首都のすぐ横を貫くアメリカの「植民地」

パナマ運河地帯

旧アメリカ領


アメリカ租借地時代のパナマ運河地帯の旗

1903年11月3日 パナマがコロンビアから独立
1903年11月18日 アメリカとパナマが運河条約を締結。アメリカは運河地帯の「あたかも主権者として」の永久租借権を獲得
1914年8月15日 パナマ運河が開通
1977年9月7日 両国が新運河条約に調印。1999年末の運河地帯返還が決まり、返還までの間は運河経営を共同管理に
1999年12月31日 アメリカがパナマ運河地帯をパナマに返還。米軍も撤退

 

パナマ運河地帯の詳細図 
南アメリカの地図(1908年) パナマはまだコロンビア領ということになっています

世界の2大運河といえばスエズ運河にパナマ運河。スエズ運河は英仏共同資本の会社が支配し続け、エジプトはイギリスの保護国だった。一方でパナマ運河はアメリカ政府が管理し、パナマ運河の両岸5マイル(約8km)ずつは運河地帯としてアメリカの租借地、つまりアメリカの領土になっていた。戦後、列強による植民地支配が否定される中で、スエズ運河は1956年にエジプトのナセル大統領が国有化したが、パナマの運河地帯がパナマに返還されたのはようやく1999年末になってのこと。

アメリカがこの地帯を自国領とすることを狙っていたのは、パナマ運河が完成するよりも60年前、パナマ横断鉄道が開通(1855年)した時からだ。

大陸横断鉄道が開通(1869年)するまで、アメリカの東海岸から西海岸へ行くには、駅馬車でゴトゴトロッキー山脈を越えるよりも、いったん船でパナマへ向かい、パナマ横断鉄道で太平洋岸へ出て再び船でカリフォルニアへ向かったほうが、安全かつ大量輸送に適したルートだった。ゴールドラッシュでは大勢の労働者がパナマ運河鉄道でカリフォルニアへ向かったし、江戸時代末期に幕府の使節団がサンフランシスコからワシントンへ向かった時にもこの鉄道を利用した。つまり当時のアメリカにとって、パナマ横断鉄道とその沿線は自国の一部にも等しい大動脈で、だから「自国の一部と同じように支配させろ」という理屈。ロシアがシベリア鉄道の一部として満州に鉄道を建設した時に、沿線を鉄道附属地 として行政権を取得したのと同じだ。

それにパナマという国自体、アメリカが運河を建設するために独立させたと言っても過言ではない。

パナマは多くの中南米諸国と同様にかつてはスペインの植民地。19世紀初めにスペイン本国がナポレオンに征服されると中南米の植民地は相次いで反乱を起こし、南米北部では1819年にボリバールの率いるコロンビアが独立。21年にスペインを追い出したパナマも自らコロンビアへの併合を決めた。当時のコロンビアは現在よりも大きな領土を擁していたが、中央集権制か連邦制かで内紛が続き、1830年にエクアドルとベネズエラが独立、パナマも30年、31年、40年と3回にわたって独立を宣言したが、そのたびにコロンビアに脅されたり、説得されたりして独立を断念したものの、その後も独立紛争は何度も繰り返されていた。

パナマ運河の建設が着手されたのはこの時代で、最初に着工したのはフランスだった。スエズ運河を1869年に開通させたフランス人レセップスは、余勢をかってパナマ運河建設も計画し、フランス政府はコロンビアと協定を結んで1880年に工事が始まった。これを苦々しく思ったのがアメリカだ。アメリカはすでにパナマ横断鉄道を開通させていたほか、運河を建設する権利も得ていた。しかしアメリカはコロンビアに鉄道沿線地帯の割譲を要求したり、パナマで独立紛争が起きると鉄道保護を理由に出兵を繰り返し、その一方で肝心の運河建設はニカラグア・ルートと両天秤にかけてなかなか着工しようとしなかった。そこで業を煮やしたコロンビア政府はフランスによる運河建設を認めたが、予想外の難工事だったうえマラリアや黄熱病で労働者が2万2000人も死亡し、運河予定地の4割まで掘ったところでレセップスの会社は破産、工事は頓挫してしまう。

一方でアメリカでは、1899年の米西戦争の時に西海岸にいた軍艦オレゴン号をキューバへ派遣しようとしたら、南米の南端を2ヶ月がかりで遠回りをするうちに間に合わなかったという事件が起き、「国防のためにも運河建設を急ぐべき」との世論が高まっていた。この戦争でカリブ海とフィリピン、ハワイを手中に収めたアメリカにとって、パナマ運河建設は戦略的に急務となった。

