平安時代用語集!

 

ここはあすかのページの中に出てきた用語に関する解説です。
学校のテストにはほとんど役立ちませんが、晴明様と博雅さんの生きた時代を
膚でカンジてみませんか。

 

摘要

☆ 漢字、読み、別称、生没年(成立年)、説明、参考文献の順に記してある。

  主な参考文献は吉川弘文館の『国史大辞典』である。これに関しては特に記さない。 

  参考文献略語:

  『日用』→『日本史用語集』山川出版
『群類』→『群書類従』
『人名』→『大人名事典』平凡社
『平風』→『平安京の風景』文英堂
『平くらし』→『平安京くらしと風景』東京堂出版
『改史籍』→『改訂史籍集覧』
『民俗』→『日本民俗大事典』吉川弘文館
『系纂』→『系図纂要』
『古代氏族』→『日本古代氏族人名事典』吉川弘文館

☆ 語順は一般的な読み方で整列させてある。

☆ 【→】はその語句での説明が別にある。

☆ →”語句”は”語句”の項目参照

☆ 読みの解らないものは便宜上音読みして”?”を付した。


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ア行  カ行  サ行  タ行  ナ行  ハ行  マ行  ヤ行  ラ行  ワ行

 


ア行

敦実親王 (あつみしんのう・あつざねしんのう):六条式部卿宮,
893−967、父宇多天皇(第八皇子)【→】、母藤原高藤【→】の女胤子(醍醐同母)【→】
宇多源氏の祖、延喜七年(907)に親王宣下を受け、上野太守、中務卿、式部卿を歴任。天慶四年(941)には一品に昇叙されたが、天暦四年(950)出家し仁和寺に住んだ。法名覚実。和歌・音楽・神楽・催馬楽・蹴鞠など諸芸に通じ、朝廷で重用された。博雅の和琴の師とも。琵琶の名手蝉丸【→】はこの人に仕えていた。息子に雅信【→】等がいる。

安部晴明 (あべのせいめい)
→登場人物紹介参照

安和の変 (あんなのへん)
安和二年(969)三月二十五日、左馬助源満仲らの密告により左大臣源高明【→】が左遷された事件。密告は藤原師尹ら藤原主流家が高明の失脚を狙って画策したものと言われる。その概要は、当時の天皇冷泉天皇【→】の皇子為平親王が次期東宮の有力候補であり、高明の女がその后となっていた。父である高明が将来天皇の外戚となるのを畏れた藤原嫡流家が、同母弟の守平親王【→】の立太子を成功させたのだが、その守平親王を押しのけ為平親王を東宮につけようと謀反の画策をしたという名目で高明を失脚させたのである。結果、高明は太宰府に左遷され、首謀者の師尹は左大臣になった。

意見封事三箇条 (いけんふうじさんかじょう)
957.12.27、菅原文時【→】が村上天皇【→】の求めに応じて奏上した意見封事【→】。
第一条「請禁奢侈事」では奢侈の禁止、第二条「請停売官事」では売官の停止、第三条「請不廃失鴻臚館懐遠人励文士事」では鴻臚館【→】を復活しかつそれを文士の場とすること、などについて意見を述べた。三善清行の意見封事十二箇条と並んで有名だが、論旨や内容、資料的価値ともに劣るといわざるを得ない。

意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう)
914.4.28、三善清行【→】が醍醐天皇【→】の勅により奏上した意見封事。序論と十二箇条の建議よりなる。序論において国家財政の衰潮とその原因としての課長の減少について述べたのち、十二点について論を述べている。地方官の体験をもつ文人貴族の立場から当時の政治的社会的な諸矛盾を的確に指摘しその打開策を論述しており、意見封事の中では優れた内容を持つが、現実の政治にはほとんど反映されなかった。 

和泉式部 (いずみしきぶ):式部、江式部
生没年不明、平安中期の女流歌人。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の女。為尊親王や敦道親王との恋は『和泉式部日記』に書かれている。中宮彰子に仕えた。子の小式部も歌人としては有名だが、その子にも先立たれ、再嫁した夫藤原保昌との夫婦仲もうまくいかず、長元九年の夫の死後は消息が不明となっている。没年は不明。

和泉式部日記 (いずみしきぶにっき)
冷泉天皇の皇子帥宮敦道親王との恋愛物語を三人称形式で綴ったもの。初め同天皇の第三皇子弾正宮為尊親王と恋愛関係であったが、親王の死によって悲しみにくれているところへあらわれた敦道親王の恋が始まる。その最初の恋の詩が贈られた長保五年(1003)四月から宮邸で召人として暮らすようになる寛弘元年(1004)の間の物語である。この四年後の帥宮の死によってこの恋もはかなく終わるが、その喪が明けるころの成立と考えられる。

出雲 (いずも)
現在の島根県東部。西部は石見。和暦で神無月(十月)というのは八百万の神がこの月には出雲へ集まりいなくなることからついたが、その為、出雲地方だけは十月のことを神有月という。

一条天皇 (いちじょうてんのう)
980−1011、円融天皇【→】の第一皇子。母は藤原兼家の女の女御詮子。諱は懐仁(やすひと)。永観二年(984)五歳で、兄である花山天皇【→】の東宮となり、寛和二年(986)天皇の出家事件により七歳で天皇となる。この事件により外祖父の兼家【→】が摂政と成って以後、子の道隆・道兼が摂政・関白になり、道長【→】が左大臣になるなど、藤原氏全盛期となる。寛弘八年六月、病のため従兄の居貞(いやさだ)親王に譲位した。天皇は公正温雅で廷臣の信頼を集め、藤原氏とも特に衝突することもなく、様々な分野に渡り人材を輩出した。女流の活躍がめざましかったのも、この時代である。『一条院御記』があったと伝えられるが、内容はほとんどわかっていない。

右大臣 (うだいじん)
太政大臣(非常勤)、左大臣に次ぐ太政官の長官。正従二位に相当する。職務は左大臣と同様。

宇多天皇 (うだてんのう)
867−931、光孝天皇【→】の第七皇子。母は桓武天皇皇子仲野親王の女班子女王。諱は定省(さだみ)。光孝天皇は皇太子を設けなかったので、他の皇子、皇女とともに一度は臣下したが、天皇の死の直前天皇の意を察した藤原基経の推挙により仁和三年(887)八月二十五日親王、二十六日立太子、同日天皇の崩御により践祚、十一月十七日即位した。基経の功に報いるため重用しようとするが、阿衡の紛議により藤原氏の専横を否み、基経の死をきっかけに綱紀粛正を行い、菅原道真【→】の起用を行った。譲位するにあたり、「寛平御遺戒」を与え特に道真を重用するよう求めたが、これはと紀平の諫言により失脚に追い込まれる。和歌にも堪能で「古今和歌集」にも作品が多く残され、日記「宇多天皇宸記」十巻も知られるが現存せず、逸文が伝わるのみである。

