
社会主義圏に浮かんでいた資本主義のショーウインド
西ベルリン
旧実質的な西ドイツ領(米英仏共同占領地域)
1945年5月8日 ドイツ降伏。ベルリンはソ連が占領
1945年8月30日 米英仏ソの4カ国による分割占領
1948年6月24日〜1949年5月4日 ソ連による(西)ベルリン封鎖
1948年12月2日 西ベルリンで独自の市長が誕生。東西ベルリンの行政が分裂
1949年5月23日 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立
1949年10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立
1961年8月13日 東ドイツが東西ベルリンの交通を遮断(ベルリンの壁構築)
1971年9月3日 ベルリンの地位に関する米英仏ソの四カ国協定調印
1972年12月21日 東西ドイツが「基本条約」に調印。双方の主権と国境を認める
1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊。東西ベルリンの行き来が完全に自由化
1990年8月31日 東西ドイツが統一条約に調印
1990年9月12日 米英仏ソが「ドイツ問題の最終解決に関する条約」に調印。ベルリンの4ヵ国占領が正式に終了
1990年10月3日 東ドイツの各州が西ドイツに「加盟」して消滅西ベルリンの詳細地図
戦前のベルリンの地図(1933年)![]()
米英仏ソ4ヵ国のベルリン占領担当図(1955年)![]()
今はなくなってしまいましたが、戦後何かと世界的な注目を集めた最も有名な飛び地といえば、やはり西ベルリン。西ドイツの本土の間とは、途中停車が禁止された3本のアウトバーン(高速道路)と、途中下車が禁止された3本の鉄道と、米英仏の航空会社によるエアラインで結ばれ、ベルリン封鎖やベルリンの壁建設という危機を迎えながら、社会主義圏の中にぽっかり浮かぶ資本主義のショーウインドとして、東西冷戦の最前線に存在し続けていました。
東西ドイツが統一してもう15年以上経ち、「ベルリンの壁」なんて、すっかり昔話になってしまったようで、ここで基本的なおさらい。
★ベルリンの壁は、東西ドイツの国境線ではない。東ドイツと西ドイツの国境線は、ベルリンよりもっと西の方にあって、鉄条網はあっても壁はありませんでした。ベルリンは東ドイツの中でもむしろ東寄りにあって、「ベルリンの壁」とはベルリンの西半分(つまり西ベルリン)をくるりと取り囲んでいた壁でした・・・と、まぁこれは「そんなこと、知ってら〜」という人が多いと思いますが、★西ベルリンは西ドイツ領ではなく、だから西ドイツの飛び地ではない。う〜ん、これは私も知りませんでした。「西ベルリンは西ドイツの飛び地」だと思い込んでいたから、このページを作ったのに、いざあれこれ調べてみたら、西ベルリンは最後まで正式には米英仏の3ヵ国占領地域で、1972年の米英仏ソによる4ヵ国協定でも「ドイツ連邦共和国(=西ドイツ)の構成部分ではなく、またドイツ連邦共和国によって統治されない」となっていました(※)。※したがって、西ベルリン市民は名目上「西ドイツの統治下にない」ということになっていたから、徴兵もなかった。このため徴兵を回避したい西ドイツ人は西ベルリンに引っ越した。西ドイツ憲法では「ベルリンは、ドイツ連邦共和国の1つの州である。基本法及びドイツ連邦共和国の法律は、ベルリンに対して拘束力を有する」と規定されていて、実際に西ベルリンでは西ドイツの法律が適用されたし、西ドイツの国会に議員を選出していたが、西ベルリン選出の議員は国会で採決に加われなかった(大統領選出や委員会での採決には加われた)。さらに東ベルリンもドイツ民主共和国(=東ドイツ)の領土かというのも少々アヤシくて、米英仏はじめ世界中の国々は、東ベルリンを東ドイツの首都だと認めて大使館を置きながら、米英仏は「東ベルリンはソ連占領地域で、ベルリンは米英仏ソの4ヵ国による共同占領が続いている」とも見なして、東ベルリンではアメリカ軍が軍事パレードをしたり、西ベルリンではソ連軍が毎日パトロールを続けていた。出だしからいきなりヤヤコシイ話をしましたが、そもそも西ベルリンが誕生するきっかけを作ったのは、米英ソがヤルタ会談に先立って1944年に結んだ協定。この協定で、連合国が戦争に勝った暁にはドイツを3ヵ国で分割占領し(後にフランスを加えて4ヵ国)、ドイツの首都だったベルリンは重要な場所なので、これも独自に分割占領することに決められた。
