日本政府と国交のない国々
 

 台湾  北朝鮮  パレスチナ  ニ ウエ 過去形:クック 諸島  過去形:モナコ  番外編:ソマリア
「国交」とは国同士の正式なお付き合いのこと。国家が成立するための三要素(領土、国民、それらを実効支配している政府 =主権)を満たしていて、世界的にはポピュラーな国なのに日本とは国交がない、つまり日本政府的には「非公認の国々」というものがあります。しかしひとえ に「国交がない国」と言っても、その理由はさまざまで、扱いも異なっています。

現在、日本と国交がある国は194ヵ国、これに日本を加えて「世界には195ヵ国が存在 する」というのが日本政府の公式見解です。国連加盟国は193ヵ国ですが、日本と国交がある国のうちバチカン市国とコソボ、クック諸島は国 連非加盟で、日本と国交がない北朝鮮が国連に加盟しています。

国交を結ぶには、まず相手の国を承認(国家承認)することになりますが、 国交を結んだ相手の国で革命やクーデターが起きて、それまでお付き合いしていた政府がなくなってしまうことがあります。その場合、新しくできた政府を 「じゃあ今度からあなたを相手にお付き合いしましょう」と認めることを政府承認と言います が、場合によっては新しい政府が気に入らないとか、疑わしいとか、はたまた新しい政府が見当たらないなどで、国交はあっても実際の外交関係はないという国 もあります。また革命で新しい政府ができた後も、従来の政府が国内の片隅で(または亡命政府として海外で)生き延びていて、政府が2つ存在する場合は、どちらの政府を承認するかで国際社会が割れたりすることもあります。

ところで、国交の有無はあくまで政府同士のお付き合いの有無なので、企業や国民がお付き合いするぶんには国交の有無とは関係ありませ ん。だから日本企業が台湾製のパソコンや北朝鮮産の松茸を輸入しても、一向に構わないわけですね。

国交がない国の人が日本へ来る場合、パスポートはどうするのかといえば、その国のパスポートで入国できることもあります。日本政府的に 「非公認の国」なのにその政府が発行したパスポートで入国を認めるなんてヘンな気もしますが、外交関係を担当しているのは外務省ですが、入国審査を担当し ているのは法務省なので、外務省が「この国は非公認」と見なしていても、法務省が「この国のパスポートは有 効」と決めれば使えるのです。具体的には日本政府が国家として承認した国以外でも、「政令で定める地域の権限のある機関」が発行したパス ポートは認めるということで、1998年から台湾、2002年からはパレスチナの政府が発行したパスポートで入国できるようになりました(※)。

※それ以前は、台湾人は日本の外務省がビザとともに発行する「渡航証明書」をパス ポート代わりに使って入国、パレスチナ人はヨルダンやイスラエル等が発行したパスポートで入国していた。
国交はお互いで結ぶものなので、日本と国交のない国では、その国にとって日本は「非公認の国」ということにな ります。それでも日本人が台湾へ行く場合、ふつうに日本のパスポートを使って行けますね。ただし北朝鮮の場合、かつては日本のパスポートに「渡航先:北朝 鮮を除くすべての国と地域に有効」と銘記されていましたが、1991年の北朝鮮の国連加盟を機に削除されています。70年代初めまでは「北朝鮮、中国大 陸、北ベトナム、東ドイツを除く・・・」と書いてあったとか。


私が生まれて初めて取ったパスポートには、この一文が載って いました・・・


台湾(中華民国) 存在自体を認めていないので、国交がない国

台湾と国交がある国:23ヵ国 中国と 国交がある国は172ヵ国
国連:かつて加盟(安保理常任理事国)、1972年に追放

台湾の地図 大陸沿岸の「*マーク」のついている島々(金門=ケモイ、馬祖 =マーツーなど)も台湾政府が支配中

地図でも存在しない ことになっている「台湾」という国
日本 と国交がない国の代表格といえば、まず台湾。台湾は明らかに「領土、国民、政府」が揃っているのになぜ国交がないのかといえば、日本政府は台湾という国が存在することを認めていないから。台湾は中国の一部だから独立国ではないということになっている。

じゃあ台湾政府自身はどういう立場なのかといえば、やはり台湾は中国の一部だ から台湾という国は存在しないという。でも、その「中国」とは日本政府が言うのは中華人民共和国だが、台湾 政府が言うのは「中華民国」だ。

中華民国とはすなわち台湾政府のことで、主張する領土は台湾はおろか中華人民共和国より 広く、モンゴルも含み(だからモンゴルという国も存在しない)、さらにシベリアの一部(ロシア領のトゥバ共和国)、アフガニスタンやタジキスタンの一部(パミール地方)も含んでいて、首都は台北じゃなくて南京(台北はあくまで臨時首都)。

「あれ、中国の首都は北京じゃないの?」と思うでしょうが、台湾政府によればこの世に北 京(ペキン)という都市は存在せず、北平(ペピン)という町ならあるうな。。。。

中華民国全図 台湾政府が 公式に主張している領土。広いですね。
中華民国行政区画及領土糾紛全図 台湾政府が領有権を争っている地域。南京 は「法定首都」、北京は「北平」になっています。
国土と国民 台湾政府の公式サイトでの説明。2006年末に削除されたもの の復元サイト(日本語)
ゲリラが国土の大半を支配?

一体どういうことかを理解するには、政府軍と反政府ゲリラの関係を考えれ ばわかりやすい。内戦が勃発して領土の一部を反政府ゲリラが支配している国は世界中あちこちにあるし、反政府ゲリラが新たな革命政府を作って、1つの国に 2つの政府が存在しているケースもある。場合によっては反政府ゲリラが国土のほとんどを占領してしまい、首都もゲリラの手に陥ちて、政府軍は国土の片隅に 臨時首都を作って抵抗を続ける・・・ということだってありうる。

台湾政府によれば、台湾の場合がまさにその状態だ。中国は清朝が倒れた1912年から中 華民国(略して中国)という国が統治してきたのに、いつしか国内に共産ゲリラが 出没するようになり、1931年には江西省の瑞金でゲリラの親玉・毛沢東が中華ソビエト共和国と 名乗る政府を作り上げた。政府軍の攻撃で3年後にゲリラたちは瑞金を放棄して「長征」という大逃亡を行い、山奥の延安に立てこもっていたが、日本による侵 略が激しくなったので、とりあえず国共合作ということで共産ゲリラと手を結んでみたら、戦後再び共産ゲリラが勢力を伸ばして、首都南京をはじめ中国大陸す べてを占領してしまい、こんどは北平を勝手に北京と改称(※)して中華人民共和国(これまた 略して中国)と名乗る政府を作ってしまった。

