崇峻天皇弑逆事件

<穴穂部皇子と泊瀬部皇子>

聖徳太子の母穴穂部間人皇后(用明天皇の皇后)と穴穂部皇子と泊瀬部皇子は同母姉弟です。
父は欽明天皇、母は蘇我稲目の女(むすめ)、小姉君です。
穴穂部間人皇后と穴穂部皇子は、同じ「穴穂部」なのでその繋がりの深さを伺い知ることができます。

穴穂部皇子

物部・蘇我の神仏戦争において、穴穂部皇子は蘇我氏の皇子でありながら、物部氏派についていました。
ところが途中で崇仏派の物部氏の形勢不利になると穴穂部間人皇后の説得により蘇我氏に寝返ろうとしました。

かつて穴穂部皇子は敏達天皇の殯(もがり)宮で炊屋姫(後の推古)を犯そうとする事件を起こし、その際炊屋姫を守った寵臣三輪逆を皇子は殺害しています。

この日和見的な性格の穴穂部皇子を天皇にすることだけは絶対に炊屋姫も馬子も容認できませんでした。『日本書紀』によると「穴穂部皇子は用明天皇の兄弟(異母)でありながら、物部守屋らと組み用明天皇を呪詛し、蘇我大臣を厭魅しました。その罪は断罪に値します。」と炊屋姫が馬子に断罪し、それを受けた馬子は直ちに兵を動かし穴穂部皇子らを殺害しました。

その時聖徳太子は、「死罪でなく流罪を」と懇願しましたが、馬子は聞き入れませんでした。太子にとって穴穂部皇子は母の愛する弟でした。おそらくこの太子の懇願の裏に穴穂部間人皇后の願いがあったものと思われます。


泊瀬部皇子(崇峻天皇

当初泊瀬部皇子は、兄の穴穂部皇子に同調して物部宗家の陣営にいましたが、その後物部守屋の討伐軍に加わり、諸皇子の第一に名前を連ねています。

物部守屋を討伐した後、587年炊屋姫の推挙により第32代崇峻天皇として即位します。しかし天皇は即位後飛鳥や磐余よりずっと山奥のかなり辺鄙な倉梯宮に移されます。「馬子によって蟄居させられたも同然」と天皇が思うのは無理ないことです。天皇の馬子の横暴に対する不満はつのる一方でした。

天皇は蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠手の娘「小手子」を妃として間に蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の一男一女を儲けただけでした。(ただし、蘇我馬子の娘河上娘を正妃として迎えていたという説もあります。)
この妃大伴小手子の嫉妬が崇峻天皇弑逆事件のきっかけとなってしまいました。


崇峻天皇弑逆事件

崇峻5年(592)10月4日、天皇は献上された猪を見て「何の時かこの猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」と独り言を漏らしました。この「独り言」を馬子に密告したのが大伴小手子だったのです。どうして小手子はこのような密告をしたのでしょうか?『日本書紀』は「寵(めぐみ)の衰えしを恨みて」と註を加えています。

大伴小手子以外に崇峻天皇の寵愛を受けるようになったのは誰かということについては主に二人の名前が挙げられています。
一人は、蘇我馬子の娘、河上娘です。『日本書紀』には河上娘が天皇候補となりうる皇子(名前は記されていない阿)妃になっていたことが記されています。その前後の文からその皇子とは「泊瀬部皇子」つまり崇峻天皇ではないかとし、小手子の河上娘への嫉妬としているのが久米邦武氏で、氏はこの弑逆事件の主役は馬子ではなく東漢駒であるとしています。
それに対し梅原猛氏は、蘇我氏によって滅ばされた物部守屋の妹、物部布都姫(ふつひめ)ではないかと推察しています。河上娘が崇峻天皇の妃だったとしてもあまり愛されていた様子が見られず、もし崇峻天皇の寵愛を受けたのが物部布都姫ならば、これは天皇が明らかに蘇我氏に対抗する事を意味することになり、崇峻天皇を馬子が殺さなければならなくなった理由を見出すことができるからです。

崇峻天皇は密かに軍備を揃えようとしていたようですが、馬子によって朝廷軍の殆どは任那復興のため筑紫に派遣されていましたので、思うように集まらなかったのは確かです。

小手子の密告を聞いたあとの馬子の動向は実に手回しのよいものでした。10月4日崇峻天皇が不用意に自分の心を漏らしてしまった後、馬子は10月中に一味を集めて天皇の暗殺のことを相談し、そして東漢駒によって翌月11月3日に「今日、東国の調を進る(たてまつる)」として東漢駒に天皇を暗殺させています。天皇は殯も行われず、「この日に天皇を倉梯岡陵に葬り奉る」と『日本書紀』は記しています。

