ラップミュージックの発展について

                              佐古田

 

 

『ヒップホップという文化の中でもっとも大衆的なものであるラップミュージック。そのルーツ、歴史、事件、政治との軋轢や人種差別などの諸問題を探る。』

 

ヒップホップの始まりはニューヨークのサウスブロンクスが発祥の地であるとされている。サウスブロンクスという街はもともと中産階級の人々が住む街であったが、クロスブロンクスという高速道路の建設が始まると一帯の企業や工場が次々と移転し、住民たちもブロンクスの北へと移住していった。それにより不動産価値が急落し、ストリートギャングや麻薬中毒者などの大量移入により、街は荒廃の一途を辿っていった。サウスブロンクスにはヒスパニック系や黒人が多く、非常に貧乏な生活をしているため、ギャングや麻薬の売人になってしまうケースが多い。しかし、一部の若者たちはドラッグや犯罪に手を染めること以外の楽しみを必死に模索していた。その結果生み出されたのがヒップホップなのである。ヒップホップは四大要素からなりたっているといわれている。主な要素はグラフィティアート、DJ、ブレイクダンス、ラップの四つである。ラップのルーツは1921年に黒人の間で流行したジャイブと呼ばれるもので、本来の英語の単語の意味合いとは異なったものを他の単語につなげて会話するという言葉遊びだった。しかしラップの起源には諸説あり、ジミ・ヘンドリクスの歌がラップの始まりだという説もある。これはジミが自分の声にコンプレックスを持っていて、ぼそぼそとしゃべるように歌っていたことからラップの先駆けだといわれるようになったらしい。他にはクイーンのフレディ・マーキュリーだという説もあるが、これは定かではない。

ヒップホップはその革新的なスタイルから、サウスブロンクスの多くの若者を惹き付けるようになる。最初はDJによるスクラッチプレイが主流で、若者たちがそのリズムに乗って踊るパーティ的な要素が強かった。しかし、グランドマスター・フラッシュという人物の手によって、DJのプレイスタイルは大きく変化していった。グランドマスター・フラッシュのスクラッチさばきは複雑なリズムでもそれをものともしない高速スクラッチで、曲と曲のつなぎも非常に工夫をこらしており、通をうならせるものだった。しかし、まだこの段階ではヒップホップはニューヨークの若者たちの娯楽にすぎなかった。ヒップホップが「全米」で流行するきっかけとなったのは1983年、ランDMCというラップグループの出現によるものが大きい。郊外の黒人はもとより、さらには白人にまでヒップホップを浸透させた功績は多大なものがある。そして、ランDMCは初めて白人のポピュラーミュージックをサンプリングしてヒットさせたことでも有名である。従来のラッパー達は、主にソウルやファンクなどをサンプリングしていたので、この試みは衝撃的だった。サンプリングした曲はアメリカのハードロックバンド、エアロスミスの「WALK THIS WAY」という曲である。これによって、それまでヒップホップに興味がなかったロックファンをも驚かせ、さらに当時落ち目であったエアロスミスの再浮上にも一役買うという結果になった。そして86年、今度は白人のラップグループ、ビースティボーイズがデビューする。彼らは都会的な、それでいてどこにでもいそうな若者のイメージでわかりやすく少し皮肉的な歌詞が話題を呼び、ランDMCに勝るとも劣らない人気を得る。しかし同年、今までのヒップホップのパブリックイメージをがらりと変えてしまうグループが現れる。それが元々ドラッグの売人でストリートギャングでもあったイージーEを中心に結成されたNWAである。

ちなみにNWAとは「Nigga With Attitude(主張ある黒んぼ)の略である。ストリートギャングの日常生活、すなわちドラッグや銃、ギャング同士の抗争などについて扇情的にラップするこのグループは、西海岸一帯で爆発的な人気を博し、若者はもちろん本物のストリートギャングをも魅了した。さらに、88年にセカンドアルバムとしてリリースした「Straight Outta Compton」の中に収録されている「Fuck Tha Police」という曲が話題になったことで、彼らはFBIにマークされるようになってしまうのである。FBIははじめ、NWAに同曲の演奏中止を促す内容の手紙を直接送っただけだったが、言うことを聞かないNWAに業を煮やしたのか、デトロイト公演ではメンバーを拘束するという行動にも出ている。しかしNWAのリーダーであるイージーEはこの事件を逆手にとり、自分たちを「FBIもマークする全米一危険なグループ」と称し、最終的にこのアルバムは300万枚以上の売り上げを達成した。結局FBINWAのアルバムの売り上げを伸ばす手助けをしたにすぎなかった。

ここで注目したいのは、このNWAの事件によってラップと犯罪の関係性が一気に濃くなったことである。いわゆる二極分化が進み、NWAのようなギャングスタ・ラッパーもいれば、MCハマーのようなポップなラッパーも同時にミュージックシーンに登場するわけである。MCハマーはアメリカだけでなく、日本でも支持されていたが、徐々に人気を失い、96年にはハードコアラッパーに転身したものの全く売れずにヒップホップ界から去っていった。今では牧師をしているという。そのMCハマーの前座ラッパーであったヴァニラ・アイスも、白人ソロラッパーとして人気を博し、全世界で1600万枚ものアルバム売り上げを達成した上に映画出演も果たすが、失速するのは早かった。この要因の一つに女性ファンの多さがあげられる。アイドルとして扱われたラッパーたちは、次から次へと使い捨てのようにされ、流行に敏感な女性ファンたちにも飽きられてしまうからだ。

