太子怨霊説(1)

太子怨霊説は、梅原猛氏の著書「隠された十字架」の中で発表されました。
氏は、その中で法隆寺に纏わる「七つの謎」を提唱し、その謎のひとつひとつが、法隆寺を太子および太子一族の怨霊鎮魂のためと見なすことで解き明かせる、と提唱しました。

当時から様々な議論がなされました。
そして近年、再び井沢元彦氏の著書「逆説の日本史」で取り上げられ、議論が再燃しました。

では、何故太子が怨霊になったのでしょうか?

「太子一族の殺害を蘇我入鹿にさせ、それを口実に蘇我氏本宗家の滅亡を企てた藤原氏が、藤原不比等以後の藤原四兄弟の死などを「太子怨霊のために祟り殺された」と恐れ、法隆寺を再建し、太子の写し身とされる救世観音の頭部に杭を打ち込んで怨霊封じをした。」
というのが、その要旨です。

太子がその一生を閉じるときは藤原氏に対して『怨念』を抱いていたとは思えません。
「怨霊になるなら、山背大兄皇子か蘇我入鹿ではないか?」という疑問が湧いてきます。

何故「山背大兄」が怨霊として意識されず、「聖徳太子」が怨霊とされるのか?

そのことについて、kitunoなりに考えてみました。
結論から言うと、山背大兄皇子は、怨霊となるだけの恐るべき存在ではなかった、それだけ周囲から軽視されていたということではないでしょうか。

山背大兄皇子が小者だったというわけではありません。
父である聖徳太子があまりにも偉大な人物だったのです。
山背大兄皇子は、太子の教えを忠実に守ったに過ぎません。

推古天皇が死の間際、山背大兄皇子に
「汝は肝稚(きもわか)し。若し心に望むといえども、諠(とよ)き言うこと勿(まな)。
 必ず群(まつまえのきみたち)の言を待ちて従うべし。」

と言っています。
つまり
「あなたは未熟であるから、もし心で希望していても、あれこれ言ってはいけません。
 必ず群臣の意見を待ってそれに従いなさい。」

ということです。この推古天皇の言葉を、皇位継承の群臣会議において阿部臣が読み上げるのですが、群臣達は、それに対して何も言えなかったことが『日本書紀』には記されています。

このことから、「日頃山背大兄皇子の言動は、思慮が足りなかったこと」を伺い知ることができるのです。
太子の高すぎる理想が、太子の思惑とは裏腹に、当時の蘇我氏の権力を強める結果になっていたとはいえ、皇位継承問題で山背大兄皇子側につく群臣が少なかったということは、器の大きな人ではなかったことを示しているような気がしています。
断言できると思います。

このあと、とても面白いのが中臣氏の登場の仕方です。
この皇位継承問題の際、中臣鎌足の父「御食子(みけこ)」が初めて「書紀」に登場し、山背一家滅亡後、その出番を待っていたかのように中臣鎌子(後の鎌足)が登場するのです!!

では、太子が怨霊となった経緯を追ってみましょう。
トピックの中から怨霊説についてのkitunoの書き込みを紹介します。^^
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太子怨霊説−藤原氏(1)投稿者: kituno_i 2000年12月12日 午後10時19分メッセージ: 2229

藤原不比等がその編纂に関わったと思われる『日本書紀』において、藤原氏は聖徳太子を聖人化し藤原氏が仏教の保護者ととなるために聖徳太子を利用しました。
『日本書紀』では蘇我氏本宗家の滅亡に至る経緯が実に劇的に描かれています。

・その実、太子の子孫を根絶やしすることの脚本を書いたのは中臣鎌足ではないか?
・実際山背事件に関わったのは孝徳天皇の側近だったにも関わらず蘇我入鹿一人のせいにし、入鹿を殺した鎌足を正当化したのではないか?


