| 訪問年月 | 訪問国 | 主な訪問都市 | 渡航期間 | 旅行形態 | |
| 1992年2月 | オーストラリア | シドニー、エアーズロック、ブリズベン、ゴールドコースト | 1週間 | 個人旅行(友人と2人) | |
| 初めての海外旅行、それどころか初めての飛行機。一緒に行った友人ともども英語話せぬ状況下の珍道中。エアーズロックに登った。その一枚岩の雄大な景色に感激した。 | |||||
| 1993年2〜3月 | アメリカ合衆国 | サンディエゴ、ロサンゼルス、ティファナ(メキシコ) | 約1ヶ月 | ホームステイ研修プログラム | |
| アメリカ人家庭で生活を共にした貴重な体験。アメリカという国のいいところと良くないところ、両方を肌で感じる。やはり英語話せない。「ことばを学びたい!」という大きな契機になる。初めての陸路国境越え。USAとメキシコの人々の暮らしぶりの違いに驚く。 | |||||
| 1994年3月 | イタリア(&ヴァチカン) | ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、アッシジ、ピサ | 1週間 | パックツアー | |
| 当時西洋志向だった僕の憧れの地を訪ねる。美術館を巡ってダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの本物に触れる。3月のローマの温暖さが印象に残っている。傾いていることで有名な【ピサの斜塔】を見た。傾きすぎていて立ち入り禁止。前菜としてパスタを食べるイタリア人の食欲にビックリ。新婚旅行の佐賀のカップルと仲良くなる。いっぱい写真を撮ってあげる。自動車の走らぬ運河のまち・ヴェネツィアの雰囲気に魅力を感じる。 | |||||
| 1994年12月 | スペイン | マドリッド、バルセロナ、トレド、グラナダ、コルドバ、セビリア | 1週間 | パックツアー | |
| もうひとつの憧れの地。この国では地方(カスティリャ、カタロニア、バスクetc.)によって言葉や文化がかなり違うことを初めて知る。ピカソ美術館、アルハンブラ宮殿、ガウディの建築などは、さすがに見応えある。本場のフラメンコに感動。(この翌月に阪神大震災が起こるのだが、このツアーで知り合った方々からいっぱいお見舞いの手紙をいただいた。人の暖かさに触れた。) | |||||
| 1995年8月 | モンゴル | ウランバートル、カラコルム、ゴビ砂漠 | 1週間 | モンゴル生活体験ツアー | |
| 移動・遊牧生活を営むモンゴル人の伝統式住居であるゲル(=フェルトで作ったテント)に泊まれること、乗馬体験が出来ることに魅かれて参加。草原で寝転んで見た星の美しさに感動。自然をとことん満喫できた。 モンゴルの人々の素朴な人柄に感激する。首都ウランバートルでたまたま出会った日本語学習者の若者に案内をしてもらう。異文化体験と出会い、旅の醍醐味を感じる。【旅】そのものに対する興味が深まって行ったのがこの頃。 | |||||
| 1996年7月 | ロシア | カムチャッカ半島[州都・ペトロパブロフスク・カムチャッキー] | 1週間 | パックツアー(含・登山) | |
| 【手付かずの自然!】という謳い文句に誘われ参加。しかし、【誰も手をつけたがらない自然】というのが僕の印象。街も人も寒々としていた。市場の商品は少ないし、人々に笑顔がない。旧共産圏の欠点ばかりを置き去りにしたような街。店に入っても誰も歓迎してくれない。それどころか思いっきり睨まれたり・・・食べもの屋で『カムチャッカラーメン』というメニューがあったので試してみたら、「いったい何をめざして作ったのか?」という怪しい味。極寒に備えての暖房設備のメンテナンスのため(夜は10℃以下まで冷え込む状況下で)お湯シャワーは出ないし、それどころか水は常に茶色いし…その他諸々辛いことがあって、忍耐の日々であった。 しかし、やっぱり自然は【手付かず】で素晴らしかったし、『ピロシキ』はおいしかったし、良いところも確かにある。でも僕は2度と行かないであろう、カムチャッカ半島。 …ここから送ったポストカードは(おそらくモスクワ経由で)11月末に届いたらしい。 | |||||
| 1996年12月 | イスラエル、エジプト | エルサレム、テルアビブ、ベツレヘム、死海、シナイ山、カイロ | 1週間 | パックツアー | |
