★ 信長家臣団個人別 ★
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平井久右衛門(ひらい きゅうえもん)生涯年不詳

信長の旗本で、弓衆。永禄四年(1561)四月、信長が三河梅ヶ坪城を攻めた時、弓で手柄を立て褒美をうけただけでなく、敵からも賞讃されたという。天正六年(1578)十一月有岡攻めに従軍。十二月八日の一斉攻撃の時、中野一安・芝山次大夫と三手に分かれて火矢を打入れ、町を焼いた。同九年二月二十八日の馬揃えの時は、百人の弓衆を、中野一安と二手に引率している。弓衆の統率者である一方奉行としても活躍。同十年一月、伊勢大神宮御師上部貞永の補佐として、大神宮遷宮の奉行を務める。大神宮の遷宮は、秀吉政権下の同十三年十月になってからだが、功のあった平井の消息は不明である。


中野一安(なかの かずやす)大永六年(1526)?〜?

又兵衛。実名(重吉)は、家康の臣・中野七蔵重吉との混同で、(一安)が正しい。信秀、次いで信長に仕える。天文十一年(1542)八月の小豆坂の戦の時、信秀に従って高名をあげた。当時十七歳という。以後、信長の馬廻り。弓の上手で、元禄元年(1570)九月、本願寺との戦いの時、弓をもって活躍した。天正六年(1578)の有岡攻めの時も、弓衆を指揮し、火矢で有岡の町を放火した。平井久右衛門と並び、弓衆の指揮官だったらしく、天正九年二月の馬揃えの時、二人で弓衆百人を率いて行進している。


魚住隼人(うおずみ はやと)生没年不詳

信長の古くからの馬廻り。永禄三年(1560)五月の桶狭間の戦で活躍。同十一年の入京の時、摂津池田の攻城戦でも敢闘したが、傷をうけたという。天正八年(1580)四月、木下裕久とともに、信長の使として、柴田勝家の軍の様子を見届けるため加賀に派遣され、戻って復命。信長より褒美を与えられている。本能寺の変後も生存しており、天正十三年八月、秀吉が佐々成政を攻めた時、金沢城の留守を務めている。この年九月十一日付の、前田利家あて秀吉書状中に、隼人正について、「老而之武篇」とあるから、もうかなりの年配だっただろう。


日祢野弘就(ひねの ひろなり)?〜慶長七年(1602)五月二十八日

備前守・備中守。実名は(雄就)ともいう。はじめ斎藤氏の重臣。当時は(延永)の姓をも用いている。斎藤氏滅亡後今川氏に仕え、永禄十一年(1568)から翌年にかけて、家康の軍と戦っている。今川氏没落後は、しばらく浪牢したが。だが、元亀三年(1572)から天正元年(1573)にかけて、弟盛就とともに伊勢長島の一揆に加わり、依然として信長に敵対していることがわかる。信長に降ったのは、天正二年に長島が全滅させられた後か。信長の下では馬廻り。天正六月十一日、有岡城攻めに従軍している。同八年三月、弟盛就ら日祢野一族は、安土に屋敷地を与えられた。信長の臣として、ようやく安定した様子である。本能寺の変の後は、秀吉に従う。天正十一年五月、池田恒興とともに、美濃瑞竜寺に禁制判物を下しているから、美濃の旧地を回復したのであろう。以後、秀吉の下で諸戦に従軍している。


河尻秀隆(かわじり ひでたか)大永七年(1527)?〜天正十年(1582)六月十八日

与兵衛。(肥前守)とあるのは、子秀長との混同だろう。愛知郡岩崎村の出身である。早くから信秀に従い、天文十一年(1542)八月の小豆坂の戦いで、戦功をあげた。後、信長に仕え、信勝(信行)誘殺の時、直接刀を振るって信勝を切ったという。桶狭間の戦・堂洞城攻めにも従軍。永禄年間に選抜された黒母衣衆にも名を連ねている。身分は馬廻りだが、小部隊の指揮官として、佐和山城攻めなどに活躍。天正三年(1575)十一月、対武田作戦の最前線、美濃岩村城に置かれた。以来、岩村城将として、秀隆は長く東美濃に駐まったが、その地位は、この頃形成された信忠軍団の部将、しかも信忠輔弼の臣という立場でもあったらしい。天正十年二月信忠の武田攻めに従軍。この時、信長は何度にもわたって秀隆に書を送り、信忠や先鋒を務める森長可・団忠正の、若さによる軽挙妄動を押さえるよう、もとめている。武田氏滅亡後、甲斐一国を与えられ、府中城主。しかし、わずか二ヶ月後、本能寺の変が勃発。家康の煽動をうけた国衆らの一揆に襲われ、六月十八日、殺された。五十六歳だった。


佐々成政(ささ なりまさ)?〜天正十六年(1588)

内蔵助。秀吉政権下で陸奥守。兄隼人正及び孫介とともに、信秀の代から仕えている。二人の兄の戦死によって、春日井郡比良城主となった。信長の初期の戦いに常に従軍。永禄年間に選抜された黒母衣衆の一人。身分は馬廻りである。入京後の元亀元年(1570)六月、近江小谷から退却の時、成政は、簗田広正・中条将監と三人で殿軍を受け持った。三人合わせて、大身の将一人分程度の身上だったらしい。その後も信長旗本隊にあって諸所に転戦。転正三年(1575)五月の長篠の戦いでは、鉄砲奉行の一人であった。そして、その年の八月の越前一向一揆討伐戦の後、前田利家・不破光治と並び、越前二郡を与えられる。会わせて十万国といい、三人の相給知行であった。彼ら三人は、「府中三人衆」とよばれ、同時に越前八郡を委ねられた柴田勝家の目付けを命じられた。だが、軍事行動に関しては勝家の指揮下に置かれ、北陸方面での戦いを主任務とするようになる。北陸においては、勝家の指揮の下に、一向一揆や上杉軍と戦ったが、この方面に固定されていたわけではない。天正六年十一月には、摂津有岡城攻めのため、約半年間も北陸を留守にしている。北陸に戻った成政は、天正八年の九月、勝家と軍を分けて、越中へ攻め入った。多くの国衆が成政に従い成政は翌年二月、未平定の越中を正式に信長yろ与えられた。本能寺の変報がもたらされたのは、勝家らとともに越中松倉城攻囲の最中だった。攻城軍はすぐに撤退。勝家は軍を整えて上洛しようとしたが、弔合戦の功は、すでに秀吉のものとなっていた。信長死後の成政の行動は、反秀吉の色で塗りつぶされる。賤ヶ岳の戦いのときは、越中で上杉氏の押さえをしていて、秀吉と戦う機会がなかった。しかし、その後、秀吉の与党である利家と戦いを繰り返している。越中に独立する一人の戦国大名の形である。小牧の戦いの時、家康と合流しようとして、厳冬の中、佐良峠を超えたことは有名。最後、秀吉に屈し、新領土肥後の経営に失敗して、自殺を命じられる。


毛利良勝(もうり よしかつ)?〜天正十年(1582)六月二日

新助・新左衛門。あるいは、毛利十郎と同一人か・・・。信長の尾張一国時代からの馬廻りである。毛利新助の名を高めたのは、永禄三年(1560)五月十九日の桶狭間の戦い。この時、信長の馬廻りたちは、今川の本陣に突進。服部春安がまず義元に一番鑓をつけ、良勝が義元を組み伏せて、首を獲った。後、黒母衣衆の一人。本能寺の変に至るまで、終始馬廻りないし側近として信長に仕えた。信長入京の後も、馬廻りとして、信長の旗下を固めつつ諸所に働いたと思われるが、永禄十二年の大河内城攻めの時以後は、資料にその名は載っていない。むしろ、側近として、信長の命令を伝達したり、副状を発給したりする活動の法が目立つ。特に、天正七年(1579)頃は、奈良薬師寺について担当していたらしい。天正十年三月の、信長の甲信遠征にも従う。四月、陣見舞いの蓮成院の使より、長谷川秀一・堀秀政とともに物を送られた。六月二日、二条御所で討死。


中川重政(なかがわ しげまさ)生没年不詳

八郎右衛門。前名は織田駿河守。系図類では、信長の叔父信次の孫とするが、年代的に疑問である。信長の馬廻りとして、永禄年中に選抜された黒母衣衆に名を連ねる。信長入京の頃より部将に昇格したらしく、木下秀吉・丹羽長秀・明智光秀と組んで、四人のチームによる連署状を多く発給している。元禄元年(1570)五月、信長は、六角氏の残党や浅井氏に備えて、琵琶湖の周囲に宿将級の部将を配置するが、重政もその一人として安土城に入れられた。この時、永田景弘、建部寿徳らが余力として従ったものと思われる。宿将たちに与えられた近江の知行や権益は、複雑に入り組んでいたらしく、長命寺の中間銭をめぐって、長光寺城主柴田勝家と争ったこともある。そして、元亀三年八月というが、領地争いが原因で重政の弟津田盛月が勝家の代官を切り、兄弟ともども改易になった。天正七年(1579)十月、津田宗及の茶会に名が見えるが、二度と前の地位に戻ることはなかった。


前田利家(まえだ としいえ)天文七年(1538)〜慶長四年(1599)

犬千代・孫四郎・又左衛門。秀吉政権下では、羽柴筑前守。最後加賀大納言。海東郡荒子城主前田利昌の四男。少年時代より小姓として信長に仕える。天文二十年(1552)の海津の戦いから従軍。しかし信長の同朋衆を斬殺して、一時信長に勘当されたこともあった。桶狭間の戦、さらに森部の戦の功により、ようやく勘当か解かれたという。永禄年間に選ばれた赤母衣衆の一人。馬廻りである。永禄十二年(1569)、信長の命で前田家督となったが、せいぜい小部隊の指揮官にすぎない。天正三年(1575)五月の長篠の戦では、鉄砲奉行の一人。同年八月の越前一向一揆殲滅戦に参加。越前平定後、佐々成政・不破光治と一緒に二郡を与えられた。以後この三人は、「府中三人衆」と呼ばれ、越前八郡に封じられた柴田勝家の目付けという任務を負う。だが、軍事面では勝家の指揮下である。勝家の軍団の一員として、主として北陸方面に動くが、時には他方面の援軍として狩出される。特に有岡城攻めの時には、約半年間も摂津に在陣していた。天正八年のうちに、勝家の軍団は加賀を平定。越中・能登に軍を進める。この内能登は、守護畠山氏の遺臣長連竜が、上杉氏与党を相手に奮闘を続けていたが、同九年十月、利家は信長より能登一国を与えられ、連竜を与力として麾下に置くことになった。天正十年六月二日、本能寺の変の時、利家は勝家に従って越中松倉城を攻囲していた。変報により全軍撤退。勝家は軍を整え上京する途、山崎の戦と光秀の滅亡を知った。この間、利家は能登に残り、本能寺の変を聞いて攻勢に出てきた、畠山氏の旧臣温井・三宅と石動山・荒山で戦い、打破した。勝家と秀吉との対立が起こると、これまでの立場上、勝家に見方するが、本心はすでに秀吉に傾いていた。賤ヶ岳の戦いの真最中、利家は戦線を離脱し、勝家大敗の因をつくった。すぐに秀吉に降る。秀吉政権下の利家の活躍については、省略。秀吉にとって、最も信頼する臣であり、その晩年には五大老の一人となっている。


