
2003年08月09日現在まで
Profile of Shutaro
〜自己紹介〜
幼少時代
大阪市内に生まれ、長居公園の近い東住吉区で健やかに育つ。
当時神童の誉れ高く、「末は博士か大臣か」という地区の期待を
一身に背負っていた。
平凡な小・中時代を送る。
高校時代
大阪府立 富田林高等学校に入学。
ハンドボール部に所属。
正ゴールキーパーとしてのその華麗な守備は「東洋の壁」と呼ばれたが、
チームが弱小であるため、全国大会はおろか、大阪府中央大会にも出場
できなかった。
だが、最後の試合で負けた後、みんなで円陣を組んで3年間の思い出を
語り合い、みなで涙するという熱い青春を送っていた。
大学時代
大阪大学・神戸大学を目指すものの、坂本ちゃんのようにセンター試験で
苦渋をなめ、関西大学商学部に現役入学する。
大学3年までは、友人とテニスサークルを結成し、ちょっと野球サークルにも
所属しながら、家庭教師・塾講師・ウェイターといったバイトで飲み代を稼ぐ。
要するに典型的な大学生生活を送った。
講義は欠席がちで、ギリギリ単位を重ねるという出来の悪い学生であった。
就職活動
特に将来の目標もなく、司馬遼太郎氏の本を読みながら漠然と「立派な男に
なりたいなぁ。」と小学生のようなことを考えていた僕。
しかし大学3回生の終わりに就職活動を迎え、約300社の資料請求、約70社の
セミナー出席と、いつになく燃える。
この時、人生で初めて涙が出るほどの悔しい思いを連続で経験する。
丸○面接
関西大学内の学内選抜を苦労の末に抜け、6大商社の面接権を得て、本面
接に臨むものの、体育会系でないという理由のみで落とされる。
NT○面接
リクルーターと称するバブル期入社の若造に落とされる。
「俺、バブラーやから、特に目標も売りもないけど入れてん。もちろんこれか
らもやりたいこともないし・・・ハハハ。君ら大変やね。エヘヘ。」
って奴に将来の目標とか聞かれて、落とされた。
あいつは今ごろリストラやろう。
日本銀○面接
いわずとしれた日本最大の金融機関、公定歩合をいじったりもするね。
大阪支店面接を抜け、東京本店で6回も面接され、最終面接に残ったが、
「君は地方大学出だから、君より年下の国立大学出の人間の下につくこと
になるけど一生我慢できるかなぁ?」
の質問から面接は始まった。
「地方大学出の人間にも上にたつコースがあるので、それを目指します。」
と答えたところ、
「あれは世間体があるから用意してるだけで、実際は一人もあのコースには
いけてないんだよ。」
という。日本の腐った制度がここに極まれリ・・・
それでも、「一人もいないなら、私が最初になります。」
と踏ん張ったところ、
「君のような向上心のある人間はいらない。」
と落とされた。
どうにもならない悔しさに一人泣く秀太郎君、ときに21歳。
インド旅行
就職も決まった4回生の夏休み、約1ヶ月間友人と2人でインドを自由旅行
した。
初めての海外でインド。
当初はインドのおめぐみ攻撃とボッタクリ詐欺攻撃の洗礼にあい、後半は
思い切りおなかをこわされる攻撃にあう。
すさまじいカルチャーショックを受け、価値観が崩壊する。
一日中、日が昇ってから日が沈むまで羊を追いかけている少年を見たり、
ガンジス川のほとりでただただ死を待つ人々を見たりする。
こんな世界もあるんや・・・
生きるってこんなに大変なことなんや・・・
俺ってめっちゃ幸せなんや・・・
生まれて初めて人生について考え、世界の広さを知る。
タイ・カンボジア旅行
大学4回生の2月、卒業旅行で友人5人でタイ・カンボジアの自由旅行に
2週間出かけた。
これまたショック。
未だに自給自足で暮らす人々の村を訪問したり、本当に悲惨なカンボジア
の歴史と人々の優しさに直面し、(詳しくは旅行記を見てね)またもや涙が出
そうになった。
反面、人生を楽しむ白人達と交わり、言葉を交わすうちに日本という社会の
おかしさを知る。
サマーバケーションで2ヶ月リゾートに来ている欧米人、2年かけて世界を