ドイツが降伏すると、米英仏ソはこの協定に基づいてドイツとベルリンをそれぞれ4ヵ国で占領したが、この時点ではまだドイツを東西に分断して、2つの国家を作る予定ではなかった。実際に同じように4ヵ国で分割占領されたオーストリアは、1955年に1つの国家として独立している(※)。ベルリンの市政も当初は4ヵ国の占領下で統一して運営されていて、46年10月には全ベルリンの市議会選挙が行われた。その結果は、第一党が社会民主党(後に西ドイツ政権与党)、第二党がキリスト教民主同盟で、ソ連が強力に後押しした社会主義統一党(後に東ドイツの独裁政党)は3位に留まり、社会民主党の市長が選出されたが、ソ連が拒否権を発動したため、ベルリン市長のポストは不在が続いた。
※オーストリアの4ヵ国分割占領図(1955年) ウィーン市はベルリン以上に細かく分割されたうえ、中心部は「共同管理地区」にベルリン封鎖(48〜49年)と東西ドイツの分裂大空輸作戦東西ドイツの分裂が決定的になるのは、47年にアメリカが発表したマーシャルプラン。これは戦争で荒廃したヨーロッパの復興に、アメリカが無償もしくは低金利で融資をするという計画で、東欧諸国がソ連の政治的支配下に組み込まれようとしていることに対抗して、西欧諸国をアメリカの経済的支配下に組み込もうとするものだった。ソ連は猛反発したが、米英仏などは3ヵ国が占領しているドイツ西部だけで連邦政府を作り、マーシャルプランを受け入れさせることを決定し、それに基づいて48年6月にはドイツ西部だけで通貨改革(戦前のライヒスマルク→西ドイツマルクに切り替え)を実施。それに対抗して2日後に、ソ連占領地域も独自の通貨改革(戦前のライヒスマルク→東ドイツマルク)を行ったため、ドイツは2つの通貨圏に分裂した(※)。
※この時点では、東ベルリンでは東ドイツマルク以外は使用禁止、西ベルリンでは東西どちらのマルクも使えた。ソ連の対抗措置はそれだけでは済まず、西ベルリンに駐留する米英仏の3ヵ国軍に対する嫌がらせとして始まったのが、ベルリン封鎖だった。ソ連は当初、ドイツ西部から西ベルリンへ向かうアメリカの軍用列車や軍用車の通過を「ソ連の占領地域を通るなら、乗客や手荷物を厳重に検査させないと通さない」と妨害していたが、やがて西ベルリン行きの全ての貨物列車やトラック、旅客列車の運行も妨害され、西ベルリンへの送電も止められた。ソ連が封鎖に踏み切った目的は、西ベルリンを干上がらせることで、米英仏を西ベルリンから退去させるか、ドイツ西部だけの連邦政府樹立を断念させることだったが、アメリカも威信にかけてのべ27万7728回にわたって輸送機を出動させて対抗。11ヶ月に及んだ封鎖で燃料や食糧に困窮した西ベルリンの市民を支え続けた。結局、最盛期には1分に1機が着陸したというアメリカの大空輸作戦によってソ連は封鎖を断念したのだが、この期間に東西ベルリンではそれぞれ別の市長や市議会が成立し、市政が分裂。封鎖解除後の49年にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が相次いで誕生し、ドイツは正式に2つに分断されることになった。「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉がありますが、お金(通貨)の分裂がベルリン市の分裂、さらに国家の分裂を招いたわけですね。
ベルリンの壁建設(61年)と東西ベルリンの分断