原田直政(はらだ なおまさ)?〜天正四年(1567)五月三日

九郎左衛門。原田備中守。実名ははじめ(正勝)。春日井郡比良村の出身とも、大野木村を領するともいう。永禄年間、赤母衣衆追加の一人。永禄十年(1567)の入京に従ったと思われるが、明記した資料はない。翌年の大河内城攻めの時も、「柵きわ廻番衆」の一人だから、身分は馬廻りである。元亀年間の直政は、京畿の政務に活躍する。特に、同二年十月、明智光秀・島田秀満と組んで、禁裏賄料のため、京中に米を貸し付けたことが目につく。天正元年(1573)信長と義昭との対立の中、二月に、使として義昭へ派遣された。その後、信長の重臣と義昭の側近との間に誓書が交換されるが、義昭よりの誓書の宛名は、佐久間信盛・滝川一益と直政の三人になっている。将軍追放後も、直政は行政官として活躍を続けるが、天正二年五月、山崎の守護、同三年三月、大和の守護の兼務を命じられた。これは、信長の対大阪包囲作戦の一環であり、以後、直政は、南山城と大和の国衆らを率いて、大阪攻めの任務を担う。これ以後、直政の軍事活動は活発になる。天正三年五月の長島の戦に従軍。この時は、畿内の鉄砲衆を指揮したらしい。八月、越前一向一揆攻めに参加。多数の一揆達を捕らえては斬り捨てている。同年七月三日、信長は、主立った家臣の任官を請い、勅許をうけた。この時、明智光秀・羽柴秀吉・村井貞勝らに混じって、直政も備中守に任じられ、「原田」の姓をうけた。実名とともに重臣の列に連なったといえよう。天正四年四月、大阪攻めの軍として、光秀・細川藤孝・荒木村重とともに出陣。天王子砦に入った。そして、三津寺攻撃の命が直政に下された。五月三日、直政は、前年降ったばかりの三好康長を先鋒として、大和・山城衆を率い、三津寺を攻める。だが、一揆勢に囲まれ、激戦の末討死した。直政戦死の後、一族郎等に追放の命が下った、理由は不明である。


毛利長秀(もうり ながひで)?〜永禄二年(1593)

河内守・羽柴河内侍従。書には「秀頼」とあるが、信長に仕えていた頃の実名は「長秀」である。尾張守護斯波義統の子で、三松軒義近の弟とも伝わる。天文二十三年(1554)、義統が織田彦五郎に殺されたとき、毛利十郎が若者一人助け出した、と「信長公記」のある。永禄三年(1560)五月、桶狭間の戦いで戦功。後、赤母衣衆の一人。元亀元年(1570)九月、本願寺の戦いで、敵将を討ち取る手柄をたてた。身分としては、信長馬廻りである。天正二年(1574)頃、信忠軍団が形成されると、尾張衆の一人としてそれに属す。以後、信忠の下で、美濃岩村城攻めなどに参加。天正十年、武田攻めに従軍してい、信濃・甲斐平定の後、信濃伊奈一郡を与えられ、飯田城主となる。本能寺の変後、所領を捨てて帰国。以後秀吉に従い、再び伊奈郡十万石、飯田城主に返り咲いた。


野々村正成(ののむら まさなり)?〜天正十年(1582)六月二日

三十郎。美濃の出身で、斎藤氏に仕えて、永禄四年(1561)五月の軽海の戦いに従軍。信長方の織田勘解由左衛門を討ち取ったという。その後、信長に仕え、馬廻り。黒母衣衆に追加として加わる。野田・福島攻めに従軍。天正三年(1575)五月、長篠の戦いの時、前田利家・佐々成政・福富秀勝ととみに鉄砲隊を指揮した。同六年十一月、有岡城攻めにも従軍。中川清秀の降を信長に仲介した。馬廻りであるが、同じに近習でもあり、特に最後の二、三年は後者の性格が強い。組んで仕事をする者は、長谷川秀一・福富秀勝といった、やはり馬廻りで近習でもある者たちである。近江野尻郷近辺の直轄領は、正成・秀一が代官を務めており、天正九年四月、この二人に特別に恩賞として知行は与えられた。天正十年二月には、紀伊方面へ遣わされて、土橋攻めの検使を務め、さらに、顕如や織田信張・根来寺・粉河寺へ信長朱印状を伝達している。同年六月二日、二条御所で討死。やはり信長の馬廻りで後、佐々成政に属し、末盛の戦いで討死にする野々村主水正は別人である。


浅井新八郎(あさい しんぱちろう)生没年不詳

近江浅井氏の一族で実名は「政澄」などと伝わるが、信用の限りではない。尾張の浅井氏だろう。中島郡刈安賀に居住し、信長に仕える。永禄年中、赤母衣衆の一人に選ばれた。永禄十年(1568)九月の入京の途、佐久間信盛・木下秀吉。丹波長秀に添えられ、箕作城攻めに参加。以後、小谷攻め、長島攻めなど、信長にしたがって諸所に転戦する。身分は信長馬廻りだが、当時佐々成政や簗田広正らと同じく、小部隊の指揮官といったところ。有力部将と一緒の行動がしばし見られる。天正二年(1574)頃から信忠の軍団が形成され、尾張・東美濃の士がこれに付属されていくが、新八郎も尾張衆としてこれに組みこまれたらしい。同六年六月、信忠の命により、播磨の砦の警固を務めている。その後、新八郎の名は、良質の資料に見えない。その子、田宮丸は、老臣として信雄に仕えた。


万見重元(まんみ しげもと)?〜天正六年(1578)十二月八日

仙千代。信長の小姓で、代表的側近。神子田長門守の子というが、定かではない。天正三年(1575)よりその活躍は見られ、戦場からの注進を信長に仲介したりしている。天正六年、重元は、八面六臂の活躍をみせる。自邸での名物披露、同じく南部政直の使の饗応、播磨神吉城の攻めの検使と砦の構築、荒木村重を
問糺する使。そのほか、関東の太田道誉との外交や安土相撲会の奉行も同年のうちに務めている。そして重元は、この年の暮れる前に散ってしまう。十一月、重元は信長に従って有岡城へ出陣。重元にとっては珍しい軍事行動である。十二月八日、有岡城一斉攻撃のとき、鉄砲隊を指揮。城のそばに追ったところで討死した。


森成利(もり しげとし)永禄八年(1565)?〜天正十年(1582)六月二日

乱・乱法師。有名な森蘭丸である。一般に実名は「長定」とされているが、文書の署名は「成利」となっている。可成の三男で、幼児より小姓として信長に仕える。天正七年(1579)四月、塩河長満褒賞の使として、摂津へ派遣されたのが、良質の資料における成利の初見である。以後、信長の側近として、取次・使節などに活躍。天正十年三月、信長に従って、信濃・甲斐に遠征し、ここでも、降将小笠原信嶺へ知行安欄gの使として遣わされている。甲信平定後、兄長可は信濃四郡に封じられて、海津城に移る。成利は、兄の跡の美濃兼山城を与えられた。五万石という。五月、信長に上洛に従い、他の小姓たちと同じく本能寺に宿泊、六月二日、明智光秀軍の急襲をうけて、主従ともども討死した。十八歳と伝わる。弟坊丸・力丸も同所で討死した。


武井夕庵(たけい せきあん)生没年不詳

肥後守・二位法印。入道号爾云・妙云。はじめは斎藤氏に仕え、奉行として活躍している。信長に属したのは、永禄十年(1567)の斎藤竜興没落の前後。宣教師フロイスの書翰中には、「信長の書記」とあり、身分は右筆である。だが一方では、各種の奉行として重用された。奉行としての実績を追うと、枚挙に暇がない。信長入京後数年の間は、京畿の政務にもたずさわっている。この間に公家との交わりを深めたか。山科言継などは、衰勅使として岐阜へ下向する度に、夕庵と密に連絡をとっている。天正三年(1575)十一月、信長が公家・寺社に所領を宛がった時、その実務を担当したのは、京と所司代村井貞勝、山城・大和守護原田直政、堺代官松井友閑に夕庵だった。夕庵の任務は、各種奉行のほかに、側近として奏者の役を果たすこと、そして外交のこともあった。担当したのは、重荷対毛利氏の外交。頻りに吉川元春・小早川隆景と通信している。戦場に働く武将ではないが、織田家中における夕庵の地位は高い。天正三年七月には、宿将たちの混じって官位をうけ、「二位法印」とされた。また同六年元旦、信長が十二人の家臣に茶を振舞った時、席次は諸将をおしのけて、トップである。同九年二月二十八日の馬揃えには、「坊主衆」の中に入って参加。山姥の扮装で馬に乗ったが、すでに七十才を超えており、危い感じだったという。本能寺の変後は、主を失って無力の存在になり、ほとんど歴史に出てこない。


太田牛一(おおた ぎゅういち)大永七年(1527)〜慶長十五年(1610)

又助。晩年は和泉守うぃ称す。「信長公記」之署名として知られている。春日井郡安食の出身、とは、本人自身が奥書に記している。はじめは柴田勝家の臣だったらしいが、後、信長に直仕し、弓三張の一人に数えられる。弓の技術は抜群だったらしく、永禄七年(1564)の堂洞城攻めの時、弓で活躍し、信長より恩賞をうけた。その後は、信長側近として、年貢催促、境界争いの裁定。直轄領の代官を務めるなど、内政面で活躍。信長の死後、一時加賀松任に蟄居したとも、丹羽長重に仕えたとも伝わる。


松井友閑(まつい ゆうかん)生没年不詳

徳庵・徳斎・宮内卿法印。清洲の町人出身らしい。信長の右筆で、代表的吏僚である。永禄十一年(1568)の信長入京後、諸将とともに京畿の行政にあたる。この時、信長の命をうけ、京及び堺で、名物の茶道具を提出させている。この時が、友閑と堺との初めての接触である。友閑が堺代官とされたのは、天正三年(1575)三月〜四月頃か。教養もあり、時々信長の茶会の茶頭を務めているほど茶場の造詣の深かった友閑である。自立心の強い境の町衆と親交を結びつつ町を治めるためには、適材であっただろう。堺の政務を担当していた十年余りの間、津田宗及らの茶会に頻繁に出席。また、自らも町衆らを招いて茶会を催している。友閑が堺に入って間もない天正三年四月、ずっと信長に抵抗していた三好康長が、友閑を仲介として降った。友閑が十月、康長と一緒に、今度は本願寺との講和も成立させた。堺代官として概ね堺に駐在していた友閑だが、信長側近としての性格も残しており、信長の吏として派遣されたり、他の戦国大名との外交などの仕事にもたずさわっている。吏としての活動を追うと、天正五年松永久秀が、翌年荒木村重が背いた時、説得するための吏、高山長房を味方に付けるため、やはり説得の吏、天正八年、本願寺との和睦の時の検使、さらに佐久間延盛への譴責の使、と見られる。いずれも重要な役割である。外交面でも活動は多い。元亀年間頃より上杉氏との連絡を任務としていたが、その後、伊達氏や大友氏とも接触している。天正三年七月、信長の主立った家臣に官位が与えられた時、吏僚の友閑と夕庵の二人とも、その恩典に俗した。この時以後、宮内卿法印と呼ばれる。本能寺の変後も、友閑は堺代官として駐まる。秀吉の覇権が確立する中、友閑の役職は「堺政所」と呼ばれるようになった。ところが、天正十四年六月、俄かに罷免。その後の消息は明らかではない。


