『日本書紀』の聖徳太子−その信憑性−

以下の文章は、kituno作成のyahoo掲示板・日本史「聖徳太子と織田信長に恋しています」のNO.3534/3535/3539/3542に掲載したものを編集したものです。
正史『日本書紀』において神代と現実の境目にある「聖徳太子」。『日本書紀』は、最も古い「聖徳太子」の史料です。
最近は、その信憑性を疑問視する研究者が後を絶ちません。そこでkitunoなりに『日本書紀』について考えてみました。

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600年(推古8年)に第1回遣隋使は派遣されました。
第1回派遣について『日本書紀』には記載がありませんが、『隋書』倭国伝に書かれています。
この遣隋使の派遣というのは、後に大きな意味を持つことになります。後に帰国した遣隋使や学生達が隋や唐の文化を日本に伝えたことはもちろんですが、逆に『日本書紀』にも書かれている西暦607年には、確実に日本の国政は隋に伝えられていたということにもなります。この段階で隋に国政が伝えられていたと言うことは、唐を意識して編纂された『日本書紀』において、今何人かの歴史研究家が推論しているような「推古朝のことを改竄まして創作して記する」ということはありえないのです。
『日本書紀』が漢文で書かれていることから、「唐を意識しての編纂」というのことはどの研究家も認めていることだと思います。

以前『<聖徳太子>の誕生』で話題になった大山氏の説や遠山美都男氏の説などのは、聖徳太子とは、実在の厩戸皇子を選び『日本書紀』の編纂時に理想像として描いたものであるとし、その自説を強調するために、『日本書紀』に書かれていることで自分の説に都合のいい部分は事実とし、都合の悪い部分は創作であるとしています。
大山氏は法隆寺関係史料は、すべて『日本書紀』編纂後の創作であるとさえしています。そのようなことはありえるのでしょうか?『日本書紀』に書かれていることをある程度裏付けるために、法隆寺にある様々な史料(金堂釈迦三尊像光背銘・中宮寺天寿国繍帳など)を創作できるものでしょうか?
遠山氏で例をあげると「崇峻天皇の暗殺は事実だが、用明天皇の病死は創作である」などとしている点です。陰謀めいたことは事実、当然のようなことは創作とする見方にははなはだ問題があると思います。

『日本書紀』には「聖徳太子」という名前は一言も出てきません。聖人化されているという指摘もされていますが、聖徳太子は当時「東宮聖徳」とも呼ばれていたこと、「片岡の飢人」の話の中で当時の人々が「聖は聖を知る」と言ったという話、そして聖徳太子の死に際して高麗に帰国していた慧慈が太子の崩御を聞き、「上宮豊聡耳皇子は聖だった」と言ったことが記されているに過ぎません。
これらの記述は、当時厩戸皇子がどんな人々とも差別なく接していたことや知識の豊富さを表したもので、後の聖徳太子信仰の中で生まれた「聖人」としての聖徳太子とは意味が違うと思っています。天皇家の中にも聖徳太子の足跡を尊敬していた人たちが多くいたために「聖」の話が伝えられていたとは思いますが、果たして『日本書紀』の記述が「聖人化」と言えるのかどうかは疑問に思います。
『日本書紀』は、皇太子としての太子の事績や推古天皇の事績・馬子の事績、そして当時の諸外国との政治状況を書いているのです。太子の事績ばかり強調されがちですが、それは一部にすぎません。諸外国との政治状況まで創作できるとは思えませんし、「諸外国との政治状況は事実で聖徳太子のことは創作」などという都合の良い歴史の改竄ができるとは、到底思えません。『日本書紀』編纂当時の外交政策上からも、日本の国史にそのような創作を折り込むことは不可能だと思います。しかし、「神話の時代」つまり「伝説の時代」のことは、また別に考えなくてはならないと思います。

『日本書紀』の編纂は、天武10年(681)に川島・忍壁皇子を責任者に多くの人物が関わって編纂が開始された「帝紀及上古諸事」の編纂詔勅により開始されたと見られ、元明天皇時に舎人親王によって奏上された諸外国の史料も十分検討してなされた上での国家事業です。また、曖昧な事柄に対してはいくつもの説をあげ、誠実に諸外国や後世に伝えようとする編纂姿勢が伺えると思います。
推古の時代は、当時にすれば「近代」にあたり、「一書に曰く」(または「或本に曰く」)という記述が殆どないのは、それだけ確実性があるからだと思います。また推古の時代には暦の使用がなされ、紙や墨の製法も伝えられて、確実に歴史を文章化できる時代に入っています。厩戸皇子の「皇太子」としての事績は、最近のこととして多くの人によって語り継がれ、天武天皇時にはまだ記憶に残っていたり、現存はしていなくても、『日本書紀』編纂時はいくつかの文章として残っていたと思います。
それは、法隆寺建立の際の「落書き」などからも十分推察できることです。

ところで、この「皇太子」の語は、ほぼ100年後の689年の浄御原令で制定されたものですので、当時はこの言葉はなく、しかし、厩戸皇子が次天皇の第一候補という立場であったことから、『日本書紀』編纂時には存在した「皇太子」の言葉が当てられたと見られています。これは創作ではなく、後世の知識の潤色と言っては勝手な解釈でしょうか?^^;

その後、聖徳太子はあまりにも信仰されました。だからといって『日本書紀』に書かれている聖徳太子の事績さえも「改竄」「虚構」「創作」としてしまうのは、あまりにも国史としての『日本書紀』を軽く見てはいないでしょうか。

『隠された十字架』を著した梅原猛氏が、その後綿密なる聖徳太子の研究をなされ、著書『聖徳太子』を出版されました。
『隠された十字架』の中で「改竄」「創作」などとしていた『日本書紀』の記述や法隆寺関係資料の信憑性を見直され、自分の考察の甘さを反省し、「改竄」「創作」とされた部分を多く訂正されました。これこそ真摯な研究姿勢と言えるのではないでしょうか。

ところが『聖徳太子』で多くの訂正がなされたにも関わらず、先に出版された『隠された十字架』が梅原氏自身の訂正を無視したような形で一人歩きし、現在の『日本書紀』や法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘などを後世の作と疑う気運の高まりに利用されていることがとても残念でなりません。

梅原氏は、著書『聖徳太子』の中でこう述べられています。

「『日本書紀』ができたのは、聖徳太子の時代を去ること約100年である。そして『日本書紀』は国家の正史である。正史は正説を記さねばならない。もしそこにウソイツワリが書いてあるならば、それは正史の権威の失墜ばかりか、国家の権威の失墜になる。」

「古代史研究の宝庫とも言える記紀を史料として十分活用すべきである。」

多くの研究者が主張されるように、「信仰の対象である聖徳太子」ではなく「飛鳥時代を現実に生きた厩戸皇子」の姿を捉えることはとても大切ですが、そのために厩戸皇子の事跡をも架空であるとせず、『日本書紀』や法隆寺関連資料をもう少し信頼し考察・研究して欲しいと思います。

−参考文献−
『 聖徳太子 未完の大王』 遠山 美都男 著 NHK出版 
『 聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』  遠山 美都男 著 角川書店
『<聖徳太子>の誕生』 大山誠一 著 吉川弘文館
『聖徳太子』 吉村武彦 著 岩波新書
『聖徳太子』 梅原猛 著 講談社