東西ドイツの分裂によって、国境線には鉄条網が敷かれ、東ドイツ側では幅5kmの無人地帯も作られて、東ドイツ国民の西ドイツへの渡航は厳しく制限されていったが、この時点ではまだ東西ベルリンの行き来は自由だった。電車やバスは一体となって運行され、1950年代末では西ベルリンで働く東ベルリン市民は5万3000人、東ベルリンで働く西ベルリン市民も1万2000人いた。東ドイツ(およびソ連)とって、西ベルリンは西ドイツの一部だとは認めていないし、東ドイツの首都として統一されるべきだという主張だったから(だから東ドイツの首都は、東ベルリンじゃなくて「ベルリン」だった※)、西ベルリンへの嫌がらせ的な通行妨害はたびたび繰り返しても、本格的な通行禁止はしなかった。
※西ドイツの首都は学園都市だったボンに置かれたが、ドイツ人の意識には東西関係なく「首都はベルリン」という想いが強く、ドイツ統一後に改めて首都のベルリン移転を決定。99年から実施された(2001年に移転完了)。このため西ベルリンは、西側社会への亡命を望む東ドイツ国民にとって格好の抜け穴と化してしまう。西ドイツと東ドイツとの経済格差は年毎に拡大し、1953年に東ドイツが生産性向上を狙って労働者のノルマ引き上げを発表すると、東ベルリンをはじめ各地で暴動が発生。暴動はソ連軍の出動で鎮圧されたが、この年だけで33万人が西ドイツへ亡命。49年から60年まででは東ドイツの人口の4分の1にあたる250万人に達し、61年は4月だけの1ヶ月間で3万人を越えた。亡命者の多くは若年労働者だったから、東ドイツにとってはまさに国家存亡の危機。そこで東ドイツ国民の流出を防ぐために、61年8月に突然西ベルリンをぐるりと囲んで建設されたのが、ベルリンの壁だった。※ベルリンの壁は事前に予告もなく建設されたので、たまたま東ベルリンの知人の家に行っていた西ベルリンの市民が、そのまま東側に取り残されてしまう事態もあちこちで起きた。ただし、壁がいきなり数分間で完成するわけはなく、最初は東ドイツの警官が道路にバリケードを築いた後に、数日かけて壁を作ったわけで、あちこち右往左往しながら抜け道を見つけてどうにか西ベルリンへ戻れた人がほとんどだった。ベルリンの壁建設によって、東西ベルリンの交通は遮断されたが、ベルリン封鎖とは違って西ベルリンの市民を閉じ込めるのが目的ではなく、あくまで東ドイツ国民の流失を防ぐのが目的だったから(※)、やがて西ベルリン市民の東ベルリン訪問は条件付ながら認められるようになった。63年末には年末年始の17日間に限って、西→東への訪問が認められ、西ベルリン市民の半数近く当たる120万人が東ベルリンを訪問。64年には44日間に拡大され、66年10月からは「親族の緊急事態」に限っていつでも通行できるようになった。※壁建設後、88年までの亡命者数は年平均2万2505人と、それまでの10分の1以下に減った。西ドイツ政府は「東ドイツも本来ウチの領土であり、そこの住民も本来はウチの国民」という立場だったから、亡命に成功した者には無条件で西ドイツの国籍が与えられた。また西ドイツ政府は東ドイツ政府から「政治犯の買い取り」も行い、63年から89年までに3万3755人の政治犯が西ドイツに移されて釈放された。当時、ベルリンの壁を越えようとして東ドイツの警備兵に銃殺されるという事件が起きていたが、そんな危険を冒さなくても西ドイツ行きの列車に乗れば簡単に亡命できた。つまり列車が国境に着いて東ドイツの警備兵がパスポート検査に来たら、「パスポートなんて持ってません。西へ亡命したいんです」と申し出る→その場で逮捕されて政治犯になる→西ドイツ政府が買い取ってくれて亡命できる・・・という仕組み。いや、わざわざ列車に乗らなくても、ベルリンの壁の検問所で「西へ行きたい!亡命したい!」とダダをこねて逮捕されれば、結果的にホントに亡命できたらしい。政治犯の買い取り価格は1人9万5847マルク(77年以降)で、離散家族も含め合計25万人を買い取り、35億マルクを支払ったという。1970年代に入ると、東西冷戦の緊張緩和を受けて、東ドイツと西ドイツが「1つの民族、2つの国家」という現状を認め、それぞれお互いを国家として承認する機運が高まり、72年末には両ドイツ基本条約が結ばれてお互いを承認し、翌年国連に同時加盟した。それに先立って米英仏ソは「ベルリンの地位に関する4ヵ国協定」を結び、米英仏(+西ドイツ)が「西ベルリンは西ドイツの一部ではない」と改めて確認する代わりに、ソ連(+東ドイツ)は「西ドイツと西ベルリンとの結びつき」を認め、その間の交通の保障や、西ベルリンと東ドイツとの行き来の改善を約束した。これによって西ベルリンの市民は検問所で数十分行列に並び、東ドイツ政府が規定した東ドイツマルクへの強制両替を行えば、自由に東ベルリンに入れるようになった。ただし東→西へは引き続き厳しい制限が続いた。周囲を壁に囲まれた西ベルリンは当時よく「陸の孤島」と表現されたが、実際には中から外へは自由に行けて、外から中へは入れなかったということ。