東漢駒はその後蘇我馬子の娘河上娘と掠奪したとして馬子によって殺されています。もちろんこれは崇峻天皇弑逆事件の口封じのためです。

崇峻天皇陵の考察              

【倉梯岡陵】
昭和22年、 宮内省により「崇峻天皇陵」として指定。
「倉梯宮御宇崇峻天皇大和国十市郡にあり、陵地及び陵戸なし」

しかし考古学者の間では、倉梯岡陵の近くにある「赤坂山天王山古墳」を崇峻天皇陵と比定してます。

【藤ノ木古墳】
太子が斑鳩宮に移られた当時、斑鳩にはまだ築造間もない古墳がありました。「藤ノ木古墳」です。藤ノ木古墳は古くから「ミササキ」と呼ばれていました。「陵」=つまり大変高貴な人=天皇に相当する人の墓だということです。 法隆寺の高田良信氏は、この古墳を崇峻天皇の墓ではないかとみています。 藤ノ木古墳には2名葬られていますが、もうひとりは「穴穂部皇子」ではないかと氏は述べられ、聖徳太子は自分の理想郷を建設する予定地である斑鳩に、悲惨な最期を遂げた崇峻天皇と穴穂部皇子を密かに改葬し、その鎮魂と再び不幸な惨事が行われないことを願うために法隆寺を建設したのではないかと推察されています。


崇峻天皇の皇子・皇女と大伴小手子のその後

蜂子皇子は崇峻天皇が殺された直後、東北へ逃避し出家して「出羽三山」を開き、「能除太子」「能除仙」と呼ばれるようになります。墳墓は出羽三山神社の境内地にあり、現在は宮内庁の管理下にあります。

錦代(にしきて)皇女と大伴小手子もともに東北に逃れたという伝承があります。錦代は長旅の疲れで早く亡くなりましたが、小手子は現在の福島県川俣町や月館町に留まり、人々に養蚕の技術を伝えたと言います。現在もその地区には「小手郷」という地名が残っているそうです。

これまでの経緯を私のYAHOOのトピックの投稿からまとめてみました。。

<参考:Brightさんのトピックへの書き込みより>

産経新聞特集記事「古代からの伝言
投稿者: Bright21 1999年10月18日 午後 7時51分 メッセージ: 794

今日(10/18)から、産経新聞朝刊一面に「古代からの伝言」というタイトルの記事が連載されます。第1回は、「日出づる国」−重大事件呼ぶ「謎の独白」−密告です。「謎の独白」とは、「いずれの時にか、この猪の頸を絶(き)るが如く、わが嫌(ねた)しと思うところの人を絶らむ」という崇峻天皇のつぶやきのことです。日本書紀にも記録されているこの崇峻天皇のつぶやきは、後に重大な事件を巻き起こすことになります。 記事は、崇峻天皇の宮殿(奈良県桜井市倉橋、日本書紀では、倉橋の宮、古事記では、柴垣の宮)に大きな山猪が献上されるところから始まります。 記事の最後に「崇峻帝がふと謎めいた独語をもらされたとき、帝はみずからの運命を狂わせるに至る一つのことを見落としていた。嫉妬に狂う女性の心の動きである。」とありました。

-------------------------------------------------------------------------------

古代からの伝言 投稿者: Bright21 1999年10月19日 午後10時18分 メッセージ: 805

帝の背後にいた一人の女性の名は、大伴小手子(おおとものこてこ)、崇峻天皇の后(みめ)です。后となって、四年と七ケ月、それまでは帝の愛を独占していました。この時代、極めてまれで、ほとんどありえないことでしたが、帝には后は、ひとりしかいませんでした。彼女には、蜂子の皇子(はちのこのみこ)、錦代の皇女(にしきてのひめみこ)というふたりのおさな子がいました。そこにひとりの女性の登場により、かつてやさしかった帝は、彼女をかえりみもしなくなっていました。そこで、帝のあの独り言があったのです。 いま、耳にした夫の心の秘密を自分は誰かに告げるだろうと彼女は思いました。 「日本書記は、このあと、小手子后が取った行動を、−ある本に云わくとして記録している。それはほとんど信じられないような、意想外のことだった。」とあります。   (産経新聞10/19朝刊より抜粋)

