列強4ヵ国による河口争奪戦で切り離された飛び地

カビンダ

アンゴラ領

 
1482年 ポルトガル人がコンゴに上陸
1592年 ポルトガルがアンゴラに総督を派遣
1784年 ポルトガルがフランスに敗れ、カビンダ北側がフランス領になる
1878年 ベルギー王のレオポルド2世がコンゴに私有植民地を建設
1884年 ロンドン条約でイギリスがコンゴ川両岸のポルトガル領有を認める。しかしフランスとベルギーの抗議で撤回
1885年 レオボルド2世が「コンゴ自由国」を設立
1886年 ポルトガルとフランスが国境確定。ポルトガルは西アフリカのカザマンス川流域(現:セネガル南部)を失う代わりに、カビンダの領有をフランスに認めさせる
1891年 ポルトガルと「コンゴ自由国」が国境確定。ポルトガルはコンゴ川北岸を失い、カビンダはアンゴラ本土から切り離された飛び地になる
1908年 「コンゴ自由国」がベルギー領に移行
1975年8月1日 ポルトガルからカビンダ共和国が独立宣言をするが、承認されず
1975年11月11日 アンゴラがポルトガルから独立。カビンダはアンゴラの飛び地に

アフリカの地図(1908年) コンゴ自由国があります。カビンダは色を塗り忘れ?
アフリカの地図(1933年) ベルギー領コンゴが海に接していないことになっていますが、だぶん何かの間違い?
カビンダの地図(1977年) 
アンゴラの地図(1990年) コンゴ民主共和国が「ザイール」だった頃。その国境に接してアンゴラのザイール州があります


「コンゴ」という国は2つある。コンゴ共和国コンゴ民主共和国で、歴史を遡れば前者は旧フランス領、後者は旧ベルギー領で一時は「ザイール」という国名だった。その2つのコンゴに挟まれた旧ポルトガル領のアンゴラの飛び地がカビンダだが、植民地時代にはコンゴ州だった。さらに旧ベルギー領を挟んで向かい合うアンゴラ本土はザイール州で、州都はムバンザ・コンゴという町だから、かなりヤヤコシイ。

コンゴが3つも4つもあったり飛び地があったりするのは、かつて列強諸国がコンゴ川の河口をめぐって争奪戦を繰り広げたからだ。

伝統的な植民地経営とは、海岸線に砦を築いて貿易を独占することだった。しかし19世紀に入ると植民地は天然資源や商品作物の供給地になり、内陸部へ本格的な支配を及ぼすことが必要になった。そこで重要な進出ルートとなったのが河川。まだ自動車や飛行機がない時代、まず大きな川を押さえてその両岸に拠点を築き、そこから奥地へと支配を広げ、広域的な統治を確立したところで鉄道を建設するというのが、近代的植民地建設の方法だった。なかでもコンゴ川は南西アフリカ随一の大河。2つの「コンゴ」の首都がコンゴ川を挟んで向かい合っていることからもその重要性がわかるというもの。ポルトガルと、フランス、ベルギーに、「お節介好きな腹黒紳士」ことイギリスも加わって、19世紀後半にコンゴ川河口を奪い合ったのだ。

国境線とは関係なく、コンゴ川の河口一帯に住んでいるのはコンゴ族だ。かつてここにはコンゴ王国があり、15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えた。そこにやって来たのが大航海時代のポルトガル。ポルトガルは周辺部族からの攻撃に悩んでいたコンゴ王国に加勢するかわりに、コンゴやその南のアンゴラの海岸に砦を築いて拠点とし、1491年にはコンゴ国王にカソリックの洗礼を受けさせた。そして16世紀後半にはアンゴラへの入植を本格化させ、総督を派遣して植民地支配を強め、1665年にはコンゴ王国の内乱に介入して国王を暗殺してしまう。アンゴラは当時ポルトガルにとって最大の植民地であったブラジルへの奴隷供給源となり、17世紀後半には年間平均7500人、18世紀後半には平均1万5000人もの奴隷がブラジルへ輸出された。

19世紀になると列強諸国の間でも奴隷制度に対する批判が高まり、奴隷貿易の廃止に追い込まれたポルトガルの植民地経営は一気に苦しくなる。それにつけこんで新たに進出してきたのがイギリスとフランスだ。イギリスは「奴隷貿易の実態を監視するため」を口実にして、コンゴ川南岸の良港・アンブリスを占拠しようとするが、ポルトガルは1855年に軍を派遣してどうにかこれを撃退した。しかしコンゴ川北岸にまでは手が回らず、フランス勢力の拡大を許してしまう。

