白人国家の飛び地はイヤだ!と白人たちが要求して消滅

ウォルビスベイ

旧イギリス領&旧南アフリカ領

1793年 オランダが占領
1795年 イギリスが占領
1884年 ドイツが南西アフリカ(現ナミビア)を植民地とする。ウォルビスベイはイギリス領のまま残留
1910年 南アフリカがイギリスの自治領として独立し、ウィルビスベイは南アの飛び地となる
1914年 第一次世界大戦でドイツ植民地の南西アフリカを南ア軍が占領
1920年 国連が南西アフリカを南アの委任統治領とすることを決定し、実質的に飛び地解消
1945年 国連の信託委任統治移行を無視して、南アが南西アフリカの不法統治を継続
1990年3月21日 ナミビアが独立。ウォルビスベイは再び南アの飛び地となる
1994年3月1日 南アがウォルビスベイをナミビアへ割譲し、飛び地解消

ナミビアとウォルビスベイの地図(1978年)
ウォルイビスベイの衛星写真 (google map)

ナミビアと言えば、南アフリカが戦後不法に占領し続けていた地域ですが、1990年に独立した国。ところがナミビアの中央に不法占領ではなく正真正銘の南アフリカの領土が存在していて、その名はウォルビスベイ。ナミビアが独立しても、ここは南アフリカの飛び地として残されたが、結局4年後にナミビアへ割譲されて消滅した。一体なぜウォルビスベイだけが南アフリカの正式な領土だったかというと、かつてナミビアはドイツの植民地だったのに、ウォルビスベイはイギリス領だったから。

ドイツ植民地時代の地図(1913年)。ウォルビスベイだけ[Brit]。
ナミビアに最初にやって来た白人はポルトガル人。喜望峰回りでインドへの航路を探っている途中で1487年に立ち寄ったが、海岸一帯は不毛な砂漠が広がっていたため、そのままサヨウナラ。次にナミビアへやって来たのはイギリス人で、不毛な砂漠なら流刑地にすればちょうどいい!と1786年に調査に来たが、あまりに不毛すぎて囚人を送り込むのにも適さないと撤退(流刑地は結局オーストラリアに決定)。その次に来たのは当時南アフリカのケープタウンを中心に植民地を築いていたオランダ人で、天然の良港としてナミビアで唯一利用価値がありそうなウォルビスベイを1793年に占領し、オランダ領だと宣言した。「ウォルビス」というのはオランダ語で鯨のこと。

しかし南アフリカを狙っていたイギリスは1795年にケープ植民地を占領、同時にウォルビスベイも占領した。イギリスが再びウォルビスベイに来たのは、利用目的があったためではなく、そこにオランダ人がいたから占領しただけのこと。だからウォルビスベイを取り巻く広大な砂漠まで支配するつもりはなかった。

19世紀後半になると、列強諸国の間で「アフリカ大陸をすべて分割してしまおう」と陣取り合戦が熾烈になった。なかでもアフリカ南部で俄然ハリキリ出したのがポルトガルで、西海岸のアンゴラと東海岸のモザンビークを結ぶ一大植民地を建設するという「バラ色地図」計画の実現を目指し、ケープタウンからカイロまでアフリカを南北に縦貫する大植民地を築こうとしていたイギリスと対立した。このようなポルトガルの動きを警戒したイギリスは、アンゴラの拡大を抑えるために先手を打ってナミビア沿岸のアイチョベ島やペンギン島を1861年に併合したのに続き、78年にはウォルビスベイの領有を宣言して、ケープ植民地の一部とした。

しかし実際にやって来たのは、植民地獲得競争に出遅れたドイツで、「どこかに空いている土地はないか」と目を付けたのがナミビアだった。1883年にハンブルクの商人・リューデリッツ(※)が南部のアングラ・ベケナの酋長から土地を購入したのに続いて、翌84年にドイツ政府はナミビア一帯をドイツ領南西アフリカとして領有を宣言したが、イギリスが先に確保していたウォルビスベイは除外するほかなかった。