※中華民国の首都は当初は北京で北洋軍閥が支配していたが、1927年に南京で国 民党の国民政府が成立して首都はこちらへ移転。北京はヒラの都市に格下げになって「北平」と改称した(北平の地図)。それを「共産ゲリラ」が占領して勝手に北京へ戻してしまったということ。ちなみに台湾では、京 劇は「平劇」だし、北京ダックも北 平ダック
そこで首都を放棄した政府軍は、広州や重慶、成都を経てやむなく台湾へ移転して、現在に至るという次第。だから「台湾政府」と便宜上呼ばれていても、あく まで中華民国政府(=ホンモノの中国政府)なのであって、中華人民共和国なる政府は大陸を不法占拠している反政府共産ゲリラ(共匪)に過ぎない・・・という立場だ。
国民党政府軍の落人村(香港) 国民党政府軍の落人村(タイ・ミャンマー国境) 政府軍は台湾以外へも逃げ て落人村を作った。その現地ルポ
一方で中華人民共和国、つまり一般的に言う「中国政府」の言い分だと逆になる。国民党が反動的な独裁体制を敷き人民を苦しめてきた中華民国政府は、 1949年に滅亡して中華人民共和国が成立したが、蒋介石が率いる旧政府軍の残党ゲリラは広 州や重慶、成都などを逃げ回ったあげく、台湾に立て篭もって「中華民国」を名乗りながら抵抗を続け、現在に至るという次第。だから台湾も中国の一部なのだ が中国政府の統治はいまだ及んでおらず、「台湾政府」とは台湾地方を不法占拠している旧政府軍残党ゲリラ(蒋 匪)に過ぎない・・・ということになる。

かくして1949年以降、台湾政府は「反攻大陸」や「光復大陸(大陸奪 還)」をスローガンに、いつか必ず大陸の共産ゲリラを一掃して中国の統一を実現すると訴え、一方で中国政府は「解 放台湾」をスローガンに、いつか必ず台湾の旧政府ゲリラを一掃して中国の統一を実現すると訴えてきた。訴えるだけでなく、1950年代から 60年代にかけては実際に2つの政府の間で戦闘が繰り返されていた。
 

国共内戦のクライ マックスの頃。台湾の他に四川省などが中華民国。クリックすると拡大します
なにしろ中国の人民解放軍はもともと山奥や農村を拠点にしていた共産ゲリラだったので、海軍力というものが全くな かった。1949年に中華人民共和国が成立しても、台湾のみならず北は舟山諸島から南は海南島まで中国沿岸の島々の多くは、まだ中華民国の支配下にあっ た。

1950年に入って人民解放軍は海軍を作り、沿岸の島々の「解放」に乗り出した。5月には海南島や舟山諸島、桂山島(香港の沖合にある 島)を占領し、1955年には浙江省沿岸の大陳列島を占領したが、福建省沿岸の金門島などには1958年に2ヵ月間にわたる壮絶な砲撃戦を仕掛けたが、 占領できなかった。一方の台湾政府も1950年代前半にはこれら大陸沿岸の島々を拠点にして大陸への上陸作戦を繰り返し、ビルマ(ミャンマー)へ逃げ込ん だ部隊を再編成して雲南省への攻撃も仕掛けたが、いずれも失敗した。

こうして1955年以降、中国のうち台湾政府は台湾のほか、福建省沿岸の金門島、馬祖 島、烏丘や東沙諸島、南沙諸島(スプラトリー諸島)のうち太平島を支配し、その他は中国政府が支配 するという状態が続いている。

外交でも「本家争い」に敗れ、国連代表権を失う

中国政府と台湾政府は軍事対決のみならず、国際社会に向けて外交面でも「本家の中国政府はこちら!」と争いを続けた。中国政府は人民中国、台湾政府は自由中国という キャッチフレーズを掲げて、プロパガンダ合戦を繰り広げた(※)。

※中国政府は『人民中国』という海外向け 宣伝雑誌を出版している。一方で台湾は『自由中国の声』という海外向けラジオ放送をしていたが、98年に局名を変更して現在は『台湾国際放送』。日本では当時、 マスコミなどで中華民国を国府(国民政府の略)、中華人民共和国を中共と表記していた。
最大の舞台となったのは国連だ。1945年に国連が発足した当時、「中国」として国連に加盟し常任理事国に なっていたのは中華民国政府だった。その後内戦に敗れた中華民国政府は首都を奪われほとんど台湾だけを支配する台湾政府と化しても、ソ連や 東欧などの社会主義国を除いてほとんどの国は中国=台湾政府だと認め、国連でも台湾政府が「中国」の代表権を確保し続けていた(※)。
※同じように、国土の大部分と首都を新しい政府に奪われ、旧政府軍は国土の片隅で ゲリラ活動を続けるようになっても、旧政府側が国連の議席を確保して大部分の国がそれを承認していた例。
カンボジア(1979〜92):カンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)は認められず、国 連は民主カンボジア(ポル・ポト派+シアヌーク)を承認。日本も同じ。
アフガニスタン(1996〜01):アフガニスタン・イスラム首 長国(タリバン政権)は認められず、国連はアフガニスタン・イスラム共和国(北部同盟)を承認。日本はどちらも承認せず。
クウェート(1990〜91):クウェート暫定自由政府(イラク軍の傀儡政権)は認められず、 国連はサウジアラビアのクウェート国亡命政府を承認。日本も同じ。
しかし、世界最大の人口を統治している中華人民共和国が国連に入れないというのはオカシイという声が増え、国連では毎年のように中国=中華人民共和国にすべきという提案が挙がり、1971年の国連総会で可決。これによって国際社会 では「台湾政府=正統政権、中国政府=反政府ゲリラ」から「中国政府=正統政権、台湾政府=反政府ゲリラ」と立場が逆転して、台湾政府は国連はじめ様々な 国際機関から脱退または追放された(※)。
※オリンピック出場からは台湾は追放されなかったが、それまで「中華民国」として いたチーム名を変えることになり、中華台北(チャイニーズ・タイペイ)になった。中国・チャイナではなく中華・チャイニーズ、台湾ではなく台北なのは、 「中国(中華人民共和国)の一部でもなければ台湾という独立国でもない」ということで、中国側と台湾側の妥協の結果。ちなみに香港チームは、中国香港(ホ ンコン・チャイナ)。
「中華民国」が掲載 されていた60年代末の地図。「北鮮」「南鮮」が何とも・・・
国連 で「正統政権」としての代表権を失ったことを契機に、社会主義国以外の国々も中国=台湾政府という立場を改めた。72年には日本、78年にはアメリカが中 国政府と国交を結んで台湾政府と断交(※)。92年には「反共国家」として最大のパートナーだった韓国からも断交されて、現在台湾政府と国交を結んでいる のはアフリカやカリブ海、太平洋の小国を中心に20数ヵ国に過ぎない。
※国同士が断交すると大使館や領事館は閉鎖になる。しかし日本と台湾の間は経済交 流や観光などでの行き来が盛んなので、日本政府は台湾に財団法人交流協会台湾事務所、台湾政府は日本に亜東関係協会(台北駐日経済文化交流処) という 「民間団体」の事務所を作り、ここがビザの発給や自国の旅行者や居住者の保護、経済文化の交流促進など、実質的な大使館・領事館の役目を果たしている。
台湾政府と国交を結んでいる国は、台湾を独立国として承認しているのではなく、あくまで中国(ただし中華民国)と国交を結んでいるのだ。これは「中国大陸 はみんな台湾領」「首都は南京で、北京は北平」という非現実的なトンデモ主張に賛同すること を意味するわけで、これじゃ台湾からの経済援助が喉から手が出るほど欲しい小国以外には、いくらなんでも無理と言うもの。しばしば「金で国交を買ってい る」と言われる台湾政府だが、経済援助の増額を断られると再び台湾と断交して、中国政府に鞍替えするちゃっかりした国もあるようだ。