87年にデビューしたハードコアラップグループ、パブリック・エネミーは人種差別の糾弾や政府への不満をラップし、スパイク・リー監督の映画「Do The Right Thing」に曲を提供するなど積極的な音楽活動をする。そのほかに、パブリック・エネミーは初めてロックバンドとコラボレーションしたことでも有名で、ANTHRAXというへヴィメタルバンドと共演した「Bring The Noize」はのちのミクスチャー・ロックと呼ばれるジャンルの礎をきずいたとされている。

90年代に入ると、ヒップホップ界は大きな展開を迎える。まず1992年、ロサンゼルスで黒人青年ロドニー・キングの車を強制的に停車させ、彼に対して理不尽な暴行をはたらいた白人警官4名が裁判で全員無罪になったことをきっかけに、死者53名、負傷者2000名を越す大規模な暴動が発生した。これがロサンゼルス暴動とよばれるものである。時を同じくして、西海岸ではすでにラッパーとしては十分なキャリアを持ち、フォロワーの間で多大なリスペクトを集めていたアイス・Tが、Body Countと名乗るへヴィメタルバンドを組み、「Cop Killer」という曲が収録されているアルバムをリリースした。しかし、このアルバムはロサンゼルス暴動の直前に発表されたため、日ごろヒップホップを敵視している組織、団体は「ラップが暴動を扇動した」と言いたいがためにアイス・Tの「Cop Killer」を標的にした。アメリカ南部のアラバマ州では、州知事自らアルバム「Body Count」を発売禁止にすると宣言した。しかし、NWAのケースと同じように、騒動が大きくなればなるほど、アルバムの売り上げは伸びていった。このBody Countもラップとへヴィメタルというそれまで水と油の関係だった音楽を融合させ、後の主流になっていく音楽のスタイルを確立した。

 

93年ごろまでは、ヒップホップといえば西海岸だと誰もがイメージするようになり、ヒップホップの元祖である東海岸、特にニューヨークのヒップホップシーンは沈滞気味であった。そんな矢先、ショーン・パフィ・コムズ(プロデューサー兼ラッパー)が「バッド・ボーイ」レーベルを設立、エース的存在のノートリアスBIGなどの活躍により勢いを盛り返し、東西の均衡が崩壊した。さらに、西海岸のヒップホップレーベル「デス・ロウ」に所属していたトゥパック・シャクールとノートリアスBIGがお互いに中傷しあい、96年9月にはトゥパックがラスベガスで、97年3月にはノートリアスBIGがロサンゼルスでそれぞれ射殺されるという事件が起きている。双方の犯人とも捕まっておらず、トゥパック殺害の嫌疑をかけられていたストリートギャングのオーランド・アンダーソンも1年後にギャング仲間たちによって射殺されている。ショーン・パフィ・コムズがヒットマンを雇ってトゥパックを殺害し、その報復に「デス・ロウ」の社長であるシュグ・ナイトが何者かにノートリアスBIGを殺害させたという説もあるが、真偽のほどは定かではない。

 

 

 

 

97年ごろから、西海岸と東海岸のラップスタイル、音作りの違いが顕著に現れてくるようになり、東海岸はどちらかというとオールドスクールな、ランDMCやその他の昔のアーティストのスタイルを踏襲した、一つ一つ言葉を区切るようにラップするスタイルで、西海岸にももちろんオールドスクールなラッパーはいるが、たいていは流れるような、R&Bに通じるような曲を作るアーティストが多い。99年には今まで注目されなかったアメリカ南部、中西部から様々なラッパーが登場し、シーンの活性化に貢献した。その最たる例がデトロイトから99年にデビューした白人ラッパー、エミネムである。彼は生まれてすぐに両親が離婚し、そのせいで引越しを繰り返し、転校先ではイジメられ、とかなり悲惨な少年時代を送ってきた。大人になってもその状況は改善されず、デビューするまで続いたという。彼は自分の体験を基にしたラップで多くの白人下流階級の若者の共感をよんでいる。彼のラップスタイルは普通のラッパーのスタイルとは非常に異なっており、アクセントや韻を踏む位置も複雑になっている。歌詞もアルバムを出すたびに論議の的になっている。ただ彼いわく、田舎の「ホワイト・トラッシュ」(白人下流階級)が社会によっていかに救いがたい無知の状態に置かれているかを描くことで社会の矛盾を暴きだすのが狙いらしい。

 

 

貧しい黒人が手っ取り早く金をもうけるためにはヒップホップかギャングかバスケットボールの選手ぐらいしかないと言われている。最初は純粋な若者たちの唯一の娯楽だったヒップホップ、自由の象徴であったヒップホップが今では全く異質なものになってしまっている傾向がある。「リアル」であることは必要だが「リアルなこと」が決して良いことではない。「リアル」以前に音楽としてもう少しラップミュージック、ヒップホップを見直すべきではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献表】

 『ダークサイド・オブ・ザ・ロック』 洋泉社 2001年  

 『クロスビート』 シンコ―ミュージック 20016月号 

 『Body Count ワーナーミュージック ライナーノーツ 1992