※リューデリッツは86年に奥地への探検の途中、川で溺死した。そこでその功績を称えて、アングラ・ベケナはリューデリッツ市と命名されている。
ドイツは当初、南西アフリカの統治を「ドイツ南西アフリカ植民会社」に任せていたが、89年から直接統治に切り替えて植民地支配を本格化。乾燥地帯でも牧畜ならできるだろうとドイツから移民を送り込んだ。しかし先住民から土地を奪ったうえに牛も奪ったため、1904年から翌年にかけて「ホッテントットの蜂起」と呼ばれる先住民の大規模な反乱が起きた。これに対してドイツは軍隊を増派して徹底的な弾圧を行い、反乱の中心となったヘレロ族は女子供も収容所に入られて強制労働を課せられ、75%が死亡。ナマ族も約半数が殺された。「安全地帯」となったウォルビスベイや英領ベチュアナランド(現:ボツワナ)には2万人の先住民が逃げ込んだという。反乱の鎮圧後、ナミビアでは銅やダイアモンドなどの鉱物資源が見つかったことで、ドイツからの移民はさらに増え、ドイツ人の人口は1903年の3700人から10年には1万3000人になった(※)。
※現在でもナミビアには約1万8000人のドイツ系住民が住んでいる。彼らは後に南アによる支配の下で、南アフリカから移住してきたアフリカーナ(オランダ系白人)に比べて二等国民のような存在となり(黒人は参政権がないので国民以下)、祖先の地・ドイツの誇りを拠り所にして、ドイツ人学校によるドイツ語教育を維持し続けた。しかしナミビア独立後は公用語が英語だけになり、ドイツ語による教育は「部族語」の1つとして、小学3年生までに制限されるようになった。
1930年代の地図。西南アフリカは南アの委任統治領なのに、ウォルビスベイはイギリス領?
いや、この時は南アも独立国の扱いではなかったわけで。。。(クリックすると全体図に拡大します)
第一次世界大戦が勃発すると、ナミビアはたちまち南アフリカ軍とイギリス軍が占領し、大戦後は新たに発足した国際連盟によって、南アフリカに統治が委任されることになった。委任統治領はA式、B式、C式の3種類に分かれていたが、ナミビアは「人口が少なく、独立するのはまず無理」とC式にランクされ、南アは自国の領土(というより植民地)と同様に統治できることになった。南アフリカは1910年にイギリスの自治領として独立したが(※)、この時ウォルビスベイも南アフリカ領に移されていたので、ウォルビスベイはナミビアと一緒に統治されて、実質的に飛び地ではなくなった
※カナダやオーストラリア、ニュージーランドもそうだが、英連邦の国々は果たしていつから独立国になったのか、解釈の仕方がいろいろで、いまひとつはっきりしない。南アの場合で言うと、1910年に南アフリカ連邦としてイギリスの自治領となる。31に英連邦発足にあたってその加盟国となる。34年イギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決し、主権国家として規定される。49年に英連邦が改組されてイギリス国王(女王)への忠誠は必要なくなり(実はこの時、英連邦の名称からBritish=英がなくなったが、日本語ではそのまま「英連邦」を使い続ける)。61年にアパルトヘイト政策を批判されて英連邦を脱退し、独自の国家元首(大統領)を擁する南アフリカ共和国へ移行する・・・、さて、どれ?私は1934年が大きな区切りだと思いますが、日本の外務省のHPでは1910年と61年が区切りなようで。
さて第二次世界大戦後、国際連盟が国際連合に変わると、委任統治領は信託統治領に移行することになったが、南アはこれを拒否した。信託統治ではABCの区分けはなく、いずれすべてに独立を与えなければならないとされ、実際の統治状況について3年ごとに国連の視察団を受け入れなくてはならなくなった。ナミビアは砂漠が大半とはいえ、ダイヤモンドが出るので南アは自国の領土としていつまでも確保したくなったし、ナミビアでも本国同様にアパルトヘイト(人種隔離政策)を導入するのに、国連の視察団など来られちゃタマラナイということ。66年に国連総会でナミビアの委任統治終了が決議されても、南アは無視して支配を続けた(※)。
※ナミブ砂漠を由来にして、国連によって「ナミビア」と命名されたのは1968年で、それまでは南西アフリカ。
また南アがナミビアを死守しようとした理由の1つは、ナミビアに黒人国家が誕生すると、アパルトヘイトに反対する自国のアフリカ民族会議(ANC))など反政府勢力の拠点になってしまうことを懸念したからだったが、そのために南アはナミビアの独立ゲリラ・南西アフリカ人民機構(SWAPO)とそれを支援するキューバ軍との泥沼の戦いを続けるハメになり、ついにナミビアの支配を断念。国連の暫定統治を経て、ナミビアは1990年に独立した。
戦後の地図。南西アフリカ(ナミビア)もウォルビスベイも、
どちらも [南ア]なのに国境線があったのはこういう理由でした
この時、再び問題になったのがウォルビスベイの帰属だった。ウォルビスベイは沿岸唯一の深水港で、ナミビアにとっては自国の玄関口のような存在だ。しかし南アが不法占領していたナミビアと違って、ウォルビスベイはケープ植民地以来イギリス→南アの正当な領土。国連もウォルビスベイについては南アを非難することはできず、安保理で「当事国同士でよく協議すること」と諭すに過ぎなかった(※)。
※ウォルビスベイの人口は5万人だが、日本の2倍以上の面積に総人口たった200万人のナミビアにとっては大都会。ナミビアを自国領としてウォルビスベイと一緒に統治していた南アだが、こういう日が来ることも予想してか、1971年にウォルビスベイの行政区分をナミビアから切り離して、ケープ州の飛び地に戻していた。
南アはウォルビスベイに駐屯する兵力を削減すると発表していたが(SWAPOやキューバ軍と戦う必要がなくなったから、当然と言えば当然)、独立を前にナミビアがウォルビスベイやペンギン島など沿岸の島々を自国領土だとする憲法を制定すると、態度を硬化。むしろ兵力を増強するとまで言い出した。国連が呼びかけたウォルビスベイをめぐる協議について、ナミビア側は「ウォルビスベイの返還交渉」をするつもりだったのに対して、南アはウォルビスベイを渡すつもりなど毛頭なく、あくまで「港の共同利用についての協議」だと考えていた。かくして独立までに折り合いが付かず、ウォルビスベイは再び飛び地になってしまった。