放浪するというイギリスの若者、そういう人々を見て、そこに理想の人生を
見た気がした。
キーエン○入社
しかし、1996年4月、株式会社キーエン○に入社、社会人生活が始まる。
ここには学閥がなく、実力主義なのが主な入社理由。
ひとまず旅行で感じたことは深く封印し、平均して朝8:00〜夜10:00くらい
の仕事漬けの生活を送る。
名古屋配属に伴い、一人暮らし開始。
その快適さに幸せを感じる。
とりあえず社会人としての力をつけることと、お金を貯めることを目標に日々
を過ごす。
社会人時代も夏の1週間の連休を利用し、インドネシア・フィリピン・ベトナム
と東南アジア歴訪を続ける。
キーエン○退社
ふと気づくと入社して4年ちょい、入社時には22歳だった年齢も、すでに
26歳。
社会人になってからの時間の流れの早さに戸惑う。
このままではスグに三十路・・・
その頃は結婚してるやろうし・・・
と人生で初めて真剣に結婚を意識、いてもたってもいられない気持ちに
なる。
やるなら今しかない!!!!(何をやるかはわかっていない)
とりあえず、ある程度のスキルはついたし、お金も貯まったし、
一念発起、退社を決意する。
時に、2000年6月23日、退社。
ひとり旅
まずは2ヶ月かけて人生初の一人旅に出た。
香港〜マカオ〜シンガポール〜マレーシア〜タイ〜ラオスを旅行。
欠かさず日記をつけ、今回のメルマガの骨子を得る。
失業保険がもらえる日が近づいたので、とりあえず帰国。
保険もらいながら勉強
法治国家ジャパンの恩恵を受けて、12月から6月末まで保険をもらいつ
つパソコン・英語の勉強にいそしむ。
この間、初めてのホームページの作成と、将来の出版を夢見ての
メールマガジンの創刊を行う。
一人でも多くの人に、豊かな人生を送ってもらえるように・・・
そう願いながら。
オーストラリアへの旅立ち
保険は切れた・・・
まだやりたい仕事、一生を賭けるに値することは明確じゃない・・・
職業訓練も受ける資格がなくなった・・・
つまり、日本にいる理由がなくなった!!
何がしたい?・・・自問自答を重ねる。
まずは英語がしたい。
今後どういうことをしていくにしても、できることの可能性を広げたい。
旅行するにしても、もっと多くの人と語り合いたい。
死ぬ気で英語を習得するために、一路オーストラリアへのワーホリ渡航を
決める。
オーストラリアの荒野をハーレーで走るためにニ輪車の大型(限定解除)まで
を一ヶ月で取得。
あれ?渡航の目的はなんだっけ?
去年取ったスキューバライセンスで、グレートバリアリーフに潜ってみたい。
コアラ抱きたい。フェアリーペンギン見たい。360°の砂漠で迷いたい。
とにかく30歳までしか取れないワーキングホリデー。
結婚前に行っておこう、そうしよう。
さらねる飛躍と、次なる目的を探して、オーストラリアへ渡る。
時に、2001年9月、27歳の初秋。
オーストラリアからの帰国
2002年10月初旬、1年に渡る海外滞在より帰国。
初めての欧米文化圏の旅は、新鮮な価値観をくれた。
1年という長い時間、ひとりという孤独の中で旅を続けると、旅行記という範疇では
書けない色々なことを考えた。
旅行記には相応しくない、だけど伝えたい。
そこで2002年1月下旬、「秀太郎の哲学」という名のメールマガジンを創刊。
そこに、自分が得た考えを表現していくことにした。
旅の途中に、今は誰に言っても笑われるだろう夢ができた。
帰国後は、小さな夢を叶えていきながら、いつかその高みを目指そうと決めた。
帰国して、最初にかなえたい夢。
それは「秀太郎の哲学」に書いた文章の単行本化だ。
自宅でパソコンに向かい、発行したメールマガジンの編集作業にいそしんだ。
同時にインターネットのホームページから、アイウエオ順に出版社にメールを送った。
「原稿検討依頼」というメールだ。
10月下旬、原稿が仕上がり、複数の出版社に送付。
11月、数社の結論が手元に届きはじめた。
帰国後の、「小さな夢を叶えよう作戦第1弾、単行本を出す!」は実現するのだろうか。
単行本の出版!
