雪のシベリア鉄道・ロシアの大地をひた走る

1991年12月20日

 東京駅発13時17分の新幹線は、かなりの外国人が乗っている。
週に2便の新潟からのハバロフスク行きに乗るためだろうか。駅弁とビールを買って2
時間の旅。12月も半ばすぎなのにほとんど雪もなく、新潟駅には定刻着。
荷物が多いのでタクシーで空港へむかう。ローカル空港から出国するのは初めてなので
ちょっと勝手が違う。それでも一応の免税ショップがあったのでマルボロとジャック・
ダニエルを買っておいたのであるが・・・。
 新潟空港・後ろにツボレフが見える


搭乗待合室からはツボレフT154が見えている。思ったより小さくて、ちょっと心
細いものがある。
 乗務員らしい制服の男達が、両手にスノータイヤを抱えて機内に入って行った。いか
にもソ連の飛行機ならではという光景である。
ロシア語、英語、日本語の3通りのアナウンスがあって搭乗開始。機体は外から見ると
そんなにひどくないが、中はかなりボロで、ベルトの金具がちぎれていたりする。
 ろくに周囲を点検する暇もなく、アッという間に飛び上がってしまった。機体が傾く
と結露した水が落ちてきたり、ドアからはすき間風が入って来たりでとにかく凄い。
 途中揺れながら、それでもハバロフスクには定刻に到着した。止まるとすぐに照明が
暗くなり、コクピット・クルーが「ダスビダーニャ」と手を振ってさっさと降りてしま
った。
 客はタラップからいきなりマイナス20度の世界に放り出されて、空港の建物まで歩
かされる。いかにもロシアらしい冷たいを通り越した凍った歓迎である。
 商社関係者がかなり目立つ。薄暗い電灯の下で、国境警備隊のにいちゃんがチェック
して、すんなり入国手続きは終わったものの、荷物がなかなか来ない。20分以上待た
されて、やっと出てきた。商社員と思しき人々は大きな段ボールの箱や、カレンダーの
束を沢山運び去る。
 自分の荷物をやっと見付けたと思ったら、サムソナイトの角は割れているし、縛って
おいたキャリャーも無くなっている。いったいどんな扱いをしたのか、早速困ったこと
になったが、体だけは無事であったことに感謝して、とにかくロシアへの第一歩を記し
た。
 待合室は大混雑、それでも元気なインツーリストのおばさんがコンファームしてくれ
て、まず安心。こんな訳の分からぬ場所で手助けがなければ、死ぬしかない。
 ホテルでは両替できないという情報で、まず2万円をルーブルに替える。係のジェー
ブシュカ(お姉さん)は、5ルーブル札しかないからと言う。無いといわれても仕方が
ない、とにかく両替をしないことには動けない。
 とはいうものの、13500ルーブルをすべて5ルーブル札でドンとつまれたときに
は面食らってしまった。ナント、ひとかたまりが1000枚の札束である。2700枚
札の山を鞄に押し込んで、驚いている回りのロシア人の目から逃げるようにして外に出
る。(1ルーブル=1・6円)
 インツーリストのトランスファーが付いているのでホテルまでは心配ないが、付けて
いない連中は後で聞いたら、かなりの苦戦で辿りついてようである。トロリーバスはあ
るが、行き方がわからないし、タクシーにはドル払いで10ドルもふんだくられたとか
 トランスファーというのは、ソ連国営旅行社・インツーリストが、駅や空港から市街
にあるホテルまで、あらかじめ出発時に予約を受けて送迎を行う、というもので日本な
らホテルのサービスみたいなものと考えれば宜しい。もちろん外貨払いであるが、知ら
ぬ土地でほうり出される不安からは解放される。ここでは20ドルだった。
 トランスファーに用意された車は10年物のカリーナ。運転手に「日本車はどうだ?
と聞いたら、「オーチン・ハラショー」と言って、凍った道を100キロでぶっ飛ばし
たのには参った。まったく生きた心地がしなかった。それ以降、日本車はいいかと尋ね
るのは止めにした。
 ハバロフスクのインツーリスト・ホテルは、かなりの大きさである。バスタブこそ無
いがお湯のシャワーもあったし、便座も付いている。テレビはチャンネルが二つしかな
いし、ちょっとベッドが小さいがまあ文句はない。
 夕食はレストラン。バンドが入っていて騒々しい。そしてそのスピーカの大きい事。
ウエイトレスがメニューをくれたが、私のロシア語では、読めるけれど意味が分からな
い。とにかく一番高いものを注文したら、肉のソテーみたいなものが出てきた。付け合
わせのポテトなどなかなかおいしく食べられた。
 甘ったるいワインを飲みながら食事していたら、コント55号の坂上二郎さんをちょ
っときつい目にしたようなおじさんが、可愛いジェーブシュカを伴って現れ、相席担っ
た。英語が達者な人で、ヤンさんと自称するカザフスタン人。
自分で「ヤン・エアー・コーポレイション」という飛行機会社を持つ、パイロットだという。
 女の子の方は、ルドミラ、19才。
どういう関係か良く分からないが、なかなか楽しい人達である。
 そのうち、ヤンさんの友人とかいう、絵描きのおっさんが何処ともなく現れて、
「1000円で似顔を描かせてくれ」という。
1000円ならいいかなと、付き合ってやったらクレヨンでなかなか旨く描いてくれた
描きながら、「祖父さんが日露戦争で、日本に捕虜となって佐世保に連れていかれたが
とても待遇がよかったそうだ」などと、しきりに日本を褒める。あげくに富士山と鶴を
描き、天皇陛下万歳とロシア語(Тенноу Хейка банзай)で書いて
「これはプレゼント」といって置いていった。
 レストランのなかは一段とうるさくなり、かなりケバいジェーブシュカ達が踊り始め
る。ヤンさんは「今度、インビテーションを作るからナホトカ辺りで会おう。」という。
本人のいない時、ルドミラに彼は何者か?と聞いてみた。
一応の田舎名士であるらしいが、そのあとなんともいえない謎の微笑を残したのが
気になる。
 テーブルで会計を済ませ、(ヤンさんのも含めて127ルーブル=200円)、
帰ろうとするとヤンさんが、「汽車の中で飲んでくれ」と、ワインを2本持ってきてく
れた。ロシア人はかなり義理堅い所があるらしい。
 部屋でシャワーを浴びてから、地下にあるバーに出掛けると、案の定ヤンさんがこん
どは、一見して商売女とおぼしき女とビールを飲んでいた。一緒にやろうというので、
おとなしく同じボックスにすわって様子を見ていた。
突然、交渉決裂かいきなり女の方がビールを引っ掛けて出ていき、ヤンさん苦笑い。
 結構、その手の女がいるようで、早速日本人のグループでひっかかるのがでてきた。
とにかく、危ないからと引き止めて、早々に寝ることにした。といってもすでに12時
をまわっていた。
  ヤンさんを囲んでロシアの第一夜 


 
12月21日
 
 北緯50度を越えているから、朝は8時を過ぎないと明るくならない。マイナス16
度、まだ暗い中を人々が仕事に出掛けて行く。凍り付いたアムール川が白い帯を描いて
いる。
 ホテルの玄関から、気合いを入れて外に出る。白タクや物売りがうるさい。閉口して
手近の博物館に飛び込んだが、これが失敗。
 1人1ルーブル、動物やら植物やらいかにもシベリアらしい風物が並んでいる。若い
ロシア人がいろいろ説明してくれて「そうかそうか」と相槌を打っていると、今度は
「日本の新潟に友人がいる。」という。「私は新潟から来た」というと喜んで、「そう
か。ではドルーク(友人)ではないか。なにか欲しいものはないか。」
私が以前から欲しかったシャプカ(帽子)があるか、と聞いたらどこからかブルーの帽
子を持ってきて、「20ドルでどうか。」という。
 そんなに悪いものではないので、ルーブルなら買っても良いと持ち掛けると、「では
1800ルーブルで良い。」こちらも、相場も知らないし、何より持った事もないよう
な札束があるからO.Kしてしまったが、後から考えれば、1800ルーブルといえば
彼等の1ケ月分の給料に匹敵するわけで、とんだ授業料である。
(このシャプカは今も愛用していて、かぶる度に騙されてはいけない!と、語りかけて
くるのである。)
 単純に、物売りから逃げて物売りに引っ掛かったわけだ。彼が風のごとく消えたのは
いうまでもない。
 博物館の2階に上がって写真を撮っていたら、監視のおばちゃんが「あんたたち、許
可をとっているか。」と文句を付ける。下の階では何も言われなかったから、そう言う
と、入り口で5ルーブル払わないと「ニェット」だそうだ。仕方がないから戻ってきち
んと払ったら、5人分の入場券をくれた。
 おばちゃんに見せると、「ハラショー」といって機嫌が直った。ロシアのおばちゃん
は怖いよ、全く。
 そこで、改めて「一緒に写真をとろう。」と言ったら大喜び。ついでに、仲間の女の
人と息子を連れてきて「撮ってやってくれないか」と頼まれる。
 もちろん、ハラショー。送り先を聞いて、送ってあげることを約束したら、奥からお
礼にと、パンフレットを持ってきてくれた。
 おばちゃん、かつては、小学校の先生をしていたとかで英語を話す。この国では、観
光施設では英語を話す人が多く、ロシア語ができなくても少々の用は足りる。興に乗っ
たおばちゃん、ご丁寧に博物館全体の案内をしてくれるから、こちらとしても全部歩か
ないわけには行かない。
 1時間もかかって、地元の英雄やら、日本兵のラーゲリ(収容所)の資料やらを見せ
られた。日の丸やら、着物やらが並んでいるが、シベリアのラーゲリの劣悪な状況を伺
わせるような物は、何も置いてなかった。当然のことだろうが。
 外に出ると、やはり寒い。公園ぞいに、コムソモール広場からカール・マルクス通り
へ。他の日本人グループと合流して店を見て歩く。
 売っているものといえば、パン、リンゴ、魚、レモン、ソークというジュース、ミネ
ラル・ウオーター位しかない。車中の食料としてパンを買うけれどたくさん売っている
訳ではない。5コも買ってしまったら棚が空いてしまう。並んでいる人達に申し訳ない
ような気がした。