織田信次(おだ のぶつぐ)?〜天正二年(1574)九月二十九日

右衛門尉・孫十郎。「津田」の姓を称す。信秀の弟で、信長の叔父の一人である。守山城主だったが、弘治元年(1555)六月、家臣洲賀才蔵が誤って、信長の弟秀孝を射殺。信次は取る物も取りあえず守山城を出奔し行方をくらました。守山城はただちに信勝(信行)の攻撃をうけたが、信長は放任したという。翌二年、赦免されて、再び守山城主となる。その後は、一門衆の一人として信長に仕えたが、特に目立った活動はない。天正二年(1574)七月、長島攻めに従軍。九月二十九日、信長が一揆勢うぃ騙し討ちにした戦いで、他の一門衆ととに討死した。


織田信光(おだ のぶみつ)永正十三(1516)〜弘治元年(1556)十一月二十六日

守山城城主。通称は孫三郎。武勇に優れ、兄・信秀に従って小豆坂の戦いに出陣し、武功を挙げて小豆坂七本槍の一人として名を馳せる。兄の死後、家督を継いだ甥の織田信長を支持し、信長と敵対する織田信友を殺して清洲城を奪った。しかし、弘治2年(1556年)にこれを恨みに思った信友派の家臣に殺害された。


織田信包(おだ のぶかね)天文十二年(1543)?〜慶長十九年(1614)七月十七日

三十郎・上野介。信秀の四男というが、弘治年間に没した、信時・秀孝のほうが年長のようである。永禄十一年(1568)、北伊勢の豪族長野藤定の娘を娶って長野氏を嗣ぎ、工藤・雲林院・分部・細野氏らを麾下とした。永禄十二年の大河内攻めに従軍。和睦後、安濃津城に移る。その後、長島攻め、越前一向一揆攻め、雑賀攻めなどに従軍。その間。麾下の国衆、細野や雲林院を追放して領国を固めた。信長の晩年、一門衆の序列では、信忠・信雄に次ぐ、ナンバー3である。本能寺の変後は秀吉に接近し、二人の甥、信孝・信雄を次々と敵に回した。それゆえ、秀吉政権下において加増を重ね、官位も従三位左近衛中将まで昇った。だが文禄三年(1594)九月、秀吉の機嫌をそこね、近江二万石に減封された。


織田信行(おだ のぶゆき)天文五年(1536)?〜弘治三年(1557)十一月二十二日

名は一般に信行と流布しているが、自己発給文書では信勝、達成、信成しか確認できていない。父織田信秀の葬儀の際、信長は仏前で抹香を投げつけるという愚行を行ったのに対し、勘十郎信勝は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり。」(『信長公記』)と対照的な振る舞いであった。1556年4月、信長の支援者であった斎藤道三が嫡男斎藤義龍との戦に敗れて死去。同年、林秀貞(林通勝とも)、林美作守、柴田勝家らを味方につけて信長に対抗し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。信長は達成の謀反を受けて立ち、8月24日、稲生で柴田勝家、ついで林美作守を打ち破り、美作守を討ち取った(稲生の戦い)。敗れた達成は末盛城に籠城、信長・達成両者の生母の土田氏の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。弾正忠達成は武蔵守信成へ改名した。1557年、信成は再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、信成の家臣と対立していた柴田勝家がこれを信長に通報。信成は信長が病気との報を受ける。柴田勝家に事の真偽を仰ぐが「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば信友殿もいない今、織田家はあなたのものです」と諭されて清洲城内に呼び入れられ、11月2日、暗殺された。


織田秀孝(おだ ひでたか)生年不詳〜弘治元年(1555)六月二十六日

通称喜六郎。弘治元年(1555年)6月26日、信長・秀孝の叔父でもある守山城主織田信次が家臣を引き連れ、領内の松川の渡し(現庄内川)付近で川狩をしていた。その時、目前に下馬もせず単騎で通り過ぎようとした武者がいた。これを信次の家臣洲賀才蔵が無礼であるとして弓で射ると騎乗の武者にあたり落馬し、絶命した。そしてその武者の顔を見て初めて、それが秀孝であるとわかったのである。織田家当主の実弟であり、故に誤殺であろうと当然許されるはずもなかったため、信次はそのまま逐電し、家臣は報復を恐れ守山城に立て籠もるも守山城下は織田信行に焼き払われてしまった。その後、信長は一人で行動していた秀孝にも非があるとして信次とその家臣らを許すが、果断な処置をした信行に対する対抗・牽制だったともいわれる処置で「秀孝に対してあまりにも冷たい仕打ちだ」といった悪評が流れる。守山城主には信長の四弟信時が入り事件は幕を閉じる。


織田信興(おだ のぶおき)生年不詳〜元亀元年(1570)十二月二十八日

兄・信長に早くから従い、尾張国小木江城(現在の弥富市)を与えられた。信長が足利義昭や石山本願寺など、信長包囲網に囲まれると、信興の小木江城も尾張・伊勢長島一向一揆衆によって囲まれてしまった。このとき兄・信長は浅井長政や朝倉義景らと比叡山で対峙し、桑名城にいた滝川一益も篭城していたため、援軍を送ることができなかった。それでも信興は孤立無援の中で奮戦したが、やはり数の差は如何ともし難く、城は落城し、信興は天守で自害を余儀なくされたのである。


織田信治(おだ のぶはる)生年不詳〜元亀元年(1570)十月十九日

兄・信長に従って、野府城(現在の一宮市(旧尾西市)の開明小学校付近が城址)を与えられていた。1570年、森可成と共に浅井長政・朝倉義景の連合軍と近江国宇佐山城で戦ったが、衆寡敵せず可成と共に戦死した。


織田長利(おだ ながとし)生年不詳〜天正十年(1582)七月二十一日

通称は又三郎。津田姓を称していたため、津田長利と呼ばれることもある。兄・信長の命で織田信忠の軍団に配属し、1574年の伊勢国長島一向一揆討伐に参加した。1581年、京都御馬揃えでは信長の一族衆として参加している。1582年、明智光秀が本能寺の変を起こして兄・信長を殺したとき、長利は信忠と共に二条城で明智軍に攻められ、戦死した。


織田長益(おだ ながます)天文十六年(1547)〜元和七年(1622)十二月十三日

通称は源五郎。有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では織田有楽斎と呼ばれることが多い。利休七哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。長益は信長の実弟の一人であるが、信長とは年齢の離れた弟であり、青年時代の信長が尾張国の一部を領する戦国大名から畿内を制するに至る時期の事歴はあまりわかっていない。1570年代頃から織田信長の長男信忠の旗下にあり、1582年の本能寺の変の時は、信忠とともに京都の二条城にいた。衆寡敵せず、「自害する」と言い放ったが、長益の進言に従って信忠が最終的に自害したのに対し、気が変わったのか城を脱出。奇跡的に近江安土へ逃れ、さらに岐阜へ逃れて事なきを得た。本能寺の変後は尾張国に戻って信長の次男織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いの後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590)の織田信雄の改易後、豊臣秀吉に仕えて摂津国味舌に2000石を領した。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では長男長孝とともに東軍に属して戦功を挙げ、大和国で3万石を与えられた。しかし、戦後も大坂城の豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄信包らの肖像画も伝わっている。大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。一説には、幕府の間者であったともいう。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615)8月、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。元和7年12月13日京都で死去、75歳。
東京都千代田区有楽町という町名は、有楽が同地に居住していたことに由来し、現在も屋敷跡が残る。


織田信広(おだ のぶひろ)?〜天正二年(1574)九月二十九日

三郎五郎・大隈守。信長別腹の兄で、姓は「津田」を称す。三河安城城を守備していたが、天文十八年(1549)十一月、今川軍に攻められて開城。捕らえられたが、織田方にあった松平竹知代(徳川家康)と交換され、尾張に戻った。織田家を嗣いだ異母兄弟信長に仕えたが、弘治三年(1557)頃、美濃の斎藤義竜と謀って、清洲城の乗っ取りを計画したことがある。以後は二心なく信長に仕え、叡山攻囲や美濃岩村城守備を務めたりした。中でも、天正元年(1573)四月、信長と将軍義昭との衝突の時、信長の名代として和睦を結んだことが、顕躍である。天正二年七月、長島攻めに従軍。九月二十九日の最後の戦いの時、一揆勢と戦い、討死した。


織田信時(おだ のぶとき)生年不詳〜弘治二年(1556)六月

官位は安房守。幼名は喜蔵。名は秀俊とも。織田信康の養子となる。天文24年4月20日(旧暦)(1555年5月10日)、織田信長は清須城の奪取に成功し、大功を挙げた叔父の守山城主織田信光に那古野城を与えた。信光のあとに守山城主となったのが織田信次であったが、6月26日、守山城下龍泉寺近くの庄内川ほとりにおいて、信次は馬の遠乗りをしていた信長の六弟織田秀孝を誤って射殺し、そのまま逐電した。守山城は攻め寄せてきた信長及び織田信行の軍に取り囲まれたが、佐久間信盛の計略により、城内に残った家臣のうちの角田信五、坂井喜左衛門が寝返って信時の軍を引き入れたため、信時はそのまま守山城主となった。ところが、坂井喜左衛門の息子孫平次が信時の若衆となって異例の出世をしたため、それを嫉んだ角田新五は、弘治2年(1556年)6月のある日に城内の塀・柵の普請と偽って軍勢を引き入れた。追い詰められた信時は切腹して果てた。


織田信忠(おだ のぶただ)弘治三年(1557)〜天正十年(1582)六月二日

奇妙・勘九郎。官は秋田城介・左近衛権中将。実名ははじめ信重。信長の長男。母は、生駒氏(久庵)。信忠の初陣は、元亀三年(1572)七月、父と一緒に江北表に出陣した時である。当時はまだ奇妙な幼名で呼ばれていた。翌年七月頃から勘九郎信重と名乗っている。当時十七歳。やや遅めだが、この間に元服したのであろう。この前後より尾張の支配権の一部を分担したらしい。天正二年(1574)七月、父とともに長島に出陣。この時、信忠は、尾張衆の約半数に東美濃衆を加えた軍団を引率している。翌天正三年十一月二十八日、信忠は父より家督を譲渡された。天下人と織田家当主との役割分担である。そして信長は、翌年二月に建築途中の安土城に移った。この時、尾張の信長直臣団は安土に移り、信忠の尾張支配が広がったものと見られる。さらに天正八年、老臣で尾張に基盤を持つ佐久間信盛や美濃の有力者安藤守就の追放によって、信忠の支配圏は、尾張全域と美濃の大部分にまで達したのだ。信忠軍団が形成された頃、その任務は、東濃をうかがう武田氏に対することであった。長篠の戦の後の天正三年十一月、信忠は東濃の岩村城を陥して、その期待にこたえた。天正五年三月の雑賀攻めを最後に、信長が第一線で指揮をとる姿は絶える。有岡攻めにしても、戦場には行ったものの、放鷹などで日を送っている。逆に信忠は、信貴山城攻め、本願寺攻め、播磨援軍などの総大将を務めた。有岡攻めも、一か年にわたる長陣となるが、総師として活動したのは信忠だった。天正十年二月、信忠は、自分の軍団に滝川一益を添えられて、武田氏討伐に向かった。そして、父信長が信濃に入る前に、武田勝頼の首級を挙げた。戦後の論功賞で、信忠軍団所属の将たちは、信濃・甲斐を得、信忠軍団は四か国に膨れ上がった。この頃、信長は近々天下も信忠に譲る腹だったという。だが、六月二日、信忠は二条御所で明知光秀の軍団と戦って倒れ、洋々たる前途を絶ったのである。


