記念式典の「余興」で消滅させられた超ミニ飛び地

サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ 

旧ポルトガル領

 
1680年 ポルトガルが要塞を建設す るが、やがて放棄
1721年 ポルトガルが砦を再建。ブラジルの管轄下に置く
1731年 カーボベルデの管轄に移管
1858年 ポルトガルが放棄
1861年 フランスの宣教師が支配
1865年 ポルトガルが奪還
1869年 ポルトガルが放棄
1872年 ポルトガルが再占領
1961年 ダオメ−(現・ベナン)が武力併合し、飛び地消 滅

 
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Ouidah市内の地図 青 丸がサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダのあった場所。海岸から結構離れてますね
↑の拡大図 

アフリカの西海岸にあった面積たった2ヘクタール、つまり100m× 200mしかないポルトガルの飛び地。
こんな狭い場所に果たして人が住んでたの?と思いきや、砦と教会があってポルトガル人が住んでいた(※)。

※といっても、1921年時点で人口たった5人。
大航海時代も終盤の17世紀、ポルトガルはギニア湾一帯に10数ヵ所の砦を築き、商館を建てて貿易を独占するとともに、教会も建ててカトリックの布教を やっていた。サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダもそんな砦の1つで、主な収入源は奴隷貿易。当時ブラジルへ送られた黒人奴隷 のうち、3分の1が以上この砦を経由して「輸出」されていた。

ポルトガル人がやって来た当時、この一帯はダオメー王国が支配していた。ダオメー王国には生け贄の 風習があり、災害や伝染病による災難が続いた時のほか、毎年「死んだ王に新たな召使を届ける」と称して定期的に生け贄を捧げていた。1727年には一度に 4000人を殺したほどで、現在も残っているガゾ王の宮殿は、ドクロで飾られ、壁のモルタルは人血を練り込んで建てられている。

しかしダオメーの王はポルトガル人に砦を建てることを許した後、どうせ生け贄を殺すなら売り飛ばして稼いだほうがいいと、 奴隷貿易に協力し始めた。ダオメー王国は奴隷を売った金で銃を買い、奥地の部族を征服して、捕虜を奴隷として売り飛ばして繁栄し、ポルトガル人も王国の政 治に大きな影響力を持つようになった。

19世紀になると、イギリスやフランスが植民地獲得のために本格的に西アフリカへ進出 し、ポルトガルの砦は次々と奪われていく。しかし、ダオメ−に進出したフランスはなぜかサ ン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダの砦には本気で手を出そうとせず、この部分だけがポルトガル領として残された。

一体なぜこんなことになったのか。奴隷貿易は「人間の平等」を謳ったフランス革命を契機 に批判が高まった。しかしポルトガルは国際的な批判をよそに19世紀になっても奴隷貿易を続けていた。実際にはイギリスやフランスの植民地では奴隷制廃止 によって労働者不足に悩んでいたので、フランスは奴隷貿易の拠点だったサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダをあえてポルトガル領のまま残したのか も知れない。

もっとも奴隷貿易はポルトガルでも1868年に禁止せざるを得なくなり、サン・ジョア ン・バプティスタ・デ・アジュダは経済的に全く価値のない砦になってしまった。ダオメー王国はフランスによって1892年に滅ぼされた(※)。

※奴隷狩りによって栄えたダオメー王国は、周辺の部族に嫌われていて、フランス軍 には東隣のヨルバ族などが協力した。またダオメーの王は軍人や王族まで奴隷として売り飛ばしたので、経済的な繁栄に反して軍事的に弱体化していた。
さて1960年、ダオメ−共和国がフランスから独立すると、猫の額のようなポルトガルの飛び地も存在し続けるわけにはいかなくなった。翌61年8月、 ダメオーのマガ大統領は8月1日の独立1周年記念式典を「劇的に盛り上げる」ことを狙って、サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダの実力接収を強行。対するポルトガル人も砦に火を放って抵 抗し、これまた「劇的に盛り上げて」追放されていった。

この砦は海岸から10km近く離れた内陸にあったので、ポルトガル人にさっさと出ていっ てもらいたければ、水や食糧の供給を止めれば簡単じゃんと思うのだが、それじゃ独立1周年の当日にタイミング良く出ていってくれるとは限らないし、国民向 けの宣伝効果もいま一つ・・・ということでしょう。一方のポルトガル側にしても同じで、砦を引き渡せと言われてあっさり出ていったのでは体面が悪い。立派 に抵抗して砦を守ろうとした・・・・ことにしないと国民は納得してくれない。ポルトガルの歴史教科書ではこの事件について「司令官は英雄的な行為の後、降 伏前に建物に火を放った」と書いている(※)。

※最後まで残っていたポルトガル人は2人だったとか。
侵略者の追放で独立1周年の気炎を上げたダオメーだったが、12年間で5回のクーデターが発生 して政治は混乱が続き、75年には国名を「ベナン人民共和国」に変えて社会主義路線を始めたがこれも失敗。現在ではマルクス主義を放棄して「ベナン共和 国」として地道にやってるみたいです。ポルトガルも85年にサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダの返還を公式に認めて砦の修復などに協力し(自分 で放火したんだもんね)、現在では奴隷貿易の様子を伝える歴史博物館として観光地になっているとか。


1961年8月3日付『毎日新聞』


それにしても、 ペニョン・デ・ヴェレス・デ・ラ・ゴメラ やペニョン・デ・アルホセイマ もそうですが、ポルトガルやスペインの超ミニ飛び地ってどうして長ったらしい変な地名が多いんでしょうね。

大航海時代のポルトガルやスペインは上陸や占領した場所に片っ端から「キリスト教的にあ りがたい地名」を付けるのが好きだったようで、サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダは「御助けの聖なるジョアン・バプティスタ」という意味。日本 にやって来たポルトガル人も戦国大名の大友純忠から寄進を受けた横瀬浦(長崎県西浦町)を「御 助けの聖母の港」と命名したし(ポルトガル語ではポルト・デ・サンタマリア・デ・アジュダに でもなるのかな?)、マカオの正式名称も実はシダデ・ド・ノメ・デ・デウス・デ・マカオ・ナ ン・ハ・オウトラ・マイス・レアル(最も忠貞なる主の名の都市マカオ)という長ったらしいも のだった。ただし、そこに住民が住んでいればそんな舌を噛みそうな地名は使わなくなるわけで、数ヘクタールの砦しかなくて一般住民が住まない超ミニ飛び地 だけが昔からの名称を使い続けているということなのでしょう。


中国返還(1999年)まで使っていたマカオの市章。マカオの正式名称がへろへろと書いてありますね
 

●関連リンク

images of Benin サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダの写真があります(英語)
World Statesmen Benin サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダの年表や歴代総督 のリスト(英語)
Ouidah: The Slave Capitol of Africa 奴隷のせり市や船積み前の訓練場もあっ たんですね(英語)
stampcatalog @Wiki ダホメーによるサン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ占領1周年の記念切手
大航 海時代2 ポルトガルのギニア湾への進出について
奴隷貿易 アフリカの奴隷貿易の歴史やその利益率について解説しています(復元サイト)
家庭や地 域 西浦町横瀬地区  ポルト・デ・サンタマリア・デ・アジュダ(?)になっていたかも知れない横瀬浦の紹介


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