工人たちの落書きが残されていますが、落書きの内容などからこの工人たちは「出稼ぎ」状態だったのかもしれないと思えます。
この工人たちを統率していたのが、秦氏や司馬氏だったのかな?

>法隆寺再建説がありますが、火災で焼失した建物と残った建物があったのではないでしょうか。

これは、金堂の釈迦三尊像の問題と共に、とても議論の的になることですよね。
『日本書紀』には「一屋余す無し」と書かれていて、全焼を思わせます。

おそらく工人たちの間には、元法隆寺の設計図のようなものが残されていたのではないでしょうか。
法隆寺近辺に今も残る「西里」
ここは宮大工の里です。


これは Bright21 さんの 4647 に対する返信です


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法隆寺大工の口伝 2003/ 8/ 6 22:57 メッセージ: 4651 / 4656

投稿者: Bright21
法隆寺の大工には代々口伝が伝わっているそうです。その主なものをご紹介したいと思います。

「神仏をあがめずして社頭伽藍を口にすべからず」

西岡氏の想い出に残る人々として、先ず、法隆寺の元住職、佐伯定胤(1867−1952)氏の名を挙げています。西岡氏が子供の時からよく知っている人で、法隆寺の昭和の大修理が始まる時、佐伯住職から「ここの伽藍は聖徳太子が仏教を広め、国を治めようと思うて造られたものや。いわば法隆寺は法華経の塊(かたまり)のようなもんやから、あんたらもこれを、たんに仕事やと思わんで、聖徳太子がどういう考えでこの伽藍を造られたのかを知ってもらいたい。そのためにも法華経を読みなさい。」と言われ、法華教13巻の外、華厳経、挿話全集なども読んだそうです。
西岡氏は、「それぞれの寺や伽藍を造る時に、法隆寺なら法隆寺、薬師寺なら薬師寺を建てた人の気持ちを考えます。聖徳太子は、仏教を基礎にして国を治めるための人材育成の伽藍として法隆寺を造られたと思いますし、薬師寺は初め天武天皇が夫人(後の持統天皇)の病気平癒のために、その後は持統天皇が亡くなったご主人のための祈願を込めた寺というようなことは考えます。」と言っています。
飛鳥の工人達も神仏をあがめる気持ちが非常に強かったようです。

法隆寺大工の口伝  その2 2003/ 8/ 7 21:37 メッセージ: 4652 / 4656

投稿者: Bright21
「伽藍の造営には四神相応の地を選べ」

西岡氏は、「四神というのは、中国から伝わった四つの方位の神であり、東は青竜、南は朱雀、西は白虎、北は玄武のことです。伽藍を造営するなら方位に適した場所を選べと伝えられています。これを地形でいうと、東の青竜には、清流がなければならない、南の朱雀には、伽藍より一段低く沼や沢でなければならない、西の白虎には白道が走っていなければならない、北の玄武には、山丘が伽藍の背景になっていなければならないということになります。
この口伝を法隆寺に当てはめると、東方、青竜には富雄川があり、南方、朱雀には伽藍より一段低いところに大和川があり、西の白虎には西大門の西側に大和川に達する道があり、北方の玄武には、矢田山脈があります。こうした地相の良さが1300年前の伽藍を残すことができた理由かも知れません。薬師寺の場合はどうかと言うと、東には秋篠川があり、南は一段低くなっており、平城京西の二坊が貫通しているものの、北には玄武に相当する山がなく、欠相しています。このためではないかも知れませんが、法隆寺が創建当時(原文通り)の七伽藍全部を残しているのに、薬師寺で残っているのは東塔だけです。東大寺は西が低くて東に山があります。だからもう残っていません。
私は口伝を信じているので、もし伽藍を建てろと言われれば、迷わずこの口伝に従った場所を探し、そうでない場所には建てません。」と言っています。

※1995年に西岡氏が亡くなっていますので、創建・再建の最近の新聞情報は存じていません。

法隆寺大工の口伝  その3 2003/ 8/ 7 21:47 メッセージ: 4653 / 4656

投稿者: Bright21
「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」

「例えば山の南斜面に生えた木の場合、この木の北側には枝が少なく、あっても細くて小さい。もし、西からの風が強い場所だったとすると、南側の枝は東に捻られるため、元に戻ろうとする性質が生まれる。このような性質を木の癖という。口伝の「木を買わず、山を買え」というのは、製材されてから買うのではなく、自分で山に行って、地質を見、環境による木の癖を見抜いて買いなさいということです。この口伝のもう一つの意味は、ひとつの山で生えた木をもってひとつの堂や塔を建てなさいと言っている。同氏は、薬師寺の木を買いに台湾の山へ行ったそうです。」

