ロシア人大後悔!住んでいるだけでお金がもらえる人生ケローン♪な飛び地

アラスカ

アメリカ領

  
ロシア領時代の露米会社の旗(左)と、現在のアラスカ州の旗(右)
1741年 ロシア皇帝の命を受けたデンマーク人V.ベーリングが上陸
1784年 ロシアがコディアック島に拠点を建設
1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる
1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案
1861年3月29日 ロシア政府が露米会社から行政権を回収
1867年10月18日 ロシアがアメリカにアラスカを売却
1959年1月3日 アメリカの州に昇格

アラスカの詳細図
1850年の北米の地図 アラスカはRussian America(ロシア領アメリカ)。カリフォルニアはメキシコ領で、「テキサス共和国」も・・・

世界最大の飛び地と言えばアラスカ。アメリカ本土との間にはカナダ領が横たわっていてサンドイッチ状態になっているが、アメリカもカナダももとはイギリスの植民地。なぜアラスカはカナダ領にならずにアメリカの飛び地になったかといえば、アメリカが金を出して買ったから。どこから買ったかといえば、ロシアからだ。

ロシアは13世紀にキプチャク汗国に征服されて以来、モンゴル人の支配下にあったが、1480年にイワン3世がモスクワ公国として独立。16世紀に入るとイワン4世(雷帝)の下でシベリアに領土を広げ、17世紀末にはカムチャッカ半島にまで達した。

ロシアは引き続きアリューシャン列島に沿ってアメリカ大陸へ進出し、1784年にコディアック島に拠点を築き、1799年にはロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言。シトカに拠点を移し、統治を露米会社(ロシア・アメリカ会社)に任せた。統治と言っても会社がアラスカでインフラ整備やイヌイット(エスキモー)に対する教育や福祉を行ったわけではなく、あちこちに交易所を建ててイヌイットからのアザラシやセイウチ、ラッコ、キツネ、カワウソなどの毛皮の買い付けを独占しただけだった。いわば江戸時代の北海道や樺太で、沿岸各地に番屋を建て、そこでのアイヌとの取引を特定商人に請け負わせたのと同じようなもの。

しかし、乱獲がたたって毛皮の生産はたちまち落ち込み、露米会社の収益は思ったように上がらなかった。そして1853年、衰退しつつあったオスマントルコへの干渉をめぐり、ロシアがトルコやイギリス、フランス、サルデニャ(イタリア)を相手にクリミア戦争を始めると、防備が手薄なアラスカを敵国・イギリスに盗られてはたまらない、どうせアラスカを手放すなら当時ヨーロッパでの戦争については中立政策(※)を貫いていたアメリカに買い取ってもらおうと売却を打診。クリミア戦争に敗れたロシアは財政的に困窮したことや、アラスカの食糧はアメリカ船によるカリフォルニアからの輸送に頼っていたことなどからその後も交渉は続き、1867年にロシアは720万ドルでアラスカをアメリカへ売り渡した。

※1823年にアメリカのモンロー大統領が宣言した、アメリカはヨーロッパの戦争に干渉しないが、ヨーロッパは南北アメリカ大陸に干渉するなという政策。モンロー主義とも言う。
当時のアメリカではアラスカ購入には批判が多く、購入交渉を進めたスワード国務長官は「巨大な冷蔵庫を買った男」とコケにされたが、間もなくアラスカの各地で金鉱脈が発見され、19世紀末にはゴールドラッシュに沸くようになった。さらに動力船の時代になるとアラスカは水産基地として栄え、東西冷戦の時代には対ソ連の国防最前線として弾道ミサイル早期警戒システム(BMEWS)のレーダー基地網が建設され、1950年代には油田も発見されたりと、今から見れば720万ドルは超破格値の買い物。スワード国務長官は「先見の明があった」ということになり、現在のアラスカではスワード・ディという祝日もある(※)。