そこでレセップスの会社を買い取って再びコロンビア政府と交渉し、1903年に運河地帯の永久租借などを含むヘイ・エラン条約を結んだが、コロンビア国会は「屈辱的な内容だ」と批准を否決した。するとその3日後にパナマでは独立を求める反乱が起こり、鎮圧に向かったコロンビア軍は事前に沿岸で待機していた米軍に阻まれて、パナマは独立を宣言する。そして2週間後、アメリカは新たに誕生したパナマ政府と運河条約を結び、運河地帯を「あたかも主権者として」永久に租借することを認めさせた。こうしてパナマ運河はアメリカの手で再び着工され、第一次世界大戦の勃発直後に開通した。

運河地帯ではアメリカが行政、司法の権限を持つだけでなく、パナマ人の居住も禁止され、住民はすべて立ち退かされた。もっとも運河建設に伴うガツンダムの完成で、地帯内にあった町や村はほとんどが水没してしまうのだが。またパナマ領の飛び地として残されたパナマ市とコロン市では、「疫病が運河地帯へ蔓延するのを防ぐため」とアメリカは衛生行政を握り、必要と認めれば治安活動を行う権利も得た。

運河地帯以外でも、パナマ憲法では公安や秩序が乱された場合にアメリカがいつでも干渉できる権利が明記され、パナマはアメリカの保護国になった。選挙のたびにアメリカは「混乱が起きる」とパナマへ進駐し、1904年にはパナマ軍は解散させられて警察隊に再編された。アメリカの保護国規定と干渉権は1936年の条約で撤廃されたが、その後もアメリカがパナマへの介入を繰り返したのは同じこと。最近では1989年にアメリカ軍が侵攻して国防軍を解散させ、ノリエガ大統領を「麻薬取引に関わった」と逮捕する事件を起こし、世界中を仰天させた。またパナマの通貨は米ドルが採用されてアメリカ経済に完全に組み込まれ、1941年に独自通貨「バルボア」を発行したアリアス大統領は3ヶ月で追放され、現在に至るまで米ドルが使われている。

スペインやコロンビアから独立できたと思ったら、アメリカの実質的な植民地にされてしまったわけで、パナマ100年間の歴史はアメリカから主権を取り戻す闘いの歴史でもあった。パナマ側の要求に対して、アメリカは1936年の米巴友好協力一般条約で運河地帯にパナマの最終的な主権があることを認めるとともに、運河地帯の租借料を年25万ドルから45万ドルへ引き上げ、55年の相互理解および協力条約では、運河地帯で働くパナマ人へのパナマ政府の徴税権や運河を横切る道路建設権を認めたり、パナマ市とコロン市への行政介入をやめ、租借料も年193万ドルへと引き上げた。しかし1956年にエジプトがスエズ運河を国有化すると、「パナマ運河も続け!」という声が高まるのは当然のこと。パナマでも運河地帯にパナマ人が乱入してパナマ国旗を振りかざす「主権運動」が盛んになった。

これらの動きを苦々しく思ったのが、運河地帯に住むゾーニアンと呼ばれたアメリカ人たち。彼らは「パナマ運河はアメリカが資金を出して建設したもの」「パナマ運河は国際的に重要な交通路で、パナマ政府にうまく管理できるとは思えない」と、運河地帯をアメリカが支配するのは当然だとの意識が強く、60年にアメリカ政府が運河地帯でのパナマ国旗掲揚を認め、星条旗を掲げるときは必ずパナマ国旗も一緒に揚げなくてはならないという規則を発表すると、これに猛反発し、64年には「国旗事件」を起こした。事件の発端は、運河地帯の米人学校にわざと星条旗だけを掲げてパナマ人を挑発したこと。これを発見したパナマ人学生が、パナマ国旗に取り替えようとしたところ乱闘となり、出動した米軍が発砲して死傷者が続出、パナマ市内は暴動となって米系の企業や商店が襲われ、パナマ政府は一時アメリカと国交断絶するに至った。国旗事件から3年がかりで米パ両国は運河を共同管理とする新条約案をまとめたが、それぞれの国の議会が強く反発して批准できなかった。

結局、パナマ運河返還を実現したのは、68年にクーデターで権力を握ったトリホス将軍だった。トリホスは72年に独裁体制を固めると、アメリカ資本が支配していた電力、通信会社やバナナ農園を国有化し、キューバに急接近してアメリカに圧力をかけた。また73年には国連総長に安保理をパナマで開催して「植民地主義の問題とラテンアメリカにおける平和への危機」について話し合うように要望し、これを実現。パナマ運河の返還を国際問題化させることに成功した。安保理でトリホスは「自国が植民地でないことを誇っている国が、我が国の中枢部に植民地を保持し続けようとするのは理解に苦しむ。われわれは絶対に星条旗のもうひとつの星にはならない」とアメリカを断罪する演説を行い、新たな運河条約の調印を促す「パナマ運河地帯に関する決議案」を賛成13、反対1(米)、棄権1(英)で可決させた。この決議案はアメリカの拒否権発動で葬り去られたが、アメリカは運河地帯の返還を含めた交渉のテーブルにつかざるを得なくなり、1977年にカーター大統領は1999年末までの運河地帯からの撤退と、返還までの間は運河を米パ両国で共同管理する新運河条約の締結を認めた。