ちなみに、中国と台湾で「本家争い」をしているのは政府だけではない。歴 代王朝の財宝を集めた北京故宮博物館は、重要な所蔵品は国民党軍が台湾 へ移して台北にも故宮博物館を建てているし、清華大学(北京)や交通大学(上海)、中山大学(広州)のような中国の名門校は台 湾にも同じ名前の大学が存在する。政府系企業も中国銀行や交通銀行、招商局(海運会社)、商務印書館(出版社)のように中国と台湾で同じ名前の会社 があって、香港では両方の会社が進出していた(※)。航空会社も中国がエアチャイナ(中国国際航空)なら、台湾はチャイナ・エアライン(中 華航空)で、紛らわしいですね。

※2006年8月に台湾の中国銀行(71年以降は中国商業銀行)と交通銀行は合併 して、兆豊国際商業銀行に改 称。また95年に台湾の招商局は子会社の陽明海運に吸収される。
さらに世界各地のチャイナタウンでも、中共派(中国政府支持)と国府派(台湾政府支持)に分かれ、学校や廟の運営から旧正月の獅子舞に至るまで「代理戦争」を繰り広げていた のだ(※)。
※横浜の中華街の学校も、戦後は国府派の横浜中華学院と中共派の横浜山手中華学校に分裂した。また獅子舞も国府系中共系が 存在している。
「台湾独立」って、どういう意味?

台湾をめぐってさらにややこしいのが台湾独立の問題だ。台湾が一体どこから独立するのかといえば中国からだが、台湾は中華人民共和国に 統治されたことは一度もないので、実質的に中華民国を正式に台湾と改名して、正々堂々と「台湾は中国の一部 ではなく、台湾政府は台湾だけの政府です」と宣言すべきということ。これなら台湾は中国と関係がなくなり、世界の国々と国交が結べて国連に も加盟できる・・・というのが狙いだ。

●日本の植民地支配からの独立・自治運動

台湾独立のきっかけは日本の植民地時代に遡る。中国がまだ清朝だった1895年、日清戦争の結果結ばれた下関条約で台湾は日本へ割譲さ れることになったが、台湾人は寝耳に水だと猛反発。台湾民主国の独立を宣言するとともに上陸 して来た日本軍にゲリラ戦で激しく抵抗し、当時の台湾の人口300万人のうち1万4000人以上の犠牲者を出した。その後も西来庵事件や霧社事件などの反 乱が繰り返されたが鎮圧され、日本政府に対して台湾の自治を求める請願運動が中心になった。

●中華民国からの独立運動と亡命政府

日本の敗戦で1945年に台湾が中華民国へ返還されると、台湾人は「日本人の支配を脱して自分たちが台湾の主役になれる」と祖国復帰を 喜んだが、中国からやって来た「同胞」のはずの国民党の軍人や役人は横暴で、政財界の主要なポストを独占したうえに、ひたすら私腹を肥やすことに専念して いたため、台湾人の期待は失望へ一変。「犬去って豚来る」(犬=日本人はキャンキャン吠えたが役にも立った。それに比べて豚=大陸の中国人はひたすら貪り 食うだけ)と揶揄され、「これじゃ日本の統治時代の方がまだ良かった」と言われるようになった。

そして1947年、怒りが頂点に達した台湾人は反乱(二二八事件)を起こしたが、国民党軍に徹底的に弾圧された。その後、人民解放軍に 追われた中華民国政府が台湾へ移転して来ると、台湾は共産ゲリラ(=中国政府)との対決を理由に無期限の戒厳令が敷かれ、政治活動や言論の自由は厳しく制 限された。こうしたなかで、日本やアメリカに亡命した台湾人の間で中華民国(国民党政権)からの独立運動が 起こり、55年には日本で台湾共和国の亡命政府が結成された(77年に消滅)。

●民進党の結成と外省人支配に対する民主化運動

台湾政府は「中国すべてを支配する政府」という建前だったので、国会(立法院)の議席の大半は「上海代表」や「四川省代表」「湖南省代 表」などの大陸出身の議員で占められ、「共産ゲリラに占拠されている大陸では、当面選挙の実施は不可能」だと、大陸出身の議員は万年議員として国会に居座り続けた。万年議員が死ねば1947年に大陸で行った最後の 選挙に立候補した人(のうち台湾へ移住してきた人)が繰り上げ当選して新たな万年議員になる仕組み。こうして議席の上では多数派の外省人(戦後中華民国政 府とともに台湾へ移住してきた人)が政府を支配し続け、台湾の人口の多数を占める本省人(日本統治時代から台湾に住んでいた人)の声は政治に反映されな かった。