  ハバロフスクの街角


 子供が二人ビニールの袋を持って従いて来る。「なんだ?」と聞いても答えない。袋
のなかは、ビールの缶や瓶がはいっている。あとから分かったのだがこの国では、瓶や
缶は貴重品で、おそらく我々が何か捨てはしないかと、ついてきたらしい。
 ホテル出発直前に坂上ヤンさん現れる。そして、日本人全員にいろいろバッチを、さ
らに私にワインを一本くれ、別れを惜しんでくれた。何時か、また会える日も来よう。
ロシアでの、最初の出会いと別れである。
 インツーリストのバスで駅に向かう。他の日本人諸君も昨夜で懲りてか、皆トランス
ファを付けて一緒になった。街はかなり広く、トロリーバスも走っている。あと1日あ
ればゆっくり見物できたのにいささか残念であるが、坂上ヤンさんもいることだし、ま
た、訪れる機会もあるだろう。今回の目的はシベリア鉄道なのだから。
 
シベリア鉄道は全長9297Km。ただし、ウラジオストックからハバロフスクまでは
外国人に解放されていないから、(現在は乗れる)実際に乗れるのはハバロフスク−モ
スクワ間の8531Kmである。それでも、ロシア号は我々の乗れる世界最長距離である
には違いない。
 全所要時間は、ハバロフスク−モスクワ間5日と11時間42分である。途中停車駅
は54も有るが、外国人の降りられるのは、そのうちの数駅に限られている。
 ハバロフスクの駅は大きい。横浜駅くらいか。我々外国人旅行者は、インツーリスト
専用待合室に一般のロシア人達から隔離される。しかし、出入りは自由であるから構内
を一回り。ロシア人用の待合室は人であふれていて、異様な雰囲気である。
 切符を買うにも長い行列、トイレに行くにも・・・。あの恐ろしく汚いトイレに行く
にも・・・。
 30分も待たされて、いよいよ、ロシア号に案内された。長い汽車の旅の始まりであ
る。重いトランクをやっとこさと、コンパートメントに運び込む。プラットホームがな
いから荷物を積むにも大騒ぎである。
 北斗星のB寝台に扉を付けたような寝台車で、意外に狭い。日本人は全員で9名。イ
ルクーツクまでは一緒ということになる。
ここで日本人の紹介をしておこう。
 コンパートメント・1
 倉本 郁子  杉並区高円寺からきた。日商エレクトロニクスのOL
 
 竹内 あゆみ  高知市からきた。親の都合で川崎から高知に移ったそうだ。
 倉本さんの短大同級生。銀行につとめるOL。サンクトペテルブルクまで行く。
 
 それに、私たちを加えた4名。
 
 コンパートメント・2
 田中 保史  長野に住む大学生。ムルマンスクまで行くという。
 太っているので、通称 親方。汽車マニアで、気の良い男。
 
 山本 高史  奈良からきた。ヘルシンキまで行く。はじめは極めて元気。
 そのうち、一人だけ浮き上がってしまい、おとなしくなってしまった。通称奈良人
 
 清水 康人  /永草 博美  中野区江古田からモスクワまで。
 東海大生とそのガールフレンド。ロシア語ができる。彼のおかげで大変助かった。
 
 コンパートメント・3
 川人 浩  鶴ヶ峰から来た某私鉄車掌。彼のみイルクーツクから空路モスクワに。
 
以上総勢9人が氷原を走り抜けるシベリア鉄道に繰り広げるドタバタ劇の数々。


 これがコンパートメント  

シベリア鉄道の面白さは、単に北の果てを走る事だけでは無い。その車中は人種、国
籍のごった煮みたいな物である。プライバシーなどかけらもない。否も応もなく、その
るつぼに飲み込まれてしまう。
 私たちの同室は二人とも日本人の女の子だからよいものの、ロシア人と一緒であって
も、孤立することはできないし、また不可能である。なにせ、何日も汽車のなかで生活
していかなければならないのである。しかしわが日本人旅行者たち、そこは流石と言お
うか、冬のシベリア鉄道に乗ろうという連中である。少々のことには動じないだけの根
性は持っていたらしい。
 

 恐るべき冷凍庫と化したデッキ

車外はマイナス30度以下の酷寒、しかしながら車内は暑いくらいに暖房が効いてい
る。ただし、連結部は吹き曝しに近いから、ドアを開けば一瞬真っ白な風が吹き込んで
死の世界に繋がる。そして、7日間休む事なくその地獄の中、ひたすらモスクワへ或い
はウラジオストックへと走り続ける。
 ロシア号は毎日上下一本づつ。いつも、上下16本の「ロシア号」が同じ線路の上を
走っているわけである。
 乗客も様々で、軍人、家族連れ、帰省する学生、孫の顔を見に行くおばあちゃん、仕
事で移動するビジネスマン、その他訳の分らないおっさんやおばちゃん達、ロシア人、
ウクライナ人、カザフ人、中国人、モンゴル人、ジプシー、ドイツ人、オランダ人、加
えて日本人の集団までいるのである。
 皆、必要があってこの列車に乗っている。飛行機は早いが、毎日飛んでいるわけでは
ないし、料金が高い。つまり、乗りたくてのっているのは我々旅行者だけなのだ。
乗り込んだ目的を説明すると、一様に信じられないという表情をする。それはそうだろ
う。こんな、大変な旅を好んでしようというのは、裕福な日本の物好きしかいない筈で
ある。
車内風景

 そんな物好き連中を楽しませるのに充分なエンターテイメントが用意されていた。あ
てがわれた寝床で荷物を片付けているうち、突然車内にアコーデオンが鳴り響いて
なんだ、なんだと思ううちに歌はカチューシャからカリンカに変わって、ジャージを着
たひげの小男が踊り始め、大宴会が始まる。見物に行ったら、いきなりウオトカを注が
れてたちまちのうちに修羅場の仲間入りとなる。
 少し、車内を説明すると、コンパートメントは全部で8つですべて4人部屋。はじの
車掌室の隣が2人部屋で車掌の寝床になっている。車掌室の前にサモワール(湯沸し器
・石炭焚)、車両の両端にはトイレがある。その先に扉があって、デッキと車室を隔て
ている。車内は当然、禁煙で、(但し、車掌室を除く!)喫煙者はデッキのマイナス2
0度の世界に出なければならない。
 その狭い車掌の寝床の2人部屋で大宴会が行われているから、とても人のいる余地が
ない。だから余った人間は、上段のベッドや通路に食み出してしまう。
 そして、アコーデオンを弾いているのも車掌なら、踊っているのも車掌、ウオトカを
勧めるのも車掌である。当然彼等も飲んでいる。全く恐れ入った列車である。
 

車掌の勤務も激しく、厳しい。モスクワからウラジオストックまでぶっ通しで8日間
乗務、わずか1日の休みで、再び上り列車の7日間の勤務となる。(1日は時差。)そ
して2週間の休み。これが彼等の基本パターンである。
 彼等は、交替で寝ながら働く。乗客のチェック(乗車時に切符を預かってしまうから
不審者はすぐにわかる。)、シーツの配給からトイレ掃除まで次々に仕事をかたずけて
いく。
 列車はすべてモスクワ時間で運行されるから、下りは7時間増えるし、上りは7時間
減る。ハバロフスクから乗ったときは午後1時過ぎ、しかしモスクワでは朝の6時であ
る。この辺の勘定をしっかりしておかないと、何時までも混乱してしまう。
 時差があるの上りは毎日1時間づつ減り、下りはふえる。上り列車の一日は、23時
間になってしまうし、下りは25時間勤務。何ともややこしい。

 この車両の2名の車掌を紹介しておこう。
 ミハイル・マクシモフ 通称 ミーシャ 27才 独身 モスクワ郊外バログダに住
む。かなり英語を話す。ロシアの悪ガキをそのまま大人にしたみたいな男。「ウオト
カ?」、「アト・ワンス」で一気のみを強制する。人の着ているTシャツをやたら欲し
がるが、一枚しかないから駄目と断ると、こんどはロシアの海軍のものだという長袖を
持ってきて、「チェンジ、チェンジ」としつこい。こちらも旅の始めだから、そうそう
物をやってしまうわけには行かないから「ニェット」と断るが、かなりの未練を見せな
がら引き下がった。ヘビー・スモーカーでもうすぐ止めると言ってはいるがどうせだめ
だと思う。専門学校で経済を学んだという。

ユーリとミーシャ

 ユーリ・ジャージン 通称 ユーラ 33才 女児2人のハパ。長髪。ミーシャと同
じ町に住む。一見真面目そうだが、実はかなりしたたかな奴である。ロシア語しか話せ
ない。生ノオニオンやにんにくを好み、そして訳の分からぬ植物らしきもののはいった
酢を飲ませる。そして、飲まされた奴の渋面を見て、大喜びをする。この「死の酢」に
よる犠牲者が2名出た。

