岩屋谷池(いわいだに)
Since 2001/03/09 



 兵庫県相生市の南東部にある天下台山(321.4m)から、北の那波野地区へ延びた険しい谷を、地元の人々は「いわいだに」と呼んでいます。そこを流れる岩谷川をせき止めて作られた人工池が岩屋谷池です。すぐ下流に岩屋谷公園があります。西岸には天下台山へ登るハイキングコースが通っています。

 手近に自然を楽しめるスポットとして、四季を通じて市民に親しまれています。遊泳は、岸から急に深くなっていて危険であるとして、禁止されています。しかし夏になると、青緑色の透明な水に誘われて、着衣のまま、あるいは岸に服を脱ぎ捨てて泳ぎ出す来訪者も少なくありません。

(写真はクリックすると大きくなります。)


下流から見た
堰堤(冬)


殉職碑
(冬)


とんび岩から
(春)


三段岩から(冬)

 関連ページ   →天下台山の登山口(岩屋谷公園)    →岩屋谷池の底を見てきました

名称と表記   

 地元では、岩屋谷池のある谷を、今も「いわいだに」と呼んでいます。漢字では、つい10年くらい前までは「岩谷」と書いていました。呼び名に合わせて「岩井谷」と表記する人もありました。殉職碑(詳細後述)の由来を記した碑文(平成6年作成)では、池の名前は「岩谷池」となっています。

 それが何故、現在の「岩屋谷池」に変わったかですが、「相生市史」第2巻486ページに、その根拠ではないか(?)と思われる記述を見つけました。元禄12年(1699)に起こった赤穂藩と龍野藩の境界争いを扱った部分です。

 同市史によると、このとき、京都所司代の裁許で、現在の池之内から那波野にかけての境界が大上原の畑から、「広かうけ」と芝間の中道を「岩屋谷の尾」へ見通したところと決められました。証拠の絵図面が作られ、その控図が今も相生市役所に残っているそうです。これにより、当時は「いわいだに」を「岩屋谷」と表記していたことが分かります。なお「岩屋谷の尾」とは、とんび岩(鳶ヶ平居石)のある尾根のこと、「広かうけ」は古池の老人たちが「ひらこげ」と呼んでいる地域(平芝)と思われます。

 市史編纂によってこのことが分かったため、行政(相生市役所)は、「岩屋谷」を公式名称としたのではないか(?)、というのが筆者の推測です。

 しかし「岩屋谷」と書いて何と読ませるのでしょうか。 「いわいだに」でしょうか、「いわやたに」でしょうか。筆者は「いわいだに」説に賛成です。

 関連ページ  → 郡境争論絵図

歴史   

 岩屋谷池は明治の末期に灌漑用の溜池として築造されました。堰堤の100mほど下流に「殉職碑」がありますが、これは明治41年、築造工事中に土砂崩れによって殉職された、那波野の岩谷興三治さんと古池の土井政治さんを祀ったものです。

 犠牲者の1人が古池の人であったということは注目に値すると思います。岩屋谷池の築造に、那波野だけでなく古池の人々が係わっていたということを示しているからです。

 江戸時代、岩屋谷や那波野村は龍野藩領でした。一方古池は、赤穂藩領の相生村でした。現在「平芝」と呼ばれている地域は、国ざかいの、いわゆる「堺目之地」でした。「相生市史」によると、生保3年(1646)には、この地の開墾を巡って、那波野村と相生村(古池)の間で「百姓打ち合い」になり、那波野村の百姓が相生村の百姓を傷つけたため、牢屋に入れられるというような事件まで起こっています。明治維新後も、古池は赤穂郡相生村、那波野は揖保郡神部村となり、江戸時代の国ざかいがそのまま郡境として残りました。

 ところが明治末期に行われた岩屋谷池の築造に、郡境(江戸時代の国ざかい)を越えて古池の人々が参加しているのです。この理由を古池の古老(83歳)にたずねたところ、「そりゃあ、岩屋谷の水が古池の田圃にも引けるからじゃ」との回答でした。このころになると、古池と那波野の農民の間に、水利を通じた交流(協力?)関係が出来ていたものと推測されます。

 太平洋戦争後の昭和26年、那波野は住民の賛成多数で神部村(現揖保川町)を離れ、相生市に編入されます。この原点は、明治末期の岩屋谷池の築造にあったのではないか(?)と考えます。

 なお岩屋谷池は、最近では敗戦後(昭和25〜26年頃?)に堤防が決壊し、大規模な水害を起こしました。現在の堰堤はその後に改築されたものです。

 

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