-------------------------------------------------------------------------------

古代からの伝言 <3> 投稿者: Bright21 1999年10月21日 午前 0時04分 メッセージ: 808

欽明天皇の頃、朝鮮半島の任那(みまな)は、日本の勢力下にありました。その任那が新羅(しらぎ)に支配されてから30年経過しており、崇峻帝は、その任那を取り返そうと二万余の大軍を北九州に動員しました。倉梯の宮は、武器と兵が集められ異常な雰囲気にありました。 倉梯の宮の動きは、すぐに一人の男のもとに伝わりました。それを聞いた男は、帝の動きが理解できませんでした「まさか」と。そこへ、后大伴小手子が訪れました。男の名は、権力者蘇我馬子です。
--------------------------------------------------------------------------------
古代からの伝言<4> 投稿者: Bright21 1999年10月21日 午後11時15分 メッセージ: 811

訪れたのは小手子后の使者のみでした(私の読み違いでした。申し訳ありません。)。使者の伝言は、崇峻帝の独り言と倉梯の宮には、武器と兵が集められているということでした。使者は、帝のわが思う人とは誰であるか名指しはされなかったものの、このことを蘇我の大臣に直接お伝えせよとのお言いつけですと話しました。馬子は、崇峻帝が蘇我の力によって皇位についたことと、蘇我氏の朝廷の干渉を嫌っていることを薄々感じていました。九州への二万の軍勢が都に帰ってきたときが、馬子に取って危険であり、馬子は、軍勢が筑紫から帰るまでにこの問題を清算しておかねばならないと思いました。 --------------------------------------------------------------------------------
東漢直駒(やまとのあやのたいこま) 投稿者: Bright21 1999年10月22日 午後11時41分 メッセージ: 816

第5話は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)の登場です。渡来人系の知識人で、今で言うと馬子の警備隊長のような仕事をしていました。飛鳥、甘樫丘(あまかしのおか)の馬子の別邸裏門から出てくるところから始まります。駒は、自分の屋敷を後に、飛鳥の山すそにある瀟洒な館の裏門に入っていきます。迎えた女性は、蘇我馬子の娘、河上娘(かわかみのいらつめ)でした。 「あなたの父上のためだ」「断ればよろしいのに」「やらなければ殺される」「だれに」「あなたの父上に」女性は、その場に泣き崩れました。
-------------------------------------------------------------------------------
猪の首をきるように 投稿者: Bright21 1999年10月23日 午前 0時16分 メッセージ: 817

覚什・太子伝記(以後、(覚)と呼ぶことにします。)によると、帝は、生きた猪の子を指さして、太子に言いました。「いつになったら朕に不忠な蘇我大臣の首を、この猪の子の首をきるように滅ぼすことができるだろう。」太子は、大変に驚いて、「これはどうしたことでしょう。舌は災いの根、口は災いの門といいます。天下の大事は、こうした言葉から起きるものです。このことをもし蘇我大臣が聞けば、きっと帝を葬ろうとするでしょう。」と帝を諫めました。ある者が、このことを蘇我大臣に告げてしまいました。 --------------------------------------------------------------------------------
謀議 投稿者: Bright21 1999年10月23日 午後 8時04分 メッセージ: 818

蘇我馬子は、小手子妃から内通があった翌日、秘密会議を招集しました。蘇我の一族の者でも朝廷、皇子に近い者は謀議からはずされました。謀議の内容を聞いた者達は、慄然としましたが、誰も馬子に反対意見を述べる者はいませんでした。反対すれば、反対した者が消されるのは、目に見えていたからです。駒は、謀議の内容を河上娘に伝えます。「会議が終わった後、自分だけ奥の間に呼ばれ、大臣から特命をさずけられた。」馬子が駒に漏らしたのは、崇峻帝の次の皇位を誰にするかということでありました。 --------------------------------------------------------------------------------
駒の野望 投稿者: Bright21 1999年10月25日 午後10時27分 メッセージ: 829