ベルリンの壁崩壊(89年)と東西ドイツの統一
1985年にゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任して、硬直した社会主義体制を立て直そうとペレストロイカ(再構築)政策に乗り出した。しかし情報公開や政治体制の改革を進めた結果、最終的にソ連が解体。社会主義圏の東欧諸国も次々と民主化されて、東ドイツは国自体がなくなり、西ドイツに吸収されることになった。その象徴とも言えるのが、89年秋に起きたベルリンの壁の崩壊だ。
ベルリンの壁崩壊の伏線となったのは、東ドイツ政府のトップだったホーネッカー書記長(国家評議会議長)が87年に西ドイツを訪問したこと。ホーネッカーはこの訪問で東西ドイツの平和共存をアピールして、東ドイツの政権安定を図ろうとしたが、完全に裏目に出てしまった。ホーネッカーが生まれ故郷のノイキルヒェン(フランス国境に近いザール地方)に里帰りした姿をテレビ中継で見た東ドイツの国民は、「政府の一番エライ人が西ドイツへ行ってるんだから、俺たちにだって行かせろよ!」と不満を高めただけになり、西ドイツへの出国申請者は5万人から25万人へ急増した(※)。
※東ドイツから西ドイツへは政府に申請して合法的に移住もできた。ただし認められるのは身寄りのない年老いた親が西ドイツにいる人や、65歳以上の年金生活者(西へ引っ越してくれれば年金を払わずに済むから)などが中心で、他には犯罪歴のある者や素行の悪い者、つまり東が追い出したがっていた人は許可をもらえる可能性があった。プラハの西独大使館に侵入する東独人そして1989年、6月に中国で天安門事件が起こり民主化運動が徹底弾圧されると、ゴルバチョフ登場以来のソ連・東欧の改革路線も終わりを告げるのではないかと不安に感じた東ドイツ国民が、西ドイツ大使館へ殺到して亡命を申請した。もっとも東ドイツの西ドイツ大使館(正式には常駐代表部)は警戒が厳重だったので、同じ社会主義国で簡単に行けるハンガリーやチェコスロバキア、ポーランドの西ドイツ大使館に東ドイツ国民が押し寄せた。
8月にハンガリーとオーストリアの国境が複雑に入り組んだ町・ショプロン郊外のノイジードラー湖(フェルトゥー湖)で開かれた「汎ヨーロッパ・ピクニック」で1000人が越境したのに続き、9月にはハンガリーがオーストリアとの国境を正式に開放して、6万人の東ドイツ人がオーストリア経由で西ドイツへ亡命。チェコスロバキアでも西ドイツ大使館周辺に詰め掛けた5500人の亡命希望者が特別列車で西ドイツへ送られた。こうして東から西への亡命希望者の群れはもはや押しとどめることができなくなっていった。
10月にゴルバチョフが東ドイツを訪問すると、「ゴルビー、助けて!」のデモが毎週のように起こり、月末には57万人の大規模なデモに発展した。混乱を収拾するためにホーネッカーは辞任し、代わってクレンツが書記長に就任したが、反政府デモは収まるどころか弾みがついてますます拡大し、11月4日には東ベルリンで参加者100万人に達した。そこでクレンツ政権は国民の不満を和らげるために、急遽西ドイツへの旅行制限の緩和を決定した。それまでは特別な事情がない限り許可されなかった出国ビザを、特別な事情がない限り許可することにしたのだが、いずれにしても西ドイツへ行くにはビザの取得が必要だった。
