超簡単に言うと

天皇尊崇思想である「尊皇論」と、外国人排斥思想である「攘夷論」とが幕藩体制の動揺と外国勢力の圧迫という危機に統合して大きな潮流を形勢。幕末長州藩の下級武士を中心に尊皇攘夷運動という政治運動として激化し、さらに討幕運動に発展した。(『日本史用語集』山川出版社)

だけどこれで納得していたらこのページに飛んできた意味がないのです。
以下は私の卒論の焼き直しですが、あなたの知らなかった意外な事実が分かっちゃうかも!!の内容です。
ちょっとがんばって読んでみてはいかがですか?

 


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☆尊皇攘夷とは・・・  ☆「尊王攘夷論」の本来の意味   ☆「尊皇攘夷」思想の変化

☆列藩の矛盾     ☆幕府の中の「尊皇攘夷」


尊皇攘夷とは・・・

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 「尊皇攘夷論」。この言葉の歴史は意外に新しい。江戸時代、水戸藩で盛んだったいわゆる「水戸学」の成立に一役買った藤田東湖が最初に使った言葉である。
 ここで意外に思われる方もあるかもしれない。「尊皇攘夷論」といえば幕末、尊攘派といわれる倒幕派の人々が唱えた思想として有名であり、一方の水戸藩といえば徳川斉昭に見られる公武合体思想の先駆的藩の一つである。
 一見相容れない両者であるが、「尊王攘夷論」の本来の意味を見ることによって、そのつながりを確認してみたい。

 

「尊皇攘夷論」の本来の意味

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 もともと「尊皇」と「攘夷」は全く異なる言葉である。
 江戸時代には、朝廷に対する尊敬の念など人々の内にはないに等しかった。天皇とは単に祭祀を執り行うだけの存在であり、尊敬する理由などなかったのである。
 しかし水戸学が成立していく課程の中で、身分の上下について明確にする必要から、ようやく天皇という存在を特別視するようになったのである。ちなみに初めて「尊皇攘夷」という言葉が使われたのは藤田東湖の著した「弘道館記」(天保九年、1838)である。それでは身分の上下を明確にする必要性とは一体何か、ということになる。
 江戸時代後期といえば、すでに寛政四年(1792)に根室へ、文政七年(1824)には水戸へ外国船が上陸をしていた。長い鎖国状態だった日本に対外危機意識は薄く、また政治不安も重なり、国情を統制する必要があった、
 当時、庶民は宗教に惑わされやすいという愚民感が存在した。そこで祭祀を行う天皇に目を付けたのである。すなわち、庶民の日常生活は土地神によって守られている、実際人々の土地神に対する信仰心は深いものがある。そういう土地神、日本の国を守る種々の神を祭る儀式を執り行う天皇は敬うべき存在である、その天皇から政治権限を委譲されている将軍も敬い、その将軍を支える諸大名も畏敬の対象となる・・・。こうして上下身分の確立を促し、国勢強化へと繋がることを目的として天皇という存在が表舞台に登場するようになるのであり「尊皇」の思想が生まれたのである。そして同時に厳しい身分秩序も明らかにされた。すなわち、この身分の順を違えて働きかけをしてはならない、というものである。これは諸侯が幕府を飛び越えて直接天皇へ接触を計る事への予防線でもあった。
 一方の「攘夷」はというと、言葉だけをみると夷荻をうち払え、というような意味になる。しかし、すでに外国の脅威にさらされていた水戸ある。外国勢力の「攘夷」など現時点での日本では不可能であることは水戸の識者にとっては自明の理であった。しかしかといって外国の侵略に対し、甘受するわけにはいかない。国力の強化をせねばならない。その為にあえて「攘夷」という言葉を使って人々の危機意識を高めたのである。
 こうして生まれた「尊皇攘夷」という言葉の本来の意味するところは「外国勢力に対抗できるように幕藩体制を強化しよう!」というものだったのである。

 