織田信雄(おだ のぶかつ)永禄元年(1558)〜寛永七年(1630)四月三十日

茶筅・左近衛権中将、その後三介。秀吉政権下で、大納言・内大臣に昇進。後入道として常真。実名も、具豊から信意・信勝・信雄と、何度も変わっている。信長の二男。母は生駒氏(久庵)。永禄十二年、信長が大河内城に北畠具教を攻め、十月に和議を結んだ時、北畠家の養嗣子として送りこまれ、新たに大河内城主となった。後に具教の娘を娶る。北畠家の家督を嗣いだのは、天正三年(1575)六月。伊勢国内に徳政令を発するなど、にわかに活発な動きを見せている。そして、同五年十一月二十五日、信雄は突如として北畠氏の大粛清を行った。養父具教をはじめとする北畠一族は、ことごとく殺され、長らく輔弼の臣だった津田一安も誅殺された。南伊勢と大和の宇陀三人衆(秋山・沢・芳野)らを麾下に置いた信雄の軍は、有力な遊撃軍として、越前一向一揆攻め、雑賀攻め、大阪攻め、播磨救援、有岡攻めなど、諸所で働く。だが天正六年頃からは、織田家督である信忠の指揮をうけることが多くなった。わずかに一歳違いの、しかも同腹の兄信忠への対抗心がそうさせたのだろうか。天正七年九月。信雄は父に無断で伊賀へ出兵。敗れて老臣拓植三郎左衛門を戦死させた。信長は九月二十二日付で信雄に譴責状を送り、父のみならず兄信忠にも忠誠を尽くすよう厳しく命じている。信雄は果敢だが軽率な性格らしく、周囲から侮られるところがあったとみえる。天正九年九月、総大将として、滝川一益・丹羽長秀らの重臣たちを率い、伊賀を平定。伊賀の内三郡を増加させた。本能寺の変の時は、居城伊勢松島に居たが、変報をうけて出陣したものの、近江甲賀より軍を進めることができず、父の弔い合戦には、参加できなかった。その後、弟信孝と父の跡目をめぐって対立。かえって秀吉の台頭を促した。信孝が倒れると、今度は秀吉から離れ、家康を誘って小牧の戦いを起こす。そして天正十八年の小田原陣の後、国替えを拒んで秀吉の怒りを買い、下野那須に追放された。


織田信孝(おだ のぶたか)永禄元年(1558)〜天正十一年(1583)五月二日

三七郎。信長の三男。生母は坂氏。二男信雄よりも二十日ほど早く誕生したが、生母の家の身分が低く、報告が遅れたので、三男にされた、ともいう。永禄十年(1568)二月、信長が北伊勢を平定したとき、豪族神戸具盛の養嗣子として入れられ、以後は「神戸三七郎」と称した。元亀二年(1571)一月、信長の命により、具盛は蟄居、信孝が神戸家の当主となる。同時に神戸家臣の粛清が行われ、約百二十人の臣が追放された。天清二年(1574)七月の長島攻めを最初として、以後、越前一向一揆攻め、雑賀攻めなどに従軍。大阪攻め、神吉城攻めの時は、織田家督である兄信忠の指揮下の下で働いている。当時信孝の支配圏は、河曲・鈴鹿の二郡、約五万石といわれる。同じ北伊勢の信包、南伊勢全域を支配下に置く信雄。彼ら一門衆は、信長軍の代表的な遊撃軍を率いていた。しかし、同年の兄信雄に比べると、信孝は不遇だった。一門衆として序列は、信忠・信雄・信包に次いで四番目。天正九年二月の馬揃えの時も、信雄が三十騎を率いたのに対し、信孝はわずか十騎にすぎない。官位も、同五年十一月にようやく従五位下侍従。信雄は当時、すでに従四位下左中将であった。「前途有望の青年」「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である」キリスト教宣教師は、信孝に対し賛辞を惜しまない。父に優遇されてはいなかったが、彼が並々ならぬ器量の持ち主であったことが伺える。はたして天正十年五月、信孝は父に抜擢され、四国方面軍事司令官に任命された。讃岐一国拝領し、三好氏の継嗣となり、四国一円を支配する予定であった。六月二日の本能寺の変は、信孝の四国支配を幻に終わらせる。だが信孝は、大阪を攻めて光秀の女婿信澄を斬り、光秀に対抗の気勢を示した。さらに秀吉の到着を待って、山崎の戦いで父の仇を討った。その後は、信雄と対立して、徒に秀吉の台頭を促した。柴田勝家と組んで秀吉と戦ったが敗れ、尾張内海の大御堂寺で、無念の最期をとげた。


織田勝長(おだ かつなが)?〜天正十年(1582)六月二日

坊丸・源三郎。津田源三郎ともいう。諸系図では例外なく信長の五男としている。しかし四男とされている秀勝は、天正十年当時十五歳。その後に没した勝長に、勝三郎勝良という子がいることは、諸系図は一致しており、秀勝よりは年長だったものと思われる。「秀吉事記」には、秀勝を「第五男」と明記している。四男勝長、五男秀勝というのが、ただしいのではないか・・・・ 。勝長は、お坊と呼ばれていた幼時、東美濃の豪族で姻威にあたる遠山氏の猶子として、岩村城に入ったが、岩村は、元亀三年(1572)十一月、武田の将秋山信友のために陥された。捕らえられたお坊は、甲斐の信玄のもとへ送られ、以来人質生活を過ごすことになる。お坊が父のもとに戻ったのは、九年後の天正九年(1581)十一月。安土で久々に父と対面した。間もなく元服して源三郎勝長、犬山城主となる。翌年二月、兄信忠に従って武田攻め。少年時代の大半を送った地を、今度は征服者として踏んだ。三月、信濃高島城攻略。続いて、団忠正・森長可とともに上野へ兵を遣わし、国衆小幡らを降参させた。このように、有力な一門衆の一人になりつつあった勝長だが、本能寺の変の時、兄信忠に従って二条御所で戦い、討死した。


飯尾定宗(いいのお さだむね)?〜永禄三年(1560)五月十九日

近江守。信秀の伯父とも従兄弟とも伝わるが定宗及びその子尚清の年代から見ると、従兄弟のほうが、確かなようである。飯尾氏の養子となり、奥田城主。信長に従って、弘治二年(1556)六月、守山城攻めに従軍。永禄三年(1560)五月、子尚清、織田秀敏ととのに、今川軍に備えて鷲津の砦に置かれる。しかし、今川軍の猛攻をうけ、敗死した。


織田信澄(おだ のぶずみ)?〜天正十年(1582)六月二日

坊丸・七兵衛。信長が誅殺した、弟信勝(信行)の子である。科人の子ではあるが、類は子に及ばず、無事に成人した。良質資料での初見は、天正二年(1574)三月、東大寺の蘭奢侍切り取りの時の奉行を務めたことである。生年ははっきりしないが、まだ十代だっただろう。越前一向一揆討伐戦、明智光秀の丹波攻めの赴援と軍事行動にたずさわりながらも、信長側近として次第に重要される。天正六年二月、磯野員昌が出奔すると、その跡地、近江高島郡を与えられ、大溝城主。一門衆の一人として、遊撃軍団を率いた。この頃、光秀の娘を娶る。天正八年、大阪開城の時、検使として下向。そのまま大阪に駐まった。当時一門衆のナンバー5.本能寺の変の直前、四国征伐軍総師信孝に副えられ、大阪で待機していた時、変が勃発。疑心暗鬼にとらわれた信孝たちに、大阪城千貫櫓を襲われて、殺された。


織田長頼(おだ ながより)元和六年(1620)〜元禄二年(1689)四月三日

通称は右近。官位は従四位下侍従、伊豆守、山城守。元和6年(1620年)、加賀国にて誕生。慶安元年(1648年)12月晦日従四位下に叙任する。後に侍従に任官する。万治2年(1659年)12月23日、父高長の隠居によって家督を相続、第3代宇陀松山藩主となる。翌年9月3日弟長政に3000石を分け与える。これにより、宇陀松山藩の石高は28235石余となる。なお、弟長政は、幕府の交代寄合に加えられる。長政の子信明は、高家旗本になる。寛文11年(1671年)、領内の春日村に新たな陣屋を建築した。「松山新陣屋」と称された。貞享5年(1688年)9月12日松山城下に一族の織田長清、織田秀親らを招き、能を催した。元禄2年(1689年)2月22日将軍徳川綱吉に招かれて登城し、能を見物、自身も舞った。同年4月3日に江戸で死去、享年70。松山の徳源寺に葬られた。後に近江安土城跡に改葬される。


林秀貞(はやし ひでさだ)生没年不詳

新五郎・佐渡守。一般に「通勝」と伝わっているが誤り。信長幼少の頃からの老臣である。信長の幼い頃、父信秀は、信長に那古野城を譲って、自らは古渡城の移ったが、その時、信長には四人の老臣が付属された。秀貞は「一長」と呼ばれ、その筆頭であった。信長の元服の時、信秀の葬儀の時も、信長に相伴。信長が清洲城を奪い、そこに移った時も、那古野城を預けられた。若い頃、の信長に失望し、弟美作守や信勝付の将であった柴田勝家と謀って、信長の弟信勝を立てることを計画。弘治二年(1556)八月、稲生の戦で信長軍と戦い、大敗した。信長に赦免されて、老臣の地位にとどまるが、その後は、軍を率いる姿は稀で、織田家の執事といもいうべき立場だったらしい。永禄十一年(1568)九月、信長に従って入京、京の政務にたずさわった。天正元年(1573)、信長と義昭とが衝突した後、将軍側近にあてた、信長老臣の起請文にも、当然ながら名を連ねている。天正三年十一月、織田家督が信忠に譲られた後は、織田家執事の立場で、これに付属させられたものと思われる。天正八年八月、突然追放の命をうける。理由は、三十年前、信勝を立てようとした罪によるという。その後は京に住し、間もなく没したという。


平手政秀(ひらて まさひで)明応元年(1492)〜天文二十二年(1553)

監物・中務大輔。信秀に仕えていたが、幼少の信長に付けられ、林秀貞に次ぐ「二長」。主に財政方面を担当した。信長の元服の時も、当然ながら相伴。天文十七年(1548)か、斎藤道三の娘(濃姫)と信長との縁組のため奔走した。しかし天文二十二年切腹して果てた。六十二歳という。切腹の原因については、一般には、奇矯な行動を止めない信長を諫めたもの、ととらえられているが、「信長公記」では、政秀切腹の記事の前に、名馬をめぐって、長男五郎右衛門が信長と不和になったことを載せている。色々な事が重なって諌死と思われる。天文二年七月に尾張に下向した公家山科言継は、政秀邸で歓待され、その屋敷の見事さに目を張っている。また清洲の老臣坂井大膳と講和する時、政秀は、大膳たちに古今集の古歌を書き添えてやったという。