1980年代に入るとフィリピンや韓国の民主化に影響されて、台湾でも政党結成や報道規制が緩和されると、86年に台湾独立を掲げた民 主進歩党(民進党)が誕生。国民党による独裁と外省人支配の終結を求める民主化運動が本格化 した。

●中華人民共和国への反感と国名変更運動

1990年代には本省人で総統に就任した李登輝政権の下で、終身議員の廃止と直接選挙による総統の選出が行われ、台湾の民主化が実現し た。また中国との交流が盛んになり、中国政府と台湾政府との非公式な会談も行われた。しかし中国側は「中国は1つで、中華人民共和国であり、台湾には(香港のような)1国2制度の下で高度な自治を認める」という統一プランにこだわり続けたの で、台湾側は相手にせず、「中国は1つだが、2つの対等な政府が存在して分割統治している」「『中国は1つ』というのは、歴史、地理、文化、血縁などの面 でのこと」という新たな概念を発表した。中国政府はこれに対して「李登輝は実質的に台湾独立を進めようとしている」と猛反発した。

金門島は中国大陸の 厦門(アモイ)とは目と鼻の先
一 方、87年に台湾政府が台湾人の中国渡航を解禁したことで、多くの台湾人が中国大陸を訪れるようになったが、先進国並みの経済発展を遂げた台湾に比べて、 貧しいままの中国の現状や人々の考え方の違いに驚き、中国政府の腐敗ぶりにも呆れた。特に94年の千島湖事件(※)や、96年の台湾総統選で中国政府が李 登輝を落選させようと台湾海峡でミサイル演習を実施して圧力をかけると、台湾人の間では「野蛮な中国はまっぴらだ」という感情が広がり、中国政府や大陸の 中国人への反感から「台湾人は中国人と違う」と考える人が増え、「台湾は中国じゃないから、 正式に中国大陸の領有権を放棄して、国名を台湾と変えるべき」という主張が広がった。
※94年に浙江省の千島湖で、台湾人観光客26人を乗せた遊覧船が3人組の強盗に 襲撃され、乗客乗員のすべてが殺害された事件。中国政府は捜査について情報を公開しようとせず、また犯人らが軍服を着ていたため「犯人は人民解放軍(また は公安)か?」という噂が広がり、台湾人の中国政府や大陸の中国人に対する不信感が一気に広がった。当時の人民解放軍の堕落ぶりはこちらを参照
しかし台湾政府が中国大陸の領有権を放棄するには、厄介な問題もあるのだ。1つは大陸沿岸で確保し続けている金門島や馬祖島をどうするかということ。台湾 独立派は「金門・馬祖は台湾ではないから放棄すべき」と主張したが、現地の住民たちは「これまで最前線で台湾を守ってきたのに、俺たちを共産ゲリラに売り 渡す気か!」と猛反発している。

もう1つは東南アジアや日本・欧米に住む中華民国国籍の華人(華僑)たちの問題だ。戦前、中国大陸から海外へ移住した数千万人の華僑は 中華民国国籍だった。戦後大部分は現地に帰化したり、中華人民共和国の国籍に切り替えたが、現在でも中国の共産党政権を嫌って中華民国の国籍を持ち続けて いる人たちがいて(※)、台湾の立法院(国会)には華僑議席がある。台湾政府が「中国」でなくなることは、これまで忠誠を尽くしてきた華人たちを見捨てて しまうことになる。

※日本の有名人では例えば王貞治。父親が浙江省の出身で戦前日本へ渡って来たため 中華民国国籍だが、台湾人ではない。もっとも王さんの兄は中華人民共和国国籍で、父親が兄弟を別々の国籍に分けて「保険」を掛けた結果とか。
2000年には「台湾独立」を掲げていた民進党の陳水扁が総統に就任したが、独立については曖昧にしたままで、とりあえず台湾が実質的な独立国家として国際社会で認められるように、国連への再加盟を目指した。しかし、民進党は「台 湾」としての国連加盟を主張したのに対し、国民党は「中華民国」としての国連加盟を主張して対立した。

台湾人の多くが「現状維持」を望むワケ

民進党政権が台湾独立に踏み切れなかった理由は、まず台湾人自身が「現状維持のままがい い」と考えている人が一番多いからだ。なぜ現状維持が良いのかといえば、台湾の将来について選択肢を比べてみると・・・。

中国政府による中台統一
 「共産党に支配されるなんてトンでもない」「田舎者で粗暴な大陸の中国人に支配されるのは、まっぴらゴメン!」と、拒否感が強い。

台湾政府による中台統一(国民党の立場)
 いちおう民進党政権時代も含めて台湾政府の公式の立場はこれ。「それが理想」と考える人はいるが、実現できると本気で思っている人は、ほとん どゼロ。

国名を台湾に変えて独立を宣言し、国連に加盟する(民進党の立場)
 「本来そうあるべき」と思っている人は多い。しかし中国政府が猛反発することは確実で、国際社会からの制裁を覚悟してまで台湾へ武力侵攻することはない にしても、経済的な報復措置は確実だ。台湾の経済界がこぞって中国へ進出している状況では、中国政府が台湾企業の進出を規制すれば台湾経済は致命的な打撃 を受けてしてしまう。そんな危険を冒してまで敢えて「国名を変えるだけの台湾独立」を行うメリットはないと反対する人も多い。特にこれまで民進党の支持基 盤だった中小企業が、中国ビジネスを拡大したため独立に反対し始めた。

現状維持のまま
 国連に入れなくても台湾は十分発展しているし、正式な外交関係がなくても台湾のパスポートで日本など世界のたいていの国へ行けるので、現実的に困ってい ない。統一も独立もしない中途半端なままだからこそ、中国政府は台湾人を味方に付けようと投資を優遇してくれる現状はかなりオイシイ。中台関係に下手な波 風を立てずに、今のまま中国との経済交流を拡大することが台湾の利益につながるし、株に投資している自分の利益にもつながる・・・と考える人が結局一番多 い(※)