 この連中のウオトカの飲み方は凄い。まず、ベーコンの脂身のかたまりをナイフでそ
いで食べる。そして、コップに半分程のウオトカを喉にほおりこむ。
 次に、キャラメルかジャムを舐めるという3段階。とても、日本人の真似できるもの
ではない。しかし、付き合わなければと、若者達は必死である。さすがに良識ある?お
とうさんとしては、1回だけ付き合って後は、秘蔵のジャック・ダニエルを持ち込んで
ごまかしてしまった。
 こんな事やっていたら、胃袋が幾つ有っても、足りるものではない。ウオトカにも種
類があって、なかには唐辛子のエキスが入った怪しげなものもある。そんなものがすべ
て、車掌室の戸棚に隠されているのである。ロシアのブラックマーケット、鉄道版。
 彼等のサービスの一つに「チャイ」の接待がある。人によっては10コペイカ取った
りするが、彼等は自分で用意した紅茶葉を無料でサービスしている。これには、理由が
ある。物を売りたいから、お茶くらいは只みたいな物だから、どうと言う事はない。
 車掌の給料は去年の春から、400、800、1200、そして今は2000ルーブ
ルになったというがとてもインフレにはついて行けない。従って、彼等なりの防衛手段
として、ブラック・マーケットを持っている。とはいっても子供の遊びみたいなもので
あるが。
 価格表を掲げておこう。
 バッチ(レーニン・軍のもの、etc)  1$    
  〃 (ロシア号のもの)        3$    
 時刻表(車内に掲示してある)      1$ 
 チャイのコップのベース         10$
 時計                  時価
 車掌の制服               5$
 (但し、これは本物かどうかちょっと疑問が残るが...)
 その他、臨機応変になんでも売ってしまう。この収入があるからお茶のサービスくら
い安いものだ。
 しかし、私の欲しい鉄道グッズは一つしかない。それは、本物の時刻表である。車掌
が一冊づつしか持っていないから、数には当然限りがある。そのために、あらかじめ撒
き餌としてマルボロを一箱与えてある。
 頃合よしと見て、車掌室で商談開始。まず、彼等のバッチを450ルーブルで買う。
それからおもむろに本題にはいるが、車掌室で見付けたそれは、表紙が取れていて、え
らくボロである。こりゃだめだと思いつつ、これのちゃんとしたのは無いかと、ミーシ
ャに尋ねたら、ユーリと何か相談していて、「OK.10ダラー。」という。こちらも
すかさず、「ダラーニェット.トーリカ・ルーブリ」(ルーブルだけ)と切り返す。す
ると今度は、は600でどうか?という。こちらも構わないのだが、言い値で買うと後
に問題を残すから、「さっき買った450で買っただろう。それを合算して、両方で1
000ルーブルにしろ。」とね値切ってみたら、すんなり納得した。そして出て行き、
5分程して薄汚れたしかし表紙の付いた時刻表を持って現れた。どこかの車両からくす
ねてきたのである。
 彼等の売り物に、シャンパン(こちらではシャンパンスカヤという。)がある。なか
なか旨いし、ウオトカよりずっと良い。一本200ルーブル。ロシア人には高価だが、
日本人にとっては、320円だからウオトカ攻勢から逃げるには安い物である。残念な
ことに、冷えていない。
 ユーリにどこか無いか?と相談したら、デッキの石炭庫の鍵を開けて隠しておいてく
れた。なにしろ、マイナス20度以下のフリーザーのなかみたいなところだから、30
分も置くとチンチンに冷えて最高となる。
 この2人に加えて例のアコーディオンを弾いたのと、踊り出したひげの小男が隣の車
両を預かっている。この連中も用が無ければこちらの車掌室でたむろしている。どうも
この車両が溜まり場になっているようである。
 さらに、いつもこのグループに加わっているのに、スポルトマンことマルボロおじさ
んがいる。アディダスのジャージーを着いる。何者か今もって分からない。若い女を連
れていたが途中で消えたから逃げられたのかもしれない。
 挨拶がわりに、マルボロを一個プレゼントしたら、顔を見る度に「ドルージブ(友情
の意)マルボロ・プリーズ」と、しつこくて仕方がない。
マルボロおじさんと美女

 さらに、「アイアム・スポルトマン」と言って、かつてボクシングでどことかの大会
で勝ったときのメダルを10ドルで売り付けている。売ってしまうくらいだからろくな
大会ではないと思うが...
 いずれにしても大して悪気のある連中では無いし、底抜けに明るく楽しい。彼等を見
ていると、ロシアの危機など何処にあるのかと思う。こんな所がロシア人のアバウトさ
なのかもしれない。
 彼等と一寸したカード博打をしてみた。いわゆる、ブラックジャックであるが、2か
ら5の札を除いてしまう。そしてJ↓2、Q↓3、K↓4、10↓5として勘定するの
だからとてもではないが、混乱してゲームにならない。
 金の賭け方は、あらかじめ一回5ルーブルなら、10回分の50ルーブルを全員から
集めて山を作っておく。そして、勝った者が人数分の金、例えば3人なら15ルーブル
をその山から抜く。そして、山の金が無くなったら新規に積むか、終りにするのである
システムとしては、合理的であるがどうも緊迫感に欠ける所がある。
 やはり勝ち負けは自分の財布から、の方が博打らしくていいのではないか。
 車内のもう一つの商売に、インジニアと称する、じいさんの写真屋がある。一枚5ド
ル。ヤギヒゲをたくわえ、なかなかの風格。彼は不思議な事に、列車内に自分のラボを
持っていて、10時間で仕上げてきた。青は茶色になっていて、まるで100年前の着
色写真のようである。
 
 日本人のグループからただ一人、ロシア人のコンパートメントに出張している、ヒロ
シこと川人君のエピソード。
 コンパートメントのメンバーは、ターニャといういつも編み物をしているおばあちゃ
ん、(娘は、編み上がった手袋と靴下を250ルーブルで売ってもらった。)
スルジャンカの家族の元で新年を迎えるのだという。
 そしてニコライというウラン・ウデに住む物静かな軍人、英語を少し話せる。長野の
オリンピックを見に行く予定だという。
そして、ハバロフスク教育大学に学ぶヴィクトリアという、20才の美人学生。帰省の
途中である。
 騒々しい日本人のコンパートメントと違い、家族連れをおもわせる雰囲気である。実
際、我々はずっと家族だと思っていた。
 このヴィクトリアになんと川人君が気に入られてしまったのである。彼も学習院をで
ていてなかなかハンサムである。
彼が「おとうさん、助けてくださいよ。」というので、何かと思えば私に通訳をして欲
しいのだそうな。
 彼女のほんの片言の英語と彼の片言の英語で、しかも通訳のニコライさんの英語も怪
しい。やむなく、英語と片言のロシア語の私に助けを求めてきたのである。暫く付き合
っていたけれど、若者たちには言葉などいらない。
 しまいには、膝枕などしはじめて、余りに馬鹿馬鹿しいからほったらかして戻ってき
た。ニコライさんとトーリャばあちゃんも、ニヤニヤして見ていたよ。

 川人君とヴィクトリア

彼も時々逃げ出してくるけれど、戻る所は自分のコンパ−卜メントしかない。戻れば、空
いている席はビクトリアの隣しかない。
回りの連中はしきりに、「川人さん、幸せそうですね。」とか、「日本では絶対にあれだ
けの美人にもてることなどないから、思い切って養子行ったら」など、無責任この上もな
い。
私も、「シベリア鉄道に咲<恋など、ロマンチックだね。後のことはなんとかするか
ら、恋愛亡命などしてはいかが?」などというものだから、「皆で、私をいたぶって楽しん
でますね。と、恨みごとをいいつつも、まんざらでもない様子である。その恋も、彼女の下
車するヒーロクの駅でお終いとなる。
全員、デッキまでお見送り。戻ってきた川人君に、「あれ、戻ってきちゃだめだよ。」と
か、「住所さえ分かっていればまた会えるから、泣くんじゃない。」などと、煩いこと。
こうしたドラマを乗せて、シベリア鉄道・ロシア号、白銀の広野をひた走るのである。
長い旅であるから、当然食料問題が付いて回る。
食堂車ついてはいるが、何しろ食料難に苦しむ国であるから、食べられる物も限りがある。
乗車してすぐに5人で出掛けてみた。

 食堂車の風景

一通りのメニュ−はあるけれど、できるものは決まっている。
まず、レッドキャビァ。イクラのことだ。
当然のボルシチ、単に赤カブのス−プに、スメタナというサワークリ−ムを落としただけのもの。
それに骨付き鶏肉を煮込んでたれをかけたもの、辛うじて食べられるが日本だったらまず
そのままゴミ箱行きになる代物。
唯一つの救いはビ−ルがあったこと。たとえ冷えていなくても、炭酸入り薄い塩味の妙な
ミネラル・ウォーターよりはずっとましである。
以後、我々はこの食蛍車を利用することはなかったが、美帆たちは、ロシアの若者にナンバされてなんどかご馳走になったそうな。
もう一つのメインディシュである、チョウザメを煮たものを食べたと言うが、まず<て話にならなかったそうな。
ここはに、2人のゥェィタ−がいて、8っのテーブルを管理しているが満席になることなど、
まずない。
コックは3人、そして車内販売のおばちゃん。
この車内販売のおばちゃん(漫才京 唄子によく似ている)が朝と夕方の2回、アルミの弁当箱に入ったマッシュポテトとハンバ−グ(と覚しき物)、魚のフライなどを売りに来る。

大体3ルーブルから5ルーブルで、魚はともかくハンバ−グの方はなかなかのお味で好評。
大体うちの車両で売り切れるから、おばちゃん適当なところに腰掛けて時間潰し。
20分くらいたってから、入れ物を回収しながら食堂卓に帰っていく。
長時間の勤務のせいかも知れないが、みんな煮〆たような白衣?を着ている。まあ、客の方もかなり汚くなっているから、余り気にもならなくなってはいるが。
もう一つの食料調達の方法として、駅のキオスクがある。キオスクはロシアでもキオスクと
呼ぶ。
ちょっと大きな駅だと、15分くらい停まるので、各車両から乗客が一斉にこのキオスク目掛けて走り出す。
売っているものは、ピロシキ(揚げパン)とゆでたジャガイモ、あるいはソ−セ−ジだったり、黒パンだったりする.
マイナス25度の駅で、濠々と蒸気を吹き上げているキオスクに、ル−ブル紙幣を握って突進する人々の群れは壮観でさえあるが、我々も遅れを取るわけにはいかない。
ロシア人に混じって買うのであるが、これにはちょっとしたコツがある。
先ず、先頭に行かないこと。大体3人から5人目くらいに並ぶようにする。これ以上後ろ
と反対側から並んでいる奴がいたり、割り込んで来るオッチャンがいて、買い損ねる場合がある。
そして、欲しいものの値段に見当をつけ、自分の番になったら、大まかな金額のル−ブル札をまとめて出して、欲しいものを指差し、「ダイチェ・ドバ(二つおくれ)」とロシア語で数を叫ぶのである、
札のおつりは取っても、小銭は面倒なので「パジャ−ルスタ(どうぞ)」とあげてしまって、
すぐに列から脱出を図る
なこしろ両手lこ物を持っているから、小銭の始末などできないし、次々に人がが押し寄せて来るから、うっかりしているとラグビ−のモ−ルみたいになってしまう。
こうLて買った熱々のポテトやピロシキにかなう食い物はロシアには存在しない。
すべての駅で物が買える訳ではないから、キオスクと見たら必ず覗いてみないと、空きっ
腹を抱えて寝ることになる。
時には、下車しないで車内を歩いてみるとミネラル・ウオーターや「マラコ−(牛乳)」を
売っているのに出会ったりする。
この牛乳は、絞りたてであまり熱を加えていないから、日本の牛乳よりはるかに濃くて、
懐かしい味さえする。
この牛乳とピロシキさえあれば、ロシアでは必ず生きていかれる。
 私は万一に備えてカップラーメン6個、アルファ米5食を持っていたが大いに救われたのは言うまでもない。
車窓から見る風景は、雪の原っばと白樺の林。時折街が現れては消え、焚き火が見えた
のは、人のいる証拠か・・・
北緯55度あたりを走るのだから、明るいのは6時間くらいしかなく、あとは夜の世界。
その中に点々と灯りが見える。どうにも使いようのない原野にも、人が住み、かつ、電気が供給されていあのは驚異でもある。
さらに驚くのは、貨物列車の多いことである。季節的な理由もあるだろうが、シベリア大陸という巨人の伸び切った血管の末端まで血液を行き渡らせるのは容易なことではない。
日本は国土が狭いし、寒さも大したことはないから、トラックの輸送が可能である。
しかし、これだけの広い国土となると、流通も他の資本主義国とは全く違うのであるから、
自由経済に移行したからといって、すぐに物質が行き渡るはずもないのである。
ウラン・ウデでニコライさんを見送る。たった二日のつきあいだが、何か、別れが辛い。
多勢の日本人が別れを惜しむから、他の軍人に一体なんの騒ぎだと聞かれて苦笑していた。