右兵衛督 (うひょうえのすけ)
宮城の守衛にあたった官司の一つ、左右兵衛府の長官。兵衛府は衛門府、左右衛士府とならび五衛府と称されたが、その中でも最も天皇の居所に近い重要な場所の警護を行った。平安中期になると中衛府、近衛府など新しい衛府ができ、それに伴い本来の存在意義を失っていった。しかし、九世紀初頭の衛府制度の改革後も左右近衛府、左右衛士府と並び六衛府の一環として存続した。官位において右は常に左の下位となる。

延喜格・式 (えんぎきゃく・しき)
醍醐天皇の命により編纂された格式。格とは律令の制定以後、律令条文の補足や改正のため出された法令で、式とは律令施行の細則のこと。律令を実際運営していく場合、細かい具体的規定が必要で各役所では多くの式が制定された。869〜907の詔勅、官符中重要なものを藤原時平らにより選ばれ907年に格十巻が完成、式五十巻は藤原忠平らにより弘仁・貞観式を併合して取捨、改訂して927年に完成したが施行には40年の歳月を費やす。式のみが現存。『日用』

円融天皇 (えんゆうてんのう)
959−991、村上天皇【→】の第五皇子、母は藤原師輔の女安子。諱は守平。天徳三年(959)同母兄冷泉天皇【→】の皇太弟となり、安和二年(969)九月即位。永観二年(984)皇太子師貞親王【→花山天皇】に譲位、正暦二年(991)二月三十三歳で崩じた。その在位中は安和の変【→】により藤原氏の権力が増大した時期であったが、譲位後も院司を駆使して花山、一条の政治に口入した。この権威は藤原兼家【→】をも憚らしめたが、院の死により、道隆・道長の摂関善政期へと移行していった。御陵は後村上陵、京都市右京区宇多野福王子町。村上天皇陵の傍に火葬後の御骨を納める。

往生要集 (おうじょうようしゅう)
985、恵心僧都源信【→】著。念仏による極楽往生の方法を示す。末法思想の中で生まれた厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)の言葉は有名

近江 (おうみ)
今の滋賀県。

陰陽頭 (おんみょうのかみ)
陰陽寮の筆頭で従五位下に相当する。陰陽寮は律令時代、中務省に属し天文密奏・造暦・報・卜占などを扱った。安部晴明等の陰陽師は基本的にこの陰陽寮に所属しているが、蘆屋道万のように、出雲地方などの地域に根付いた独自の陰陽道を操る陰陽師もいた。晴明の最終官職は陰陽博士で官位制度によると正七位下だが、異例の従四位下にまでのぼっている。

カ行

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雅楽寮 (ががくりょう)
古代宮廷音楽を掌る官司、頭一人以下官人及び歌師・歌女・舞生・楽士・楽生・楽戸がいた。楽人の統制管理、祭祀節会やその他の諸儀式に際しての唐楽・高麗楽・百済楽・新羅楽・伎楽などの外来の株音楽および日本古来の舞曲演奏、またこれらに関する楽生の教育を掌る役所。康保二年(965)に火災にあう。治部省に属す。

花山天皇 (かざんてんのう)
968−1008、冷泉天皇【→】の第一皇子、母は藤原伊尹の女懐子。諱は師貞。安和元年誕生し翌年八月に立太子、永観二年十月に十七歳で即位。しかし寵愛する女御の死により心を痛めた天皇は寛和二年(986)に密かに内裏を脱出し、花山寺において出家する。その治世わずか一年十カ月であった。しかしこの突然の出家劇は右大臣藤原兼家【→】の陰謀によるものである。晩年兼家の息子である道長【→】に敬重され、寛弘五年に四十一年の生涯を閉じた。家集『花山院御集』があったが伝わっていない。しかし天皇の作品として約百二十首が伝わっている。

和子皇女 (かずここうじょ)
?ー?、父は光孝天皇【→】。醍醐天皇【→】の女御。常明親王、式明親王、有明親王などの母。あすかの小説「風花」に登場する斎子内親王もこの人の娘。正三位、885年賜姓。『群類』「本朝皇胤紹運録」・『改史籍』「一代要記丙集」

克明親王 (かつあきらしんのう・よしあきらしんのう):兵部卿宮
903−926、醍醐天皇【→】の第一皇子、母は左京大夫源旧鑒【→】の女更衣封子。最初は将順と称した。同年女御藤原穏子が宗方(保明)親王を産んだ為、第一皇子ながら皇太子となることはなかった。延喜四年十一月、二才の時に親王となり、同十年正月内宴に列して帯剣を聴され、同十一年に名を改め克明となる。同十六年十四才で清涼殿に於いて元服し、三品に叙せられる。弾正尹を経て延長五年四月兵部卿となる。同年九月二十四日没。親王は諸宴に列する毎によく琴を弾き絃歌を奏したという。(さすが博雅さんのお父様(^-^)v)『人名』

鴨川 (かもがわ)
平安京の東の境界線の意味を持つ。洛中と呼ばれるのは鴨川の西側で、東側は洛外、京とはみなされなかった。また人々の生活に密着した川でもある。しばしば氾濫を起こし、疫病蔓延の原因ともなったが、それ以上に神聖な川として敬われていたのである。源流には水の神としての貴船神社が祀られ、鴨川の水で産湯を使うと美人になるという伝承もある。伊勢斎宮も賀茂斎院もまずこの川で禊を行ってから務めに入った。だが、一方葬送の地ともされていた。有名な鳥辺野や蓮台野、化野が葬送地とされる以前から、鴨川の河川敷は遺体が置かれ、焼かれていたのである。そして時代が下るに連れ、処刑の場ともなっていった。また木材の運搬路としても利用された。このように人々の生活には欠かすことの出来ない川なのである。『平風』『平くらし』