※台湾政府が2006年4月に行った世論調査では、「現状維持でそのうちどうする か決める」41・5%、「ずっと現状維持」21・2%、「現状維持でそのうち独立」15・3%、「現状維持してそのうち統一」10・6%、「早急に独立を 宣言」4・7%、「早急に統一」1・1%だった(参照)。また、中国との交流拡大の進展については、「ペースが遅すぎる」34・5%、「ちょうどいいペース」 30・6%、「ペースが速すぎる」19・9%だった(参照)。中国政府が提唱する「(香港のような)1国2制度による統一」に賛成する人は10・0%(参照)。
2005年春に国民党の連戦主席が「和平の旅」と称して訪中し、共産党の胡錦涛総書記(中国の国家主席)と60年ぶりに国共両党のトップ会談を行った(前 回は1945年で、日本の敗戦の直後に蒋介石と毛沢東が会談したが決裂し、中国は内戦に突入した)。この会談で「中国と台湾の対等な協議の再開」「敵対関 係の終了と、軍事衝突回避のためのホットライン設置」「直航便就航による緊密な経済貿易関係と共同市場の実現」「WHOなど国際機関への台湾の加盟促進」 「両党の定期的な協議を実施」などの共同コミュニケが発表されたが、ようするに現状維持のまま仲良くやりましょうという内容。この訪中によってそれまで低 迷していた国民党の支持率は、再び民進党を追い越した。
※連戦は中国からパンダ贈呈の 土産話も持ち帰ったが、陳水扁総統はパンダ受け入れを拒否した。日本でも昔そうでしたが、中国からパンダがやって来ると「友好ムード」が広がりますから ね・・・。
そして2008年の立法院選挙では国民党が圧勝し、続く総統選挙でも「中国との交流強化」を掲げた国民党の馬英九が当選して、政権を奪還した。

政治以外では一体化が進んでいる台湾と中国

台湾と中国は対立しているように見えても、実は国交がある国同士よりもずっと親密な関係だ。どちらも人口の95%以上は漢民族で言葉は共通している し、特に福建省のアモイ周辺では方言も同じ。中国の実質的な資本主義化と経済成長で、中国人と台湾人の考え方の差も急速に縮まった。台湾製の歌謡曲や映 画、テレビドラマは中国で大人気だし、その映画やドラマに中国の女優が出演して台湾で人気を集めている。

そしてビジネスのために台 湾人2300万人のうち100万人以上が中国に住んでいると見られ、上海だけで30万人もの台湾人が暮らしている(※)。中国各地には台商 子弟学校が建てられ、台湾と大陸の教師が半々で、敵対関係にあるはずの台湾政府の教育制度に基づいた授業を実施。一方で、単身で中国に住む台湾人男性の中 には、「経済格差」のおかげで現地妻を囲っている人も多く、その現地妻から台湾人の子供が生まれている。

※2005年に台湾から中国(香港・マカオを除く)への渡航者数は411万人で、 日本への渡航者数(128万人)の3・2倍。台湾から中国への投資額は60・1億ドルで、海外への投資全体の71・1%を占めた。
そういえば、中国政府と台湾政府が軍事対決していた時代にも、金門島では1958年の2ヵ月間の激しい砲撃戦の後、人気のない山に向かって毎週月・水・金曜日だけ砲撃を行うようになり、地元住民は「休戦日」に砲弾の殻 を拾って包丁を作り始め、いつしか包丁が特産品になってしまった・・・という馴れ合いの戦争ごっこを21年間も続けていた過去がある。中国と台湾の関係 は、政府が公式に発表する「非難声明」だけではわからない。ま、いかにも中国人同士の駆け引きって感じがしますね。

中国政府は台湾に脅しのようなことを言いながらも、経済交流の拡大を通じて中国と台湾の一体化を進めるのが得策だと考えている。台湾政 府が大多数の台湾人の意向を無視して「反攻大陸」を唱えることができた独裁時代と違って、民主化された今の台湾では、台湾政府の対中国政策は有権者の意向 に左右される。かつての日本のように、北京オリンピックや上海万博を契機に中国の経済成長に弾みがつけば、「中国も野蛮な貧乏国ではなくなった」「中国と もっと仲良くすべき」という台湾人の意識変化を通じて、台湾政府を実質的に操ることができるだろうと自信を持っているようだ。


中華民国の国旗

●関連リンク

外務省−台湾 
金門包丁という特産品 砲撃戦は中止になっても、砲弾は100万発埋まってるので、当分包丁は作れる・・・と か
在日華僑の「中国文化」観と華僑文化の創出〜横浜華僑による獅子舞の伝承形態から〜 張玉玲氏の論文です
中 央社台商網 台湾の国営通信社が運営する中国で暮らす台湾人ビジネスマン向けのサイト(中国語)
中 華民国蒙蔵委員会 いちおうモンゴルとチベットを統治することになっている台湾政府の機関(中国語、モンゴ ル語、チベット語、英語)
中 華民国福建省政府 台湾政府は福建省のうち金門島などを支配しているので、その役所(中国語)
中国地下放送動向分析 かつて台湾やソ連が中国向けに流していた謀略放送について詳しいです
New Star Broadcasting Station 現在も台湾政府が中国向けに流している謎の暗号放送について(英語)




北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国) 存在は認めているが、国家を認めていないので国交がない国

北朝鮮と国交がある国:162ヵ国 韓 国と国交がある国は188ヵ国
国連:1991年加盟

北朝鮮の地図

日本と国交のない国の代表格といえば、台湾と並んで北朝鮮。北朝鮮の場合、台湾とは違って日本政府は「北朝鮮という国が存在している」 ことは認識しているが、そこに存在する朝鮮民主主義人民共和国を「正統な国家」だとして承認していないということ。北朝鮮は国連に加盟しているし、小泉首 相はじめ日本の政府高官もこれまで何度か公式に訪問しているわけで、国の存在自体は認めているの だ(※)。

