グルジアの「ロシア離れ」を抑えるロシアの手綱

アブハジア
 
首都:スフミ 人口:21万6000人(2003年)

1991年4月9日 グルジア共和国がソ連から独立
1992年7月23日 アブハジア共和国がグルジアから独立 を宣言
1992年8月〜1993年9月 グルジア軍が首都スフミな どを占領
1993年9月 アブハジア軍が首都スフミなどを奪還
1994年5月15日 クルジアとアブハジアが停戦に合意
1999年10月3日 アブハジア共和国が住民投票で憲法を 制定し、改めて公式に独立を宣言
2008年8月26日 ロシアがアブハジアを独立国として承認

コーサカス(カフカス)地方の民族分布図(1995年)  
コーカサス連邦(ザカフカス)連邦時代のグルジア 
ソ連時代のグルジアの詳細地図 

黒海とカスピ海の間、ロシアとトルコ、イランに挟まれたコーサカス地方(カフカス地方)は、さまざまな民族がモザイク状に入り乱れて住 んでいる場所ですが、ソ連が解体してからというもの、それまで日本では聞いたことがなかったような「共和国」があれこれ出現して、紛争の連続です。最近で はチェチェンの紛争が酷いことになっていますが、90年代前半にはアゼルバイジャンやグルジアで熾烈な内戦が続いていました。グルジアでは90年代半ばに 戦闘はいちおう収拾したものの、西北部のアブハジアと北部の南オセチアはそれぞれ独立を宣言して、グルジア政府の統治がまったく及ばない状況が続いていま す。

アブハジアはソ連時代には「黒海の真珠」と呼ばれ、クリミア半島と並んで黒海沿岸のリゾート地だったが、内戦で住民の多くが難民とな り、ソ連崩壊前には50万人以上いた人口も、現在では半減してしまったようだ。グルジア人が グルジア正教徒なのに対して、アブハジアに住むアブハズ人はイスラム教徒。じゃあ、アブハジアの独立は宗教対立によるものかといえば、一概にそうではな い。アブハジアの独立を後押ししているのは正教徒のロシアだし、グルジアではアメリカの影響力が強まっている。

グルジア一帯は、4世紀頃までローマ帝国の、13世紀にはモンゴルの、16世紀から17世紀にかけてはオスマントルコの支配を受けた が、長く独立した状態が続いていた。アブハズ人はかつてはキリスト教徒だったが、オスマントルコの時代にイスラム教に改宗した。19世紀半ばにロシアの支 配下に入ると、多くのアブハズ人が弾圧を恐れてトルコへ逃げた。代わってアブハジアにはグルジア人やロシア人、ギリシャ人が入植して来たため、20世紀に 入る頃にはアブハズ人はアブハジアでも少数派になってしまった。

1917年のロシア革命で帝政ロシアが崩壊すると、グルジアは翌年さっそく独立を宣言する。しかし赤軍(ソ連軍)が占領し、21年は共 産党主導によるグルジア・ソビエト社会主義共和国が成立、さらに22年春にはアゼルバイジャン、アルメニアと合併して、ザカフカス・ソビエト社会主義連邦 共和国となり、ソ連に加盟することになった。

この時ソ連では、連邦のあり方をめぐって熾烈な権力闘争が続いていた。グルジア共産党のマハラゼらは「独立性、自主性を持つ共和国で構 成される緩い連邦制」を主張していた。これに対して「共和国はロシアの下での自治共和国にし、中央集権を強化すべし」と主張したのが、グルジア出身だがソ 連共産党の書記長に就任していたスターリンだった。建国の父・レーニンは連邦制を支持したた め、スターリンもそれに従うフリをして共和国を残すことにしたが、この時レーニンはすでに死の直前。スターリンは実権を握ると、マハラゼらを民族主義に偏 向した「グルジア反対派」だと非難して粛清した。この「グルジア問題」によって、ソ連では「共和国とは名ば かりの、連邦政府による強力な中央集権制」という体制が確立した。

スターリンは「グルジア反対派」の根城であるグルジアの勢力を削ぐために、グルジア共和国内にアブハジア自治共和国やアジャリア自治共 和国、南オセチア自治州を設置して政治権力を分散させたが、その一方で文化面ではアブハズ語にグルジア文字を押し付けるなど、グルジアへの同化政策を推し 進めた。