賀茂忠行 (かものただゆき)
生没年不詳、平安時代中期の陰陽家。父は江人。子に保憲、慶滋、保胤らがいる。940年頃近江掾、また『尊卑分脈』にによると丹波権介とみえる。従五位下。承平・天慶の乱の時に白衣観音法を行うよう奏上した。『今昔物語』によると当時肩を並ぶ者なし、とされ、陰陽家としての彼の功験を示す説話をいくつか残している。子の保憲の才能に感嘆した忠行は、陰陽家としての奥義を余すところなく授けたという。

賀茂保憲 (かものやすのり)
917−977、平安時代中期の陰陽家。忠行の子。十才の頃鬼神を目撃したことにより、父からその技を伝授されその世界での第一人者となる。暦生・暦博士・陰陽頭・天文博士・主計頭・穀倉院別当などを歴任、最終官位は従四位下。天文・暦道を掌り、暦道を子の光栄に、天文道を安倍晴明【→登場人物紹介】に伝えた。当代の陰陽師の規範となすべきもの、ともいわれており、『暦林』『保憲抄』などの著述もある。

寛平御遺戒 (かんぴょうのごゆかい)
897、宇多天皇【→】が醍醐天皇【→】へ譲位するにあたり心得とすべき事を書き贈ったもの。宮中府中・内外の政務に関する注意や天皇日常の動作・学問についての訓戒の他、具体的な人物(藤原時平【→】・菅原道長【→】等)の登用についても意見が述べられてある。全文は解らず逸文が残る。

祇園御霊会 (ぎおんごりょうえ):祇園祭り
素戔嗚尊を疫神として祀る京都祇園の八坂神社の例祭。日本三大祭りの一つ。869年に執り行ったのが最初で、現在のような形になったのは室町時代以降のこと。平安時代の京は疫病の被害が度々おこり、人々の生活を脅かした。この疫病が流罪になった人物の恨みによる祟りだと恐れられ、彼らを御霊として神化させ祀ったことが御霊会の始まりである。863年5月に神仙苑で最初の御霊会が開かれた。その人物とは早良親王・伊予親王・藤原吉子などである。彼らを祀った上・下御霊神社とは異なり、八坂神社を初めとして素戔嗚尊を祀る神社も御霊会を行う。この場合は天照大神を困らせたほどの乱暴者なら猛威を振るう疫病退治にも力を発揮するであろうという発想から御霊として祀りを行ったのである。また今宮神社のように、花の散る季節、梅雨どきに疫病が流行ることから花の精の仕業と考えこれを祀った神社もある。『平風』

紀貫之 (きのつらゆき)
(868頃?)ー945、平安時代の歌人・「土佐日記」作者、三十
六歌仙の一人。竹内宿禰の18世の孫ともいわれる。早くからの歌才は特筆するものがあり、宮中で行われた歌合わせに二十代の若さで列していた。宿願であった五位(従五位下)に任ぜられたのは晩年であったが、歌で後世まで名を残すことが出来た。勅撰集への入集歌は452首にのぼる。

紀友則 (きのとものり)
?ー?三十六歌仙の一人。貫之の従兄、古今集撰者の一人。古今集撰者中では官位年令とも最も上であり、入集歌も貫之凡河内躬恒につぐ三位で四十六首である。歌風は貫之ほど技巧的ではないが、屈折感が少ないので、声調に流麗さと強さが残る。

口遊 (くちずさみ)
790、平安貴族の源為憲が、藤原為光の子のために作ったとされる初歩教科書。貴族の子弟に要用の諸教材を口に唱えて憶えやすい形に編集し、十九門に分類して収録してある。現在も使われている「九々」も含まれている。この頃すでに「九九」という呼び名が成立していたが、現在のように1×1=1から増えるるのではなく9×9=81から減っていくものであった。ちなみに以下の物が何を表しているか解るだろうか。
  今案、誦曰、二(四)為角、左三右七六八為足、九頭、五身一尾
誰でも一度はやったことのある遊びである。平安時代の高度な数学知識には驚かされる。
(もしお解りになった方がいらしたらご一報を(^-^)v)

蔵人頭 (くろうどのとう)
810.3.10創置。蔵人は平安時代における有力な令外官(識事)で青色の衣を着用したことから青色ともいわれる。天皇に近侍し殿上日常一切のことを支配し、上奏下達も掌握するようになり、次第に重職となっていった。それらの長官が蔵人頭である。頭は創置時から二人で一人は弁官、一人は近衛府の官人が選ばれたので、頭弁・頭中将と称するようになった。殿上における権威は極めて高く、ここから参議に昇任されるのが常道となっていった。

蹴鞠 (けまり):しゅうぎく
革製の鞠を墜落させずに、一定の高さを保持して蹴り上げることを繰り返して、その回数によって優劣を競う競技。元々は貴人官人に愛好された唐様の運動で、その員数や場所・動作に複雑な規定はなかったが、摂関記以来殿舎や装束・調度の和様化にともなって施設や技術の上にも一定の形式を生じた。

乾元大宝 (けんげんたいほう)
皇朝十二銭の一つ。708年我が国最初の銭貨「和同開珎」から始まって「万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝」そして最後がこの「乾元大宝」となる。958年に鋳造された。『日用』

源信 (げんしん):恵心僧都、横川(よかわ)僧都
942−1017、父は卜部正親。平安時代中期の天台宗の僧侶。九歳で比叡山に登り良源に師事して顕密二教を究めた。師に似て論議に優れ学匠としての名声を高めたが、貴族化の始まった叡山の教団に批判的で、名利を捨てて横川に隠棲した。多くの著述を記し、次第に浄土教に傾いて『往生要集』【→】3巻を完成させた。別称は横川の恵心院に住したことに由来する。

光孝天皇 (こうこうてんのう):小松天皇
830−887、仁明天皇第三皇子、母は贈太政大臣藤原総継女贈皇太后沢子。諱は時康。陽成天皇のあとを受け884年即位。その際藤原基経の影響が大きかったため、天皇は徳として全ての政を基経諮稟して奏上させた。これが所謂関白の実質的な最初となった。初め天皇は皇太子をおかなかったが、重病に陥ったときに基経が天皇の意を察し第七皇子である源定省(宇多天皇)を親王に復し皇太子とした。異名はその墓所(小松山陵)による。

皇太后宮権大夫 (こうたいごうぐうごんのたいふ)
皇太后に奉事した令外の官である皇太后宮職の官司。皇后、太皇太后にも同様のの職が附属する。大夫は啓令を吐納する。光明子の時に皇太后宮職と呼ばず、紫微中台(しびちゅうだい)となったが、これはこの一代限りで廃止された。