※一方で、台湾の場合は日本政府は「台湾という国は存在せず、中華人民共和国の一 部」という立場なので、政府高官が台湾を公式訪問するなら中国政府の許可をもらわなければならず、訪問できない。
じゃあなぜ日本は北朝鮮の政府を承認しないのか。日本政府が国家を承認する基準は、国際法に基づいて領土と国民、それらを統治する実効的な政治権力(主 権)を兼ね備えていること。それなら朝鮮民主主義人民共和国は3つとも満たしているのだが、いちおう現在の日本政府(小泉内閣当時)の釈明としては、その 政府が「国際法を遵守する意思と能力を有しているかについても考慮することとしている」から承認していないという。「国際法を守りそうにない国」は他にも ありそうだが、ようするに「気に入らないから承認しない」ということ。
衆議院での鈴木宗男議員の質問(2006年6月) 小泉首相の答弁 
それと日本が北朝鮮と国交を結ばなかった原因の1つは、1965年に日本と韓国が結んだ日韓基本条約だ。 この条約で日本と韓国と国交を結んだのだが、そのなかに「大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号(III)に明らかに示されているとおりの朝鮮に ある唯一の合法的な政府であることが確認される」という条文が存在しているのだ。韓国政府が「朝鮮にある唯 一の合法的な政府」いうことは、朝鮮半島はすべて韓国領ということになる し、憲法で「朝鮮半島はすべて韓国の領土」と規定している韓国政府はそのつもりで条約を結んだ。となると、台湾の場合と同じく「北朝鮮は韓国の一部だか ら、北朝鮮という国は存在しない」となりそうだが、日本政府の解釈は違った。

日本政府によれば、「朝鮮にある唯一の合法的な政府」は韓国だが、その領域は朝鮮半島の南半分に限定されているので、北朝鮮には「合法的ではない政府」が存在しているかもということになる。その解釈の根拠となっているの が国連総会決議第195号で、その内容は「朝鮮半島の一部(南半分)で住民の自由な意思の表明によって選挙を行い、韓国政府が成立した」というもの。これ で韓国は南だけの選挙でできたから南だけの政府で、北のことは知りません・・・とみなしているのだ。

日韓基本条約が結ばれた時、「朝鮮半島には韓国と北朝鮮の2つの政府が存在しているのに、韓国とだけ国交を結ぶのはおかしい」と反対運 動が起きていた。特に当時日本に住む在日朝鮮人の大半は北朝鮮の国籍だったし、今でこそ北朝鮮は独裁国家の代名詞のように言われているが、60年代から 70年代にかけては独裁国家といえばまず韓国というイメージで、野党弾圧や言論弾圧、クーデターや大統領暗殺未遂事件など混乱が続いていた。それに比べて 当時の北朝鮮は経済発展は韓国よりも順調だったし、多くの日本人には「よくわからないけど、適当にほのぼのやってるんじゃないの?」と思われていたのだ。

そもそもなぜ朝鮮半島に2つの政府が成立したのかというと、終戦直後に遡る。朝鮮は1910年から1945年まで日本の植民地で、終戦とともに北緯38度線を境に、南はアメリカ軍が、北はソ連軍がとりあえず占領した。

その後、朝鮮は国連での信託統治を経て、数年後に南北統一して独立する予定だったが、南では信託統治に対する反発が強く、「南だけでも すぐに独立させろ」と1948年8月に大韓民国(韓国)が成立。残った北は「南だけの独立反対!」と言っていたが、結局翌9月に朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮)が成立した。

南が「南だけの独立」と言い出した背景には、ソ連軍によって北のトップに据えられた金日成は、満州・ソ連国境地帯を拠点とした「抗日ゲ リラの英雄」として当時民衆の間で知名度や人気が高かったのに対し(※)、アメリカ軍によって南のトップに据えられた李承晩は、戦前上海で亡命政府を作っ て日本に抵抗しようとしたが内紛で追い出されてアメリカへ亡命したりと、人気が劣っていたので、統一して選挙をしたら金日成に負けてしまうという危機感が あったからだと言われている。

※もっとも「伝説の英雄・金日成」と北朝鮮のトップになった金日成は別人だという 説もある。また金日成に何人もいた・・・とか。
一方、北朝鮮の成立にあたっては当初から「南北統一」を掲げ、韓国で「南だけの独立」に反対していた南朝鮮労働党や中道派の政党も参加した(※)。北朝鮮 の国会議員に相当する最高人民会議代議員は、当初は北の代表が212人に対して南の代表は360人で(南の代表は北朝鮮の黄州に南の政党代表らが集まって 選出)、「朝鮮半島はすべて北朝鮮領」としたうえで、首都はソウルと決めた(平壌はとりあえ ず臨時首都で、正式な首都になったのは72年の憲法改正後)。
※在日朝鮮人の大部分は日本に近い南の出身だが、当時北の国籍を選んだ人が多かっ たのは、北が掲げた「南北統一」に期待した人が多かったため。
北朝鮮は1950年から53年にかけて朝鮮戦争を起こし、南(韓国)を武力で統一しようとしたが失敗、ほぼ38度線に沿った板門店などの軍事分界線(休戦ライン)が新たな国境線になった。金日成は「武力統一が失敗したのはアメリカの スパイがいるから」などと言い出して、南朝鮮労働党や反対派を次々と粛清し、独裁体制を強化した。

その後、北朝鮮は韓国を「南朝鮮傀儡逆賊」「民族反逆者」と呼び、韓国は 北朝鮮を「北傀」(北にある社会主義の傀儡政権)と呼んで、お互いをインチキ政府呼ばわりし てきたが、1991年に両方揃って国連に加盟した(※)。それまで韓国は日本やアメリカ、西 欧、東南アジアなどの資本主義国と、北朝鮮は中国、ソ連、東欧の社会主義国やアフリカ諸国などと国交を結んでいたが、同時に国連加盟したことでいちおう双 方とも国際社会では公認されたことになった。

※北朝鮮は当初「南北分断の固定化につながる」と両方揃っての反発していたが、加 盟申請をした韓国が認められそうな様子だったので、「一時的措置」と称して急きょ同時加盟することにした。
また韓国と北朝鮮の加盟申請は国連総会で全会一致、つまり日本も賛成したことで、日本政府は公式に朝鮮民主 主義人民共和国という国が北朝鮮に存在していることを認めたことになり、韓国政府が「朝鮮にある唯一の合法的な政府」という日韓基本条約で の認識は怪しいものになった。

そして韓国自身、2000年に金大中大統領が「太陽政策」に基づいて北朝鮮を訪問。イギリス、ドイツ、イタリア、オーストラリアなどが 次々と北朝鮮と国交を結んだ。この流れに沿って小泉首相も2002年に北朝鮮を訪問し、国交正常化=お互い 国家として承認し合って外交関係を結ぶことを、「早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」という日朝共同宣言を発表したが、拉致問 題などを巡って早々に行き詰まり、現在では「国際法を守りそうにない」という理由で、北朝鮮との国交樹立は暗礁に乗り上げたままになっている。