アメリカ領になった当初のアラスカは属領で、1912年に準州となったが、連邦議会や大統領選出への参政権は制限されていた。当時のアラスカは人口が少なく、経済的に自立の目途が立たなかったため州への昇格は沙汰闇になっていたが、石油が発見されたのを契機に、1959年にアメリカ49番目の州に昇格。現在のアラスカでは豊富な石油収入のおかげで州税はなく、そのうえ1年以上居住した者は政府の基金から配当金がもらえる制度まであって、2000年には住民1人当たり1963・86ドル(約23万円)が支給されている。アラスカはアメリカ総面積の15%を占めるが、人口ではわずか0・2%の65万人しか住んでいない(※)。だから住民に大盤振る舞いもできるのだろう。

※アラスカの住民のうち先住民は15・6%で、67・6%が白人。白人の中で一番多いのはドイツ系。
アラスカとアメリカ本土の間は、カナダ領内を通って約4000kmのアラスカ・ハイウェイで結ばれている。このうちアラスカのフェアバンクスとカナダのブリティッシュ・コロンビア州のドーソン・クリークとの間の2520kmは第二次世界大戦さなかの1942年に開通したもの。当時、日本軍はアッツ島などアリューシャン列島のいくつかの島を占領し、勢いに乗ってアラスカまで侵攻して来る恐れがあったため、アメリカが急きょ軍事基地を建設するべく物資輸送用に建設した道だった。アメリカとカナダの間は簡単なパスポート検査で行き来できるが、現在ではアラスカ州内同士も含めて交通の主役は飛行機で、アラスカはアメリカでもっとも自家用飛行機が普及している州でもある。

そういえば一昔前、日本からヨーロッパやアメリカ東海岸へ行く飛行機は、たいていアンカレジ経由という便でしたね。その話はとりあえずこちらを。



★イギリスがロシアから租借した町:ランゲル

ランゲルの地図 
ハドソン湾会社の統治領域 

ハドソン湾会社の旗
露米会社のライバルといえば、ハドソン湾会社だ。東インド会社に倣ってイギリスが1670年に設立した国策会社で、ハドソン湾を中心とした現在のカナダ北部でイヌイットとの毛皮取引を独占するとともに、行政権も取得して支配した。もっともハドソン湾会社が対立していたのは主にケベック地方を支配していたフランスで、17世紀末から18世紀にかけてはしばしば砦を奪い合って戦争をしていた。一方でハドソン湾会社は1821年には同じイギリス系の北西会社を合併し、太平洋岸へ進出してきたが、この時代まだロシアとは協調的で、1840年には露米会社からアラスカのランゲル(Wrangell)を租借している。

ランゲルはアラスカ南部の盲腸のように垂れ下がった部分にある島の町で、1811年から露米会社が地元イヌイットと毛皮取引を始め、34年に聖ディオニシウスという砦を建設。これをハドソン湾会社が租借して、スティキーン砦と改称した。ハドソン湾会社はスティキーン川を内陸との交易ルートに使おうとしたために地元イヌイットと対立したが、天然痘が持ち込まれてイヌイットが半減したため紛争はなくなった。しかし砦周辺のラッコやビーバーを獲り尽くしたために、会社は49年に砦を放棄。それでも1867年にアメリカがロシアからアラスカを購入するまで、名目的にはイギリスの統治下に置かれていた。

アメリカ領になってからは改めてランゲル砦が建設され、19世紀末にはゴールドラッシュで大きな町に発展したが、その後すっかり衰退。現在では漁港として2300人が住んでいる。

一方でハドソン湾会社は1869年にカナダ北部の行政権をイギリス政府へ返上し、翌年には交易の独占権も失ったが、現在でもカナダ大手の流通業者としてこんな感じで盛業中です。