今度会うのは長野オリンピックか、元気で頑張ってください。

ウラン・ウデの駅

この駅は、モンゴルからの線路をあわせる、重要なポイン卜であるるので、やたら軍人の姿が目に付<。
ここで一つの事件が持ちあがった。
隣のコンパー卜メントのおばちゃんが、泣きながら車掌のミ―シャに何か訴えている。
どうしたのか、と尋ねると昨夜同室のジェーブシュカがおばちゃんカの孫娘にお土産に買ったブーツを盗んで行ったというのである。
おばちゃん、きっと一生懸命探し回ってやっと手に入れた可愛い長靴、あと半日で渡せるところまで来て、盗まれてしまったのだ。
いろいろ慰めてあげるが、なんともしようない、日本人グループからカンバを募って、僅
かばかりのブレゼントを上げた。
これで少しでもおばちゃんの悲しさが和らげばと祈るだけ。
ハバロフスクを発って3日目の夕方、列車はバイカル湖にさしかかる。右手に海を思わせる雄大な景色が広がる。
せっかくだから写真を撮ろうとしたが、窓がえら<汚い。
車掌のミーシャに、「ちょっと窓を開けてくれれば拭けるのに」などといったものだから、
奴は早速「OK、1000円」という。
どうやって開けるのか、ちょっと興味もあったから「分かった」というと、きっちり締め付けて
あるナットを緩めて、力任せに開けようとするが、駄目。
何箇所か試してもびくともしない。
「仕方がないからデッキの扉を開けてやるけど、気をつけろよ」 と、疾走する列車の扉を
開けてしまった。
シベリアの烈風は、これはもう寒い、冷たいを通り越して凄まじいものがある。何枚か写
真を撮り終えてミーシャに礼をいうと、「アメリカンスキ・ウイスケ・パジャ−ルスタ」
ちゃんと取る物は取る、貰うものは貰う。しlっかりした奴である。
この頃になると、車掌たちは私のことを「セリョージャ」と呼ぷようになった。
時々付き合って話し相手になってやる。
お礼に何か、と聞くからウォトカも、チャイもいらないから、何か記念になるものをと、
使用済みのキップを何枚か貰った
若者では教えてもらえないことを、たくさん聞かせてもらったありがとう、と言う。
 彼等も彼等なりに、真剣に自分達の国の将来を考えている。そのためには、自由主
義経済の何たるかも当然知らなくてはならない。
 今までのソ連の教育は、共産主義こそ・1で、資本主義は罪悪であった。それが、
突然共産党は消滅するし、自由価格への移行となったのだからたまったものではある
まい。
 私たちには、自由主義経済以外の社会体制の経験は皆無である。それが当たり前と
して育ってきた。だからといって、それを知らない人達に説明することなど不可能で
ある。ただ、基本的な政治や資本主義経済の仕組みを教えてやることしかできないの
である。
 そんな話をしているところへ、信大生の田中君がきた。彼の英語も相当ひどい。一
生懸命なにかを説明しようとするが、自らの混乱を増すだけのことで意味不明。
 ミーシャと二人で笑い転げていると、「ひどいなあ」と言うから、「英語なんか使
わないで、日本語で話せばわかるのに」と、いってやったら「ああ、そうですね。」
みんないい加減シベリアぼけが進んできたようである。
 そういえば、奈良人が現れてこない。どうしたかと思ったら、「皆が関西人と馬鹿
にするから。」と拗ねている。
「そんな事言ってないよ。大体この広いシベリアまできて、関東も関西も無いだろう
が。」と激励してやったら、幾らか元気になったようである。
 もっとも、関西弁は彼一人だから、どうしても浮いてしまうのは、止むを得ないか
もしれないが。いつの間にか仲間外れにしていたのかもしれない。悪いことをした。
 そこで、ユーリが「元気をつけてやる。」と言って、例の妙な酢を持ち出してきて
二人にのませる。後は修羅場と化して、二人は叫び声をあげ、ベッドに倒れ込んだ。
 馬鹿な事をやっているうちに、まもなくイルクーツクに近付く。結局この3日間、
怒濤のように過ぎていった。
 あたふたと荷物をまとめ、ミーシャとユーリに別れを告げる。今度は、予定を確認
して、ウラジオストックで会おうという約束になった。この二人のお陰でどれ程楽し
い時間が過ごせたかわからない。
 彼等からは、ロシア人の明るさとエネルギーを感じた。そして、崩壊しつつあると
いわれながらも、この国はそう簡単には壊れないという力強さを持つ国民性も垣間見
たような気がした。
 イルクーツク到着は夜の8時、駅前に電光掲示板があり、マイナス32度の表示が
みえる。街全体が、ボーッとかすんでいる。
 インツーリストの係員はちゃんと待っていて、すぐにマイクロバスで送るという。
後の日本人連中は、トランスファーが無い。早速、怪しげなモンゴリアンが集まって
きて、「ホテル!5ドル!」等ど始まってしまった。
 見兼ねて、インツーリストの係員に「なんとかしてやってくれ」と掛け合うと、渋
ってはいたが一人100ルーブルで乗せてくれる事になった。
 ただでさえ知らない外国の夜、しかも、マイナス30度の駅で言葉も全く通じない
怪しげな連中に囲まれた場合を考えると、たかが数ドルのトランスファーを倹約する
ことなど愚かなことである。全く「地球の歩き方」など盲信すると、危険な場合さえ
ある。
 自分の足で歩くのも結構だが、最後には自分のことは自分で始末をつけなければな
らないいくら安全な国とはいいながら、日本ではない。100%の安全などある訳が
ない。
 ともかくも、全員無事にホテルに安着となる。しかし、すでにレストランは閉まっ
ていて地下の外貨バーしか開いていない。様子を見に行ったら、妙なおっさんが急い
で立ち上がってニタニタ笑いをする。そして曰く、「円は駄目、ドルオンリー」
 なんでこんな所まできて、貴重なドルでスプライトをのまなきゃならんのだ。
ロシアの通貨が使えないなら、ここは一体どこの国なのかね。大いに不愉快、すぐに
出て、他を探すことにした。
 4つほどスナックがあるが、いい雰囲気ではない。大して腹が減っているわけでは
ない。皆でカフェ・コーナーに集まってチャイと小さなケーキで夜食にする。
 部屋で三日ぶりのシャワーをあびる。バスタブは無いけれど、段々と耐乏生活にも
慣れてきて、大した不満もない。ゆっくり体を伸ばして休めるだけで十分、という謙
虚な気持ちになる自分が不思議である。
 12月24日          
 快晴の朝だけれど、なんとなく外はボヤーッとしている。いわゆる居住霧だそうで
ある。この街の真ん中をアンガラ川が流れている。流れが速いから凍結しない。
 その川から盛大に水蒸気が立ち上ぼり、空気中の煤塵とくっついて凍ってしまう。
風がないからそのまますっぽりとイルクーツク市全体を覆ったまま、動かない。遠く
から見ると、明らかにこの居住霧がドームのように町をカバーしているのが分かる。
 清水君達2人を除く7人で、市内観光にでかける。確かに、空気はえらく汚れてい
るけれど、、シベリアのパリといわれるだけあって、大変美しい街である。それに実
に寒い所でもある。

 凍りつく霧のイルクーツク

 大きな修道院の建物が、煙霧に霞んでいる。300年前、大黒屋光太夫たちがこの
街に3年もの間とめおかれた。その時に住んでいたのが、このあたりだ、といわれて
いる。建物こそ違うだろうが、毎日のようにこの修道院を見ながら、故国に帰れる日
を待っていたのである。その同じ風景が、時空を越えて今、私の目の前にある。この
寒さ、そしてシベリアの荒野を国とは逆の西へ西へと遠ざかって行く、自分たちの運
命。思っただけでも心が痛む。
 アンガラ川を渡って、壮大なズナメンスキー修道院へ。重い扉を開くと、いきなり
眩い光に包まれる。何か神の力の様なものが辺りに溢れているようだ。
 奥の部屋から、素晴らしいハーモニーの賛美歌が流れて来る。周囲は、イコン画で
埋め尽くされ、いやがうえにも荘厳さを盛り上げている。お年寄りが聖画の前で十字
を切って跪く。
 一人の爺さんが、あゆみの方を指差して何か言う。私は、「きっと、耳覆いがいけ
ないのだ」と思い取ってしまった。すると、もっと「とんでもない!」という顔をさ
れてしまった。
 良く尋ねたら女性はこの中では、髪の毛を隠さなくてはいけないのだそうな。慌て
てフードを被せて謝ったら、にっこりと笑ってうなずいてくださった。
 この美しい街を日本の女子大生が知ったなら、どっとツアーで押し掛けてくるだろ
うか。日本から一番近いヨーロッパであるから。
 ただし、この街にはディオールもなければ、グッチセリーヌ、ヴィトンもない。本
当に美しい町並みがあるだけだ。それがわかるかどうか。