日本書紀は東漢の駒が「蘇我馬子の女(むすめ)を偸(ぬす)んだ」という表現から、河上娘は、駒に心を奪われてしまっていたという様子が伝わってくるとあります。 駒は、河上娘に言います。「もし弑逆(しぎゃく/主君、父などを殺すこと)のたくらみを果たすと嬪(河上娘のこと)をわが妻(め)としたい。大臣は、こういわれた。ことを果たせば、いかなるものであれ、汝(いまし)の望むものを取らせる、と」また、駒は、馬子の権力と財力によって万余の兵を養い、大豪族しのぐ軍事集団を形成して、蘇我氏につぐ権力をにぎりたい」ということを河上娘に打ち明けました。河上娘は、弑逆は、やめて欲しいと訴えますが、聞き入れられません。 --------------------------------------------------------------------------------
重大事件発生 投稿者: Bright21 1999年10月26日 午後 7時40分 メッセージ: 835

東国の辺境の民からの調(みつぎ)を朝廷に納める儀式が、陰暦11月3日に倉梯の宮で執り行われました。(記述はありませんが、崇俊5年(592年)と思われます。) 儀式は、慶事であるにもかかわらず、東漢の私兵を含む兵が、宮殿の内外を警護していました。宮門から大臣、蘇我馬子が金色の太刀を腰にして現れると、宮門が閉ざされました。これにより、宮門の中に巨大な密室がつくられました。馬子の儀式の意義についての弁舌が延々と続きました。大殿の殿上のあたりで、突然、大きな鋭い叫び声が聞えました。どうやら殿上で、重大な事件が発生したらしい様子が伺えます。「待て!静まれい・・…」馬子は、叫びました。馬子は、太刀を腰に閉ざされた門の前に立ちはだかっていました。 --------------------------------------------------------------------------------
逃亡 投稿者: Bright21 1999年10月27日 午後 8時01分 メッセージ: 843

東漢の駒が白昼、血のしたたる姿で、蘇我馬子の娘、河上娘(かわかみのいらつめ)の住む邸宅に忍び込んで来ました。彼女は、驚きの表情で駒を迎えます。「一緒に逃げよう、追っ手が来ている。すべてが収まるまで身を隠そう。父上の指示だ。」「でも私のことは」「もちろん、父上はご存知ない。ことが収まればこちらから願い出る。」駒は、彼女を馬で強引に連れ去ります。 --------------------------------------------------------------------------------
弑逆のあと 投稿者: Bright21 1999年10月28日 午後 9時53分 メッセージ: 847

崇俊帝の亡きがらは、倉梯の宮近くの丘陵にその日のうちに埋葬されました。連綿と続く皇統の歴史のなかで、天皇崩御の日に埋葬が行われたのは、ほかに例がありません。 馬子が恐れたのは、新羅出兵の二万の兵と将軍達が天皇弑逆の情報を得て、急遽蘇我を討つと引き返して来ないかということでありました。事件の翌々日、早馬を筑紫へと差し向けました。大臣のことばとして、弑逆事件の演出には触れず、「内の乱れによりて、外事を怠ってはならぬ」と将軍達に伝えました。彼らは、他のルートで事件の詳細を知ったものの、権力者蘇我馬子に従わざるを得ず、筑紫にくぎ付けとなりました。将軍の中には、小手子妃の父もいましたが、小手子妃の告げ口のことを知ったため、尚更動けなくなりました。 こうして蘇我馬子は、無事難局を切り抜けるのですが、思いも寄らない落とし穴が待ち受けていることを彼は知りませんでした。
--------------------------------------------------------------------------------
馬子呆然 投稿者: Bright21 1999年10月31日 午後11時58分 メッセージ: 857

崇俊帝亡きあと、馬子は、河上娘の夫の皇子を日嗣ぎ(ひつぎ)とし、我が娘を正妃として、蘇我の地位を盤石のものにしようとしていました。そんな馬子のもとに、愛嬢の河上娘が何者かに殺害されたという情報が入りました。急報してきた衛兵によると、彼女の邸宅に太刀で切り裂かれた白い衣と大量の鮮血で染まった衣裳が残されていたとのことでした。馬子は、自ら現場に乗り込んで行きました。衛兵が1人の女官を引き連れて来ましたので、馬子は、女官に問い詰め、東漢の駒が1人で来たと知り、呆然となります。 --------------------------------------------------------------------------------
馬子の怒り 投稿者: Bright21 1999年11月01日 午前 0時37分 メッセージ: 858