興福寺 (こうふくじ)
奈良市にある法相宗大本山、南都七大寺(五大寺{大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺}と某寺2寺[書物、時代によって異なる])の一つ。寺伝によると669年藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍を山階の邸に設けた(山階寺)のに始まる。その後藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)し、710年の平城京遷都により現地に移転された。幾たびの火災にあい、その都度再建を繰り返してきたが、現存するのはその一部である。平安時代には門徒が僧兵化し、白河院をも悩ませた。南都北嶺といったとき、比叡山延暦寺を北嶺とし、対して興福寺を南都と称した。

五月五日節会 (ごがついつかせちえ):端午、端五
五が陽数に当たり、三月三日(重三{チョウサン})、九月九日(重陽{チョウヨウ})などと同様、陽数が重なるためめでたい日とされ重五(ちょうご)とも称した。平安時代の宮廷では、5月3日に六衛府から献した菖蒲・蓬を4日に主殿寮(とのもりょう)が所々の殿舎の軒に葺き、5日には糸所から菖蒲鬘(あやめかずら)を献り、天皇はじめ群臣がこれをつけて五日節会に挑んだ。またこの日典薬寮から菖蒲の御案(つくえ)を献り、群臣に薬玉を給わった。今では男の子の節句とする考えが一般的であるが、女の家、女の宿などと称する地方は広くあり、嫁の里帰りの日とつたえる所もあるなど女に関する日とされた地方も少なくない。『民俗』

弘徽殿 (こきでん):こうきでん・こぎでん
平安宮内裏後宮のの一殿で、常寧殿の西南にあり、東方の麗景殿と相対する。朱雀天皇は清涼殿の改造中は弘徽殿に在した。当殿には皇后・中宮・女御の曹司があり、代々母后の御所とされた。

古今和歌集 (こきんわかしゅう):古今集
905.4、我が国最初の勅撰和歌集。醍醐天皇の【→】勅命により紀貫之、紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人の撰者によって編集・奏上された。全20巻。かなと寛文で書かれた二つの序文があり、かな序は紀貫之、真名(漢文)序は紀淑望の作といわれる。八代集〔他に後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集〕の一つ。   

後撰和歌集 (ごせんわかしゅう)
955頃。平安時代の二番目の勅撰和歌集。「梨壷の五人」と世にいわれる讃岐権掾大中臣能宣・河内権少掾清原元輔・学生源順・近江少掾紀時文・御書所預坂上望城が撰者。村上天皇【→】の命により昭陽舎(梨壷)に撰和歌所がおかれ、その職務の一つが後撰和歌集の編纂であった。八代集の一つ。

サ行

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斎宮 (さいぐう):いつきのみや
一般には職名の伊勢斎王を指すが、本来はその居所(斎王宮)の名称である。天武天皇朝以降に制度的に整備された。『延喜式』【→】によれば「伊勢神宮斎王」は天皇即位の初めに未婚の内親王(もしくは女王)の中から卜定され、まず宮城内の便所(雅楽寮、大膳職など)の初斎院で約一年間、ついで宮城外の浄野(平安時代初頭以降は嵯峨野)に造られた野宮で約一年間、おのおの潔斎につとめた。卜定後三年目の9月、天皇に別れを告げ、伊勢へ群行した。任を解かれるのは原則として当代天皇の譲位か崩御によるが、父母の死去や本人の過失などでも退任せねばならなかった。最年少で卜定されたのはわずか二才、斎子内親王のように伊勢へ群行しなかったのは、後醍醐天皇朝に廃絶するまでの六十数名中12人だった。嵯峨野の野宮は斎宮ごとに造られ、取り壊されており、現在の野々宮神社も近年までその痕跡が残っていたと言うが、どの時代の野宮かは定かではない。『平風』

斎子内親王 (さいこないしんのう):斎王
922−936、醍醐天皇【→】十五皇女、母は孝光源氏女御和子【→】。923年立内親王、936年斎王。宮城内の便所にて潔斎中没。『群類』「本朝皇胤紹運録」・『改史籍』「一代要記」

左京 (さきょう):東京
京のうち朱雀大路以東を指す。北から順に一条ないし九条にわけ、各条を朱雀大路に近い方から一〜四坊の四坊に分け、各坊に縦横各三小路を通して十六の坪(町)とした。

三条天皇 (さんじょうてんのう)
976−1017、冷泉天皇の第二皇子、母は藤原兼家の女超子。諱は居貞。寛弘八年(1011)三十六歳で一条天皇【→】後を受けて即位。在位は五年で長和五年に敦成親王(後一条天皇)に譲位。北山陵は三条天皇の墓所である。

治部卿 (じぶきょう)
令制八官の一つ治部省の長官。官位としては正四位下にあたる。治部省は祥瑞・喪葬・贈賻・国忌・諱、諸蕃の朝聘、僧尼のことなどを職掌するほか、姓氏・系譜や官人の継嗣・婚姻なども掌した。雅楽・玄蕃二寮と諸陵・喪儀二司を管隷する。808年に全廃された。

将順親王 (しょうじゅんしんのう?)
→克明親王

承平・天慶の乱 (じょうへい・てんぎょうのらん)
平安時代の承平・天慶年間(931−947)に関東・瀬戸内海でおこった平将門・藤原純友の反乱の総称。

将門の乱…父は桓武天皇の曾孫で平姓を賜って上総国に下向した高望王の子である平良持(良将とも)。父の遺領を相続し、伯父の国香・良兼・良正と対峙していたが、良兼との紛争をきっかけに935年に国香を殺した。これが乱の発端となり、当初は一族の内紛の形でしかなかったが、次第にその域を離れ国衙、ひいては国家に対する反乱へと発展していった。将門は自らを「親皇」と称して王城を下総国に建て、諸国の国司を任じ、左右大臣以下の官を置くことを決めた。この将門反乱の報を受けた朝廷が940年征討に乗り出すとともに捕らえた者報償を約し、土豪らの奮起を計った。これにより下野国押領使の藤原秀郷が将門追討を決して急襲、下総国猿島郡にてこれを討ち取った。
純友の乱…父は北家長良の孫良範。純友は伊予掾として赴任したまま土着し、海賊となって各地で掠奪を行っていた。936年に一時その活動は静まったが、将門の反乱に呼応するように再び活動を始め、摂津国で藤原子高を襲撃した。朝廷は純友に従五位下の官位を与えて懐柔しようとしたが、海賊の活動は止むことなく、被害がつぎつぎに拡大した。しかし将門の乱が平圧され東国への憂いがなくなると、朝廷は本格的に純友征討に乗り出した。941年本拠地を攻撃すると純友は大敗して海上に逃れ、更に博多津の決戦で死傷者数百人を出す大敗を喫すると小舟で伊予に逃れた。そこを警護使橘遠保に討たれ、残党も悉くが捕殺されて漸く乱は鎮圧された。