 イルクーツクの美しい建物

 午後から、空路モスクワに向かう川人君と別れ、8人と、ドイツの一人旅の女性を
交えてバイカル湖観光に向かう。街を離れればすぐにタイガの森となる。
 湖を望む森の一角に、木に一杯ハンカチを結んだ場所がある。願掛けのおまじない
とかで色とりどりのきれが風に揺れている。トレビの泉ではないが、またここに来ら
れるという意味もあるのだろうか。
 イルクーツクから50分、その名も「バイカル・ハイウェー」を飛ばすと、リスト
ビアンカ村のホテル・バイカルに着く。バイカル湖から流れ出す水は結氷していない
ので、やはり激しく水蒸気が上がっていて水面は見ることができない。

 バイカル湖

 あたりの木々には、その水蒸気のためか真っ白に霧氷がついて、夢幻の世界にいる
ようである。展望台の手摺も、北洋漁船の様に分厚く着氷している。
 ホテル・バイカルは村から少し離れた高台にある。隣には、ロシアにある不思議な
もののひとつ「日本料理店・バイカル東京」がある。

 ホテルバイカル

 冬だから閉まっているが、何を考えてこんな所にこんな物をつくったのか、理解に
苦しむ。日本料理店を出せば、日本から観光客が集まると思っているのなら、とんだ
思い違いである。夏だけの営業で採算が取れるとも思えない。
 恐らく日本の企業との合弁だろうが、こんな事業に乗る方も乗る方だ。国営インツ
ーリスト的発想で新規投資を拡大しようとしている、良い見本である。
 ホテルのレストランでランチ。名物のオームリ(バイカル特産の魚)の唐揚げ。食
事としてはまずまず。
 ここで日帰りツアーの皆と別れ、この旅で初めて美帆と二人だけになる。部屋には
テレビこそ無いが、バスタブもあり、暖房も充分。久し振りに湯につかり、疲れをと
る。
 今日は、クリスマス・イブである。ロシアのレストランは、何処でもビーフ・ステ
ーキばかり。食料難といわれるロシアのホテルで、出てくる料理がビーフ・ステーキ
とは皮肉なものである。
 バーからシャンパンスカヤを買ってきて、部屋に戻り外気で冷やす。マイナス30
度位だから、あっという間に飲み頃となる。
 ロシアには、あまりクリスマスを祝う習慣はないが、一応「メリー・クリスマス」
に相当する「ス・ロージェストバム」という言葉はある。ロシアのクリスマスは1月
の7日だから、今日は特別な日ではない。むしろ、新年の祝いを盛大に行う。
 私達は、どっちでも良い日本人として、今年のクリスマスの乾杯をする。

 12月25日   
 朝食のロシアではじめてのフランクフルト・ソーセージにびっくり。ある所にはち
ゃんと物はあるのである。物の流れのどこかにダムがあり、そこから本流には流れず
にバイパスやら、トンネルにまたは地下へと様々に消えていっているのだろう。
 ソーセージは結構だが、このホテルには困ったことに切手が売っていない。記念の
物など何もない。
 フロントのおねえちゃんをボールペンで買収し、パンフレット3部せしめる。そん
な日本ならそのへんに置き忘れられた様なものまで手にはいらない。
 とにかく、この国にはサービスというものが存在しない。なにがしかの対価を払っ
て、物を手に入れるしか無いのである。
 11時の出発まで、散歩にでる。美帆は、寒いからしっかり支度していけと言って
も、いい加減にしてでようとする。掃除のおばさんが見兼ねて降りてきて、すっかり
完全装備にしてくれる。さすがの美帆も、逆らうこともできずされるままになってい
たよ。まるで鞍馬天狗(古いな)のような姿に大笑い。
 天気は快晴。放射冷却でマイナス40度となっている。ダウンジャケットの表面が
凍ってパリパリ音を立てる。息が口の回りで凍って白い髭の様になる。カメラも凍り
付いて、巻き上げがスムーズにいかない。とにかく、歩いていても爪先からジンジン
冷たさがしみこんでくる。暖かい室内に戻ると、瞬間に眼鏡が真っ白に凍り付いてし
まう。この位寒い。
 その中をオランダからのツアー客がクロスカントリー・スキーに興じている。物好
きに見ていたが、雪が砂のようで、まるで滑らない。寒すぎてもスキーはできないと
いう発見。だからスノー・タイヤが要らないのだけどね。
 今日のインツーリストのトランスファーはまともな乗用車。1時間ほどでイルクー
ツクに戻り、荷物をホテルのクロークに預けて身軽になる。
 街を歩いて見る。この街のジェブシュカはオーチン・クラシーバヤ(大変美人であ
る)と、ロシア人が口を揃えていうだけのことはある。ただし、厚い毛皮にくるまっ
ているのでスタイルの方は確認できていない。
 本屋をのぞく。ロシアで、一番商品がたくさんある店は本屋である。ロシア人は本
が好きである。といっても新刊本が出ているわけではないらしいから、古本屋との区
別がつかない。新本でも価格は非常に安い。それぞれに値が付いているが、インフレ
に追いつかないからである。
 ロシアの店で物を買うには、ちょっと複雑な段取りがいる。まず、買いたいものの
価格を確かめる。安物のときは直接、金額の張る物の場合は、その担当のジェーブシ
ュカに伝票を切ってもらってから、カッサというレジスターの行列に並ぶ。
 大きい店でも2台、普通は1台しかないから、早くても10分は待たされるのを覚
悟しなくてはいけない。
 やっと、レジのおばさんのところに辿り着いたら、伝票を見せるか、必要な金額と
個数を伝える。おばさんは、かたわらに置いてあるロシア式そろばんで合計し、5%
の税金を足して「コレコレダ」という。これが聞き取りにくいから、およその見当の
札を渡すとおつりとレシートをくれる。当然、足りないと怒られる。
 そのレシートを持って元の売り場に行って商品と引き換える。だから、ちょっとや
やこしい買い物をしようとすると、大変面倒なことになる。
 やっとの思いで絵葉書や地図、絵本を買う。絵葉書は大体3ルーブル、絵本は50
コペイカから2ルーブル位である。もっと簡単にならないかと思うが、国の政策で導
入されたものだから仕方がない。
 いったんインツーリスト・ホテルに戻って、清水君達とチャイ、ピロシキで昼食。
クロークのおじさんには20ルーブルのチップを渡してあるから、何回でも出し入れ
ができて助かる。
 再び街で食料調達。こんどは4日間であるから、余裕を持って買い出しをする。ち
ょうどクリスマス・ケーキを買う人の列があちこちにある。
 並ぶと2・30分はかかりそうだからやめておいた。ところが、何をうっているか
分からない店に人がたくさんは行っていくので、釣られて入ってみたらパンとケーキ
を売っていた。しかも10人位しか並んでいない。何たる幸運!
 私はパン、美帆はケーキのほうに並ぶ。親切なロシア人のじいさんが、美帆を助け
てくれて無事に買うことができた。パン9ルーブル,ケーキ67ルーブル。
 ケーキといっても、日本のようなショート・ケーキではない。ブランデーをしみこ
ませたスポンジ台に、チョコレートがかかっているだけ。どこの店もすべて同じ物で
同じ大きさである。ケーキという概念からはほど遠いから、ケーキのようなカステラ
パンと形容した方が正しいかも知れぬ。
 ついでに、車内用に、ブランデーを370ルーブルで買う。この頃になると、物を
ルーブルで買うことかできるのが大変嬉しくなる。妙なものである。この国の通貨で
は外国人は物がなかなか買えないのである。おまけにシステムも言葉も違うから、か
なりの慣れを必要とする。
 食料品店にはいっみたが、ずらりと並んだ瓶はすべてミネラル・ウォーターと野菜
の漬物。あとは大きな魚の缶詰を開けて売っているだけ。全くなにもない。
 日本のテレビで見るロシアについての報道の姿と同じであるが、よく考えたら、こ
の寒いシベリアで、冬に生鮮野菜があるほうがおかしい。
 今でこそ日本の野菜には季節感が無くなってしまったが、かつては夏の野菜、冬の
野菜という区別がはっきりあった。冬に赤いトマトを食べるほうがおかしいのである
 まだロシアは、あるがままの自然の姿なのではないか、とふと思った。
 18時、駅に向かう。駅前の電光表示板はマイナス26度を示している。この寒い
のに、ここの連中はアイスクリーム(マロージナヤ)を食べるのである。
 当然買って食べてみる。中に粒が残っていて、出来は良くないがアイスクリームに
は違いがない。
 美帆がなめていたら、ロシア人が「早く食べろ。凍って固まってしまうぞ。」
アイスクリームの温度より、気温のほうが低いのだからそういう事になる。その代わ
り溶ける事は絶対にない。
 さて、いよいよロシア号後半戦に突入。清水君達と当然ながら同室となる。この列
車の車掌はむっつりした、いつも怒っているようなおじさんと、バストの半分が巨大
なおっぱいというおばさんのペア。前半戦のようにはいかないようだ。
 早速おばさんがやってきて、モスクワまでシーツと毛布、枕かバーで一人3・5ル
ーフルを徴収していく。前の列車では無料だったので、どっちが正規なのか分からな
い。でも、無くては困るからね。きれいに畳まれた、洗い立てのシーツで気持ちがよ
い。

 このおばちゃんが怖い車掌さん

 枕とふとんは、どのベッドにも付いていて無料である。ただ、下段のベッドの場合
結露した水が窓枠に凍り付き、少し気温が上がると溶けて枕がびっしょりになってし
まうから、その対策も考えなくてはならない。
 荷物の整理が終って落ち着いたところで、清水君たちとブランデーでメリー・クリ
スマスの乾杯。
 これで、4年続けてクリスマスは旅先で迎えることになった。昔の、仕事に追われ
忙しかった頃を思いつつ、杯を重ねる。外は酷寒のシベリアである。
 3年前は北斗星の中、一昨年は利礼フェリーの船内、去年は小樽。段々寒いところ
になっていく。来年はどこでクリスマス?   