村井貞勝(むらい さだかつ)?〜天正十年(1582)六月二日

吉兵衛・民部丞・民部少輔・長門守。号は春長軒。信長家中ナンバーワンの吏僚。天文年間より尾張国内で政務をたずさわる姿が見られる。弘治二年(1556)、信勝の降参意を信長に取り次いだというから、その頃から重要されていたことがわかる。美濃三人衆の人質受け取りの吏、義昭迎えの吏など、信長入京以前から、重要な仕事を命じられているが、島田秀満と一緒の事が多い。この二人が、この頃の吏僚の中でも特別の地位にあったらしい。永禄十一年(1568)信長入京後は、しばらく京に駐まって、洛中、洛外の政務を行う。翌年は、秀満とともに将軍邸の建築、日乗と組んで禁裏の修理と多忙である。禁裏の修理は元亀元年(1570)まで続くが、その間、貞勝は京の政務を引き続き執り行っている。元亀三年、京における信長邸の建築がはじまるが、奉行はまた貞勝と秀満だった。天正元年(1573)、信長と将軍義昭とが衝突した時、義昭への使を務める。その甲斐なく、七月、二度目の衝突で義昭は追放。そのすぐ後、貞勝は、京都所司代に任命された。ただし、その後二ヶ月余り、明智光秀が貞勝の補佐を勤めたらしく、二人の連判状が多く見られる。貞勝の、京都所司代としての事績を追うと、枚拳に暇がない。禁裏及び公家との連絡、知行や商売の安堵、諸役の免除、京の治安維持、起訴の裁定。仕事の種類も多いが、こうした仕事がひっきりなしにある。天正四年からは、二条に新邸の普請。これは後に誠仁親王に献上された。同五年には若宮八幡宮社殿の造営、さらに禁裏の築地の修築などにもたずさわっている。宣教師フロイスは、この頃の貞勝を「都の総督」と呼び、「尊敬すべき老年の異教徒にして、甚だ権勢あり」と評している。老齢なのに多忙で、天正八年十一月から十二月頃、病に倒れたこともあった。本能寺の変報を聞いた貞勝は、子の貞成、清次とともに信忠の下に駆けつける。二条御所に移ることを勧めたものの、そこも光秀軍に囲まれ、討死した。


森可成(もり よしなり)大永三年(1523)〜元亀元年(1570)九月二十日

三左衛門・三郎左衛門。美濃可児郡兼山城主として斎藤氏に仕える、というが、弘治年間には、すでに信長に属している。稲生の戦、浮野の戦、そして桶狭間の戦いにも従軍。入京以前から、信長の代表的な部将であった。永禄十一年(1568)九月、信長の入京に従い、柴田勝家らとともに青竜寺城を攻略する。この後、翌々年にかけて、京畿の政務にあたる。この時、柴田、坂井政尚・蜂屋頼隆と組んで活動している。元亀元年(1568)、近江志賀・宇佐山城に置かれ、柴田・佐久間信盛・中川重政と並んで、琵琶湖の南岸を固めた。「信長公記」では、これを五月のこととするが、「多聞院日記」によると、可成ひゃ三月以前に、宇佐山城将とされている。この年九月信長の南方出陣の隙をついて、朝倉・浅井軍が江南に進出する。可成は城を出てこれを防いだが、敵軍の猛攻の前に討死した。子長可・成利らは、父に代わって、信長に忠誠を尽くした。


柴田勝家(しばた かついえ)?〜天正十一年(1583)四月二十四日

権六・修理亮。はじめ信秀に仕え、信勝付きの家老となり、海津の戦・清洲城攻撃などに参加する。弘治二年(1556)八月、信長の家老林秀貞と信勝の擁立を画策。稲生で信長軍と戦って敗れた。信長の力量を見直した勝家は、その後、信勝を離れて信長に付く。信長はこれまで以上に勝家を遇した。永禄十一年(1568)の入京後、しばらく京畿の政務にあたる。そして元亀元年(1570)五月、信長の宿将たちに江南を固めさせた時、長光寺城に置かれた。この年六月四日、勝家は佐久間信盛とともに、落窪の戦いで六角軍を撃破した。有名な伝説「甕割り柴田」の話しはこの時の物だが、事実ではない。その後も、江北攻め、河内交野攻めなど、方々に転戦。天正元年(1573)、ついに信長と義昭との衝突が起こり、勝家は京を出陣して、洛外を放火した。この時、信長軍の諸将を率いての行動であり、下京より進上された礼銭の額も、他の臣に比べて勝家が抜きん出ている。天正三年八月、信長は越前一向一揆を殲滅。その後、越前八郡を勝家に与えた。残りは越前の地は、佐々成政・前田利家・不破光治・金森長近・原長頼に分ち与えられた。彼らはこの後、「越前衆」と呼ばれ、勝家指揮に下に主として北陸方面で働くことになる。北陸方面の敵は、加賀の一向一揆、それに上杉氏である。天正五年八月の加賀攻めには、滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉らが動員され、勝家は総大将の地位を与えられた。。加賀は天正八年にようやく平定が成った。翌九年二月、勝家は越前衆を率いて、馬揃えに参加した。この年のうちに、成政が越中に、利家が能登に封じられ、勝家の支配圏は東へ広がる。だが、その支配も、軍事指揮に関するだけのものである。勝家は、越中松倉城を攻囲している時、本能寺の変報を得た。撤退して軍を備えている間に、秀吉に弔合戦の功を奪われた。清洲会議の主導権を秀吉が握った時、早くも両者の勝敗は明らかだった。賤ヶ岳の戦いに敗れて、北庄で自殺。


佐久間信盛(さくま のぶもり)?〜天正九年(1581)七月二十四日

半羽介・右衛門尉。愛知郡山崎城主、後、刈屋城主となる。柴田勝家と並ぶ信長の古くからの老臣。永禄三年(1560)桶狭間の戦の時は、善砦照寺砦を守り、今川軍と戦った。この頃から奉行として政務にたずさわっている。また、信長が上洛を予定するようになると、大和の国衆たちと連絡をとるなど、外交面の働きも見られる。同十一年九月の上洛の時は、木下秀吉、丹羽長秀とともに六角氏の拠点箕作城を攻撃、即日これを陥した。入京後は、大和の諸城を攻略し、その後、しばらく京に駐まって、京畿の政務を行っている。元亀元年(1570)五月、近江永原城に置かれる。そしてと九月、長光寺城の勝家とともに、六角軍を落窪の戦いで打ち破った。元亀年間の信盛は、近江野洲・栗太郡一円を支配し、その他の在地領主たちを与力として統率していた。主要任務は六角氏の残党の討伐だが、江北・長島などでの戦いにも参加した。元亀三年十二月には、家康の援軍として三方原で武田軍と戦い、惨敗したこともあった。天正元年(1573)、将軍追放後、その与党だった三好義継を攻めてこれを殺し、松永久秀を降伏させた。久秀はその後、信盛の与力となる。同四年五月、信長の大阪攻めに従軍。そのまま天王寺城に入れられ、大阪攻めの主将とされた。従う兵は、従来からの与力である。三河・尾張・近江衆・に加え、大和・河内・和泉・紀伊の者たちであり、七か国にまたがる織田家中最大の軍団であった。大阪攻めを担当しながらも、大和・雑賀・播磨などの戦いに協力している。天正八年になって、朝廷の仲介でようやく本願寺は屈伏する。その八月、信盛父子は追放された。理由は大阪攻めの怠慢だが、信長譴責状には、そのほか色々と父子の非が述べてある。翌年、信盛は熊野の十津川で没する。


池田恒興(いけだ つねおき)天文五年(1536)〜天正十二年(1584)四月九日

勝三郎。入道号勝入。長男元助は紀伊守を称するが、父恒興の任官については明らかになっていない。それにもかかわらず、父子混同したものか、恒興は記録類にさえしばしば「紀伊守」と書いている。母は、信長の乳母養徳院。即ち、信長とは乳兄弟である。幼児から信秀に、次いで信長に支え、海津の戦・稲生の戦・桶狭間の戦に従軍して功名、というが、確実な資料のみに拠れば、永禄四年(一五六一)五月の軽海の戦で、敵将稲葉某を佐々成政と二人で討ち取ったという「信長公記」の記事で初見である。信長入京後も、大河内城攻め・越前攻め・填島城攻めなどに従軍。この頃の戦いで、恒興が特に目覚しい活躍をしたのは、元亀元年(一五七〇)六月の姉川の戦である。この時恒興は、丹羽長秀とともに家康軍の加勢となって、朝倉軍と戦い、勝利への端緒を開いた。この頃の身分は、小さいとはいえ、一応部隊指揮官であった。佐々成政ら馬廻りよりは大身、といったところだろうか。天正二年(一五七四)二月、美濃明知城後巻きのため出陣した後、小里城に入れ置かれる。これは、同じく神箆城に置かれた河尻秀隆と並び、信忠軍団の最前線の役割を担ったものである。恒興は、以後五か年近くの間、東美濃で働いていたらしい。天正六年十一月、久々に美濃を離れて、摂津有岡攻めに参加。翌々年までその地に居て、花隈城を攻略し、荒木の残党を摂津より一掃した。その功により摂津の地を与えられ、有岡に入城。天正九年八月の、中国攻めの用意の命の中に摂津にて「池田勝三郎大将として」とあることから考え、摂津全体の軍事指揮権を委ねられたのかもしれない。本能寺の変の時には、まだ摂津に駐まっており、東上する秀吉軍に合流して、山崎の戦に参加する。その後は、賤ヶ岳の戦・小牧の戦と、一貫して秀吉に見方する。天正十二年四月、長久手に軍を進めたところを家康軍に攻撃され、討死した。


丹羽長秀(にわ ながひで)天文四年(1535)〜天正十三年(1585)四月十六日

五郎左衛門。秀吉政権時代、羽柴越前守。信長の尾張一国時代からの重臣の一人である。信長上洛以前より尾張・美濃での戦いに加わる一方、奉行を務めている姿も見られる。上洛の時、佐久間信盛・木下秀吉とともに箕作城を攻撃した。その後しばらくの間、京畿の行政を担当。秀吉・中川重政・明智光秀とチームを組む事が多い。元亀元年(一五七〇)、姉川の戦では、家康軍の加勢として朝倉軍と戦った。この戦の後、佐和山城を攻め、翌年二月に開城させると、長秀はそこに入れられ、犬上郡辺りの士を与力として旗下に置いた。信長の晩年、長秀が若狭を支配していたことは、間違いないが、元亀元年からという説もあるが、関係文書などより推して、天正元年(一五七三)の朝倉氏滅亡後らしいが定かではない。元亀年間から本能寺の変に至るまで、長秀は、信長の統一戦のほとんどに参加している。それに加えて、勝家の下で加賀攻め、丹波の光秀や播磨の秀吉の援軍など、多忙に務めている。しかし彼が全軍を指揮したという例はない。長秀の功績の最たるものは、安土城普請の総奉行を務めた事である。普請は天正四年一月より始り、同八年まで続くが、天正四年のうち大体は完成しており、長秀も役割を終えていた様子である。天正八年に本願寺が大阪の地を開け退くと、長秀は、蜂屋頼隆とともに城番として派遣され、翌年まで在城した。本能寺の変直前の同十年五月、長秀は、信孝の副将の一人として四国攻めに赴く、しかし変の勃発により、彼の軍は、東上してきた秀吉軍と合流し、山崎の戦に参加する。清洲会議・賤ヶ岳の戦と秀吉に後援、秀吉の天下取りをを助けた。