二つの乱は古代末期における京都の貴族政権に対する反乱の先駆けをなすものであり、画期的な意味をもつ。これにより在地の土豪らは武力による奉仕、武士としての地歩を固め、源頼朝による武家政権を関東に成立せしめる母胎となった。また、乱が人々に与えた不安・動揺を背景に志多羅神信仰や、空也の念仏などが広まっていった。 

新羅 (しらぎ):しんら、しら
356−935、朝鮮古代の国名。都は慶州(大韓民国慶尚北道)。

新撰楽譜 (しんせんがくふ):博雅笛譜、長秋卿笛譜、長秋卿竹譜、長秋譜
966、村上天皇の勅命により、貞保親王の『新撰横笛譜』ほかの古譜を参照しつつ撰進。伝存本には2系統があるがどちらも完本ではなく全容は不明。案譜法ならびに長文の跋文が貴重。

菅原文時 (すがわらのふみとき):菅三品
899−981、父は菅原高視母は菅原宗岳の女、道真の孫。儒者。意見封事三箇条を著す。学者として優秀で弟子も多かったが、書にも優れており、『江談抄』にみられるエピソードや『仁和寺御室御物実録』にみられる自署からも明かである。

菅原道真 (すがわらのみちざね)
845−903、父は菅原是善、母は伴氏。奈良時代から続く学者の家に生まれる。862年文章生となり、877年には34歳で式部少・文章博士となった。この昇進に快く思わない者も多く、また父がなくなり学会の一大勢力である私塾「菅家廊下」を背負うようになるとますますそれは激しくなった。886年には上記に任をはなれ讃岐守として地方へ転出させられた。しかし890年任期を終え帰京するとめざましい出世をみせた。895年には父祖にもなかった中納言への昇進を果たし、天皇より東宮の教育に期待を寄せられて東宮権大夫を兼任した。899年右大臣にまで昇ったが藤原時平【→】らの企てにより太宰権帥に左遷された。4人の息子までもそれぞれ諸国に左遷され、道真は失意の内に太宰府にて病魔に犯され、903年没した。その後策謀の人物だる時平の関係者に不幸が続いたため道真の呪いによるものとされ、その霊を篤く慰めるために正一位太政大臣が贈られた。また天満天神として崇敬され、北野天満宮に篤く祀られた。

朱雀天皇 (すざくてんのう)
923−952、醍醐天皇【→】の第十一皇子、母は藤原基経の女皇后穏子。諱は寛明。醍醐天皇の最初の皇太子保明親王【→】の同母弟。三歳で皇太子となり8歳で即位。在位中は藤原忠平が摂政・関白として執政する。病弱で皇子も生まれなかったため同母弟の成明親王(村上)【→】を皇太弟とした。在世中天災や疫病がしばしば起こったり、承平・天慶の乱【→】が起きるなど治安が乱れた。陵墓は醍醐陵(下ノ御陵)。

清少納言 (せいしょうなごん)
生没年不詳。父は「梨壷の五人」と称された清原元輔。曾祖父等も古今集時代の有力歌人の家に生まれる。初め橘則光に嫁し子も為すがのち離別、992年に定子に仕える。後宮では数多の文人とその文才を競うが、それを支えた道隆が没し、道長に移ると、後宮の中心もその娘彰子に移る。その後は不遇な世界に身を置き、定子も没すると前途には重大な影がさしていった。則光との離別の後に摂津守藤原棟世と再婚したが、その晩年については明かではない。

清涼殿 (せいりょうでん):せいろうでん、せいようでん
平安宮内裏紫宸殿の西北にあり、十世紀ころからは天皇常住の建物となる。西冷殿・西冷殿・中殿・内殿・本殿・御殿・路寝・後寝とも記された。『類聚国史』32天皇遊宴の813年9月の条に見られるのが清涼殿の初見である。幾多の火災にみまわれ、そのたびに再建されてきたが、1227年の火災以後は再興されなかった。

清和天皇 (せいわてんのう):水尾帝
850−880、文徳天皇の第四皇子、母は藤原良房の女明子。諱は惟仁。兄惟喬親王をこえて生後まもなく立太子し、858年に僅か九歳で即位した。盛時は外祖父で太政大臣の良房に委ね、それは元服後もかわらなかった。864年の応天門の変で初めて勅命を下し、良房の死後は養子の基経の補佐により自から政治を行った。学問を好み、鷹狩りなどは好まなかったといわれる。881年皇太子貞明親王に譲位、880年崩御。享年31歳。異名は葬送地に依る。

タ行

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醍醐天皇 (だいごてんのう)
885−930。宇多天皇の第一皇子、母は藤原高藤の女贈皇太后胤子。諱は維城。897年13歳で元服、即位。宇多上皇の意である「寛平御遺戒」を承けて親政を続けるが、菅原道真は讒言により太宰府に左遷、左大臣藤原時平一人が補佐し、その政権を握った。上皇は天皇の朝を通じて健在で国政上しばしば指示を出した。天皇は班田の励行、新規勅旨田開発の禁止、など律令制の意地を計り、『意見封事十二箇条』【→】などをもって広く政への批判を聞いた。その善政は子の村上天皇の世と列び「延喜・天暦の治」と称されている。930年、清涼殿に落雷があり多数の死傷者が出る事件が起こり、憔悴した天皇は寛明親王に譲位、同年崩御した。陵墓は醍醐陵(上ノ御陵)

内裏歌合 (だいりうたあわせ)
和歌を左右に分けて一首ずつ組み合わせ、優劣を争う文学的行事。陽成・孝光朝に盛んであった相撲節会に刺激されてその競技形式を和歌の上に適用し成立したものと思われる。その歴史は長いが、文献上記録された最初のものは885年である。成立時には和歌再興の手段として奨励されていたがその形式が整ってくると遊宴てきな意義が強くなり、和歌の作者たる歌人の地位は低くて方人(競技者)の蔭にかくれていた判詞に見られる歌論も競技としての座興を添える程度に過ぎず、書道・記が・彫刻・漆工・彫金・染織・抄紙・音楽・伎芸など、あらゆる芸術の総合的な発表の場としての晴儀遊宴の歌合が中核をなしていた。それから千年以上もの歴史があるがその間に歌合の本質も意義もなんども変転していった。