   1991年12月26日ー27日
 ゆうべのブランデーが残っていて、すっきりしない目覚めである。どうしても、朝
の5時頃に目が覚める。日本時間で7時だから普通なのだろうが、ここでは、まだ漆
黒の闇の中。時差に適応できていない。
 朝のコーヒー。普段の日本では見向きもしないインスタント・コーヒーが、極楽の
飲料に思われる。ロシアの珈琲はいわゆるトルコ・コーヒーで、粉が一杯浮いている
し、紅茶は葉っぱにお湯を差しただけのロシアン・ティーが普通である。
 日本では、ロシアン・ティーというとジャムを入れて飲むものと思っているが、本
当は、ジャムは嘗めながら、また、角砂糖(サハル)があれば、ちょっと紅茶につけ
てかじるのである。だから、紅茶に砂糖をいれてかきまわすと、けげんな顔をされる
 明るくなると込んでいて落ち着かないから、早い時間にトイレでゆっくり歯を磨き
ヒゲを剃る。トイレは既述の通り、車両の両端にある。ステンレス製の便器に黒いプ
ラスチックの便座が付いている。 

 これがトイレだ!

 しかし、便座がついていても、ちゃんと用が足りるわけではない。なかなか下りな
かったり、横にずれてみたり、やたら汚かったりするのである。
 この車両のは少し斜めについていて、便座に正しく座ると約30度右を向く。正し
い方向を向くと、どうもお尻の座りがよろしくない。
 汚いといっても不潔なのではなく、黒いはずの表面が傷だらけで、白っぽくなって
いたりとにかく薄汚れている。といった感じなのだ。こんな事もあろうかと思って、
日本からわざわざ便座を持参したのであるが、汚いのは何とかなっても、曲がってい
るのはどうしようもない。
 このトイレは、ちゃんとお湯は出るのだが、蛇口がない。パイプがむき出しでお湯
と水の二本、ベイシンに突き出している。もちろん、栓など無いから溜めて使う事は
できず、流しっ放しにするしかない。
 さらに驚異的なもの。トイレの流し水がお湯である。だから、お湯のたまった状態
で大きい用を足すと、自分の物ながら臭いに耐えられない。お風呂は生産者の方だけ
で沢山である。
 しかも、昔の日本の国鉄を思わせる直下式であるから、流すと同時に真っ白い湯気
が外気に押し戻され手、ワッと吹き込んでくる。
 直下式であるから、駅に停車中は使用できないように、およそ駅に着く5分前に、
車掌が鍵をかけてしまう。だから、車掌が鍵を持ってトイレに行くと、駅近しと言う
事が分かる。
 午前9時(イルクーツク時間)、20分遅れでイランスカヤの駅に着く。いつの間
にか、凍りついていた窓枠がすっかり溶けている。表に出てみると雪が降っている。
しかも、寒くない。おそらく、マイナス10度くらいではないか。
 マイナス30とか40度の世界を通ってくると、このくらいの温度など天国のよう
に感じられる。
 例によって、キオスクに走ってピロシキを買ってくる。揚げたてのあつあつを口に
いれると、幸せという2文字に包まれる。もともと日本にいても、カレーパン大好き
人間で、しかも熱くなくてはと、オーブン・トースターで暖めて食べるくらいの私に
とって、味こそ違え、シベリア鉄道の中で食べられる最高のものである。
 もうひと寝入りして起きると昼飯の時間。とにかく、食ってるか、寝てるか、よそ
のコンパートメントに行っているかのどれかしか選択肢のない生活である。肉体運動
ができないのだから、せめて、頭の運動にとロシア語の実践教室にでかける。
 後半の旅は静かである。右隣はツィガーン(ジプシー)の夫婦に子供、そして奥さ
んの妹の4人連れと、ロシア人のビジネス・マン。
 その向こうのコンパートメントは、同じく子供連れのウクライナ人夫婦と、ジョー
ジ・ブッシュの若い頃に似ている黒シャツの粋なおじさん。それと、プレスリーにチ
ョッと似た若い軍人。
 さらに、その向こうには、中国・大連市から仕事でノヴォシビリスクまで行くとい
う中国人3人組。
 左隣は、コンパートメント4つともオランダ人の団体客。その中に、190センチ
はあろうかという巨大なオランダ美人がいた。
 その圧倒的な量感に、あの佐川君が食べてしまったという気持ちの奥底がチラッと
分かるような気がしたものである。(危ない、危ない、)
 まず、隣のジプシー組。たばこの火を借りにきたので、100円ライターをプレゼ
ントしたら、大変喜んで、何度も何度も握手してくる。
 そこまでは良かったのだが、ここの5才の男の子がそれを持って隣のウクライナ人
の3才の男の子に見せびらかす。当然、よこせ、駄目だ。泣いたり、わめいたりの、
修羅場となってしまった。仕方なく、もう一つプレゼントする羽目になる。
 この二人の争いはモスクワまで続くことになる。ここの奥さんの20才になるとい
う小柄な娘。美人である。そして、「あんたのことは、すべて見通しているんだから
ね。」というジプシー占いの女のような、その灰色の瞳でじっと上目遣いに見上げら
れると、一瞬ゾクッとさむけが走ったのである。


 ジプシーの姉妹

 実際はそんな妖しい娘ではなく、献血で貰った裁縫セットをあげたら大喜びしてい
たし、ビデオカメラを覗かせたらびっくりして、「私が日本のテレビに映るの。」と
無邪気に騒いでいたのであるが。しかし、あの眼は、彼等の天性のものである。
 家族でイルクーツクからモスクワの南に住む知り合いのところまで移動の途中。
 このコンパートメントのビシネスマン、ワシリーさんは、イルクーツクからモスク
ワ行きの飛行機が、突然キャンセルになってしまい、やむなくこの列車で戻るところ
だそうな。後から、いろいろな話をしたけれどかなりいろいろな知識をもったひとで
ある。

 その次のコンパートメント。素敵なパパとママに可愛い男の子(ジプシーの子の喧
嘩相手)。仕事の都合でイルクーツクから600Kmほど北の、バダイバという町に
住んでいる。
 モスクワの実家に帰るところだという。手持ちの小物をあげたら、ナイフのセット
をくれた。それでは貰いすぎだからと、パンストをあげたら、今度は黒のレースのパ
ンティがかえってきた。
 きっと新年のために、そして旦那のために並んで買ってきたのだろうに、いらない
といってもどうしても聞かない。仕方がないので貰ってきたが、やみくもにプレゼン
トをするのは考えものである。かえって相手に迷惑を掛けてしまう。
 このコンパートメントには、ブッシュおじさんこと、エフゲニーさんがいる。黒い
カッターシャツを粋に着こなしている。
 この人から、ロシアで唯一の名刺を貰った。ヤクーツクでセメント工場の工場長と
いう肩書きである。民営化が進んでいるから、社長といったところであろう。
「ヤクーツクの周辺には、雄大な自然がたくさんある。資源としての開発は、これか
らであるがぜひ来てみてほしい。」といってくれる。「寒いところではないか。」と
聞くと、「たしかに寒い。マイナス50度位だけれど、もっと寒い場所があるから、
まだましだよ。」
 また、北方領土に関しても良く知っていて私が日本の漁業資源の実情を訴え、「返
されたら、ただちに資源の枯渇と観光のための乱開発をまねく」などというと日本人
には任せて置けないのかと、真剣に心配していた。
 これだけの会話を、辞書片手にロシア語でやってしまったのだから、私の語学力も
進歩したものであるとうぬぼれている。
 その隣の中国人グループ。30才くらいの男二人。李さんと東さん。それに48才
のおばさん。
 李さんはロシア語学習歴4年、東さんは日本語学習歴1年。おばさんは、かなり日
本語が分かるようで、自分からは絶対に話さない。しかし、良く分かっているようだ
から、なにか話してはいけない理由でもあるのだろうか。
 皆で会話をするのに、まず片言のロシア語で李さんへ、分からないときはゆっくり
と、日本語で話してみる。彼等は皆で中国語で話し合い、返事はまず片言の日本語、
つぎにロシア語で返ってくる。
 こちらも理解できないときには、筆談で漢字を交えての会話になる。大体、一つの
質問が往復するのに5分かかる。このコンパートメントに1時間もいると、頭が混乱
して日本語が怪しくなってしまう。
 もっとも急ぐ旅では全くない。時間はいくらでもある。こんな楽しい国際交流も、
日本では出来ない。例のケーキを半分あげたが、どう思ったろう・・・
 ノボシビルスクでオランダ人団体と中国人グループ下車。といっても夜中の1時だ
から気が付かなかった。ここでモスクワとの時差が4時間となる。

