石の2 長崎はポルトガル領だった


ポルト 東京にいる頃、故郷は長崎だというと、、「長崎の人なら、やっぱり
キリスト教なの?」と聞かれたことがある。「うんにゃ」と否定し、
「長崎人だからといって、そんなわけなかろうが」と思ったもんだが、
最近になって、日本におけるキリスト教の信者数は人口の1%にも
満たないのに、長崎県におけるキリスト教の信者数は4%を越えて
おり、全国で一番多いのだと知って驚いた。
その理由がどうも、長崎はポルトガル領だったからだというのだ。
え!そうなの?とぼくも驚いたが、歴史に疎い婦女子というか、
我が母や妹達にそれを教えると「ええー!うそー!?」と叫んだくらい
だから、長崎人でも、けっこう知らない人が多いのではなかろうか?

長崎というのは、その土地名が現れるのは戦国時代であるが、
なにしろ半島と島ばかりで平地がないので、稲作には適せず、
小さい入り江に、わずかな漁民が暮らすだけの貧しい土地だった。
本来ならそれだけで、何の取り柄もなかった場所である。

事情が変わったのは、1543年に、ポルトガル人が種子島において、
日本に鉄砲という武器を伝えてからである。鉄砲は、戦国時代の
日本にたちまち普及し、その火薬成分になくてはならない硝石が
国内では生産できなかったので、それを得るために大名達はポルト
ガル人との貿易をせざるを得なかった。それを南蛮貿易という。
貿易自体は、どちらにも利益をもたらすので、信長、秀吉、家康の
頃には奨励されており、当時の堺や博多、そして大阪や京都には、
ポルト2 スペイン人やポルトガル人などの南蛮人が往来するようになった。
そして、種子島から6年後に、キリスト教のイエズス会の宣教師で、
インドのゴアにいたフランシスコ・ザビエルが、日本にやってきて布教
活動を始める。彼は、日本人というのはとても知性的な考え方をする
民族だということを商人から聞いていたので、キリスト教は必ず、日本
において大発展するだろうと予測して勇躍乗りこんで来たのである。

最初は鹿児島で、薩摩の島津氏から領内の布教の許可を得たが、
仏教僧の反対が大きかったため、島津氏の取り計らいによって、
京へ登ることになる。その途中、今の長崎県北部を領土としていた
松浦氏が、平戸を港として使用してはどうかと提案してきたので、
南蛮貿易はまず平戸を拠点に始まることになる。

ザビエルは平戸から山口、そして大阪、京へと布教を始める。
その斬新な教えにビックリして、日本には、じわじわと信者が増え、
大名の中にも洗礼を受けて信者になるものが出始めた。いわゆる
キリシタン大名である。京大阪では、高山右近、小西行長、九州では
豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠、有馬晴信などが有名である。

大村純忠 ところが、一神教であるキリスト教は、仏教の教えを邪宗とみなし、
キリシタン大名の領地では、寺や神社を打ち壊すようになった。
日本人の間では、そこまでやるか?と疑問が生まれて当然である。
松浦藩主はそこまでキリスト教に加担するつもりはなかったので、
平戸でポルトガル人と松浦藩の武士との喧嘩が起こって両者が険悪
になると、南蛮人に冷たくなった。そこで彼らは他に港を探し始める。

そこに声をかけてきたのが、キリシタン大名の大村純忠であり、
「長崎をさしあげよう」というのである。今から考えるとフザけるな!
と思うのだが、信者というのは何でも差し上げたい気分になるらしい。
長崎は港としては絶好の地形を持っていたので、ポルトガル人は
大変喜んだ。それが1580年のことであり、その時をもって現在の
長崎市は、ポルトガルの領土となってしまったのである。

長崎岬の先端である今の県庁舎の土地には真っ白いサン・パウロ
教会が建ち、それが長崎港に入って来る外国船のランドマークになった。
他にも、今の立山の長崎歴史博物館の地にはサンタ・マリア教会、
ポルト4 勝山町の桜町小学校の土地にはサント・ドミンゴ教会、本大工町の
現・長崎市公会堂の地には、サン・アントニオ教会、現・長崎テレビの
土地にはサン・ペドロ教会などが次々と建てられた。
つまり、長崎は最初はポルトガル人のものであり、キリスト教会が
次々と建設されて、その神父やら、キリスト教に入信した日本人が
わんさかといる土地だったのである。

信長は南蛮文化の普及や、キリシタンの布教には実に鷹揚であり、
目の前で、仏教僧とキリシタンの神父に宗教論争をさせて、どちらが
言い負かすかなどを、おもしろがって眺めたりしていたほどである。
その信長が死ぬと、秀吉も最初は信長の外交を継承したが、日本を
やっと統一した彼が海外に目を向けると、大国中国の明の勢いが衰え
始めていて、そのかわり、南蛮人であるスペインやポルトガルが、その
進んだ海運力と軍事力によって、マラッカやフィリピンなどのアジア諸国を
次々に植民地化していることに気付く。当時はまだ、日本の商人もフィリ
ピンや東南アジアなどに赴いて貿易をしていたので、そういう情報はよく
入ったはずであり、当然ながら、彼もポルトガル人達の野心というものに
警戒するようになっていった。