滝川一益(たきがわ かずます)大永五年(1525)〜天正十四年(1586)九月九日

左近将監・伊予守。近江甲賀の出身と伝わるが天文年間には信長に仕えている。若い頃は六角定頼に仕えていたとも。俗に鉄砲の名人であり、最初は忍者であったとの説があるが、甲賀出身という出自からの憶測に過ぎない。武田氏滅亡後、信長から上野と信濃の一部を与えられ、柴田勝家や羽柴秀吉と並ぶ織田軍の方面司令官となり、関東管領と名乗ったとも言われている。しかし一益は領地よりも、茶器(安土名物とも呼ばれた「珠光小茄子」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったという逸話がある。信長が本能寺の変によって没し秀吉と勝家が対立すると、一益は秀吉嫌いと織田氏擁護の立場から勝家に与して秀吉と戦う。しかし1583年、賤ケ岳の戦いで勝家が討たれると、秀吉に桑名城を攻撃されて降伏する。1584年、小牧・長久手の戦いには秀吉軍の一員として参陣し、蟹江城を守備したが、徳川家康や織田信雄の攻撃により開城して降伏。これを恥じた一益は京都妙心寺にて落髪、仏門に入る。


古田織部(ふるた おりべ)天文十三年(1544)〜慶長二十年(1615)六月十一日

1544年天文13年、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれる。織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。1567年(永禄9年)、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕えた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1576年(天正4年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年(天正13年)秀吉が関白になると、織部正(従五位下)の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。1582年(天正10年)から千利休の書簡に織部の名前が見える。この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。1591年(天正19年)に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいに恐れるなか、織部と細川忠興のみが利休の見送りを行った。その後利休の地位を継承して、豊臣家の筆頭茶人となった。1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通して全国の大名に多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したという。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。


明智光秀(あけち みつひで)生年数説有〜天正十年(1582)六月十三日

幼名は桃丸。雅号は咲庵(しょうあん)。 生年は不詳。明智軍記に記載された辞世の句に「五十五年夢」とあり、享禄元年(1528年)と推定されているが大永6年(1526年)説もある。青年期の履歴は不明な点が多いが、通説によれば、美濃国の守護土岐氏の一族で、戦国大名の斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三と義龍の争いに際して道三方に味方し、義龍に明智城を攻められ一族が離散したとされる。その後、母方の若狭武田氏を頼り、のち越前国の朝倉氏に仕える。足利義昭が姉婿の武田義統を頼り若狭に、さらに越前の朝倉氏に逃れると、光秀は義昭と接触をもつ。義昭は、朝倉に上洛を期待していたのであったが義景は動かず。そこで光秀を通して織田信長に対し、京都に攻め上り自分を征夷大将軍につけさせるよう要請した。永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(のち羽柴に改姓)らと共に織田氏支配下の京都近辺の政務にあたったとされる。義昭と信長が対立し始めると、義昭とたもとを分かって信長の直臣となり、数々の戦功をあげて元亀3年(1572年)頃に近江国滋賀郡を与えられ、坂本城を築城してこれを居城とした。城主となった光秀は、石山本願寺や信長に背いた荒木村重、松永久秀を攻めるなど近畿の各地で転戦しつつ丹波国の攻略を担当し、1579年までにこれを平定。丹波一国を与えられて丹波亀山城・横山城・周山城を築城すると共に、丹後の長岡(細川)藤孝、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の指揮権を与えられた。近年の歴史家はこの地位を関東管領になぞらえて「近畿管領」とも呼ぶ。天正9年(1581年)には京都で行われた信長の軍事デモンストレーションである「馬揃え」の運営を任され、この職務を全うした。天正10年(1582年)、羽柴秀吉の毛利征伐支援を命ぜられて出陣する途上の6月2日(西暦6月21日)早朝、桂川を渡り京へ入る段階になって光秀は主君信長討伐の意を告げたといわれる。しかし本城惣右衛門自筆覚書によれば雑兵においては信長討伐を目的としていたことを最後まで知らされてはいなかったことになる。かくして光秀は信長が宿泊していた京都の本能寺を二手に分けて急襲し信長を包囲。僅かな兵のみに守られていた信長を自害させた。 また二条御所において、信長の嫡男の織田信忠や京都所司代の村井貞勝らを討ち取っている。京都を押さえた光秀だったが、協力を求めた細川藤孝や筒井順慶の光秀への対応は期待に沿うものではなかった。本能寺の変から11日後の6月13日(西暦7月2日)、変を知って中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍と戦う。しかしながら主君信長を殺した光秀に付く信長旧臣は少なく、羽柴軍との兵数差を覆す事ができずに敗れる。同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途上の小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りの土民(小栗栖の長兵衛)の手にかかり殺されたとされる。


堀秀政(ほり ひでまさ)天文二十二年(1553)〜天正十八年(1590)五月二十七日

1553年、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の坊主であった伯父の元で従兄弟の堀直政と共に育てられたという。最初、大津長治、木下秀吉に仕え、13歳の若さで織田信長の小姓、側近として取り立てられた。弱冠十六歳で、将軍足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。織田軍の主要な合戦である1575年の越前一向一揆討伐に参加。天正五年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛、羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城攻めでは、万見、菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正九年には伊賀攻めで、大将は織田信雄だが、信楽口からの部隊は秀政が率いた。天正九年(1581年)に近江国坂田郡に2万5000石を与えられた。奉行としての仕事は、天正七年、安土宗論のとき菅屋、長谷川らと奉行を務める。翌年バテレン屋敷の造営奉行を菅屋、長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。また、徳川家康の堺での接待役を明智光秀が外されたあと、丹羽長秀と共に務めている。この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かった。しかし信長の小姓として新たに森蘭丸が台頭してくると、秀政は信長側近の座を蘭丸に取って代わられることとなり、秀政は信長のもとで台頭していた羽柴秀吉に次第に近づいていくようになる。天正十年(1582年)、本能寺の変が起こって信長が死去したとき、秀政は秀吉の軍監として備中国にいた。そしてその後は秀吉の家臣となって、山崎の戦いに参陣。中川清秀、高山右近らと先陣を務める。清洲会議では、三法師の蔵入領の代官とお守役を承る。 天正十一年四月、秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻めた。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、余勢を駆った家康方の大須賀康高、榊原康政らを自軍を三手に分けて待ち伏せし、挟撃し敗走させた。天正十八年(1590年)の小田原攻めにも参陣、左備の大将を命ぜられる。一番、村上義明、柴田源左衛門勝全、二番、溝口秀勝、堀直政、神子田八右衛門某、この二備、隔日交代で一番手を務める。三番、丹羽長重を右備の大将とし、堀秀政を左備の大将とし、四番、木村常陸介、五番、長谷川秀一、六番、織田秀信らは各機に臨み鉄砲隊を供出する(『寛政重修諸家譜』)。箱根口を攻め上り、山中城を陥落。小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。しかし五月下旬に疫病を患い、陣中にて急死した。享年38。


竹中重治(たけなか しげはる)天文十三年(1544)九月十一日〜天正七年(1579)六月十三日

諱は重虎とも。通称の半兵衛で有名。法名は深竜水徹。美濃国不破郡垂井にて元服後、菩提山城主となり、斎藤氏に仕える美濃三人衆の一人、安藤守就の娘(得月院)と結婚した。斎藤道三と子の斎藤義龍との戦いで父の重元は道三側に属し、永禄5年(1562年)に父が死去すると重治は斎藤家の当主の斎藤龍興に仕えたものの、冷遇されたとされ、永禄7年(1564年)、20歳のときに龍興の居城の稲葉山城(後の岐阜城)を16人(『竹中雑記』、17人という説も)の部下とともにわずか一日で奪取した。美濃への侵攻を行っていた尾張国の戦国大名織田信長は、重治の稲葉山城奪取を知ると、城を明け渡すように要求したが半兵衛は断り、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還する(奪還された、放棄したとも)。この事件によって逆に信長の信頼を得たとされる。永禄年間には竹中姓を称する。浅井長政の家臣を経て、信長の家臣の木下秀吉(羽柴秀吉、豊臣秀吉)の下についた。正7年(1579年)、播磨三木城の包囲中に病死。享年36。


不破光治(ふわ みつはる)生年不詳〜天正八年(1580)二月十四日

早くから美濃国の斎藤氏に仕え稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが、斎藤氏滅亡後は織田氏(織田信長・信忠)に仕え主に外交面で活躍した。柴田勝家に従って越前一向一揆を平定後は、越前竜門寺城の城主となった。ともに周辺地域を治めた佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。天正8年12月14日、越前において死す。法名・雲樹道無大居士。


金森長近(かねもり ながちか)大永四年(1524)〜慶長十三年(1608)八月十二日

名ははじめ「可近」(ありちか)。後に織田信長から長の一字を賜り、長近を名乗った。はじめ美濃国の斉藤氏に仕え、後に織田信長の美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として仕え活躍した。1575年、越前に所領を与えられた。その後は信長の柴田勝家の軍団に属した。1582年、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に討たれ(この際、嫡男金森長則は織田信忠と共におり討死。そのため長屋景重より可重を養子にとった)、勝家と羽柴秀吉が対立すると、柴田側に与したが、1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、秀吉の家臣となった。その後は小牧・長久手の戦いや佐々成政征伐、さらに姉小路頼綱の飛騨討伐などで功績を挙げたため、1585年、秀吉から飛騨一国を与えられた。1600年、関ケ原の戦いでは可重とともに東軍に与し、戦後美濃国郡上八幡城攻めなどの功を賞されて二万石を加増、初代高山藩主となる。


稲葉一鉄(いなば いってつ)永正十二年(1515)〜天正十六年(1589)十一月十九日

美濃曽根城主で、美濃三人衆である。はじめ土岐氏に仕え、美濃三人衆として最も有力な家臣団であった。斎藤氏時代にも3代に仕えて、三人衆として最も有力な家臣団であった。そのため、信長の美濃攻略で斉藤龍興を見限って信長に寝返ったことは、斎藤氏の滅亡を決定的にした。永禄10年(1567年)からは信長に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは徳川家康と共に戦功を挙げた。その後も近江、摂津、伊勢、越前など各地に転戦して武功を発揮したことから、美濃清水城を新たに与えられた。天正8年(1580年)の加賀一向一揆攻めに参加して武功を挙げた。天正2年(1574年)に剃髪して一鉄と号した。天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で死去すると、美濃で独立した大名になろうと画策するが、かつて信長に追放されていた安藤守就が、稲葉領である本田城や北方城を攻撃したため、守就と戦い、これを討ち果たした。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉に与して柴田勝家に与した不破氏の西保城を攻めた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、武功を挙げた。天正13年(1585年)に秀吉が関白になると、従三位・法印に叙された。天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去。享年74。


氏家卜全(直元)(うじいえ ぼくぜん (なおもと))生年不詳〜元亀二年(1571)五月十二日

出家後に名乗った「卜全」(ぼくぜん)の号が著名であり、一般的には氏家卜全の名前でよく知られている。美濃三人衆の一人。はじめ土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。道三死後は斎藤義龍、次いで斎藤龍興に仕えたが、龍興とは折り合いが悪かったため、稲葉一鉄や安藤守就と共に織田信長の稲葉山城攻めで内応し、以後は織田氏の家臣として仕えた。1569年、北畠具教が籠城する大河内城攻めなどに参加して活躍したが、1571年の伊勢国長島攻めで織田軍が撤退するとき、殿軍を務める中で一揆衆に襲われて戦死した。


安藤守就(あんどう もりなり)文亀三年(1503)〜天正十年(1582)六月八日

美濃三人衆の一人。初めは斎藤氏に仕えたが斎藤龍興に諫言した事で罰せられたともされ、1564年には婿である竹中重治と反乱を起こし、一時的に龍興の稲葉山城を奪取する。尾張国の織田信長が美濃侵攻をすると信長に内通した。中国攻めなどに従軍したが、甲斐国の武田家に内通したという疑いで領地などを没収され隠棲をする。本能寺の変が起こると、守就は息子尚就とともに挙兵して北方城を奪ったが稲葉良通(一鉄)に攻められ自害した。


