桶狭間の戦い−4−


<戦況>

永禄3年5月18日  桶狭間の戦い
今川義元の通過点には、今川の勝利を信じて疑わなかった者達が道中ご祝賀を述べ、今川のご機嫌を伺っており、義元はこうした者達にいちいち声をかけているので、軍勢の進む状態もかなり鈍っていました。そうした者の中に、百姓になりすました蜂須賀党の者達がいました。 ご祝賀を述べながら、蜂須賀小六等は義元の顔を確認し、「目も眩やむばかりの暑さの中、長途の今川軍勢は狭間道で休息するに違いない」 と偵察の者達は確信したのです。

蜂須賀小六は、一刻も早く信長に報せるべく、鬼九郎に命じて早馬を飛ばし、信長と一緒にいる梁田弥右衛門に知らせました。

報告を聞いた信長の行動は、実に迅速でした。梁田弥右衛門を道案内に、夜中には桶狭間に進出していたのです。そして翌日19日の午前10時には、桶狭間に信長自身が到着していたのです。この信長の迅速な行動に遅れをとった佐々内蔵助が後に生駒家にて話した桶狭間の戦況は、以下のようなものでした。 

蜂須賀一門の村長藤右衛門が義元にご祝賀を述べた後、義元は推察通り、田楽狭間にて休息をとっていました。軍兵達は我先にと木陰に入り、旗物差しを残すのみで、長槍ごときは老松に立てかけられ、三々五々に散り、正体もないほど疲れ切っていました。そこへ僅か数千の信長勢が、なだれ込んできたのです。

この時、一天にわかにかき曇り、大雨となりました。たちまち道路は川となり、今川勢は慌てふためくばかりです。あっという間のできごとだったと言います。まもなく狭間から勝ち鬨の声が鳴り響きました。遅れをとって呆然としていた佐々内蔵助勢の前を、信長は佐々党には目もくれず、 義元の首級槍先に揚げて清須に引き揚げていったのです。

この時遅れを取ったことを佐々内蔵助は後々まで悔やむのでした。


kitunoの考察 −幸若舞−

『信長公記』によると、
「18日夕刻、今川軍に丸根山・鷲津山の砦付近から攻撃されるとの情報が入り、家老衆が集まり軍議を謀ったが、信長は軍議をせず夜更けには解散してしまった。翌朝未明、今川軍の進撃を聞き、信長は得意の幸若舞『敦盛』の一節を舞い、出陣した」とされています。

これは有名な話ですが、kitunoは、生駒屋敷における密談の内容を知らない太田牛一が、 「戦いの前に舞を舞っていた」という話のみを聞きかじり、『公記』の中で脚色したもの と考えます。太田牛一は足軽・弓衆に過ぎず、戦況は『公記』に書かれているような様子だったと しても、戦いに至る信長の策略の内容までわかるはずがないと思うのです。

その点、生駒八右衛門・前野将右衛門らは、当時、信長が最も信頼する家臣でした。従って、桶狭間に至る経緯は、『武功夜話』に書かれていることが真実であると思います。戦いの当日は、実際は急を要していたので、舞を舞っている余裕などなかったはずです。 戦いは、今川軍の休息のすきに戦いを仕掛けるという、急進撃でした。その為、佐々内蔵助のように遅れをとってしまった家臣も多くいたのではないか、と kitunoは推察しています。

幸若舞『敦盛』を舞ったのは、実際の戦い以前、生駒屋敷における夜中密談の際の 「吉乃の前」だったのです。



       「人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
      一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」



以上、桶狭間の戦いについてでした。



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追記−桶狭間山