そう思っていた矢先、キリシタン大名の大村純忠がいつのまにか、
長崎という土地をキリシタンのイエズス会に与えていたと言う事を
知る。これにはさすがの秀吉も、びっくりして、さすがに怒ったという。
ついに1587年にバテレン追放令を出す。キリスト教の宣教師に、
布教を許さず、国外退去せよと命令したのである。そして、5年後の
1592年には、長崎を没収して、秀吉の直轄領としてしまう。
しかし、当時はまだキリスト教弾圧はそれほど厳しいものではなく、
宣教師もあちこち逃げ回っては、布教を続けていたらしい。ところが、
そこにある事件が起きる。1596年のサン・フェリペ号事件である。

サン・フェリペ号事件というのは、スペインの帆船が四国沖で難波して、
地元の人に助けられたのだが、その時に、助かった乗組員の一人が、
つい気を許したのか、「我が国は、後進国を占領するために、まず
ポルト5 キリスト教の宣教師を送り込んで民衆をキリシタンに改宗して味方にし、
その上で軍隊を派遣して支配するのだ」と、得意気に、本音を漏らして
しまったのである。それを伝え聞いた秀吉はすぐに、キリスト教の布教を
全面的に禁止する、と同時に罰則を厳しくした。
それは、日本国を守るための当然の行為だった。
そして、その翌年の1957年には、関西圏で、布教をしていた外国人
宣教師と、その通訳である日本人信者の26名を捕えて、長崎に送り、
西坂の丘で処刑した。それが有名な「長崎26聖人の殉教」である。

秀吉の死後、徳川幕府を築いた家康は、南蛮貿易はしたいが、
キリシタンの布教は困るという矛盾に落ち入っていたが、そういう折り、
オランダの貿易船リーフデ号が豊後沖で難破し日本人に救助される
という事件が起きる。1600年のことである。
ポルトガル人の宣教師達が、執拗に彼らを処刑せよと言うので、
家康がそれを不思議に思い、リーフデ号の船長のウィリアム・アダムスを
呼んで聞いてみると、スペイン・ポルトガルのカソリック教会と、イギリス・
オランダのプロテスタント教会の国家が敵対していることがわかり、さらに、
オランダの場合はスペイン・ポルトガルなどのように、キリスト教布教を
利用して乗っ取るような植民地政策は行わず、純粋に貿易をしたいだけ
だということがわかる。それならば、ポルトガルと手を切って、オランダと
貿易をすればよいわけである。ということで、それを実践したのが、徳川
二代目の秀忠の時代で、ほとんど鎖国に近い政策を取り、貿易は中国と
オランダのみを長崎に限るということにしたのである。

その上で、キリスト教を禁令として徹底的な弾圧を行い、改宗しない者
には捕縛して拷問を加えるという厳しさだった。その結果、長崎町内の
キリスト者は、郊外やら僻地や、島に逃げて身を隠したのである。
1637年に長崎地方で起きた「島原の乱」という大きな百姓一揆は、
キリシタンが中心だったが、徳川幕府が苦労して鎮圧し、その後、
ポルト6 日本でのキリシタンは途絶えた。

そして、幕末から明治維新になり、日本が外国に開港するようになると、
長崎にも再び、キリスト教会が建設されるようになった。その一番
最初が、グラバー亭の近くにある大浦天主堂であり、白人カソリック
信者のために建設されたのであり、今では国宝になっている。
ところがそこに、完成から一カ月後のある日、長崎郊外の浦上村の
住人が十数人やってきて、フランス人神父に近寄って、「実は私達は
神父様と同じ心を持つ者でございます」とつぶやいたのである。実に
260年もの間、隠れキリシタンとして信仰を守ってきたキリスト者の
出現であり、それはバチカンにも報告され「東洋の奇跡」と呼ばれた。

そういうわけで、確かに長崎県にはキリシタンが多いらしいのだが、
長崎市の最大のお祭りはあくまで、、諏訪神社のおくんちであり、
中国の影響を濃厚に受けた、精霊流しであり、ペーロン競争であり、
ランタン祭りである。つまり、ほとんどは仏教信徒である。
そして驚くべきことに、実は、隠れキリシタンは260年の間、代を重ねて
秘密にする間に、日本人特有の祖霊信仰に侵されてしまい、明治時代
になって、まっとうなカソリックの教義が入ってきても、それを受け付けない、
神道と融合した独特な「カクレキリシタン教」になっている場合も多かった
という。これも、年月の仕業であった。
(2012年7月)

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