朝鮮民主主義人民共和国の国旗

●関連リンク

外務省−北朝鮮 
ウリ民族キリ いちおう北朝鮮政府の半公式サイト。日本語版は廃止
ウリ民族キリ youtube いちおう北朝鮮政府の半公式サイト。
総連 映画製作所 北朝鮮のテレビニュース番組が観れます
アジア放送研 究会:「救国の声放送」のあゆみ 2003年まで北朝鮮が韓国向けに流していた謀略放送について




パレスチナ 組織は認めているが、国家として認めていないので国交がない国 

パレスチナと国交がある国:122ヵ国 イ スラエルと国交がある国は161ヵ国
国連:1973年からオブザーバー参加

ガザと西岸の地図 

Gaza(ガザ)とWest Bank(西岸)がパレスチナ国家。本来はイスラエル(ピンク)の部分の領有権も主張
対 立しているように見えて実は密接な関係の中国と台湾、緊張しているように言われて実は50年以上も戦争が起きていない韓国と北朝鮮と比べて、絶えず紛争が 続いているのがイスラエルとパレスチナ。中台両岸や朝鮮半島の場合は、同じ民族が住む地域でイデオロギー(資本主義と社会主義)が異なる2つの政府が正統 性を争っているのだが、イスラエルとパレスチナは、異なった宗教の民族(ユダヤ教徒のユダヤ人VSイスラム教徒+キリスト教徒のパレスチナ人)が同じ地域 の領有を争っているという次第。

イスラエルを建国したユダヤ人に対して、パレスチナ人には領土を支配している政府がなかったが、1995年にパレスチナ暫定自治政府が発足し、ガ ザとヨルダン川西岸地区の一部を統治している。じゃあパレスチナは国なのかといえば、現在は微妙なところ。日本政府はパレスチナの政府を「パレスチナ人を代表する組織」として承認しているが、独立国としては認めていないの で国家承認や政府承認はせず、国交も結んでいない。国連でも総会オブザーバーとして参加しているが、加盟国 にはなっていない。しかし国連加盟国192ヵ国のうちアラブやアフリカ諸国、旧東側諸国を中心に半数近い94ヵ国がパレスチナを国家として認めて国交を結び、西欧諸国など11ヵ国が外交関係を樹立してい るのだ。

また日本政府が承認したり、国連総会にオブザーバー参加している「パレスチナ人を代表する組織」とは、暫定自治政府ではなくてPLO(パレスチナ解放機構)ということになっている。一体どういうことなのだ ろう?

そもそもパレスチナ紛争の発端は「腹黒紳士」ことイギリスの三枚舌外交だ。 パレスチナはかつてオスマントルコが支配し、パレスチナ人(イスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人)とユダヤ人が共存していたが、第一次世界大戦でトルコ に宣戦したイギリスは、パレスチナを占領するために矛盾する3つの約束をした。

1つはフランスと結んだサイクス・ピコ条約で、パレスチナを国際管理地域にするこ とを密約。もう1つはメッカの太守でアラブの名門・ハーシム家のフセインと交わしたフセイン・マクマホン往復書簡で、パレスチナを含む東アラブに独立アラブ国家を作ることを約束。残る1つはユダヤ人有力者のロスチャイル ド卿に宛てた書簡で述べたバルフォア宣言で、パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホーム(民族的郷土)を設 立することを約束した。これらの「約束」により、イギリスはフランスと協調し、アラブ人の対トルコ反乱に助けられ、ユダヤ人の資金援助を受 けてパレスチナを占領したのだが、戦争が終われば「約束」はみんな反故にしてしまい、イギリスはパレスチナを国連の委任統治領として手中に収め、一人占め してしまったのだ。

こうしてイギリスによる統治の下で、それぞれ「独立の約束」を手にしたユダヤ人とパレスチナ人の間で対立が深まっていった。特に「故郷 なき民」としてヨーロッパ各地で長年迫害されていたユダヤ人が、古代イスラエル王国のあったパレスチナにナショナル・ホームを築くべく、パレスチナで土地 を買い集めて各地に入植地を作り、シオニズム運動によってパレスチナに「帰国」するユダヤ人が増えると、パレスチナ人は危機感を抱いてしばしば抗争が発生 するようになった。

第二次世界大戦後、ナチスドイツによる虐殺で国際的な同情を集めたユダヤ人が「早く独立させろ」とイギリス軍政府を爆破すると、イギリ スは1947年に委任統治の放棄を発表。イギリスが撤退した後のパレスチナをどうするかが急きょ問題になり、国連はパレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ人国家に分割してエルサレムは 国際管理下に置くという分割案を採択し、イスラエルの建国準備を進めていたユダヤ人側はこれを受け入れたが、パレスチナすべての領有を主張 するパレスチナ人側は拒否した。

1937年にイギリスが提案した分割案 紫がユダヤ人国家、緑がアラブ人 (パレスチナ人)国家
1947年に国連が提案した分割案(左)と実際にイスラエルが建国した地域(右) 紫がユダヤ人国家(=イスラエル)
そして48年5月、イギリスが撤退すると同時にユダヤ人はイスラエルの独立を宣言。これに対 してパレスチナ人を支援するエジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクの周辺アラブ諸国が参戦して第一次中東戦争が勃発したが、寄せ集めのアラブ側は 士気が低く、指揮系統も混乱して敗退。イスラエル軍は「分割案はパレスチナ側が拒否したから無効」だとパレスチナの大半を占領し、残ったヨルダン川西岸は ヨルダンが占領して併合、ガザ地区はエジプト軍が占領した。10月になってパレスチナ人もパレスチナの独立を宣言し、ガザに全 パレスチナ政府を樹立したが時すでに遅く、領土を確保できないまま消滅し、パレスチナ人の多くが難民になって海外へ逃げ出した。(※)
※現在パレスチナ人の総人口1000万人弱のうち、イスラエル国内に130万人、 東エルサレム(イスラエルが占領)に26万人、西岸とガザ(暫定自治政府が統治)に344万人が住み、500万人近くが海外に住んで、そのうち半数が難 民。
ユダヤ人側は早くからイスラエルとしての独立を準備していたのに対して、パレスチナ人側は独立のための軍事力を周囲のアラブ諸国に頼り、しかもハー シム家が支配するヨルダンは「フセイン・マクマホン往復書簡」で約束されたパレスチナの領有を主張していたから足並みが乱れていた。そこでパレス チナ人中心の独立運動を進めるべく、1964年に結成されたのがPLO(パレスチナ解放機構)だっ た。