ここに太子怨霊説が登場するのです。
つまり、太子の怨霊を恐れたのは「藤原氏」なのです

では、中臣鎌足が書いた「太子の子孫を根絶やしにする脚本」とは


太子怨霊説−藤原氏(2)
投稿者: kituno_i 2000年12月17日 午後10時51分
メッセージ: 2248 / 2248
藤原鎌足の陰謀は、「山背大兄を殺し、蘇我氏を分断させ、さらに蘇我入鹿を殺すということでした。

鎌足は太子一族の根絶という倫理的不人気を蘇我氏に押しつけ、当時19歳という血気盛んな時期にあった中大兄皇子を利用して大化改新を成功させ、藤原氏はまんまと蘇我氏に取って代わって政治を動かす立場まで成り上がっていったというわけです。

不比等の時代の『日本書紀』において聖徳太子を持ち上げ、聖人化することによって、その聖徳太子の子孫を殺した蘇我入鹿を悪者にし、その悪者を倒した中大兄皇子と中臣鎌足の行為を正当化しようとしたのです。
つまり『日本書紀』における聖徳太子の聖人化の目的は、中臣鎌足の行為を正義の復讐者の行為として強調する為だったのです。

山背事件の陰の首謀者は中臣鎌足だったのではないか...。

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太子怨霊説−藤原氏(3)^^;;投稿者: kituno_i 2000年12月19日 午後 9時49分メッセージ: 2257

「山背事件に関わったのは孝徳天皇の側近だったにも関わらず蘇我入鹿一人のせいにし、入鹿を殺した鎌足を正当化した」という根拠として、『上宮聖徳太子伝補闕記』の中で、「山背を謀略したのは6人である。」と述べられていることをあげます。
その6人とは
・蘇我入鹿
・蘇我蝦夷
・孝徳天皇(当時軽皇子)
・巨勢徳陀古(孝徳朝の左大臣)
・大伴馬飼(孝徳朝の右大臣)
・中臣塩屋枚夫

また、藤原氏の『家伝』にも「蘇我入鹿、諸王子と謀り」とあります。
ところが『日本書紀』においては「蘇我臣入鹿、一人謀りて」とあり、いかにも山背事件の責任が蘇我入鹿一人にあるかのようにし、その後の中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿殺害を太子一家惨殺への復讐であるかのように思わせようとする意志が働いているかのように感じられるのです。

これは梅原猛氏の説です。

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太子怨霊説−藤原氏(4)投稿者: kituno_i 2000年12月19日 午後 9時30分メッセージ: 2255

蘇我氏や聖徳太子は、それまでの神道と儒教国家から仏教的理想国家にしようと努力してきました。
推古天皇の補佐役として聖徳太子が摂政となり蘇我馬子がバックアップしていた30年間は、とても平和な時代だったと思います。

しかし、仏教的平和主義では、自分本位の権力者のとっては都合が悪く国家の存続まで危うくすると当時の政治家達は、危機感を持ったのではないでしょうか。

その後、大化改新というク−デタ−により蘇我氏を滅ぼし、蘇我氏や聖徳太子の努力によって民衆まで広がりつつあった仏教をうまく取り入れしかも中臣本来の祭祀としての役割を生かすべく神道と儒教との融合を成功させたのが藤原氏だったと思うのです。


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太子怨霊説−藤原氏(5)
投稿者: kituno_i 2000年12月19日 午後 9時36分メッセージ: 2256

藤原氏
は、聖徳太子の功績をたたえ、僧侶、行信の勧めにより、聖徳尊霊と法隆寺での法華経講読を行います。
ここで初めて聖徳太子を菩薩とか聖人とする信仰が始まります。
こうして聖徳太子を利用することにより、藤原氏も仏教の保護者として民衆にアピ−ルしていったのではないでしょうか。


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太子怨霊説−藤原氏(6)投稿者: kituno_i 2000年12月24日 午前 0時04分メッセージ: 2262

鎌足は皇極帝と親しい蘇我入鹿に取って代わりたかったのです。
中臣鎌足は後の孝徳天皇と蘇我入鹿をうまくたきつけておきながら、山背事件にはさも関わっていないことを証明するかのように、山背事件の前日、中臣鎌足は三嶋に隠居しているのです。アリバイ工作までしているわけです。

中臣塩屋枚夫という人物については、よくわかりませんが、鎌足は山背事件の時三嶋にいましたから、鎌足とは別人ではないでしょうか?

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太子怨霊説(2)

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