ところが、11月9日夕方に記者会見で旅行制限の緩和を発表したスポークスマンは、急な決定だったために詳細をあいまいしたまま発表し、記者から「いつから実施するんですか?」と質問されると、うっかり「今すぐ実施」と答えてしまった(ホントは翌日から)。かくしてテレビで記者会見を見た東ベルリンの市民たちがたちまち壁の検問所に詰め掛けて、「政府が今すぐ西へ行くのを自由化すると発表したぞ!」と押し問答を始め、東の警備兵も突然たくさんの市民が「自由化されたぞ!」と言いながら押し寄せて来るのでどう対処したらいいのか混乱し、1つの検問所が群衆を通してしまったところ、「他の検問所では通れるようになってるぞ!」と噂が広がって、警備兵が呆然とする中をその夜のうちに数万人の東ベルリン市民が西ベルリンへ出国。さらに浮かれた東西双方の群衆たちはハンマーを持ち寄り、「もうこんなものいらないだろ!」とその場でベルリンの壁を壊し始めてしまった。
こうしてある日突然築かれたベルリンの壁は、ある日突然崩壊した。東から西へと雪崩を打ったのは国民だけではなく、翌年には東ドイツという国自体、各州が西ドイツへ加盟して消滅してしまった。「ベルリンの壁の存在は国家存亡にかかわる」という、それまでの東ドイツの言い分は、まったく正しかったわけですね。
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東西ベルリンの市民に占拠された壁
★東ドイツ内にあった西ベルリンの飛び地 & 西ベルリンの飛び地の中にあった東ドイツの飛び地
周囲を社会主義の東ドイツに囲まれて、「資本主義の飛び地」のような存在だった西ベルリンだが、東ドイツ領内に12ヵ所のの飛び地を持っていた。飛び地あったのは街を二分した東ベルリンの中ではなくて、西ベルリンの西側、つまりポツダムなど東ドイツ領となった周辺の町のエリアの中。一方で、これら西ベルリンの飛び地の中にも東ドイツ領の飛び地が3ヵ所あった。
どうしてこれらの飛び地が生まれたかと言うと、西ベルリンの境界線は戦前のベルリン市の領域(の西半分)をそのまま採用したから。戦前、ドイツが1つだった頃からこれらの飛び地は「ベルリン市の飛び地」だった。日本でも市町村同士の細かな飛び地は無数にあるわけで、小学校の学区やらゴミの収集がどうなるとかいった問題はあっても、しょせんその程度のこと。ところがドイツが二分されて単に市町村の境だったものが国境線となり、資本主義と社会主義の境界線にされてしまったのだ。
もっとも、戦後しばらくは東西ベルリン間や西ベルリンと周囲の東ドイツは自由に行き来できたので、さほど大きな問題はなかったが、1961年に東ドイツが突然西ベルリンとの交通を遮断して、西ベルリンを「ベルリンの壁」で取り囲んでしまったため厄介なことになった。これらの飛び地の多くは、畑や野原、森などで人が住んでおらず、幅数メートルという狭い飛び地もあったために壁は作られなかったが、西ベルリンから約1km西南にあった飛び地・シュタインシュトゥッケンでは190人の住民が暮らしており、周囲を壁で覆われた。住民達は西ベルリンとの行き来は保障されたが、そのたびに厳重な検問を受けなければならなかった。
1971年にベルリンを管理する米英仏ソの4カ国で協定が結ばれ、それをもとに翌年、東西ドイツがお互いの主権と国境を認めるようになると、これらの飛び地も相次いで交換されることになった。シュタインシュトゥッケンでは西ベルリンとの間を結ぶ回廊が東から西へ割譲され、両側を壁で覆われた道路が開通して、西ベルリンの市内バスが乗り入れた。
このほか、東西ベルリンの間でも「道路の一部分だけが相手方の領土になっている」ようなケースを中心に、境界線の修正の88年まで続けられていた。
壁と僕とベルリンと 西ベルリンの南西部の飛び地・シュタインシュトゥッケンの現地ルポ
berlin.enclaves.org 西ベルリンの飛び地の変遷について。写真や地図もあって詳しいです(英語)
Berliner Exklaven und Enklaven 西ベルリンの飛び地の詳細について(独語)
★西ベルリンのソ連軍警備区域
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こちらをご覧下さい