さて1990年代初め。ソ連が崩壊するとグルジアは独立を宣言するが、これに対して「再びグルジアへの同化政策が進む」と反発したのが アブハズ人だ。アブハジアではソ連時代の89年に、グルジアからロシアへの帰属変更を求める運動が起き、ソ連軍に武力鎮圧される事件が起きていた。当時の アブハジアの人口52万5000人の民族構成は、グルジア人45.7%、アブハズ人17.8%、アルメニア人14.6%、ロシア人14.2%、ギリシャ人 2.8%の順。グルジア独立で「大グルジア」の民族主義的機運が高まれば、アブハジアの自治は取り消され、少数派のアブハズ人は完全にグルジア化させられ てしまうだろうと恐れたのだ。

グルジアでは独立直後から内乱が始まり、92年1月にはクーデターで大統領が追放される事態となった。こうした混乱を機に、アブハジア は7月に独立を宣言したが、たちまちグルジア軍に攻め込まれ、瞬く間にアブハジアの大半を占領された。しかしアブハズ人の独立軍は、チェチェン人などロシ ア領内に住むイスラム教徒義勇軍の支援を受けて勢力を盛り返し、93年9月には首都スフミを奪還し、この時アブハジアに住んでいたグルジア人24万人のう ち、20万人が難民となって逃げ出した。

アブハズ軍の反撃には、ロシア軍がパラシュート部隊の投入などで協力したと言われている。グルジアは独l立以来、欧米と接近してロシア と距離を置こうとしていたが、アブハジアを失った翌月、独立国家共同体(CIS)への加盟を受け入れて、いったんロシアの勢力圏に留まった。ロシアにとっ てグルジアが欧米の勢力圏に入ることは、ロシアの黒海(ひいては地中海)への出口やカスピ海の産油地帯が脅かされることになる。スターリンの時もエリツェ ンの時も、歴史的にアブハジアは、グルジアの「ロシア離れ」に歯止めをかける役割を果たした。もっとも、アブハジアで戦闘経験を積んだチェチェン人の義勇 軍は94年以降、ロシアにとって最も手ごわい独立勢力になってしまう皮肉の結果にもなった。

アブハジアでは94年に停戦が成立して以来、ロシア軍主体の国連PKO部隊((UNOMIG=国連グルジア監視団)が派遣され、東北部 のコドリ谷一帯を除いてグルジア政府の統治からはまったく切り離された(※)。アブハジアは99年に住民投票で新しい憲法を制定し、改めて独立を宣言した が、ロシア・ルーブルが法定通貨となり、2002年には旧ソ連時代の書類をもとに住民の多くがロシア国籍を 取得して、ロシア化が急速に進んだ。アブハジアは肥沃な農地が広がり、果物や茶、タバコなどの生産も多い豊かな地域だが、ロシアと結ぶ鉄道 の運行が再開したことで、観光施設の再建も進んでいる(※)。

豊かな地域だったので、 独立時にアブハジアから逃れたグルジア人難民20万人のうち、約5万人はアブハジアへ戻ったり、農園労働者として出稼ぎに行ったり、アブハジアへ毎日通勤 しているという。

2008年8月に、やはりグルジアからの独立状態が続いている南オセチアでグルジア軍とロシア軍が衝突すると、ロシア軍とアブハジア軍 はグルジア政府が支配していたコドリ谷も制圧し、アブハジア全土がアブハジア政府の支配下に入った(※)。ロシアは南オセチアとともにアブハジアを国家と して承認し、中南米で「反米」を掲げるニカラグアとベネズエラも承認している。アブハジア国会は09年にロシア軍基地の建設を承認し、ロシアとの一体化に 拍車がかかりそうだ。

※1993年に独立派が首都スフミを占領して以来、グルジ アのアブハジア自治州政府はグルジアの首都トビリシへ移転し、「亡命政府」となっていたが、06年7月にコドリ谷に移った。しかし08年8月の戦闘でコド リ谷を追われてトビリシへ移転し、再び亡命政府に戻っている。
08年8月紛争の地図 ア ブハジアの赤い部分がグルジア政府の支配下にあったコドリ谷一帯。


アブハジア自治州の亡命政府の旗


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