磯野員昌(いその かずまさ)生年不詳(1525)〜天正六年(1578)

代々京極氏の家臣であったが、浅井亮政の台頭に屈する形で磯野氏は浅井氏の配下に加わる。員昌の父である員宗は磯野氏の一族筋から養子として佐和山城を本拠に持つ磯野員吉に迎えられている。員昌は佐和山城を本拠とし、武勇に長けたことから対六角氏戦で度々武功を重ね、合戦では浅井軍団の先鋒を任されるようになる。1570年(元亀元)6月28日の姉川の戦いでは織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の武将 稲葉一鉄らが駆け付け、その後、朝倉を撃破した徳川軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退してしまう。姉川の合戦後、佐和山城は直ちに織田方に包囲された。陸路では横山城を拠点とした織田軍により分断され、秀吉の員昌に翻意ありという流言を信じ切ってしまった浅井氏側が湖を通した形でも佐和山城への兵糧や兵士の輸送を取りやめたことから員昌は翌1571年(元亀2)2月24日、佐和山城を攻撃された際にやむなく信長に降る。その後は信長に取り立てられ、近江高島郡を与えられるという破格の待遇を得て、越前一向一揆の鎮圧、杉谷善住坊の捕縛などに従事した。ところが1578年(天正6)2月3日、信長の勘気をこうむって所領を没収され、高野山に追放された。高島郡は織田氏の一門である津田信澄に与えられた。


宮部継潤(みやべ けいじゅん)享禄元年(1528)〜慶長四年(1599)三月二十五日

近江国浅井郡宮部村の小豪族の出自。善祥坊清潤の養子となり比叡山で修行をした後比叡山の僧となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍したが、元亀2年(1571年)10月に木下秀吉の調略に応じてその家臣となった。居城である宮部城は、小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573年)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。この時期にに秀吉の甥(後の豊臣秀次)を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の元に返還されている。その後は秀吉の与力につけられて中国遠征などに従い、天正10年(1582年)に因幡鳥取城の城代となった。本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。九州征伐にも参戦した。1599年閏3月25日死去。享年は64歳。


蒲生賢秀(がもう かたひで)天文三年(1534)〜天正十二年(1584)四月十七日

近江日野城主で、最初は六角氏に仕えた。観音寺騒動が発生すると父・定秀とともにその収拾に尽力し、1567年に制定された分国法『六角氏式目』に父とともに連署している。しかし、1568年、六角氏が織田信長によって滅ぼされると賢秀は嫡男・蒲生賦秀(後の氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となった。賢秀はその清廉な性格を信長から厚く信頼され、信長に従って各地を転戦するとともに、安土城の留守居を命じられたという。1582年、本能寺の変が起こると、安土城の留守居を務めていた賢秀は信長の妻子を保護して日野城へ立て籠もった。このとき、明智光秀は法外な恩賞をもって賢秀を勧誘したが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。1584年、死去した。


山崎片家(やまざき かたいえ)天文十六年(1547)〜天正十九年(1591)五月二十一日

はじめ六角義治に仕えていたが、義治と不和であったためと六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、信長の家臣となる。1582年、本能寺の変が起きたとき、明智光秀の圧力を受けて降伏したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると秀吉の家臣となった。そして三田城を領した。


山岡景隆(やまおか かげたか)大永六年(1526)〜天正十三年(1585)一月十四日

近江国勢多城を領する豪族で、はじめは足利義晴、足利義輝らに仕えた。1560年代前半に浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともある。1568年、織田信長が上洛を開始すると、近江南部の豪族の旗頭として抵抗したが、1569年に織田軍の攻撃を受けて降伏し、信長の家臣となった。景隆の信長に対する忠誠心は厚く、また信長も景隆の才能を評価して、信長は甲賀衆の指揮権を与えていたという。1573年には信長に反抗した将軍・足利義昭の討伐で戦功を挙げた。1582年、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなどの抵抗を見せた。1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏することを余儀なくされる。一命は助けられたが、弟の景佐と共に所領を没収されてしまった。1585年正月14日に死去。享年60。


三好康長(みよし やすなが)永正三年(1506)〜天正十三年(1585)

織田信長が上洛してくると康長は独自路線から信長と対立したが、信長の敵ではなく、やがてその家臣となった。以後は信長から命を受けて1581年、四国征伐の先鋒として阿波に渡ったが、翌年、本能寺の変で信長が横死したため、康長は四国から逃亡し河内に帰っている。その後は、当時日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため羽柴秀吉に従い、秀吉の甥・羽柴孫七郎を養子として迎えたが、康長のその後の行方は詳しくわかっていない。


三好政勝(みよし まさかつ)天文五年(1536)〜寛永八年(1632)十二月十日

1549年、父が三好長慶に殺害されると香西元成や波多野晴通と通じて、長慶に対して徹底して戦ったという。しかし長慶の死後は、三好一族として三好氏をよく補佐した。やがて織田信長が入京してくると、政勝は他の三好一族と違って信長の実力をいち早く悟って1570年に信長の家臣となる。信長の死後は豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えて関ケ原の戦い後は2020石を領したと言われている。その後は徳川方として、大坂の陣にも出陣し、九十六歳という長寿を保った。


荒木村重(あらき むらしげ)天文四年(1535)〜天正十四年(1586)五月四日

幼名を十二郎、のち弥介。天文4年(1535年)、摂津国池田城主・池田長正の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現・大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕えた。しかし織田信長が上洛してくるとその配下となる。智勇に優れており、信長からその才を認められて天正元年(1573年)に摂津一国を与えられ、茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。天正2年(1574年)、伊丹城主となる。天正6年(1578年)10月、村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は翻意し釈明のため安土に向かったが、途次寄った高槻城で家臣の高山右近から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。織田軍羽柴秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となり、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、ついで花隈城に移り、最後は毛利氏に亡命する。有岡城に残された妻子一族は末子の岩佐又兵衛ひとりを除いて、ことごとく京都で処刑された。天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。享年52。


中川清秀(なかがわ きよひで)天文十一年(1542)〜天正十一年(1583)四月二十日

幼名虎之助。通称瀬兵衛。織田信長が上洛してくると、それに従ったが、のちに主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると一時織田氏と敵対する。1572年、同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を討ち取り(白井河原の戦い)、戦後は茨木城の城主となった。摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると荒木村重や高山重友(右近)と共に摂津にて独立勢力となる。のちに信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたがった。1578年、荒木村重が織田信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)、共に信長に敵対したが、織田軍が大挙して攻めてくると降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った。その後丹羽長秀や池田恒興旗下で転戦する。1582年、本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。1583年、賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を高山右近、三好秀次らと守っているとき、柴田軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの戦死した。享年42。


高山右近(たかやま うこん)天文二十一年(1552)〜慶長二十年(1615)一月八日

代表的なキリシタン大名。諱は重友(俗に長房とも)、通称は彦五郎。有名な右近の呼び名は自称の官名。洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られる。天文21年に右近は友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。こうした高山親子にも否応なく戦国乱世は迫ってくる。三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変する。義昭は直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなった。しかし、ただでさえ領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となった。天正6年(1578年)、右近の人生を変える出来事が起きる。右近が与力として従っていた荒木村重が主君織田信長に背いたのである。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと考え、妹や息子を有岡城に人質に出して誠意を示しながら村重謀反を阻止しようとしたがならなかった。右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員オルガンティノ神父に助言を求めた。神父は信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスした。高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。そこで信長の考えた作戦は右近を苦悩させる。右近が金や地位では動かないことを知っていた信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させるといってきたのである。天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は高山右近の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、中川清秀、池田恒興と共に奮戦、明智光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ケ岳の合戦では岩崎山を守るものの、柴田勝家の武将・佐久間盛政の猛攻にあって親族の中川清秀は討死、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った。その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近はキリシタン追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族やともに追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人総督らから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため62歳の右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取った。


細川藤孝(ほそかわ ふじたか)天文三年(1534)四月二十二日〜慶長十五年(1610)八月二十日

諱は藤孝、幼名は萬吉。天正10年(1582年)に隠居し、幽斎と号す。天文3年(1534年)4月22日、室町幕府の奉行衆、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護の細川元常(晴員の兄)の養子となった。天文21年(1552年)、従五位下、兵部大輔に叙任され、天文23年(1554年)、養父細川元常の死去により、家督を継ぎ、足利氏に仕える。このころ、第13代将軍足利義藤(足利義輝の前名)から偏諱を受け、藤孝と名乗る。有能な幕臣として活躍していたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で第13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、囚われの身となっていた義輝の弟、一乗院覚慶(後の15代足利義昭)を救出し、以後は義昭に従って近江の六角義賢、若狭の武田義統、越前の朝倉義景らを頼った。そして還俗させた足利義昭を将軍職に就けるために、当時は朝倉氏の家臣であった明智光秀を通じて織田信長に接近し、義昭の後ろ盾となることを依頼した。永禄11年(1568年)9月、織田信長によって足利義昭が入京するとこれに従い、山城国勝竜寺城主として大和、摂津を転戦しつつ幕府奉行衆として諸政を担当する。天正5年(1577年)、松永久秀が信長から離反すると、その討伐でも功績を挙げた。天正7年(1579年)に丹波、天正8年(1580年)に丹後の平定に成功すると、信長から丹後国11万石を与えられて丹後宮津城を居城とした。天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変では明智光秀の再三の協力要請を断り、信長の死を悼んで剃髪し幽斎玄旨と号して、家督を嫡男・細川忠興に譲った。光秀の死後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍として丹後田辺城に篭城し、西軍の小野木重勝らが率いる1万5000人の軍に囲まれながら、よく持ちこたえて東軍の勝利に貢献し、その身を案じた後陽成天皇の勅命によって開城し、丹波亀山城に入った。その後は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 


細川昭元(ほそかわ あきもと)天文十七年(1548)〜文禄元年(1592)

幼名は六郎。名は「信良」とも。1561年に父晴元が三好長慶と和睦した際に人質となる。隠居、病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、将軍足利義昭を伴なって上洛した織田信長に属する。このころ義昭より一字拝領を受けて「昭元」と名乗る。信長の勢力下で室町幕府対策として利用され1575年(天正3年)には右京大夫に任じられ、京兆家を継ぐ。翌年には信長の妹を娶り、蹴鞠の相手を務めるなどした。その一方で武将としての才能には乏しかったらしく、1572年には摂津で本願寺の下間頼龍・下間頼純と交戦して大敗している。本能寺の変後は羽柴秀吉に属した。


津田宗及(つだ そうぎゅう)生年不詳〜天正十九年(1591)四月二十日

堺南荘の豪商・天王寺屋の津田宗達(1504年−1566年)の子として生まれる。茶人武野紹鴎の子・宗瓦の門人であった父に茶道を教わる。大徳寺住持の大林宗套にはを学び、後に天信の号を与えられる。堺の大小路に居所を構える天王寺屋は堺でも有力商人として知られた。宗及は永禄年間には石山本願寺の下間丹後の一族と通じ、次いで堺に勢力を張った三好政康を頼みとしていたが、やがて伸長してきた織田信長に接近。1572年11月には信長が主催した京都妙覚寺での茶会に参加して接待を受けた。1573年2月3日には岐阜城で信長の名器の拝見を特に許され歓待されるまでになった。1578年、信長が堺を来訪した際には、自邸に訪問を受けるなどし、重用された。 明智光秀の茶会にも顔を出していたが、後に実権を握った豊臣秀吉にも信頼を得て茶湯者八人衆の一人として数えられ、今井宗久、千利休とともに三千石の知行を与えられた。 1587年10月1日、豊臣秀吉が九州平定と聚楽第の造営を記念して北野天満宮で開催した大茶湯(北野大茶会)でも宗久、利休とともに茶会を行った。