途中、89年には米軍のパナマ侵攻もあったが、運河地帯の返還は予定通り行われた。パナマ運河両端のコンテナ埠頭の運営を香港のハチソン・ワンポア社が20年契約で請け負ったことから、アメリカのタカ派は「中国がパナマ運河を支配しようと目論んでいる」と煽っていたが、ハチソン・ワンポア社は中国とも英国ともほどほどに付き合って来た典型的な香港商人・李嘉誠が率いる企業だし、パナマ政府は世界でも珍しく台湾政府を承認して中国と国交を結んでいない国。ま、大げさな対中脅威論の1つでしょう。

そういえば、バブルの頃に日本が資本参加して第二パナマ運河を建設するという話が進んでいましたが、一体どうなっちゃったんでしょう?パナマには当時の日本に期待して「大平通り」と命名された道があるそうですが・・・。




★運河地帯内のパナマの飛び地:コロン

コロン市の詳細地図
コロン市の衛星写真 (google map)

コロンから右へ伸びる道がコロン回廊
パナマ運河地帯のアメリカ租借地から、パナマ市とコロン市は除外されていて、コロン市は周囲をアメリカに囲まれたパナマ領の飛び地になっていた。パナマ市とコロン市が運河地帯から除外されたのは、そうしなければパナマという国が成り立たないから。なにしろパナマ市はパナマの首都だし、コロン市もパナマ第四の都市。条約で運河地帯はパナマ人が住めないことになっていたが、パナマ総人口の4割以上が両市に住んでいるから、ここを除外しないわけにはいかない。

パナマの心臓部といえるような場所によくも運河を掘ったものだと思うが、パナマ市とコロン市を結ぶ場所が地峡の最も狭い地点だったから。両市とも運河が開通するずっと前から太平洋と大西洋を結ぶ物流拠点として栄えた町で、運河が開通する前は鉄道で、鉄道が開通する前は荷馬車と河運で、人や貨物を運んでいた。

運河建設時の地図 を見るとパナマ市もくさび形の飛び地になっていて、なんとパナマは首都が飛び地という有様だったが、1955年に市街地の拡大が認められてパナマ本土と直結するようになった。

一方でコロン市の一角には、運河の出入口でかつ他の地域から隔絶された飛び地という地の利を生かして、1953年からフリーゾーン(免税地区)が開設された。現在では香港に次ぐ世界第2位の規模の免税地区となり、中南米の貿易拠点や金融センターとして発展しているが、フリーゾーンの周囲にはパナマ各地はもちろんカリブ海諸国から職を求めて貧困層が集まり、治安の悪さも中南米随一といわれるほど。

ちなみにコロン市という名はコロンブスにちなんで命名された地名。コロン市の港・クリストバルはコロンブスのファースト・ネームから。パナマ市の港・バルボアは、コロンブスの新大陸「発見」に続いて、太平洋を「発見」したスペイン人の名前です。


★コロン回廊と領土の立体交差

旧「領土の立体交差」の衛星写真 上の高架道路がパナマ領、下の道路は元アメリカ租借地(google map)

点線で囲まれた部分がパナマ領のコロン回廊。
で、この交差点が「領土の立体交差」。(クリックすると拡大します)
一方で、飛び地のまま残ったコロン市だが、1950年にアメリカとパナマが結んだ条約で、パナマ本土とはコロン回廊で結ばれることになった。コロン回廊は幅30〜60メートルの道路で、パナマの領土としてパナマの法律が適用されたが、アメリカ人が回廊で車を運転する場合は、アメリカの自動車免許でも走ることができた。またアメリカは回廊を横切って道路や鉄道を建設したり、上下水道や電話線などを敷設する権利を得たが、すでに存在していたランドルフ・ロードとの交差点はアメリカ領として残された(ただしパナマ国民にはパナマの法律を適用)。後にこの交差点は立体交差になり、陸橋の下はアメリカ領、陸橋の上はパナマ領と、世にも珍しい領土の立体交差が出現した。

後に運河を跨いで高速道路が建設された時も、同じように橋の上の道路はパナマ領、橋の下の運河はアメリカ領になっています。
 

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