太宰権帥 (だざいごんのそつ)
太宰帥(正帥)に対して、一つには員外帥の性格をつぎ左遷の目的で任命され、他方では親王帥の創設によって、府務をとる最高責任者として臣下が任命された。前者では810年の安保親王が初見。菅原道真【→】・源高明【→】ら5名を数え員外帥の故障と混用されることが多い。後者は837年の藤原常嗣が初見であるが、遣唐大使の功績によるので実権を持つ者としては873年の在原行平が最初と考えてよいであろう。1120年頃を最後に一切赴任されることはなくなった。

太宰府(だざいふ):於保美古止毛知乃司
律令制下、筑前国にあって、対外的には軍事と外交、内政上は西海道の九国三島を総監する事を任務とした特殊な地方官庁。その起源は定かではないが、崇峻5年に「筑紫将軍所」の文字がみられることから、この時代には既にこの地に外交・軍事を司る施設が置かれていたことは疑いない。「太宰府」の号そのものは671年の「筑紫太宰府」が初見となる。その場所は現在の福岡県太宰府市で、福岡平野から南東へ延び、筑紫平野に至る御笠川構造谷の中央部に開けた低地を府域とした。

殿上賭射(てんじょうとしゃ)
殿上侍臣によって臨時的に行われた賭射。通常の賭射撃では前後に分けられて競い合い、その勝負の結果により、勝方の奏舞いが行われたが、殿上賭射の場合にはその勝負如何によらず殿上童(小舎人)により舞楽が舞われた。その内容は他の勝負舞と同様に「龍王(陵王)」と「納蘇利」であった。奏者は基本的に近衛府官人によるものであったが、時には管弦に優れた諸司官人や楽所人によることもあったらしい。

東大寺 (とうだいじ):大華厳寺、金光明四天王護国寺、総国分寺
奈良市にある華厳宗総本山。南都七大寺【→興福寺】の一つ。寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の747年の条が初見であるが、同文書では時に東寺の称号も使用している。聖武天皇の発願により743年「金銅廬遮那大仏造立の詔」が発せられ、752年大仏開眼供養が行われた。たび重なる火災により当時の堂宇はほとんどが焼失し、現在の大仏殿も江戸時代の再興によるものである。だが経済的、物理的問題により旧態への復興は難しく、十一間−七間のものが七間−七間のものへと縮小を余儀なくされた。

平将門 (たいらのまさかど)
→承平・天慶の乱

天台座主 (てんだいざす):山の座主
天台宗比叡山延暦寺管主の公称。座主とは一座の上首のこと。中国唐代にはすでに使われていたが、日本では最澄・弟子の義真・円澄の三代までは私称であった。しかし954年太政官符をもって補せられてからは公称となった。その後1871年まで続けられたが廃止され、1884年になると私称として使われるようになった。

東寺 (とうじ):教王護国寺(きょうおうごこくじ)
京都市南区九条町。794年の平安遷都の直後、羅城門の左に東寺・右に西寺が創立された。堂宇には幾多の変遷が見られるが、位置は現在まで変わっていない。着工の時期は定かではないが、遷都直後の造立は財政を圧迫し、長い期間をおいて各堂宇が造立された。823年の空海へ勅賜された後に着手されたのは講堂と五重塔であるが実際在世中に竣工したのは講堂のみであった。その後平安末期に一時衰退をみたが、源頼朝が復興に着手し、後白河天皇の皇女宣陽門院が帰依したことにより面目を一新した。この時期空海の木造を作り御影堂を建てたことによりそれまでの手法研鑚の場としての意味合いをもっていた東寺が弘法大師信仰の聖地となった。教王護国寺の名は最初からのものではなく後世つけられたものでありその時期は不明である。

土佐日記 (とさにっき):土左日記
935頃。和文日記、作者は紀貫之【→】。一巻。貫之の土佐守在任期間終了後、帰京するのが935年春なのでこの頃の成立と思われる。成立年代の確かな和文叙事作品としては最古のもの。文芸作品たらしめようとの意図から女性による作品であるかのように記述されており、文芸的、国語学的に価値の高い貴重な作品である。

ナ行

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内宴 (ないえん)
正月二十一日、宮中の仁寿殿に於いて内々に催された節会。『公事根源』に「二十一日、二十二日、二十三日の程、子の日にあたらば其日おこなはれて、一二献の後、親王公卿に、若菜のあつものを給ふ」とあるが、21日に固定するのは仁明朝になってからである。元来は恒例年中行事以外の臨時的宴会を意味した。民間でいう二十日正月に通ずる正月採集儀礼としての行事的性格がみられる。内宴は天皇の常の御所であった仁寿殿において、三献の賜酒ののち文人の賦詩および披講が催され、内教坊舞妓による女楽奏が行われた。

成明親王 (なるあきらしんのう・なりあきらしんのう)
→村上天皇

憲平親王 (のりひらしんのう)
→冷泉天皇

ハ行

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封事 (ふうじ):意見封事
古代において天皇が諸臣に対して政治にたいする意見や、社会の実状の訴え、その救済などの意見を奏上させること。まず天皇が意見を求める詔を下し、諸臣が意見を密封した封書によって上奏したので、意見封事といった。平安時代中期以降は名目的な行事化となる。

寛明親王(ひろあきらしんのう)
→朱雀天皇

藤原敦忠 (ふじわらのあつただ):枇杷中納言、土御門、本院
906−943。左大臣藤原時平【→】の三男、母は本康親王の女簾子とも、在原棟梁」の女ともいう。921年従五位下、以後諸官を経て939年参議、942年に権中納言従三位に至り、翌年没。三十六歌仙の一人。和歌、管弦の道にすぐれ、醍醐・朱雀朝に活躍した。百人一首に「あひ見ての 後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」の歌が採られている。歌集に『敦忠集』がある。この人の没後、源博雅【→登場人物紹介】が管弦の場で重用されるようになる。