12月より複数の出版社と折衝を始めた。
印税率・著者負担額・初版部数等、それぞれ異なる条件の中で自分にベストの
出版社を探す。
一番困ったのは、多くの出版社が本の内容に手を加えてくることだ。
商業ベースに載せるためには、やはり売れそうな内容にする必要がある。
しかしそれでは「売れそうな本」であって「僕の文章」ではなくなってしまう。
僕は、僕が考え、僕の言葉で表現したありのままの文章を残したい。
2ヶ月近くも吟味した結果、出版していただく会社を決めた。
そこはインターネット販売しか行わないため、それほど多くの部数が売れること
はないかもしれないが、僕の文章の1語1句をそのまま正確に出版することが
できる。
5万円の負担金で、1月末に出版契約をかわした。
かくして2003年3月1日、僕の処女作となる「バックパックが教えてくれた」が
刊行された。
僕の小さな夢の第一弾は、現実のものとなった。
一人でも多くの人に、僕の言葉が届きますように・・・
再就職活動の苦戦
1月末、出版契約を交して原稿を送り終えた僕は、再就職の活動を始めた。
ドロップアウトはできるが、ドロップインしにくいこの日本社会。
そこに、風穴をあけてやるつもりで活動を始めた。
まずはリクルー○エイブリックという就職斡旋会社に登録、そこを通じて様々の
企業を受けた。
自分の想像以上に古臭い価値観の日本企業の面接に悪戦苦闘する日々。
それでも精力的に10数社の面接に臨んだ。
第一希望は村○製作所。
そこに入社できれば、確実に僕の前職からはステップアップになる。
2度の面接と筆記試験を抜け、京都本社の最終面接に挑んだ。
最終面接の面接官は3人。人事担当者、営業の担当者、そして専務。
所要時間は約1時間。
結果は・・・予想外の不合格。
人事の担当者、営業の担当者に強く後押ししていただいたものの、年老いた
専務の一存で僕の入社はなくなった。
間違いなくベストを尽くしたはずなのに、合格を確信していたのに、その専務の
一存で落ちたことに悔し涙を流した。
年老いた専務の一存のみで合否が決まる体質の古さに落胆し、また古い企業人
には自分の経歴が受け入れられにくいことを再認識。
狙い先を外資系に絞ることにする。
再就職先決定
外資系に絞った僕は、その中でも医療業界に狙いを絞った。
医療業界は、間違いなく伸びていく業界だ。
僕が大学生だった頃の花形業界、商社・金融。
そのどちらも今や落ち目のこの世情を見るにつけ、業界選びは大切だと考えたからだ。
医薬業界の中でも医薬品の営業、いわゆるMRに目を向けた。
外資系・・・その中でも昨年のMR認定試験合格率97%を誇る企業、そこに入社しようと
考えた。
その企業の名前はクインタイルズ・トラン○ナショナル・ジャパン。
業界随一の認定試験合格率を誇り、給与もそれなりに納得のいく額。
3月下旬、そこへの入社を決め、入社日は4月21日に決定した。
この会社は、医薬品営業であるMRを数多く抱え、医薬品を持たない、プロのMRを
プロジェクトとして製薬企業に送り込む会社だ。
様々なプロジェクトの中、僕の出向く先は、三○株式会社に決まった。
ここは今まで1人の中途入社者もいない、純潔の古風日本企業だ。
最近業績が下がってきていて、多くの不安要因を抱えているため、社内改革に着手しはじ
めたところだ。
その改革の一つの方法として、凝り固まった社風に新風を吹き込むために50人が送り
込まれることになった。
日経新聞にも数回記事になっていたし、業界の中ではかなり注目されているらしい。
僕のこれからの2年間は、このプロジェクトに心血を注ぐことになる。
入社、そして研修の日々
4月21日に入社した僕は、その日から富士山の麓にある研修所で泊り込みの勉強を
始めることになった。
見渡す限りの樹海のような風景の中、朝9時〜18時までの講義を受け、毎朝行われる
確認テストに備えて夜中の1時ぐらいまで復習をする、ひたすら勉強勉強の日々。
僕の人生の中で間違いなく最も努力している日々が続く。
研修は静岡で2ヶ月行われ、東京に場所を移して1ヶ月、また静岡に戻って1ヶ月
も行われた。