12月28日
 朝の7時、オムスク着。青いネオンが印象的な駅である。この辺りの駅は、大理石
の壮大な駅ばかり。どっかの国の2階建てデパート内蔵型横長ワンパターンの駅舎と
は大違い。
 朝食は、アルファ米でお握りを作る。海苔の香りが懐かしい。梅干しにお茶。ちょ
っとした食事の変化で元気になるから、やはり日本人なんだと思う。
 チュメニには、午後3時すぎについた。油田で有名なところ。大きな発電所がある
工業都市である。
 タンク車の、長い長い編成の列車が何本も止まっている。500メートルくらいは
当たり前といった感じで、巨大な電気機関車が3重連で悠々と引っ張って行く。
 夕食は相変わらずピロシキ。そして、その隣のキオスクで発見したビール。なんと
24ルーブルもした。それを4本も買ってしまう日本人に、ロシア人の驚きの目。ビ
ール1本でピロシキ6個も買えるのだから当然か。
 隣のジプシーのとうちゃんが棚のチキンを買い占めたのをしっかり見届けたので、
車内でパンとか、いろいろな食い物と交換。すっかり、ロシア人のライフスタイルに
溶け込んでいる自分を発見する。
 列車は、大きなカーブを繰り返しながらウラル山脈を登って行く。とはいっても、
高さが1500メートル足らず、幅は500キロもあるのだから、いつ山地にかかっ
たかまったく判らない。景色もいくらか丘が増えた程度でいわゆる日本の山脈とはま
ったく違う。
 この山地がアジアとヨーロッパの境界、分水嶺である。その最高点には、大理石の
オベリスクが立っているのだそうである。予定通過時間は、午後の6時頃だからもう
真っ暗、加えて悪いことにすでに一時間遅れているから、見ることは不可能だろう。
 それでも、アジアで最後のスベルドロフスクの駅を18時40分に過ぎて、気にし
つつ、時折窓の外を透かして見る。ヨーロッパに入ったらブランデーで乾杯しようと
清水君と相談していた。
 20時になると、さすがに焦れてオッパイおばさんに、お伺いを立てる。すると、
「あんたたち、何いってるの。もうとっくに過ぎてるわよ。」という。あっけなく過
ぎてしまったようだが、ヨーロッパに入ったには違いない。盛大に二人で乾杯。明日
はいよいよモスクワ入りである。
1991年12月26日ー27日
 ゆうべのブランデーが残っていて、すっきりしない目覚めである。どうしても、朝
の5時頃に目が覚める。日本時間で7時だから普通なのだろうが、ここでは、まだ漆
黒の闇の中。時差に適応できていない。
 朝のコーヒー。普段の日本では見向きもしないインスタント・コーヒーが、極楽の
飲料に思われる。ロシアの珈琲はいわゆるトルコ・コーヒーで、粉が一杯浮いている
し、紅茶は葉っぱにお湯を差しただけのロシアン・ティーが普通である。
 日本では、ロシアン・ティーというとジャムを入れて飲むものと思っているが、本
当は、ジャムは嘗めながら、また、角砂糖(サハル)があれば、ちょっと紅茶につけ
てかじるのである。だから、紅茶に砂糖をいれてかきまわすと、けげんな顔をされる
 明るくなると込んでいて落ち着かないから、早い時間にトイレでゆっくり歯を磨き
ヒゲを剃る。トイレは既述の通り、車両の両端にある。ステンレス製の便器に黒いプ
ラスチックの便座が付いている。 
 しかし、便座がついていても、ちゃんと用が足りるわけではない。なかなか下りな
かったり、横にずれてみたり、やたら汚かったりするのである。
 この車両のは少し斜めについていて、便座に正しく座ると約30度右を向く。正し
い方向を向くと、どうもお尻の座りがよろしくない。
 汚いといっても不潔なのではなく、黒いはずの表面が傷だらけで、白っぽくなって
いたりとにかく薄汚れている。といった感じなのだ。こんな事もあろうかと思って、
日本からわざわざ便座を持参したのであるが、汚いのは何とかなっても、曲がってい
るのはどうしようもない。
 このトイレは、ちゃんとお湯は出るのだが、蛇口がない。パイプがむき出しでお湯
と水の二本、ベイシンに突き出している。もちろん、栓など無いから溜めて使う事は
できず、流しっ放しにするしかない。
 さらに驚異的なもの。トイレの流し水がお湯である。だから、お湯のたまった状態
で大きい用を足すと、自分の物ながら臭いに耐えられない。お風呂は生産者の方だけ
で沢山である。
 しかも、昔の日本の国鉄を思わせる直下式であるから、流すと同時に真っ白い湯気
が外気に押し戻され手、ワッと吹き込んでくる。
 直下式であるから、駅に停車中は使用できないように、およそ駅に着く5分前に、
車掌が鍵をかけてしまう。だから、車掌が鍵を持ってトイレに行くと、駅近しと言う
事が分かる。
 午前9時(イルクーツク時間)、20分遅れでイランスカヤの駅に着く。いつの間
にか、凍りついていた窓枠がすっかり溶けている。表に出てみると雪が降っている。
しかも、寒くない。おそらく、マイナス10度くらいではないか。
 マイナス30とか40度の世界を通ってくると、このくらいの温度など天国のよう
に感じられる。
 例によって、キオスクに走ってピロシキを買ってくる。揚げたてのあつあつを口に
いれると、幸せという2文字に包まれる。もともと日本にいても、カレーパン大好き
人間で、しかも熱くなくてはと、オーブン・トースターで暖めて食べるくらいの私に
とって、味こそ違え、シベリア鉄道の中で食べられる最高のものである。
 もうひと寝入りして起きると昼飯の時間。とにかく、食ってるか、寝てるか、よそ
のコンパートメントに行っているかのどれかしか選択肢のない生活である。肉体運動
ができないのだから、せめて、頭の運動にとロシア語の実践教室にでかける。
 後半の旅は静かである。右隣はツィガーン(ジプシー)の夫婦に子供、そして奥さ
んの妹の4人連れと、ロシア人のビジネス・マン。
 その向こうのコンパートメントは、同じく子供連れのウクライナ人夫婦と、ジョー
ジ・ブッシュの若い頃に似ている黒シャツの粋なおじさん。それと、プレスリーにチ
ョッと似た若い軍人。
 さらに、その向こうには、中国・大連市から仕事でノヴォシビリスクまで行くとい
う中国人3人組。
 左隣は、コンパートメント4つともオランダ人の団体客。その中に、190センチ
はあろうかという巨大なオランダ美人がいた。
 その圧倒的な量感に、あの佐川君が食べてしまったという気持ちの奥底がチラッと
分かるような気がしたものである。(危ない、危ない、)
 まず、隣のジプシー組。たばこの火を借りにきたので、100円ライターをプレゼ
ントしたら、大変喜んで、何度も何度も握手してくる。
 そこまでは良かったのだが、ここの5才の男の子がそれを持って隣のウクライナ人
の3才の男の子に見せびらかす。当然、よこせ、駄目だ。泣いたり、わめいたりの、
修羅場となってしまった。仕方なく、もう一つプレゼントする羽目になる。
 この二人の争いはモスクワまで続くことになる。ここの奥さんの20才になるとい
う小柄な娘。美人である。そして、「あんたのことは、すべて見通しているんだから
ね。」というジプシー占いの女のような、その灰色の瞳でじっと上目遣いに見上げら
れると、一瞬ゾクッとさむけが走ったのである。
 実際はそんな妖しい娘ではなく、献血で貰った裁縫セットをあげたら大喜びしてい
たし、ビデオカメラを覗かせたらびっくりして、「私が日本のテレビに映るの。」と
無邪気に騒いでいたのであるが。しかし、あの眼は、彼等の天性のものである。
 家族でイルクーツクからモスクワの南に住む知り合いのところまで移動の途中。
 このコンパートメントのビシネスマン、ワシリーさんは、イルクーツクからモスク
ワ行きの飛行機が、突然キャンセルになってしまい、やむなくこの列車で戻るところ
だそうな。後から、いろいろな話をしたけれどかなりいろいろな知識をもったひとで
ある。

 その次のコンパートメント。素敵なパパとママに可愛い男の子(ジプシーの子の喧
嘩相手)。仕事の都合でイルクーツクから600Kmほど北の、バダイバという町に
住んでいる。
 モスクワの実家に帰るところだという。手持ちの小物をあげたら、ナイフのセット
をくれた。それでは貰いすぎだからと、パンストをあげたら、今度は黒のレースのパ
ンティがかえってきた。
 きっと新年のために、そして旦那のために並んで買ってきたのだろうに、いらない
といってもどうしても聞かない。仕方がないので貰ってきたが、やみくもにプレゼン
トをするのは考えものである。かえって相手に迷惑を掛けてしまう。
 このコンパートメントには、ブッシュおじさんこと、エフゲニーさんがいる。黒い
カッターシャツを粋に着こなしている。
 この人から、ロシアで唯一の名刺を貰った。ヤクーツクでセメント工場の工場長と
いう肩書きである。民営化が進んでいるから、社長といったところであろう。
「ヤクーツクの周辺には、雄大な自然がたくさんある。資源としての開発は、これか
らであるがぜひ来てみてほしい。」といってくれる。「寒いところではないか。」と
聞くと、「たしかに寒い。マイナス50度位だけれど、もっと寒い場所があるから、
まだましだよ。」
 また、北方領土に関しても良く知っていて私が日本の漁業資源の実情を訴え、「返
されたら、ただちに資源の枯渇と観光のための乱開発をまねく」などというと日本人
には任せて置けないのかと、真剣に心配していた。
 これだけの会話を、辞書片手にロシア語でやってしまったのだから、私の語学力も
進歩したものであるとうぬぼれている。
 その隣の中国人グループ。30才くらいの男二人。李さんと東さん。それに48才
のおばさん。
 李さんはロシア語学習歴4年、東さんは日本語学習歴1年。おばさんは、かなり日
本語が分かるようで、自分からは絶対に話さない。しかし、良く分かっているようだ
から、なにか話してはいけない理由でもあるのだろうか。
 皆で会話をするのに、まず片言のロシア語で李さんへ、分からないときはゆっくり
と、日本語で話してみる。彼等は皆で中国語で話し合い、返事はまず片言の日本語、
つぎにロシア語で返ってくる。
 こちらも理解できないときには、筆談で漢字を交えての会話になる。大体、一つの
質問が往復するのに5分かかる。このコンパートメントに1時間もいると、頭が混乱
して日本語が怪しくなってしまう。
 もっとも急ぐ旅では全くない。時間はいくらでもある。こんな楽しい国際交流も、
日本では出来ない。例のケーキを半分あげたが、どう思ったろう・・・
 ノボシビルスクでオランダ人団体と中国人グループ下車。といっても夜中の1時だ
から気が付かなかった。ここでモスクワとの時差が4時間となる。