★東ベルリンの地下を通る西ベルリンの地下鉄 & 西ベルリンを走る東ドイツの国電
電車を発明したのはドイツ。そういうわけで、戦前のベルリンは路面電車にSバーン(国電)、Uバーン(地下鉄)と、電車が市内を縦横無尽に走っていた。戦後もそれらは運行を続け、西ベルリンも含めて東ドイツが運行を行っていたが、1961年にベルリンの壁が築かれると、電車は国境線でストップされてしまい、そのまま路線は分断されてしまった。そもそも西側が東ドイツが壁を築いたことを知った第一報は、西ベルリンの駅で地下鉄を待っていた乗客から「時間になっても電車が来ない」という通報が西ベルリンの警察署に相次いだことだった。
ベルリンの壁ができてからは、西ベルリンの路面電車は廃止。Sバーンは東西ベルリンの境界線で線路が分断されて、東は東、西は西だけで運行された。ただし西ベルリンのSバーンも東ドイツ側が運行したため、西ベルリン市民は「運賃を払うとそれが壁の建設費用に充てられる」と反発し、乗客が激減してすっかり閑散としてしまい、80年代には路線も縮小されてしまった。一方、Uバーンも東西別々で運行されたが、路線の大部分が西ベルリンだったため、西ベルリンのUバーンは西が線路を借りて運行。しかし6号線と8号線は一部区間で東ベルリンの地下を通っていたため、この区間内の各駅は電車は止まらず通過した。ただし6号線のフリートリッヒ通り駅だけは、東西ベルリンを結ぶゲートに指定されたため停車し、駅構内に検問所が作られた。
ドイツ統一後はSバーンやUバーンの運行も統一され、分断された路線の復活が続いています。
1949年の路面電車の路線図東西ベルリンを網の目のように走っていました
1965年の路面電車の路線図路線網はプッツリと東ベルリンだけに
1960年のSバーン路線図山手線のような環状線や真ん中を貫く中央線みたいな路線が東西ベルリンの境界とは関係なく走っていました
1961年のSバーン路線図東西ベルリンの境界線で見るも無残に路線が分断
1960年のUバーン路線図
1970年のUバーン路線図東ベルリンの駅は フリートリッヒ通り駅を除いて通過となり「×」印
1992年のSバーンとUバーン路線図東西ドイツ統一後。中央線は復活したが、環状線はまだ整備中
2003年のSバーンとUバーン路線図もはや東西ベルリンの境界はどこにあったのかわからなくなりました。環状線も復活して大団円
★西ドイツ本土と西ベルリンとを結ぶ交通
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西ベルリンと西ドイツ本土との間は、航空機のほか3本のアウトバーン(高速道路)と3本の鉄道で結ばれていた。
航空機はパンナム(米)、英国航空(英)、エールフランス(仏)の3社が西ドイツの主要都市との間にシャトル便を運航していて、国内便並みの手続きで搭乗できたが、ルフトハンザなど西ドイツの航空会社は西ベルリンに乗り入れできなかった。西ベルリンはあくまで米英仏の占領地域で、西ドイツ領ではなかったためだが、米英仏の利権確保という側面もあったらしい。運賃は西ドイツ政府からの補助金で割安に抑えられていた。
鉄道は3ルートあって、東ドイツ領内はノンストップだが、国境でパスポート検査があり、東ドイツの通過ビザが必要(その場で取得)だった。列車の運行について東西ドイツの間でややこしい折衝が必要だったためか、直通列車は西ドイツとしては最後の頃(1970年代半ば)まで蒸気機関車が使われていた。
アウトバーンも3ルートあり、国境に検問所があって東ドイツの通過ビザが必要なのは同じ。東ドイツのアウトバーンは戦前作られたまま補修が満足に行われず、デコボコ道が多かったというが、西ベルリンへの3ルートだけは西ドイツ政府が補修費用を負担したので、かなり快適に走れたらしい。
●1978年冬の鉄道時刻表(西ドイツ本土〜西ベルリン)
