【町田の今と昔】

★ 町田の近況 ★

口は平成15年9月8日に40万人(※含外国人、市データ)を突破し、 平成16年9月1日現在では404,550人(※含外国人、市データ)となっています。

面積は71.62平方キロメートル(※市データより)です。

の花は「サルビア」、市の木は「ケヤキ」です。また、新たに(平成14年6月15日)市の鳥 「カワセミ」が制定されました。
赤い部分が町田市

理的には東京都の多摩南部、神奈川県との都県境に位置し、周囲を7つの市町に囲まれています。 東京方面からのアクセスは横浜線、小田急線共に一旦神奈川県を通過します。また、東名高速道路も神奈川を通過しますし、 最寄ICが「横浜町田インター」と表示(実際は町田市)されていますので、町田を神奈川県と錯覚している方が多い様です。(^^;;

関口の町田駅は、JR横浜線と私鉄の小田急線が乗り入れていて、 JR横浜線が1日あたり平均20万人、小田急線が28万人もの乗降客数を誇っています。

周辺には小田Q百貨店や東Q百貨店をはじめ東Qハンズ、●井、ル●ネ、西友、J●RNA、 後楽●アドホックなどの大型店や中小の商店が多数存在し、通勤通学、買物客で大変賑わっていす。また、先日1●9も開店し、駅前目抜き通り(オハコ・プラザ)も開通しました。 しかしながら、それに伴って治安の悪化や街づくりの方向性など不安も増しています。

政はまた、こういった商業的な発展を促す一方で、多摩丘陵を中心にした自然保護、資源回収、男女平等、 老人やハンデキャップを持つ方に対する福祉などにも積極的です。
町田の繁華街(1)


町田の繁華街(2)



★ 町田の歴史 ★(ちょっと社会科っぽいですが)

田市は、昭和29年南村が町田町に合併。更に昭和33年、鶴川村、忠生村、堺村が町田村に合併し東京都の9番目の市として誕生しました。 市が誕生した時の人口は約6万1千人でしたが、市制施行45周年の平成15年には40万人を超えました。

文・弥生時代にさかのぼる生活跡が、市内の随所に発見されています。その頃既に集落があったんですね。

倉時代には鎌倉街道に面した「小野路の宿(おのじのしゅく)」(現在市内北部、八王子市との境)が栄えていました。

戸時代に入ると農業が盛んになり、原町田(現在JR町田駅が有るあたり)に「二・六の市(にろくのいち)」と言う、 毎月二のつく日と六のつく日に市(いち)がたちました。 江戸時代末期横浜港が開港されると、輸出の主力「生糸(きいと)」の流通が活発になり、 甲州街道方面から横浜を結ぶ街道は「絹の道(きぬのみち)」と呼ばれるようになりました。 このころ起こった自由民権運動は、町田(今の野津田町)が発祥の地と言われています。 余談ですが、野津田は前出の小野路に隣接しているのですが、そこには新撰組ゆかりの剣術道場があったそうです。 (皮肉と言うか...当時はどんな状況だったのでしょう?)

治に入り41年、横浜線が開通しました。「二・六の市」は農産物中心から、いろいろな品物が売り買いされるようになりました。 ここで生糸を買付けた商人が、それを八王子の方へ横浜線を使って運んでいたそうです。 当時は旅客ではなく貨物が中心だったんですね。町田から八王子までの運賃は、今のお金に換算すると8千円くらいだったそうです。

正時代になると、町田には養蚕農家が増えました。後に町田市となった地域には21もの養蚕組合があったのだそうです。 以前は市内各所に養蚕の名残りである桑畑を見ることができましたが、最近では減少してきました。

和2年、小田急線が開通しました。以前は、町田駅の辺り(現在中央商店街のあたり)は醤油工場があったそうです。 (今でも大きな樽が埋設されているとか...。)
小田急線が通ってから、少なかったお店も徐々に増え人口も増え始めました。

に陸軍士官学校(現在米軍座間キャンプ)など、軍事施設が神奈川県に設置されると、そのアクセスのため急速に商業化が進みました。 建替え前の横浜線「原町田駅」(昔は原町田駅でした)には、天皇陛下が士官学校の卒業式に出席する際に使用する、 お召しホームがあったそうです。町田で列車から馬車に乗り換え、「行幸道路」で座間まで行きました。 第二次世界大戦では、町田地域の戦死者は1,105人でした。 この頃の人口は5万人程でしたから、50人に1人の人が亡くなったことになります。

後、特に昭和30年代後半から大型団地の建設などで、人口が大幅に増加し、商店も更に増えました。 そして、幾度かの市街地再開発を経て現在の町田に至ります。

※小さい頃聞いた話や未確認の話もありますので、間違えていたらごめんなさいです。