12月28日
 朝の7時、オムスク着。青いネオンが印象的な駅である。この辺りの駅は、大理石
の壮大な駅ばかり。どっかの国の2階建てデパート内蔵型横長ワンパターンの駅舎と
は大違い。
 朝食は、アルファ米でお握りを作る。海苔の香りが懐かしい。梅干しにお茶。ちょ
っとした食事の変化で元気になるから、やはり日本人なんだと思う。
 チュメニには、午後3時すぎについた。油田で有名なところ。大きな発電所がある
工業都市である。
 タンク車の、長い長い編成の列車が何本も止まっている。500メートルくらいは
当たり前といった感じで、巨大な電気機関車が3重連で悠々と引っ張って行く。
 夕食は相変わらずピロシキ。そして、その隣のキオスクで発見したビール。なんと
24ルーブルもした。それを4本も買ってしまう日本人に、ロシア人の驚きの目。ビ
ール1本でピロシキ6個も買えるのだから当然か。
 隣のジプシーのとうちゃんが棚のチキンを買い占めたのをしっかり見届けたので、
車内でパンとか、いろいろな食い物と交換。すっかり、ロシア人のライフスタイルに
溶け込んでいる自分を発見する。
 列車は、大きなカーブを繰り返しながらウラル山脈を登って行く。とはいっても、
高さが1500メートル足らず、幅は500キロもあるのだから、いつ山地にかかっ
たかまったく判らない。景色もいくらか丘が増えた程度でいわゆる日本の山脈とはま
ったく違う。
 この山地がアジアとヨーロッパの境界、分水嶺である。その最高点には、大理石の
オベリスクが立っているのだそうである。予定通過時間は、午後の6時頃だからもう
真っ暗、加えて悪いことにすでに一時間遅れているから、見ることは不可能だろう。
 それでも、アジアで最後のスベルドロフスクの駅を18時40分に過ぎて、気にし
つつ、時折窓の外を透かして見る。ヨーロッパに入ったらブランデーで乾杯しようと
清水君と相談していた。
 20時になると、さすがに焦れてオッパイおばさんに、お伺いを立てる。すると、
「あんたたち、何いってるの。もうとっくに過ぎてるわよ。」という。あっけなく過
ぎてしまったようだが、ヨーロッパに入ったには違いない。盛大に二人で乾杯。明日
はいよいよモスクワ入りである。
12月29日
 モスクワまであと1000km。時差がなくなって、モスクワ時間となる。相変わ
らずよい天気が続いている。
深夜に停ったペルミという駅で、なにか揉め事があったようである。軍人が大勢乗せ
ろといって騒いでいた。
 車掌のオッパイおばさんは、凄い剣幕でどなりつけ、ステップを上げてドアを閉め
てしまった。さらにおばさん、無賃乗車のおやじを見付けて、強引に車外に引き出し
て、これまたえらい勢いで叱りつけている。そのあまりの見事さに清水君と二人で、
思わず拍手と声援を送ると、おばさん、ニコッと笑ってガッツポーズ。(これは日本
と同じで、親指を立てる) 
 もう三日も一緒にいるのだから、おばさんもだいぶ打ち解けて、お菓子をあげたら
シベリア鉄道のパンフレットをお礼にくれた。ついでに、一緒に写真を取らせていた
だく。いささか照れ気味で、可愛らしいおばさんでもある。
 前の列車と違い、ちょっと偉そうな制服が時々車内を巡回している。いかにも、旧
ソ連の小役人、共産党員といった神経質そうな連中である。しばらく前までは、こう
いう連中がうるさく付きまとって、あれもニェット、これもニェットといって回った
に違いない。通路にある電源からビデオの電池に充電してたら、物も言わずにひっこ
抜いていった。
 窓から見る風景もいつのまにか、原野から工場、農場等に変わってきた。キロポス
トの数字もあと600キロを切り、シベリア鉄道の旅も一割を残すのみとなる。
 600キロというと東京ー大阪間より遠いのであるが、8000キロを走破してき
た我々にとっては、「ちょっとそこまで」という感じになってしまうからすごい。
 いよいよ、モスクワが近くなってきたので、お昼に、清水君達と御赤飯を炊く。こ
のアルファ米のお赤飯はよく出来ていて、まったく感心してしまう。熱湯で5分で炊
き立てに近い仕上がり。昔のアルファ米はとても食えたものではない、という記憶が
あり、非常食のなかでも一番評判が悪かったものだ。20年間の進歩というのは大し
た物である。日本人の研究熱心なことに改めて感心したものだ。
 その意味で、このロシアという国は時間を味方につけ損なった。一般の市民生活レ
ベルは、日本と比べても30年かそれ以上遅れているような気がする。
 その遅れを、自由市場経済に変えて一気に解消しようとしても、絶対に無理である
政治的にも経済的にも、構造的にまったく異なるのである。
 このことを、ロシアの人々は知らない。いろいろ説明を試みるが、利益を生み出す
という事が物流を促進し、価格の安定に繋がるということが理解できない。
 ロシアの苦悩は、生みの苦しみではなく、獅子身中の虫に苦しむの図式ではないか
多くのロシア人の言う、「だれがリーダーになっても同じさ。」という諦めしかない
のだろうか。
 この国には沢山の大河がある。アムール、エニセイ、ボルガ、ドニェプル、日本の
川ならコントロールも容易である。それでも時折氾濫を起す。
 しかし、悠然と流れる大河のコントロールには大きな時間が必要であろう。このロ
シアという大河の流れが変わるのに後何年かかるのだろうか。
 モスクワが近付くにつれ、あちこちで別れを惜しむ光景が見られる。私達も、皆さ
んと、住所の交換をする。エフゲニーさんは、メイド・イン・CCCPのナイフをく
れた。私も、スイス・アーミー・ナイフをプレゼント。今度は、是非、ヤクーツクで
会いたい。ワシリーさんは写真立てを、こちらからは文具セット。
 ヴォルガ川の鉄橋をわたると、ヤロスラブリ駅。実は次の駅もヤロスラブリ駅であ
る。モスクワの大きな駅には、行き先名が付けられている。キエフにいく列車はキエ
フ駅からでる。リガへ行くのはリガ駅から。だから、ヤロスラブリに行く列車はヤロ
スラブリ駅が始発駅になる。レニングラード駅はどうなったか?サンクト・ペテルブ
ルク駅にかわったかどうか。
 最後の夕暮れを楽しむ。日本人4人組は、シベリア鉄道の終点に近づいたので、部
屋に集まり大滝詠一の「さらば、シベリア鉄道」を、カセットの歌声に合わせて大合
唱。

  悲しみの裏側に何があるの? 涙さえ凍り付く白い氷原。
  誰でも心に冬をかくしてるといけど あなた以上冷ややかな人はいない。
  伝えておくれ 十二月の旅人よ いついついつまでも待っていると

 この汽車の旅は、忍耐、協調、親睦、努力そしてやさしさを強いられる旅でもある

 私は、若い恋人たちに、このシベリア鉄道の冬の旅をお勧めしたい。狭いコンパー
トメントで自分に与えられたわずかな空間ですべてを賄わなくてはならない。食料の
調達から社交性、国際感覚までが問われるから。一週間の間には、お互いの気心も十
分に判るし、成田離婚など有り得ないだろう。その代わり、イルクーツクや、モスク
ワでの別離のシーンが続出するに違いない。
 といっても、簡単に帰れないから帰るまでは何とかして生き延びなければならない
とにかく、自分の事だけでなく、同室の人達に迷惑が掛からないようにしなくてはな
らないし、また助け合っていかなくてはならない。思いやりと優しさを要求される。
 十二分にある時間を消費するには、積極的に行動することが必要だ。せっかく思い
切ってこの旅に出てきたのだ。いろんな人に会いたいし、話をしてみたい。そして、
自らの、また、日本の小ささを実感しなければならない。
 日本では、金さえ出せばなんでも手に入る。しかし、ここではすべて自分で行動し
て手に入れなければならないのである。
 男はすこしでも生活を良くしようと努力し、女は生活をいかに明るくしていこうか
と努力する。この極限状態に耐えられればどんな苦境でも助け合っていけるはずだ。
白い大雪原の思い出と共に。

 ロシア号は、もう少しでモスクワというところでノロノロ運転。まだか、まだかと
さんざ気を持たせた揚げ句、約3時間遅れて午後8時15分、モスクワのヤロスラブ
リ駅に到着した。

 旅の終わりのヤロスラブリ駅

 長い旅の終点にしては、余りにもあっさりした駅である。皆と別れを惜しみ、写真
を撮りまくる。インツーリストの係員は鼻の頭を真赤にして、2時間以上も待たされ
たとぼやきながら荷物をはこんでくれる。気温はマイナス2度。シベリアの寒さに比
べると、暖かくさえ感じられてしまう。
 人々でごったがえす駅舎を通り抜けて、インツーリストの車でホテルヘ。10分程
で、巨大な「コスモス」ホテルに着いた。
 さすがに、モスクワの外国人専用ホテルである。この国の陥っている状況など、少
しも感じられないほどの偉容を誇っている。
 しかし、すぐにそれは表面だけのことと判る。レストランに行けば、できるものは
何かと聞いても、「ビーフ・ステーキ」。
 そしてウエイターが「カニカンハ?キャビアハ?」と言って、近寄ってくる。ドル
が欲しい病は、この国全部に広がっている。
 ドルの束を持ち込む我々外国人が悪いのか、または、そうしなければ生活が維持で
きない、この国の政治が悪いのだろうか?
 ロビーには日本人のツアー客が沢山いた。モスクワやサンクト・ペテルブルクをチ
ラッと見ただけで「私は、激動のロシアを見てきた。」などとのたまうのであろう。
 たくさんのドルと円でお土産を買い、「モスクワには、何もなかった。」と、さも
分ったようなことをいうに違いない。実際、そういう会話だけが聞こえてくる。
 私達といえども、ちょっと引っ掻いただけの、ロシアの旅ではあるが、彼等の何十
倍かの体験をしてきた。あんた達の知らない本当のロシアを見てきたんだよと、自信
を持って言うことができる。
 ロシアの人々はまだロシアの再生を信じ、底抜けに明る
く、それぞれの人生を楽しんでいる。うわべだけでロシアというこの大国を判断して
はいけない。
 この、シベリア鉄道の旅が、私達に与えてくれたもの、それは、金銭では換算でき
ない。多くの人達の助けで無事終える事のできたこの旅は、恐らく一生の宝物となる
旅にちがいない。

            おわり