千宗易(利休)(せんの そうえき)大永二年(1522)〜天正十九年(1591)二月二十八日

幼名は与四郎(與四郎)で、のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号である。和泉の国堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。家業は納屋衆(倉庫業)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。 1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、碌も三千石を賜わるなど、いわば茶人としての名声の絶頂にあった利休は、突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが、助命は適わず京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。七十歳であった。死後、利休の首は一条戻橋で梟首させられた。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を狙う恐れから、軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。


朝倉景鏡(あさくら かげあき)大永五年(1525)〜天正二年(1574)四月十四日

朝倉軍の総大将(当主名代、等)として出陣することが度々あったことが確認できる。1564年の加賀一向一揆征伐や1570年の織田信長の朽木越えの折の織田軍追撃、近江・美濃への出陣などにおいて、景鏡が総大将として指揮を執っている。この事からも、当時の朝倉氏家中における景鏡の地位の高さと、軍事的能力への評価が窺われる。天正元年(1573年)8月、小谷城を囲んだ織田軍に対する北近江出兵に際し、「軍事行動の連続による疲弊」を理由に出陣を拒否。やむ無く、義景は自ら軍勢を率いて浅井救援に出兵(刀根坂の戦い)。北近江での朝倉撤退戦に乗じ、織田信長が越前進行を開始すると(一乗谷城の戦い)、景鏡は義景に一乗谷撤退および自領・越前大野郡における篭城再起を進言する。景鏡は撤退してきた義景一行に宿舎を提供した上で、これを軍勢により包囲。義景を自害に追い込み、妻子を捕縛した。景鏡は義景の首級と、捕縛した母親・妻子・近習を信長に差し出し、降伏を許される。のち景鏡は上洛し、本領を安堵され、信長の一字を取って土橋信鏡と改めた。しかし翌年、越前一向一揆の攻撃に遭って平泉寺にて戦死した。討ち死にに際しては、劣勢と己の運命を悟った上で、わずか三騎にて敵中に飛び込み散った、とされており、彼の武人的気質が感じられる。


前波吉継(まえば よしつぐ)天文十年(1541)〜天正二年(1574)一月二十日

朝倉義景の側近として活躍したが、元亀3年(1572年)に織田信長と義景が対陣したとき、信長の本陣に駆け込んで降伏した。内応の理由は義景の鷹狩りの際、遅参し下馬せずに前を通ったことで、義景に勘当され謝罪に応じてもらえなかったことを恨んだためとも、吉継の嫡男より以前から織田方に内通していたと訴えがあり、義景の怒りを買っていたためともいう。翌年の朝倉攻めでは織田軍の越前案内役を務め、その功績により朝倉氏滅亡後、信長から越前の守護代に任命され、名前も桂田長俊と改めた。


松永久秀(まつなが ひさひで)永正七年(1510)〜天正五年(1577)十月十日

永正7年(1510年)に生まれる。天文9年(1540年)から細川氏の被官三好長慶の右筆として仕える。天文9年(1540年)から細川氏の被官三好長慶の右筆として仕える。天文18年(1549年)、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、弾正忠に任官され、霜台と称する。その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城主に任ぜられ、永禄2年(1559年)、大和国信貴山城に移って居城とする。永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・三好義興と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。永禄5年(1562年)、多聞山城を築城して移り住んだ。長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となり、永禄8年(1565年)には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した(永禄の変)。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。こうして畿内に君臨するようになったが、同年に弟・松永長頼が丹波で敗死している。さらに永禄9年(1566年)に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、永禄10年(1567年)には三好三人衆とその同盟者の筒井城主・筒井順慶と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した(上芝の合戦)。10月、三好三人衆が立てこもった東大寺を攻撃して大仏殿を焼き払った。永禄11年(1568年)9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、近江朽木谷の領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・足利義昭の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。元亀4年(1573年)3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・武田信玄が病死して武田軍が甲斐に撤退し、織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、天正元年(1573年)11月には三好義継が河内若江城で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。信長は嫡男・織田信忠を総大将とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。このとき所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割り、10月10日に爆死した。享年68。


筒井順慶(つつい じゅんけい)天文十八年(1549)三月三日〜天正十二年(1584)

大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。1550年、父が病死したため、わずか2歳で家督を継ぐこととなる。このため叔父の筒井順政が後見人として補佐を努めたが、その順政は松永久秀による大和侵攻が激しくなっていた1564年に死去してしまった。このため、順慶は久秀によって大和を追われることとなる。1566年、三好三人衆と手を結んでかつての居城・筒井城を奪還する。しかし、久秀の攻撃は激しく、順慶独力では太刀打ちすることが困難だったため、織田信長の家臣となり、その支援を得ることで大和国における所領を守ったのである。以後は信長の家臣として、主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。1575年、長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出した。1577年、松永久秀が信長に対して謀反を起こしたとき、信貴山城攻めの先鋒を務めている。この功績により、信長から大和国の守護に任じられた。1580年には、大和国一帯に差出検地を実施している。1582年、明智光秀が織田信長を殺すという本能寺の変が起こった。順慶は光秀と仲が良かったため、光秀から味方になるよう誘われた。このため、順慶は去就に迷い、「洞ヶ峠の日和見」の故事を今日に残している(ただし実際には順慶は洞ヶ峠に至っていないという)。


北畠具教(きたばたけ とものり)享禄元年(1528)〜天正四年(1576)

1553年、父の隠居により家督を相続する。1554年には従三位権中納言と、順調に朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。官位は最終的に正三位まで昇った。1555年頃から父晴具の命により伊勢安濃郡を支配していた長野氏と戦い、1558年に具教の次男長野具藤を長野氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで勢力を拡大した。 1563年(永禄6年)、長男北畠具房に国司の座を譲る。しかし実権は依然として具教が握っていたようである。1568年から織田氏が伊勢国に侵攻し、神戸氏、長野氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む織田信長は、北畠氏がその障害になると考え、1570年、侵攻を受けることとなった。 北畠軍は織田軍相手に奮戦するも、兵数に大きな差があり、具教の弟木造具政が信長に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(松阪市)に籠城し、死守するも2ヵ月の後、遂に信長に降伏する。 この時具教は降伏の条件として信長の次男織田信雄を息子の具房の養嗣子として迎え入れる事となる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が嫁ぐこととなった。その後は出家して不智斎と号し、三瀬谷(多気郡大台町)に隠居したが、1576年11月、信長と信雄の命を受けた旧臣たちの襲撃を受けて、殺害されてしまった。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が織田信雄の居城田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られてしまうこととなる。


九鬼嘉隆(くき よしたか)天文十一年(1542)〜慶長五年(1600)

天文11年(1542年)、志摩国英虞郡の九鬼山城守泰隆の持ち城である波切城(三重県志摩市大王町波切)で九鬼定隆(泰隆の嫡男)の次男として生まれる。母は英虞郡甲賀(阿児町甲賀)の出身。九鬼泰隆には城が2つあり、兄の九鬼浄隆は答志郡の田城(鳥羽市)で生まれている。永禄3年(1560年) 志摩国の地頭のうち12人が伊勢国の国司北畠具教の援助を受けて田城を攻めた。九鬼嘉隆は田城の城主だった兄の九鬼浄隆を助けていたものの、九鬼浄隆は戦の最中に亡くなってしまった。その後、地頭の一人の甲賀藤九郎の元に身を寄せていた武田信虎が地頭達の軍師となり、九鬼側が惨敗し、九鬼嘉隆は朝熊山へ逃亡した。その後、九鬼嘉隆は滝川一益の仲介により、当時桶狭間の戦いを制して勢いに乗る織田信長に仕えた。天正4年(1576年)、石山本願寺側についた毛利水軍600隻に対し、嘉隆は300隻の船を率い摂津木津川沖で戦ったものの多くの船を焼かれて大敗を喫した(第一次木津川口の戦い)。この敗戦に激怒した信長は、嘉隆に対して燃えない船を造るように命じた。この時に嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄を貼った鉄甲船の建造であった。鉄甲船の建造には莫大な資金が必要であったものの、信長がこの案に理解を示し、できる限りの手配りをしたおかげで伊勢浦の大船と呼ばれた鉄甲船が完成した。天正6年(1578年)嘉隆の率いる6隻の鉄甲船と、滝川一益の大船が石山本願寺の抵抗を物ともせず、の港に入りその力を見せつけた。これに対して石山本願寺は再び毛利氏に援軍を頼み、木津川沖で海戦が行われる(第二次木津川口の戦い)。信長の要望に応えて造られた燃えない鉄甲船の威力は凄まじく、嘉隆は毛利水軍六百隻を打ち破ることに成功した。この戦功によって嘉隆は信長から志摩国に加え、摂津国の一部を与えられ、7000石に加増された。天正10年(1582年)信長が死去した後は羽柴秀吉に仕え、信長同様に水軍の頭領として重用された。そして九州征伐や小田原征伐などに参陣している。


黒田孝高(くろだ よしたか)天文十五年(1546)〜慶長九年(1604)

孝高は諱で、通称の官兵衛、並びに出家後の如水の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名などの交渉に従事、活躍した。ドン・シメオンという洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として姫路にて生まれる。天正元年(1573年)、播磨と小寺氏は畿内で勢力を拡大する織田信長と山陽、山陰に勢力を持つ毛利氏と二つの勢力に挟まれることとなった。天正3年(1575年)、信長は重臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に命じて播磨の進駐を行わせた。孝高は信長の才能を高く評価し、早くから主君・政職に織田家に臣従することを説き、さらに近隣諸勢力の懐柔を行った。ところが天正6年(1578年)、播磨の大勢力三木城主別所長治が織田氏に反旗を翻し、他の諸勢力も大きく動揺した。さらに信長重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城(兵庫県伊丹市)に立て籠もった。このとき、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、交渉はうまくいかず逆に捕縛されて有岡城の土牢に押し込められた。1年後、有岡城は落城し、孝高は家臣の栗山利安によって救出されたが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となった。そのため、以後は合戦の指揮も馬上ではなく輿に乗って行うこととなった。このとき、主君の小寺政職も村重の謀反に同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。この際、謀反人の名字を名乗ることをよしとせず、本来の黒田の名字に改めた。同時に信長から播磨国内に1万石を与えられた。高松城攻めの最中、京都で本能寺の変が起こり毛利輝元との和睦を取りまとめて中国大返しを行なったのも、全て孝高の進言によるものであったと言われている。関ヶ原後、長政は家康から勲功第一として筑前名島(福岡)52万3000石を与えられた。そのため、如水も中津城から福岡城に移り、そこでその後は政治に関与することなく、隠居生活を送った。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。享年59。


別所 重宗(べっしょ しげむね)享禄二年(1529)〜没年不詳

1570年(元亀元年)、甥の別所長治が家督を継ぐとその補佐役となった。1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際には別所一門を率いて馳せ参じるなど信長に早くから通じていたが、信長・秀吉を快く思っていなかった兄の吉親とは折り合いが悪く、長治が信長に反逆するとこれに反対して自ら浪人となった。