そこへ新たに進出したのがベルギーだった。1876年にベルギー国王のレオポルド2世はアフリカの植民地分割のためのブリュッセル国際会議を召集し(※)、対立する列強諸国の間で「無害な調整役」を自認したが、その一方でレオポルド2世はアフリカ奥地の学術調査と探検を支援する「コンゴ国際協会」の名の下に、広大なコンゴ内陸部を植民地として手中に収めようとした。1885年には「コンゴ自由国」が設立されたが、その実態はレオポルド2世が元首に就き、コンゴは彼の私有植民地となった。

※ポルトガルはこの国際会議には招かれなかった。
コンゴに足場を築けなかったイギリスは、コンゴ川の河口を宿敵フランスや得体の知れないレオポルド2世に占領されるよりはポルトガルに任せておいた方がマシだと考え、84年にポルトガルとロンドン条約を結んで、同国のコンゴ川両岸の領有にお墨付きを与えた。一見イギリスはポルトガルの味方に回ったようだが、実は財政的に破綻寸前だったポルトガルが新たな借款を申し出てきた場合、ドイツとの間でポルトガル植民地を分割し、アンゴラ北部はイギリスが借金のカタとして差し押さえることを申し合わせていたのだ(※)。
※ポルトガルの植民地を分割する場合、アンゴラ北部とモザンビーク南部はイギリス、アンゴラ南部とモザンビーク北部はドイツが優先権を持つとされ、ついでに東ティモールはドイツがいただく手はずだった。
イギリスの腹黒い意図を見ぬいたフランスとベルギーは、猛烈に抗議してロンドン条約を破棄させ、それぞれポルトガルと国境線の最終的な確定に乗り出した。フランスは86年にポルトガルにカザマンス川流域(セネガル南部) を放棄させる代わりにカビンダの領有を認め、次いでレオポルド2世のコンゴ自由国も、コンゴ川北岸で海岸への回廊を得るかわりに、ルアンダ川東部の広大な地域をポルトガル領として認めた。こうしてポルトガルがアンゴラ内陸部を確保したのと引き換えに、カビンダはコンゴ川北岸からさらに数十km離れた飛び地として切り離されることになった。コンゴ自由国はレオポルド2世の死後、遺言によってベルギー政府が相続して同国の正式な植民地になった。

こうしてかつてはコンゴ王国の下で統治されていたコンゴ族の住む地域は、列強の陣取り合戦によっていくつもの国境線で区切られてしまった。

では戦後、コンゴ川流域からヨーロッパ列強を追い出して植民地独立を勝ち取ったら、コンゴの再統一は可能だったかといえば、かえって逆。各種ゲリラや地方勢力が群雄割拠して内戦が繰り返されている。

世界史上まれに見る泥沼状態の内戦になったのが旧ベルギー領コンゴだ。1960年の独立直後から軍隊が反乱を起こし、大統領と首相が解任合戦を繰り広げて参謀総長はクーデターを起こし、さらに地方ではカタンガ、北カタンガ共和国、南カサイ連邦などがヨーロッパ資本の鉱山会社と手を結んで独立を宣言して、中央政府も複数出現。ベルギー軍や国連軍に傭兵の外人部隊も加わって、誰が敵だかよくわからない混戦が続き、現地へ停戦交渉に向かった国連のハマーショルド事務総長は飛行機が墜落して(恐らく撃墜されて)殉死した。調停会談にはコンゴ各地から自称大統領や元首、首相などが何十人も集まってきたという。

一連の内戦はコンゴ動乱と呼ばれ、モブツ参謀総長の再度のクーデターによって65年には一応収束したが、96年にモブツが癌で衰えると、ルワンダとウガンダに支援されたゲリラがそれぞれ国土を分割して内戦が勃発している。

イギリスやフランスはあらかじめ植民地統治を助ける現地エリートを育成していたため、彼らが独立後の指導者層になって行政をスムーズに引き継げたが、ベルギーは現地の人材を育成しようとせず(なんせコンゴは王様の私有植民地だったから)、いきなり放り出しに近い形で独立させたので直後から混乱が続くことになったと言える。コンゴ動乱のメチャクチャぶりをフィクションで読みたい人には、筒井康隆『アフリカの爆弾』がイイですね。