| イスラエルには強い興味があった。実はこの1年前に行く予定にしていたのだが、95年11月のラビン・イスラエル首相暗殺によりツアーは中止。念願叶ったこの旅行であった。 当時周辺アラブ諸国との関係は比較的良く、たいへん平和で豊かな観光地、というのが僕のイスラエルの第一印象であった。イエス・キリストゆかりの土地、ということで、ヨーロッパの人々にとってはたいへん身近な場所であるようだ。 ユダヤ・キリスト・イスラムの3つの宗教の聖地であるエルサレム、それぞれの宗教を信じる人達が微妙に住み分けをしつつ悪くない関係を保っているということを知り、より興味が湧いた。 薄いパン『ピタ』をはじめ、イスラエル料理はたいへんおいしかった。ユダヤ人の食習慣に『コシェル』と呼ばれるものがあって、その中に「肉と乳製品を一緒に食べてはならない」等、独特な決まりごとがあり、敬虔なユダヤ教徒はそれを忠実に守っているという。 死海はリゾート地。やっぱり浮いた。塩でヌルヌルしていた。傷があったらたいへんしみて痛い。土産屋では『塩石鹸』『泥石鹸』いろんな種類売っていた。 スエズ運河を越えてアフリカ大陸初上陸。エジプト・カイロではギザの3大ピラミッドの壮大さに感動。砂漠を行くラクダの写真を撮ることですら商売活動にしてしまう、アラブの人の商魂たくましさを肌で感じる。 | |||||
| 1997年3月 | ベトナム | ホーチミン、メコン流域デルタ地帯 | 1週間 | 個人旅行(初めてのバックパッカー的ひとり旅) | |
| 初めての東南アジア、そして初めてひとりで立ち回った、ということで強く印象に残る旅であった。 おいしい食べもの、アンバランスに発展し続ける活気ある都市、笑顔でしかも日々懸命に生きるパワフルな人々・・・それが実際に訪れて僕が見たベトナムの風景であった。この1週間は、以後何年かの僕の旅の方向性を決定づける貴重なものになった。 (このベトナムでの日々については、近日【旅行記】として発表したいと思っています) | |||||
| 1997年7月 | イギリス、フランス、オランダ、ベルギー | ロンドン、パリ、アムステルダム、ブリュッセル | 10日間 | 個人旅行(一部多国籍のツアー参加) | |
| 『コンチキツアー』という多国籍ツアーにロンドンから参加。ヨーロッパの主要都市を巡る。アメリカ人と相部屋に。お互いマイペースを守る距離感をとる姿勢に、心地良さを感じる。ユーロトンネル。列車ごと巨大なチューブの中に入ってドーバー海峡を渡る。 ベルギー。首都ブリュッセルは美しい。『グランプラス』という中心部の広場の雰囲気は「ヨーロッパに来た!」という実感を僕に与えてくれた。さすがチョコレートの国!肉料理にチョコレートを用いたソースを使うと聞いてビックリ。 オランダ。この国はツアーメンバーで観光する。チーズ工場や木靴工場の見学はおもしろかった。首都アムステルダムでは女性含むメンバーでセックス・ショーを見に行く。あけっぴろげ過ぎて、SEXYさは全く感じなかった。あと、ゴッホの美術館を見る。 フランス。ルーブル美術館を満喫したり、エッフェル塔に登ったり、「ここに来たからには…」という観光コース。エスカルゴを食す。食感はまあまあ。 EU地域はパスポートノーチェックであり、パスポートにスタンプは押してもらえなかったが、いくつも陸路(海路含む)で国境越えを果たした。 後半はひとりでロンドンを歩き、有名どころを巡る。【大英博物館】はやはりスケールがでかく、【NATIONAL GALARY】も良かったが、【MIMO】という映画博物館が僕としてはいちばん面白かった。 ヨーロッパにあって「自分が異国からやってきた」ということを実感する。欧州の地で出会うアジア人が仲間であるような気分になった。あまりお気に入りの食べ物には出会えず、最高に僕の舌にHITしたのは大韓航空の機内食に出た『ビビンバ』だった。(初めて食べた!隣の席の韓国の方に食べ方を教えていただいた。) | |||||
| 1997年8月 | 中国・韓国 | 大連、天津、北京、唐山(中国)、ソウル及び近郊(韓) | 2週間 | 『18回近畿青年洋上大学』参加(一般) | |
| 国際交流と地域の仲間づくりを目的とした近畿圏地方自治体による企画の船旅。これに参加したことで、【国際交流】に大きく興味を持つことになる。中国、韓国の青年(ともに日本語を学習している!!)と友達になったことが何よりの収穫であった。 | |||||
| 1998年2月 | 台湾 | 台北 | 4日間 | 個人旅行 | |
| 4連休が取れることになり、急遽思い立って行った旅。台北のYH(國際青年之家協会)で素敵な人達(日本人・香港人)と出会う。夜市を食べ歩いて台湾の味の魅力にハマる。台湾のポップスが耳に心地良く感じ、何枚かCDを買って帰る。僕がチャイニーズ文化に強く惹かれていくきっかけになったこの4日間であった。 | |||||
| 1998年3月 | 中国 | 大連、上海 | 1週間 | 個人旅行・友人訪問 | |