独立後もとりあえず両国の協議は続けられ、返還と港の共同利用を折衷したような「ウォルビスベイの共同統治」案も検討されたが、南ア政府にとって想定外だったのは、それまで味方だと思っていたウォルビスベイの経済界(つまり白人)や、ナミビアの鉱山企業(主に英米や南ア資本)から、「さっさとウォルビスベイをナミビアへ引き渡してほしい」という要求が挙がったことだった(※)。

※南ア時代に入植した白人(および黒人)は、5年以上居住していれば(かつ本人が望めば)ナミビアの市民権が与えられた。
ウォルビスベイの企業やウォルビスベイを積出港として利用している鉱山にとって、ウォルビスベイとすぐ背後のナミビアが別々の国になると、税関やら何やらでヤヤコシイ手続きが必要になる。それに当時、南アはアパルトヘイトが国際的な非難を浴びて経済制裁をかけられていたが、ナミビアが独立してようやく世界相手に堂々と商売できると思ったら、「ウォルビスベイだけは引き続き南アなので、制裁解除しません」ではたまったものじゃない、ということ。

南アの経済制裁は91年にアパルトヘイトを撤廃したため、先進各国から解除されていったが、地元の白人や企業からの圧力は止まずに南ア政府はウォルビスベイの引渡しを決断。1994年3月にナミビアへ割譲(ナミビアに言わせれば返還)されることになった。

もっとも、アパルトヘイト撤廃で黒人にも参政権が与えられた南アフリカでは、翌4月の総選挙でANCが圧勝してマンデラ政権が誕生。ANCにとってナミビア政府を率いるSWAPOは、かつて南アの白人政権を相手に共に戦った同志だから、ウォルビスベイの割譲は時間の問題だったのかも知れないですね。

ナミビアについてはこちらこちらも参照してくださいね。

●関連リンク

ナミビア共和国−外務省
ナミビア旅行記
南部アフリカ旅行記
PEACE BOATクルーズ
South Africa Travel Guide Walvis Bay  (英語)
Walvis Bay - Walfisch Bai - Walvis Baai  戦前の港の写真や地図があります(英語)
 

参考資料:
伊東 祐穀 『世界年鑑』 (博文社 1908)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
星昭、林晃史 『アフリカ現代史1』 (山川出版社 1978)
林晃史 『ナミビア独立に向けて」』 (アジ研『アフリカレポート』第10号 1990)
『世界年鑑 1991』 (共同通信社 1991)
『世界年鑑 1992』 (共同通信社 1992)
柴田暖子 『ナミビアのドイツ系白人と「国民意識」』 (アジ研『アフリカレポート』第25号 1997)
ナミビア共和国―外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/namibia/data.html
健康と文化 http://www.kenkobunka.jp/
the Namibia Library of Dr. Klaus Dierks http://www.klausdierks.com/WalvisBay/
BISMARCK - Prussia, Germany, and Europe http://www.dhm.de/ENGLISH/ausstellungen/bismarck/186.htm
Answers.com http://www.answers.com/topic/german-south-west-africa
Deutscher Kolonial-Atlas mit Jahrbuch http://www.zum.de/psm/imperialismus/kolonialatlas05/atlas001e.php
 

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