一方のアンゴラはといえばこちらも独立直後から混乱が続いている。本国でクーデターが起きたポルトガルが植民地を放棄して1975年に独立することになったが、それまでポルトガルを相手に戦い続けてきた3つの独立ゲリラのうち、首都・ルアンダを押さえたアンゴラ解放人民運動(MPLA)に政権を引き渡してポルトガルはさっさと撤退したため、残るアンゴラ国民解放戦線(FNLA)アンゴラ全面独立国民(UNITA)の間で三つ巴の内戦が続いた。ソ連やキューバの支援を受けて社会主義路線を歩むMPLAの政府(アンゴラ人民共和国)に対して、FNLAは隣国ザイールや中国、UNITAはアメリカや南アの支援を受け、80年代に入るとFNLAはほぼ壊滅するが、そのぶんUNITAが勢力を伸ばした。

1990年代に入って、バックについていたソ連や南アが体制崩壊したことで、MPLAとUNITAは91年に和平協定を結び、翌年には社会主義路線を放棄して国名もアンゴラ共和国と変え、国連監視の下で大統領選と総選挙を行うが、UNITAは選挙が「不正だった」と言い出して再び内戦勃発。94年にまた和平協定が結ばれるがその後またもや戦闘となり、2002年にUNITAのサビンビ議長が戦死して、ようやく内戦はホントに収拾したようだ。

で、飛び地のカビンダはどうかといえば、こちらもアンゴラ本土とは別に内戦(というか独立紛争)が進行中だ。実はアンゴラがまだポルトガル植民地だった1967年にカビンダ解放戦線(FLEC)が亡命政府を樹立していて、アンゴラが75年11月に独立する3ヶ月前には、カビンダ共和国として独自にポルトガルから独立を宣言した。

FLECの主張によれば、カビンダがポルトガル領になったのは、フランスやベルギーとの勢力分割に基づいて、1885年にカビンダの酋長と結んだ条約がもとになっているから、そもそもアンゴラとはポルトガル領になった経緯が別。ポルトガルは当初カビンダをポルトガル領コンゴとしてアンゴラとは別の植民地として統治していたが、「行政効率化」を理由にアンゴラ総督の下のコンゴ州として一緒に支配するようになったに過ぎず、64年にアフリカ統一機構(OAU)が作成した「アフリカ諸国解放リスト」にも、カビンダはアンゴラとは別の地域として掲載されている・・・というもの。

カビンダ共和国はポルトガルはじめ世界どこの国からも承認されないまま、アンゴラが独立すると「アンゴラ民主共和国」を名乗っていたFNLAが侵入して占領。翌76年1月にMPLAのアンゴラ人民共和国の政府軍が侵入し、アンゴラの政府軍と反政府軍が占拠した。なにしろカビンダはアンゴラ経済を支える貴重な産油地帯で、60年代末から始まっていたカビンダの石油生産はアンゴラのGDPの52%、輸出の86%を占めるほどだから、「カビンダはアンゴラ固有の領土」という主張は、MPLAの政府側はもちろんFNLAやUNITAの反政府ゲリラも同じだった。

FLECは再びカビンダ亡命政府を作り、30年近くにわたって独立目指してゲリラ戦を続けきたが、最近アンゴラ本土でMPLAとUNITAの内戦が収拾したため、政府軍はFLECのゲリラ(カビンダ解放戦線カビンダ軍=FLEC-FAC)の討伐に全力を傾けられるようになり、独立ゲリラの活動は急速に沈静化したようだ。

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外務省−アンゴラ共和国
フィオティとアンゴラ  カビンダの住民はアンゴラ本土の住民から差別されているとか(復元サイト)
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元老院議員私設資料展示館―コンゴ動乱  コンゴ動乱のヤヤコシイ展開についての解説です
モブツ・セセ・セコ物語  コンゴ動乱やその後のザイール、コンゴの独裁政権と終焉について詳しいサイト
地下資源が煽るコンゴの内戦  コンゴの最近の内戦に関する解説です
REPUBLIC OF CABINDA  カビンダ独立派のサイト(英語)
the Cabindese Government in exile of the F.L.E.C カビンダ亡命政府のサイト(英語)
 

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