藤原兼家 (ふじわらのかねいえ):大入道殿
929−990。右大臣藤原師輔の三男、母は武蔵守藤原経邦の女盛子。子女に道隆・道兼・道長【→】・超子・詮子・道綱などがいる。948年従五位下、参議を経ず968年には兄兼通を超越して従三位972年には大納言と、兄に先んじて昇進した。しかし同年摂政太政大臣伊尹が病気のため辞表を提出、十一月に没すると兼通は大納言を経ずに内大臣となり、政治の実権を握った。この後兼家は右近衛対象から治部卿に左遷されたが978年には右大臣となった。また花山天皇【→】の出家・退位に陰謀を巡らせ政治の実権を握ることに成功すると子供達も相次いで公卿となり一大勢力を確立させていった。その人となりや兄兼通との確執、花山天皇の出家などは『栄華物語』に叙述されている。

藤原忠平 (ふじわらのただひら):貞信公
880−949。藤原基経の四男、母は人康親王女。900年参議となったがすぐに叔父清経に譲った。908年再び参議となり、909年に兄時平【→】が没すると兄仲平を超えて権中納言、氏長者となった。その背景には宇多法皇【→】や妹の穏子の後援が大きかったらしい。924年左大臣となり930年に朱雀天皇が即位すると摂政となる。その後太政大臣や関白もつとめた。承平・天慶の乱【→】が起こるなどして中央政府の衰退が見られた時代であったが、一方で摂関政治の形式が定着した時代でもあった。貴族政治の基盤ともいえる宮廷儀礼が彼により集成され、実頼(小野宮流)・師輔(九条流)およびその子孫に継承された。

藤原時平 (ふじわらのときひら):本院大臣
971−909。藤原基経の長男、母は人康親王の女。886年光孝天皇自身の加冠で元服し同時の蔭位制を超えて正五位下を授けられた。このような殊遇はこれが初例だという。890年父病没により従三位となる。897年大納言・左大将に昇り政権の首座につくと共に氏長者となる。醍醐天皇【→】即位に際し正三位となり899年には菅原道真【→】とともに左右大臣となるが、画策により道真を太宰府に左遷させた。これにより悪人視されるが、政治家としての資質に優れ、醍醐天皇を良く補佐していわゆる「延喜の治」を推進した。また性格も豪放磊落だったと伝える。39歳の若さで没した後太政大臣・正一位を贈られる。その男子は顕忠が右大臣に昇ったが、保忠・敦忠【→】は納言で没し、女子が嫁した保明親王【→】は早世、ついで所生の慶頼親王も夭折と不幸が続き、道長の祟りによるものと言われた。

藤原道長 (ふじわらのみちなが):御堂関白、法成寺関白
966−1027。藤原兼家【→】の三男、母は藤原仲正の女時姫。980年従五位下、諸職を歴任し991年権大納言となる。995年に長兄の関白道隆が病死した後、次兄道兼が関白となったがまもなく没しその後をうけて右大臣、氏長者となった。道隆の子ら中関白家との軋轢があったが女彰子が一条天皇【→】に入内しのちの後一条天皇を生むと外戚としての地歩を固めた。道長は右大臣源雅信【→登場人物紹介】の女倫子と結婚するが、雅信は当初この結婚に賛成ではなかったが、母の穆子の力によりまとまったという。2人の間に生まれた女は一条・三条・後一条の后、後朱雀の妃となっている。男頼宗には源博雅【→登場人物紹介】の男至光が郢曲を伝授した。安倍晴明【→登場人物紹介】との関わりも深く、逸話も多数のこっている。異名に反し関白には就任していない。

富士山 (ふじさん)
山梨・静岡県境にそびえるコニーデ状の休火山。標高3776メートル。最新測量法により、数メートル高くなった(その数字は不明)。万葉の時代から神が住まう山として崇められ、『常陸国風土記』や『竹取物語』・『富士山記』など数多くの書にも記録されている。その記録の中に噴火活動に触れる記述も多く見られるが、864年には大量の溶岩が流出し、「せのうみ」を分断した記録が残り、このときに富士五湖が出来たとされる。数々の噴火活動の後、宝永四年(1707)の大噴火以後はその活動を休止している。1149年になって山頂に大日寺が建てられたのを契機に修験道の霊山として発展するようになった他、源頼朝が富士大巻狩を行ったり、足利義教が富士遊覧と称して大挙して駿河に赴いたり、近世になって富士講が盛んになって民衆の富士登山が増えたりと人々に親しまれ続けてきた。

藤原純友 (ふじわらのすみとも)
→承平・天慶の乱

風土記 (ふどき)
713年に各地に向けて風土記言上の詔勅がだされ、編纂された書。現伝するのは常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国だけで、うち完本は出雲のみである。

マ行

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枕草子 (まくらのそうし):まくらそうし
1001.1〜8頃?、清少納言筆。現在伝わるものは三巻本・能因本・堺本・前田家本の四種があるが様々な検討により三巻本がより原型に近いものとされている。3巻に分冊されていたためこの名があるが、本来は2巻に分冊されていたものらしい。その内容は「・・は」「・・・もの」というものを列挙した類聚章段・作者の仕えた一条天皇の中宮定子の動静を中心とした記録である日記的章段・感想文的名性格の随想章段の三段に分類される。最後の随想章段は文学的に高く評価され、『徒然草』の成立にも大きな影響を与えた。その意味もあり、この作品は随筆文学として処理されるようになる。『枕草子』清少納言の繊細な観察と鋭い感性により生き生きと記録されており、定子の後宮の様子を伝える記録としては希有なものといえる。もともとは「枕草子」は固有名詞ではなく、分厚い草子(綴じ本)をさす普通名詞であったらしい。

源旧鑒 (みなもとのもとみ)
?−908、光孝天皇皇子、母は従五位下大判事讃岐永直女。870年2月14日賜姓、884年11月25日父天皇の即位後時服月俸に与り無位から従四位上に叙せられる。886年1月16日備前守。左京大夫正四位下、大蔵卿。娘封子は醍醐天皇の更衣となり克明親王らを生んだ。『系纂』『古代氏族』

源高明 (みなもとのたかあきら):西宮殿、西宮左大臣
914−982、醍醐天皇の第十皇子、母は右大弁源唱の女更衣周子。7歳で源姓を賜り臣籍降下した。929年元服、翌年鷲従四位上に叙位されて後わざうか10年で参議に至る。966年には右大臣、翌年には左大臣にまでいたったが、969年の安和の変【→】に連座して太宰権帥に左降された。後筑紫に配流され972年漸く許され帰京した。帰京後は正解に復帰することもなく982年に没した。死後従一位を追贈された。著書『西宮記』は有職故実書の典籍として重んじられた。政治、学問の才だけでなく琵琶の名手としても知られていた。