「木は生育の方位のままに使え」

「山ごと買った木をどう生かすか、その山の南に生えていた木を堂塔を建てる時に南側に使い、北の木は北に使い、西の木は西に、東の木は東に使えということです。法隆寺の飛鳥建築でも薬師寺の白鳳建築でも口伝通り、堂塔の南正面には節の多い南の木、北側には節の少ない木が使われています。こうした知恵が1300年の命を持たせているようです。法隆寺の解体修理をした時、室町時代の建造物も600年しかたっていないのに、傷みがひどく修理しなければならないほど傷んでいました。節のない木をていねいに組んでいるにも関わらずです。」

これは Bright21 さんの 4652 に対する返信です

>法隆寺大工の口伝 2003/ 8/12 0:07 メッセージ: 4660 / 4694

投稿者: kituno_i
>Bright21さん

本当に心穏やかになるような書き込みをありがとうございます。

>西岡氏の想い出に残る人々として、先ず、法隆寺の元住職、佐伯定胤(1867−1952)氏の名を挙げています。

昭和24年、法隆寺金堂の一部が焼け、焼けこげた金堂の壁画の前で佐伯定胤氏が、手を合わせ、呆然と見上げている姿を写した写真を見たことがあります。
その時の佐伯定胤氏の胸中を思うと、私の胸も締め付けられるような思いがしました。
「聖徳太子がどういう考えでこの伽藍を造られたのかを知ってもらいたい。」
西岡氏にこういった佐伯定胤氏の話を伺って、その写真が脳裏に浮かんできました。

>「法隆寺なら法隆寺、薬師寺なら薬師寺を建てた人の気持ちを考えます。」

何と心温まる言葉でしょう。
自分本位ではなく、相手の気持ちになって考えるという、思いやりに通じる言葉です。
建てた人たちの時代の出来事を知り、どういう願いが込められているのを考えることで、一生懸命、真摯に取り組むことができるのですね。

法隆寺は「伽藍の造営には四神相応の地を選べ」ということを十分考慮して建てられているという事実に、あの場所を選んだ聖徳太子の知識や願いの深さを改めて痛感しています。

>「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」
>「木は生育の方位のままに使え」

まさしく適材適所ですね!!
それから、無駄なように見える木材でも、絶対役立つことがあるということですね!!
人間もそうです。
この世に産まれてきて、この日本という「山」に産まれてきて、役に立たないことはない。
きっと自分を必要としてくれる場所や人たちがいるはずだ!!
そう言っているように感じ、Bright21さんの書き込みを目頭が熱くなりながら読ませていただきました。

「木のいのち木のこころ」「木に学べ-法隆寺・薬師寺」

私も是非読んでみたいです。
殺伐とした世の中で、忘れ去られようとしてる心を今に伝えようとしているように思います。

Bright21さん、貴重な本の紹介、心から感謝いたします。
このトピックは、Bright21さんような暖かい方の書き込みで支えられています。

これは Bright21 さんの 4653 に対する返信です

>>法隆寺大工の口伝 2003/ 8/12 21:48 メッセージ: 4662 / 4694

投稿者: Bright21
>>「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」
>>「木は生育の方位のままに使え」

>まさしく適材適所ですね!!
>それから、無駄なように見える木材でも、絶対役立つことがあるということですね!!人間もそうです。
>きっと自分を必要としてくれる場所や人たちがいるはずだ!!

実は「木のいのち木のこころ」の『癖のある木、癖のある人』の中にこれと同じような内容が出てきます。西岡氏は、「(人の)癖は使い難いけど、生かせばすぐれたものになります。なかには人嫌いで無口な人もいるが、そういう職人に限って、道具使いがうまかったりする。適材適所といいますが、(棟梁は)いいところばかりではなしに、欠点や弱点も生かしてその才能を発揮させてやらなならんのです。おもしろいことにそういう癖のある人にとても間に合うところが必ずあります。」というようなことを言っています。

これは kituno_i さんの 4660 に対する返信です