西ドイツ本土→西ベルリン 始発駅と終着駅 西ベルリン→西ドイツ本土 始発駅と終着駅 ハノーバー1:38発 西ベルリン5:33着 アーヘン→西ベルリン 西ベルリン0:00発 ハノーバー4:00着 モスクワ→ロンドン、パリ ハノーバー2:42発 西ベルリン6:30着 ケルン→西ベルリン及びロンドン、パリ→モスクワ 西ベルリン6:20発 ハノーバー9:53着 西ベルリン→ケルン ハノーバー8:11発 西ベルリン11:35着 ハノーバー→西ベルリン 西ベルリン8:26発 ハノーバー13:42着 西ベルリン→アーヘン、ブレーメン、カッセル
及びワルシャワ→パリハノーバー10:07発 西ベルリン13:52着 アーヘン、ブレーメン、カッセル→西ベルリン
及びパリ→ワルシャワ西ベルリン11:08発 ハノーバー15:00着 西ベルリン→ボン、ケルン、ホーク
及びマルモ→ハノーバーハノーバー14:10発 西ベルリン18:23着 ボン、ケルン、ホーク→西ベルリン 西ベルリン15:44発 ハノーバー19:30着 西ベルリン→アーヘン及びワルシャワ→パリ ハノーバー15:58発 西ベルリン19:31着 ボン→西ベルリン及びハノーバー→マルモ 西ベルリン16:51発 ハノーバー20:16着 西ベルリン→ハノーバー ハノーバー18:00発 西ベルリン21:37着
アーヘン→西ベルリン及びパリ→ワルシャワ
西ベルリン22:47発 ハノーバー2:47着
西ベルリン→アーヘン
ハンブルグ8:00発 西ベルリン11:30着 ハンブルグ→西ベルリン 西ベルリン8:11発 ハンブルグ11:49着 西ベルリン→ハンブルグ ハンブルグ13:40発 西ベルリン17:08着 ハンブルグ→西ベルリン 西ベルリン14:00発 ハンブルグ17:49着 西ベルリン→ハンブルグ ハンブルグ17:13発 西ベルリン21:21着
ハンブルグ→西ベルリン
西ベルリン17:17発 ハンブルグ20:48着
西ベルリン→ハンブルグ
フランクフルト8:55発 西ベルリン16:09着 パリ→西ベルリン 西ベルリン6:31発 フランクフルト13:41着 西ベルリン→フランクフルト フランクフルト15:00発 西ベルリン22:22着 フランクフルト→西ベルリン 西ベルリン13:11発 フランクフルト20:29着 西ベルリン→パリ フランクフルト22:33発 西ベルリン6:01着 カッセル→西ベルリン及びベルン→モスクワ 西ベルリン22:55発 フランクフルト7:13着 西ベルリン→カッセル及びモスクワ→ベルン ※西ベルリンはZoo駅の発着時刻。現在ではベルリンからハノーバーやハンブルグまで1時間半、フランクフルトまでは約4時間●関連リンク
ベルリンの壁写真館 ベルリンの壁についてわかりやすい説明と写真がたくさんあります
ベルリンの壁 ベルリンの壁崩壊前と崩壊後の現地ルポです
ベルリンの壁崩壊 89年当時、西ベルリンに在住していた日本人主婦の体験談です
ドイツ語情報拾い読み ベルリンの壁の土地所有権をめぐって裁判が続いているとか
Berlin: S+U Bahn Netzspinnen ベルリン市交通局のSバーン(国電)、Uバーン(地下鉄)、Tram(市電)の路線図(独語)参考資料:
『世界年鑑 1955』 (共同通信社 1955)
『世界年鑑 1962』 (共同通信社 1962)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
杉江弘 「東西を結ぶ91急行」 (『鉄道ファン 1973年3月号』 交友社)
『Thomas Cook International Timetable』1978年2月号 (イギリス:Thomas Cook 1978)
『ブルーガイド海外版 ヨーロッパの旅2』 (実業之日本社 1979)
A.グローセル 訳:山本尤ほか 『ドイツ総決算』 (社会思想社 1981)
木村実知子 『ドイツ再統一』 (リーベル出版 1993)
平井正 『ベルリン歴史の旅』 (光人社 1993)
ドイツのリムジンサービス http://romantis.hp.infoseek.co.jp/
berlin.enclaves.org http://berlin.enclaves.org/
写真:ドイツ外務省
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