★カリフォルニアにあったロシア領の飛び地:フォート・ロス  

現在アラスカはアメリカの飛び地だが、かつてロシア領アメリカ(アラスカ)の飛び地がカリフォルニアにあった。フォート・ロス(ロス砦)という村で、現在のサンフランシスコの北側、カリフォルニア州ソノマ郡ボデガ湾あたり。なぜそんなカリフォルニアにロシア人が村を作ったのかといえば、ロシア人の命がかかっていたからだ。

アラスカにいたロシア人たちが主食とする麦や野菜は、当初は本国からシベリア経由で運んでいた。ベーリング海峡が氷で閉ざされる冬は何ヶ月も食糧供給が途絶えるもしばしばで、特に1805年末から翌年にかけての寒波では、餓死者やビタミン不足の壊血病による死者が続出した。そこで露米会社の総支配人・レザノフ(※)は、本国からの食糧供給がアテにできないなら自力でなんとかするしかないと、自ら船を率いて南へ向かった。当時スペインが支配していたカリフォルニアでは、外国船による貿易を禁止していたが、出会った神父の好意でどうにか食糧を調達することができた。

※レザノフは露米会社の貿易業務を発展させるために、日本との通商を計画。1804年末に日本人漂着民の送還を兼ねて長崎に来航し、開港を求めたが断られた。その後レザノフは日本を攻撃して脅しをかけようとアラスカへ戻って準備を進めようとしたところ、大飢饉に遭遇したという次第。レザノフはカリフォルニアでの食糧調達に成功した後、本国へ戻る途中に1807年シベリアで病没した。
これを契機に、露米会社では安定した食糧調達のためにカリフォルニアに拠点を確保することを決意。スペインの統治が及んでいなかった入り江と岬を見つけて、1812年にロス砦を建設した。ロス砦にはロシア人60人とアラスカからやって来たイヌイット80人が定住し、畑や果樹園、牧場のほか革工場や造船所、教会などが作られた。ロス砦一帯にはインディアンも住んでいたが、彼らはロシア人を「スペイン人よりは取引が公平で親切」だと見なし、スペイン人の進出を防ぐためにロシア人の定住を歓迎。インディアンの女性と結婚したロシア人も少なくなかったらしい。

しかしロス砦での食糧生産はネズミの被害などで思ったように成果が上がらず、ラッコ猟を始めたが乱獲ですぐに獲り尽してしまった。そして1821年にスペインからメキシコが独立してカリフォルニアがメキシコ領になると、外国船による貿易が解禁されたため、わざわざ採算を度外視してまでロシア人が食糧を生産する必要はなくなった。そこで露米会社はロス砦の売却を決意。当初はイギリスのハドソン湾会社へ売ろうとしたが断られ、フランスへ売却しようとしたが話がまとまらず、メキシコに買い取ってもらおうとしたが、メキシコはロス砦は自国領だと主張し「いずれロシア人は出て行くだろうから、わざわざ金を払ってまで買う必要はない」と相手にしなかった。

結局、露米会社はジョン・サター(※)というドイツ系メキシコ人に、3万ドルでロス砦を売却し、1842年1月1日に引き揚げた。カリフォルニアは1846〜48年の米墨戦争でアメリカが獲得。現在ボデガ湾にはロシア時代の教会と支配人官舎の建物が復元されていて、観光名所になっています。

※サクラメントなどの都市を建設し、カリフォルニア開拓の父とも言える人。米墨戦争ではアメリカ軍に協力してアメリカに帰化したが、金を発見してゴールドラッシュの生みの親ともなった。その後カリフォルニアの州知事選に出馬して落選し、土地取引の紛糾から破産してしまった。
●関連リンク

アラスカ州政府日本支局  アラスカの公式サイトの日本語版
北方圏センター  アラスカハイウェーのドライブ記
The Alaska Canada Military Highway  アラスカハイウェーの地図と昔の写真(英語)
Fort Ross SHP  カリフォルニア州の公式サイトにあるフォート・ロスの紹介ページ(英語)


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