「尊皇攘夷」思想の変化

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 幕府養護のため成立したこの思想が変化を遂げるきっかけとなったのは安政五年(1858)の日米修好通商条約調印であろう。言わずと知れた大老井伊直弼が調印し、横浜他数カ所を開港した条約である。これにより外国との貿易が行われるようになったが、余りにも不平等なその内容に国勢は悪化の一途を辿った。
 しかもこの調印に先立ち天皇の勅許を得る必要があったのだが、実は天皇は最後まで調印を認めなかったのである。しかし「国体を汚す」ことを畏れるのがその真意であったから、幕府の側では調印を拒否して侵略の憂き目をみるよりは、と勅許を得ずに調印を断行したのである。
 民衆の立場にしてみれば、幕府が勝手に調印したために自分たちの生活が苦しくなった、のである。幕府を見捨てるのも当然であろう。
 そういう時代の流れの中で、幕府勢力に対して反感をもっていた外様大名や急進派の志士たちが、今度はその幕府を倒すために「尊皇攘夷」を唱えだしたのである。
 幕藩体制を維持するために造られた身分秩序の思想であったが、幕府への不満が増幅する中でその本来の目的から路線が外れ、身分秩序のみを主眼に置くようになった。民衆の生活を守るべき立場の幕府であるのにそれが出来ないのなら、その列から外してしまえ、「天皇を立て外国勢力を倒せ」という風に変わっていったのである。それはそのまま「天皇をないがしろにし、うち払うべき外国に開港を行った幕府を倒せ」ということにつながっていった。この思想はあっというまに民衆や下級武士の間に浸透していった。そしてまさにこれが一般的に浸透している「尊皇攘夷思想」なのである。

 

列藩の矛盾

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 ここまで述べてくればもはや矛盾でも何でもないが、倒幕を唱えていた列藩が「攘夷」を唱えながら外国から武器や船を買っていた事実について確認してみることにする。
 藤田東湖が最初唱えた「尊皇攘夷」が幕府体制強化の名目であったことは既に述べた。幕府を見捨て、倒幕の旗印としてその性質が変化したことも述べた。そうなると列藩のいう「攘夷」も名目に過ぎないことは察しがつくであろう。討幕派の急先鋒の1人として有名な高杉晋作にしてから、香港へ行って外国の脅威を目の当たりにしているのである。薩摩にしても薩英戦争で思い知らされている。今の日本では外国に対抗できるはずがないのである。むしろ外国の性能の高い武器や軍艦を買い込み、その上で初めて外国勢力に対抗できようというものである。実はこの考え方は開港調印を行った幕府の真意と全く同じであった。しかし、幕府を倒す為には同じ思考では困るのである。だから幕府に対抗して「攘夷」を唱えたのである。

 

幕府の中の「尊皇攘夷」

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 ここまで読んでくれば、幕府の側にも「尊皇攘夷論j者」がいた、といってももう驚かないであろう。むろん、ここでいうのは藤田東湖が唱えた「本来の意味での」尊皇攘夷である。
 その1人があの井伊直弼である。彼はあくまで朝廷に対して畏敬の念を持ち続けていた。異勅調印を行ったときも、「天皇は国体を汚したくないのが真意なのに、調印をせず、侵略されてはその真意にもとる」といって調印を行ったのである。しかもぎりぎりまでアメリカに調印を引き延ばすよう説得を行って、どうしても無理な状態になるまでは調印をしないよう命じている。そしてそうなった時、「政治の実権を幕府は朝廷よりまかされている。そして大老たる自分はその責任を負う。場合によっては異勅となっても行う必要のある場合もある。しかし、その重罪は一身が受けるものである」と言っている。
 その後の安政の大獄で多数の尊皇攘夷論(この場合は本質変化後)者を処断したのも、あくまで幕藩体制を揺るがす危険分子を処断したのであって、彼の信ずるところの「尊皇攘夷」に揺るぎはなかったのである。
 そして事件は起きた。万延元年(1860)、桜田門において彼は殺害される。尊皇攘夷論者の仕業であった。この時の暗殺者は旧水戸藩士、水戸学を学ぶ藩士の中でも、激派と呼ばれる人々だった。彼らは幕府の威信を傷つけた大老に対する直接制裁を下すにあたって、あくまで水戸学本来の思想に基づいて”幕府の毒”を除こうとしていたのである。だが彼らは重大なあやまちを犯した。
 事件より少し前、彼らは開国の責任を問う勅書を朝廷より出させるよう働きかけた。結局水戸藩主斉昭らを介して幕府に情報が流れ、失敗に終わるのだが、この行動は尊皇攘夷本来の思想から逸脱した行為だった。つまり、身分秩序を解き、幕藩体制を強化する為の尊皇攘夷論を掲げていながら、彼らの上位にある藩主を飛び越え朝廷に接触するという行為は身分秩序を無視したものであり、朝廷から勅書を得るということは幕府擁護の根幹を揺るがすものだったのである。これにより、水戸藩の学問振興の流れの中から生まれた「尊皇攘夷思想」は、自らの手で否定されることになったのである。