馬子は、半ば脅迫しながら、更にその女官を問い詰め、駒と娘が、不倫関係にあったことを突きとめ、娘の生存を確認します。娘は蘇我系のみめであり、将来は、正妃にする積りでした。もし、子ができ、皇位をつぐことになれば、父も母も蘇我系という大君が誕生することになると、馬子の頭には、蘇我系による皇室支配の戦略が次世代にわたってまで描かれていました。それが、あの男、東漢の駒のために・・・。馬子は、一族のものを呼び集め、大声を張り上げ、指示しました。「直ちに、草の根をわけても東漢の駒を探し出せ!」馬子は、蘇我の血で皇統を制する夢が消えたことを知りました。下手人によって、汚された女は、日嗣ぎの皇子の正妃になり得ないからです。<10/30> --------------------------------------------------------------------------------
隠れ家 投稿者: Bright21 1999年11月01日 午後 7時34分 メッセージ: 859

決行後に備えて、用意しておいた隠れ家での駒と河上娘との共同生活が始まりました。「しばらく身を隠せというのが、大臣の命令なのだ」「ではここを父は?」「いや知らせていない」彼女は、不安を隠せませんでした。父は既に泊瀬部(はつせべ)の大君の同母兄と政敵の物部守屋と、自ら擁立した大君をも亡きものにしていました。大君は父の甥、大連の守屋は義兄(妻の兄)に当ります。その恐ろしさを配下の駒が知らない筈がないと彼女は思いました。彼女の不安はつのります。   <10/31> --------------------------------------------------------------------------------
駒捕わる 投稿者: Bright21 1999年11月02日 午後10時57分 メッセージ: 867

東漢の駒が捕らえられたのは、数日後でした。駒は、崇俊帝弑逆の大罪であれば、馬子と駒は、共同正犯であるとの見解から安心していました。帝なきあと、2人を断罪できる人間が外にいるはずがないと思っていました。ところが、捕り方の長(おさ)が言うには、弑逆の罪ではなく、大臣の娘であり、皇子の嬪(みめ)である女性をかどわかした罪を問うていることを知りました。これなら、嬪の父親は被害者となり、下手人の罪を問えるとそう察知した駒は、こともあろうに彼女の胸に大刀を突き付け、彼女を盾に生き延びようとしたのです。このような駒を見た彼女は駒への気持ちが急に冷めていきました。 --------------------------------------------------------------------------------
駒の最期 投稿者: Bright21 1999年11月03日 午前 0時49分 メッセージ: 868

蘇我馬子の前に駒が引き立てられて来た時、河上娘は、駒にひとかけらの愛も残っていないことを知りました。男は、馬子の別邸の白州に縄で繋がれ、まるで盗人でも扱うようにして裁かれました。わめこうが、叫ぼうが誰も相手にしませんでした。駒の処刑は寒風吹きすさぶ野辺で行われました。そのとき河上娘は、男の死によって、彼女の名が後世長くこの国の正史に刻まれるとは思ってもいませんでした。 日本書紀は記しています。「東漢直駒、蘇我嬪河上娘を偸隠(ぬす)みて妻(め)とす。河上娘は蘇我馬子宿禰(すくね)の女(むすめ)なり。馬子宿禰、たまたま河上娘が、駒が為に偸まれしを知らずして、死去(まかり)けむとおもう。駒、嬪をけがせること顕(あらわ)れて、大臣の為に殺されぬ。」 --------------------------------------------------------------------------------
駒の最期・・・(覚)では 投稿者: Bright21 1999年11月03日 午後 6時07分 メッセージ: 871

馬子の娘は、河上娘でなく、河上姫(ひめ)で、崇俊帝の正妃となっています。大伴小手子妃は、(覚)では登場しません。告げ口したのは、東漢直駒のようです。馬子は、駒に崇俊帝弑逆の指令を出し、褒美は官位でも贈り物でもお前の望みのままに与えようといいます。これを勘違いし、駒は、未亡人の河上娘を妻にできると思ったようです。 娘をかどわかし、汚したことに対し、大臣がこれを聞き付け、大いに怒りました。駒を捕えて、木に縛り付け、駒に言います。「お前には三つの罪がある。一つは殿上での内談を私に告げ口した罪、二つには、お前に相談した時、一も二もなく引き受け、悪名を長く残した罪、三つには、もったいなくも天皇の后である娘を汚した罪である」と。これに対し駒は、大声を張り上げ、言い分けをしますが、大臣は聞き入れず、駒の首をはねてしまいます。

戻る(蘇我氏と物部氏の争い)

次へ(推古天皇即位)

聖徳太子関連人物(随時更新)

太子関連寺社(工事中)