| 上記『洋上大学』で知り合った友達を訪ねて大連へ。友達は親切に案内してくれた。 近郊の【旅順】という街を案内してもらう。日本人は本来見ることの出来ない『旅順監獄』を友達のアドバイスどおり、[中国人のフリをして]見た。日本統治時代の歴史の暗部を目にして、何とも言えない気持ちになった。 しばらく時を一緒に過ごせたことで、本音で政治とか歴史とか、ヘヴィーな話もした。日系企業に就職することを希望していた(その希望は叶った!!)その友達は「私ははっきり言って日本人は嫌い。一生かかっても好きになれない」とも言っていた。「でも、人間を日本人とか中国人とかで判断したくない。【その人】で判断したい。あなたは友達です。」・・・ホンネを語ったうえで友達と認めてもらったと実感できて、とても嬉しい気持ちになった。 友達と別れ、中国国内線を使って上海へ。中国北方航空の機内には水がポタポタたれていたりして不安な気持ちになる。 夕刻に着いた上海ではひとりで立ち回ることになる。言葉が通じず打ちひしがれる。新参者の僕に誰も親切にしてくれない。それどころか声をかけてくるのは何かタクラミがある輩ばかり・・・やっとのことでホテルにたどり着いた時には深夜になっていた。ひどく疲労しただ眠るだけ… 翌日はドミトリー『浦江飯店』に宿を移して上海を歩き回る。『豫園』などを観光。【小籠包】を初めて食べた。おいしかった。さんざん歩き回ったので、日本人の僕としてはひとっ風呂浴びたくなった。『浴徳池』という銭湯があると聞いていたので、夜、地図で探しつつ歩いた。そのうちに裏路地へ。華やかな表通りと比べて極めて雑然としたおっかない場所に足を踏み入れてしまった。『浴徳池』という看板を見つけた。人気の少ないビルの細い階段を3階へ・・・ドアを開けたら待っていたのはホステスのような女性と上海マフィアのような恰幅の良い男・・・「あなたニホンジンお風呂ハイルネ!」男が僕の手を引っ張る・・・「ヤバイ!!」僕は必死で男の手を振り解いて走った。男が追ってきた。追うほうがなぜか2人に増えている!!・・・とにかく走った。・・・どれだけ夜の上海を走っただろうか・・・僕は息を切らしながらも何とか『浦江飯店』にたどり着いた。ドミトリーに学生らしい日本人男性が2人。とてもホッとした気持ちになったのを覚えている。日本語で話せる・・・ しかしこの上海での日々、とにかくツイてない。この2人は、『浦江飯店』の前で民芸品などを生活のために売っている少数民族の老婦人に石を投げたりetc,の嫌がらせしたりしたことを自慢気に話していた。心が寒々としてきた。そして2人は「戦争は必要だ。」「日本は戦争に強い、ということ証明する機会欲しい」なんて話していた・・・快樂主義者戦争大嫌いの僕としては「嫌がらせ」のことも含め、何か意見したかったが、そんな元気はその夜の僕にはなかった。 日本人の旅人のことを大嫌いだと思ったのはその時が初めてであった。(翌朝僕が目覚めた時にはその「大嫌い」な2人は、既にドミトリーにいなかった。) このように、上海ではいい思いをしていない。僕にとってひとつの鬼門のような・・・?? 悔いが残る。…いつか上海で楽しい思いをしてやる!!・・・と決意新たに帰途についた。 | |||||
| 1998年8月 | 韓国 | 釜山、ソウル | 1週間 | 個人旅行、友人訪問 | |
| 1年前の『洋上大学』で知り合った韓国の友人を訪ねる。友達はソウルで日本と提携している旅行会社に勤めていて忙しい日々のなか案内してくれた。 大好きな石焼きビビンバをいろいろな店で食べる。どの店もそれぞれおいしかった。街には『ロッテリア』が多い。 釜山=プサンは海産物豊富。魚市場歩きがおもしろい。【豊臣秀吉の侵略に抵抗した勇士】の記念碑が印象に残っている。 ソウルでは南大門市場がインパクト強かった。店の前に(商売繁盛のおまじない的!?)豚の生首。笑っている表情のものが店主に人気高いらしい。繁華街(明洞=ミョンドン)の地下にメガネ街。とても安い(結構高級なレンズのものがひとつ6000円程)。さらに仕上がりが早い(昼頃頼めば夕方にはできている)。そして種類が豊富(ソウルにはメガネでおしゃれをする人が多い!)。サングラスを含め3つ作ってもらう。仁寺洞=インサドンという陶器街には、陶器以外にも掘り出し物多い。おみやげ買うのにおすすめ。地下鉄の車内で物を売り歩く人がいてビックリ。 ソウルは新しさと伝統的なものが同居する街でおもしろい。ただ、あまりに発展しすぎていて、ひとりぼっちでいるときには何となく寂しさを感じた。僕にとっては、「気心知れた人と一緒に歩きたい街」である。 いっぱい歩いて旅したことで、隣の国=韓国がより僕の中で身近に感じられるようになった。慶州=キョンジュなど、他の都市も魅力的だし、北朝鮮との軍事境界地・板門店=パンムンジョムにも行ってみたい。またぶらりとこの地を訪れたい。 | |||||