北キプロス
 
キプロス連邦トルコ人共和国→北キプロス・トルコ共和国
首都:(北)ニコシア 人口:19万8000人(2001年)

1974年7月15日 キプロス共和国でギリシャ併合派がクーデター
1974年7月20日 トルコ軍がキプロスへ出兵し、北部を占領
1975年2月13日 トルコ軍占領地域でキプロス連邦トルコ人共和国が成立
1983年11月15日 北キプロス・トルコ共和国として独立

分断国家といえば、かつてはドイツ、ベトナム、イエメンといろいろあったのに、今は朝鮮半島くらい。あと中国も一応そうですね、中華人民共和国と中華民国があるから。それからもう1つ、「世界が認めない分断国家」がキプロス。キプロス島はコンクリートの壁や鉄条網で東西に隔てられ、首都ニコシアも市街地が真っ二つに分割されている。壁の南側にはキプロス共和国、北側には北キプロス・トルコ共和国があるが、北キプロス政府を承認しているのは世界でもトルコだけ。キプロスの人口78万人のうちギリシャ系が77%、トルコ系が18%を占めていて、北キプロスはトルコ系住民だけの「国家」だ。

キプロスは1960年の独立当初は統一国家だったのになぜ分断されたかというと、ビサンティン帝国の復活を夢見たギリシャの無謀な拡張欲のせい。第一次世界大戦でオスマン・トルコが解体した時、ギリシャはイスタンブールならぬコンスタンティノーブルやエーゲ海東岸の奪還を目指して失敗したが、その後エーゲ海の島々を地道に取り戻し、その仕上げにギリシャ系住民が多いキプロス島を併合しようとして大失態を演じたのだ。

地中海の要衝・キプロス島は、イギリスがエジプト防衛のための拠点としてオスマン・トルコから租借していたが、第一次世界大戦後に植民地として併合した。植民地で民衆の不満が支配者へ向けられないようにわざと民族対立を煽っておき、自らは調停者の役を演じるという分割統治の手法は、歴史的に「腹黒紳士」たるイギリスが得意とするやり方だが、キプロスでも少数派のトルコ系住民に肩入れし、北部では行政上の正式な地名にトルコ語を採用してギリシャ系住民との対立を煽ったりした。

1960年にキプロスが独立を達成すると、ギリシャ正教の大司教で独立運動の指導者でもあったマカリオスが大統領に就任するが、トルコ系住民から選ばれる副大統領には防衛や外交を含めた拒否権など大きな権限を与えていた。

しかし、やがてギリシャ系住民の間ではギリシャへの併合を目指す運動が高まり、マカリオスも当初はこれに同調して63年に憲法を修正。副大統領の権限を縮小するとともに、キプロスを独立した国家と規定する条文を削除してギリシャとの統合の道を開いた。このため猛反発したトルコ系住民との間で内戦が勃発し、翌年に国連軍が派遣されてとりあえず停戦。その後、マカリオスはギリシャの軍事独裁政権への批判を強めるとともにソ連に接近し、キプロスはギリシャを追われた民主化活動家の拠点となった。こうしてキプロスは、トルコ系とギリシャへの統合派、ギリシャ系だが軍事政権との統合には反対派の3つに分かれて対立が続いた。

そして74年7月、ギリシャ軍の支援を受けたギリシャ系統合派の民兵がクーデターを起こす。これにはソ連に接近した「赤い坊主」マカリオスを追放したがっていたアメリカがお墨付きを与えていた。クーデター部隊は戦車を先頭に大統領官邸へ投入して、専用車で脱出しようとしていたマカリオスを車ごと粉砕し、傀儡政権を樹立したまでは良かったが、実はマカリオスは生きていて半日後にラジオで肉声を流す。クーデター部隊が爆破した専用車に乗っていたのは、あらかじめこうなることを予想して作らせておいた蝋人形だった・・・というなんだかスパイ映画みたいな話だが、マカリオス大司教の「復活」にギリシャ軍は大混乱に陥る。

トルコ軍がトルコ系住民保護のためキプロスへ出兵し瞬く間に北部を占領すると、ギリシャ軍はトルコ本土への侵攻を決めて国民に総動員令をかけるが、上から下まで腐敗していた軍事政権の将校らが武器の横流しに精を出していたため、武器庫にあるはずの武器がなく、責任のなすり合いの果てに軍事政権は数日後に自ら崩壊し、ギリシャは棚からボタ餅式に民主化が実現したのであった。。。。

と、長々とキプロス紛争の顛末を書いたが、こうして74年以来キプロス島は分断されたままである。もともとキプロス島ではギリシャ系とトルコ系は地域に関係なく混住していたが、クーデターとトルコ軍侵攻の過程で虐殺事件が起き、トルコ系住民は北へ、ギリシャ系住民は南へと難民になって完全に分かれた。境界線一帯には国連軍の監視地帯が作られ、南北の行き来が出来るのはニコシア市内の検問所1ヵ所だけで、それも外国人しか通れなかった(現在では検問所は4ヵ所に増加して、南北の島民は指定された時間内なら行き来可能)。

当初はキプロス島の37%を抑え、重要な港や観光地がある北が経済的に優位に立っていたが、国際社会から孤立したために貿易は衰退。一方で南は企業活動に税金がかからないタックス・ヘブンとして発展したためキプロス島の「南北格差」は拡大し、現在では南の住民1人あたりのGDPは北の3倍に達している。

そして2004年4月にはキプロスのEU加盟を前にして、国連の調停案による統一の是非について、南北で同時に住民投票が実施された。調停案は(1)南から北へ帰還するギリシャ系住民の数を制限する、(2)北ではギリシャ系住民の土地所有を制限する、(3)国会の議席数はギリシャ毛とトルコ系が同数、(4)トルコ軍の7年間の駐留を認める・・・といった内容で、著しく北のトルコ系住民に有利な内容。そもそもキプロス内戦のきっかけは、トルコ系住民に与えられていた「拒否権」をギリシャ系(マカリオス)が剥奪したからで、少数派のトルコ系住民の権利を尊重すべきということなのだろうが、住民投票の結果は南のギリシャ系住民の78・5%が反対して調停案は否決され(北のトルコ系は61・5%が賛成だった)、南のキプロス共和国だけがEUに加盟することになり、北はますます孤立を強めている。

●関連リンク 
 
キプロス情勢index  なぜか創価学会のメールマガジン
元老院議員私設資料展示館―ギリシャ近現代史  キプロス紛争についての解説があります
なんでもトルコ  北キプロス共和国とレフコシャ(ニコシアのトルコ語名)の旅行記
ニコシア?世界最後の分断首都の巻  ニコシアの境界線の現地ルポ
 
 

「非公認の国々」へ戻る

『世界飛び地領土研究会』TOPへ戻る