源為憲 (みなもとのためのり)
?ー1011、光孝源氏、筑前守忠幹の子。文章生の出身で、学生の頃から源順に師事した。各地の守を歴任した良吏であった。970年に藤原為光の息誠信の為に『口遊』【→】を作ったほか、984年に尊子内親王に『三宝絵詞』を、1007年に藤原道長の息頼通に『世俗諺文』をつくるなど、権門子女の教養書を幾つも作った。

源博雅 (みなもとのひろまさ)
→登場人物紹介参照

源雅信 (みなもとのまさのぶ)
→登場人物紹介

三善清行 (みよしきよゆき):善相公、三耀、居逸
847−918、平安時代前期の文人官吏、十七歳で大学に入り、三十七歳で方略試に合格、官途についた。次第に文人としての頭角を現し始め、備中介として民政に尽力した経験なども踏まえて、醍醐天皇【→】の詔命に応じて『意見十二箇条』を封進した。五十五歳で文章博士兼大学頭に任じられた前後にめざましい文筆活動を行っている。菅原道真失脚事件の時には、辞職勧告を出してそれを加速させた。晩年には三善氏としては破格の参議兼宮内卿に栄進した。

宗象親王 (むなかたしんのう)
→保明親王

村上天皇 (むらかみてんのう)
926−967、醍醐天皇【→】第14皇子、母は藤原基経女穏子。諱は成明。十五歳で元服し、三品で上野太守・太宰帥に任ず。944年立太子、946年に即位。関白藤原忠平没後は左右大臣の実頼・師輔兄弟の補弼をうけ、菅原文時らの意見を徴するあどして政務をとった。多くの公事が整えられ、倹約と諸芸文筆が奨励された治世はのちに醍醐天皇の治世とともに延喜・天暦の聖代と称された。歌集『村上天皇御集』の他『村上天皇宸記』『清涼記』などの逸文も残る。御陵は村上陵。

守平親王 (もりひらしんのう)
→円融天皇 

師貞親王 (もろさだしんのう)
→花山天皇

文徳天皇 (もんとくてんのう):田邑帝
827−858、仁明天皇の第一皇子、母は藤原冬嗣女順子。諱は道康。842年承和の変で前皇太子恒貞親王にかわり立太子、850年4月即位。第四皇子惟仁親王(清和天皇)が皇太子に立つと、その外戚として藤原良房が政治を主導し、人臣初の太政大臣となった。858年8月、突然の発病により崩御。異名はその陵墓の地に由来する。

ヤ行

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保明親王 (やすあきらしんのう):文献彦太子
903−923、醍醐天皇の第二皇子、母は藤原基経の女中宮穏子。兄の克明親王を越え904年に立太子。諱は宗象。十四歳で紫宸殿にて元服したが、923年3月21歳で病没。その死去について『日本紀略』は「挙世云、菅帥霊魂宿忿所為也」と伝える。法性寺後山に葬られ、文献彦太子と謚された。

陽成天皇 (ようぜいてんのう)
868−949、清和天皇第一皇子、母は藤原長良の女女御高子。諱は貞明。876年、清和天皇の譲位をうけ、わずか九歳で即位、母の兄の藤原基経が摂政となった。882年十五歳で元服したが、884年遜位して太政天皇の尊号が贈られた。それに伴って仁明天皇の皇子時康親王が光孝天皇【→】として即位した。この遜位をめぐって病弱説や暴君説が唱えられているが、現在では後者の説が一般的となっている。

ラ行

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羅城門 (らじょうもん):らいせいもん、らせいもん
朱雀大路の南端に建てられた京城の南正門、俗称としてらいしょう(頼庄)門(『延喜式』【→】)、らしょう門(『拾芥抄』)と呼ばれていたらしいが、中世に至って「らしょう」は一般化した。平城・平安両京ともに置かれ、その名残もわかる。平安京羅城門の楼閣には毘沙門天が安置されたといわれ、現在東寺に残る兜跋毘沙門天像が該当仏と伝えられる。表門であったため外交使節や高僧の送迎に使われたが、816年に初めて倒壊して以来度重なる再建と倒壊の末、980年8月の暴風雨により転倒したのを最後に再建されなくなった。1023年に藤原道長【→】が法成寺の礎石の一部に羅城門の石を運ばせており、この時代に既に礎石だけになっていたことが窺われる。

良源 (りょうげん):元三大師、角大師
912−985、天台宗の僧侶。比叡山中興の祖。第十八代天台座主。近江で生まれる。十二才で比叡山西塔理仙に師事。996年に天台座主となる。最初有力な後見をもっていなかったが937年の興福寺維摩会の番論議がきっかけで藤原忠平・師輔の後見を得る。座主就任直後延暦寺が大火にあい、それを機に堂社の整備や綱紀粛正、財政基盤の安定を図った。しかし権門子弟の優遇などによるひずみの原因ともなった。著書に『九品往生義』がある。岩崎陽子さんによるコミック『王都妖綺譚』に登場する。

冷泉天皇 (れいぜいてんのう)
950−1011、村上天皇【→】の第二皇子、母は藤原師輔女安子。諱は憲平。同元方女祐姫所生の同年の兄広平を越え立太子、967年10月に即位した。幼少の頃より異常な行動が多く、元方の祟りといわれた。その治世は外戚の藤原師輔流の勢力伸張に利用された。その後、源高明女を室とする同母弟の為平を避けてその下の弟守平が立太子、969年の安和の変【→】により譲位した。

冷念院 (れいねんいん):冷然院、弘仁第、冷泉院(れいぜいいん)
平安京左京二条二坊三ー六町にあった。嵯峨天皇が弘仁七年(816)にこの第に行幸したのを初見とし、以降累代の後院として使用された。数度の焼失により、当所の冷然院という呼び名は、「然」が「燃」につながり不吉であるとして冷泉院と改称された。天喜三年(1055)に一条院が造営され、ここも冷泉院の名で呼ばれたことが散見されるが、その面影はなく、二世紀余りで「冷泉院」としてのその歴史を閉じたといえる。盛時の冷泉院は寝殿対屋をはじめ釣台泉亭が備わった整然とした寝殿造りで名第としてうたわれた。

ワ行

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