PLOはそれまでイスラエルへの抵抗活動をしていた様々なパレスチナ人組織によって構成され、憲法に相当するパレスチナ国民憲章や、国 会に相当するパレスチナ民族評議会を持つ亡命政府のような存在で、傘下のパレスチナ解放軍が イスラエルへの武力闘争を行った。67年の第四次中東戦争で、西岸とガザがイスラエルに占領されたことで、パレスチナのすべてはイスラエルの支配下に置か れたが、PLOはヨルダンを拠点に抵抗を続けた。「国を乗っ取られてしまう」と危機感を抱いたヨルダンが70年にPLOを追放すると、ベイルートの難民 キャンプを拠点にし、イスラエル軍がレバノンに侵攻すると、82年に本部をチュニジアに移した。

この間、PLOはパレスチナ人を代表する組織として国際的に認められるようになり、1973年には国連総会にオブザーバーとしての参加 資格を獲得したが、88年にPLOは闘争目標をそれまでの「イスラエルの消滅と全パレスチナの解放」から 「イスラエルとの共存と西岸・ガザでのミニ・パレスチナ国家の樹立」へ現実路線に方針転換し、パ レスチナ国家の独立を宣言した。

この時点では、西岸・ガザはイスラエルが占領中で、PLOが宣言したパレスチナ国家は 「国民はいても領土がない」状態だったので、国連や日本、アメリカ、西欧諸国などはパレスチナ国家を独立国として認めなかったが、それまで パレスチナを支援しイスラエルを承認していなかったアラブ諸国に加えて、アフリカやアジアの国々が相次いでパレスチナを独立国として承認した。

PLOの路線転換はイスラエルにも妥協を促した。イスラエルは国内のパレスチナ人人口がユダヤ人の人口を上回ってしまうことを恐れて、 67年に占領した西岸やガザを自国領土して併合できず、中途半端な存在のまま支配し続けていたが(※)、87年から始まったインティファーダ(パレスチナ 民衆蜂起)に手を焼いていた。そこでイスラエルとPLOとの交渉が始まり、93年のオスロ合意に基づいてスタートしたのがパレスチナの暫定自治だった。

※イスラエルはガザや西岸のパレスチナ人にイスラエル国籍を与えず、西岸ではそれ まで統治していたヨルダン政府の役人を残し、パスポートの発行や民事裁判所の運営を続けさせた。ヨルダンが西岸の領有権を放棄して、役人を撤収させたのは 94年。
こうして94年からガザと西岸のジェリコでパレスチナ人による暫定自治が始まり、96年には国会に相当するパレスチナ立法評議会の選挙が行われて、ようやく領土と国民を擁するパレスチナ暫定自治政府が 発足した。「暫定」というからにはあくまで一時的な状態で、自治政府が将来改めて独立を宣言するかはまだ未定。暫定自治の終了は当初99年 までだったはずだが、その後も延期が続いている。
 
ピンクがA地区、オ レンジがB地区。青はユダヤ人入植地(クリックすると拡大します)
またガザ地区からは2005年にイスラエルが撤退しユダヤ人入植地は撤去されたが、西岸はA、B、Cの3つの地区 に区分され、A地区はパレスチナ暫定自治政府が行政と防衛の両方を担当、B地区は行政は自治政府が行うが防衛はイスラエル軍が担当、C地区はイスラエル軍 が支配するとされ、暫定自治政府の権限が及ぶA・B地区は約4割に過ぎない。ユダヤ人入植地 や幹線道路、水源地などはイスラエルが占領したままで、イスラエルは「壁」を建設してA・B地区を囲い込もうとしている。
「壁」の地図 
パレスチナが正式に独立する前に解決しなければならないのは、まずエルサレムをめぐる問題だ。 もともと47年の国連分割案では、エルサレムは国際管理地域とされていたが、イスラエル独立時の戦争で東西に分断され、西エルサレムはイスラエルが占領、 東エルサレムはヨルダンが占領した。しかしイスラエルは67年に西岸を占領した後、西岸の一部だった東エルサレムを自国領土に併合し、イスラエルの首都は 統一エルサレムだとしている(※)。東エルサレムには嘆きの壁などユダヤ教の聖地があるため、イスラエルとしては西岸は放棄できても、東エルサレムだけは 手放せない。
※日本はじめイスラエルを承認している国々も、エルサレムをイスラエルの首都とす ることは承認していないので、大使館はテルアビブに置いている。
一方で、パレスチナ側も首都はエルサレムだと主張して東エルサレムの返還を要求しているが、交渉は暗礁に乗り上げたまま。日本政府は暫定自治政府の政府所 在地をとりあえず西岸のラマッラと見なしているが、政府の各官庁はそれぞれラマッラとガザに分かれていて、日本政府は大使館に相当する代表事務所をガザに 開設している。実際の首都はどこなのかいまひ とつはっきりしないのだ(※)。
※日本政府がラマッラを政府所在地と見なしているのは、大統領が通常ラマッラで執 務しているから。じゃあなぜガザに代表事務所を開いたのかというと、暫定自治政府ができた当初は、アラファト大統領が主にガザにいたから。
また暫定自治政府とPLOの関係も怪しくなってきた。イスラエルと交渉して暫定自治を実現したのはPLOだし、初代大統領にはパレスチナ人社会で圧倒的な カリスマ性を持っていたPLOのアラファト議長が就任したので、当初は暫定自治政府=PLOだった。しかし2004年にアラファト議長が死亡した後、新大 統領にはPLO議長を継いだアッバースが就任したが、2006年の立法評議会の選挙では、イスラム原理主義派のハマスが過半数を制して、ハマスによる内閣が誕生した。

ハマスはイスラエルとの共存路線に転換したPLOを批判して勢力を伸ばした組織で、あくまでイスラエルを認めず武装ゲリラによる戦いで 消滅させることを主張していて、PLOには加盟していない。日本政府は「パレスチナ人を代表する組織」としてPLOを承認しているのに、選挙によってPLOが「パレスチナ人を代表していない」ことがハッキリしてしまったので、頭を抱えている状態だ。

イスラエルはこれまでハマスを「テロ組織」だと見なして、リーダーを次々と暗殺してきたが、ハマス政権が成立するとガザに侵攻してハマ スの議員や閣僚たちを次々と逮捕した。アメリカやEU諸国、日本も暫定自治政府への援助を凍結して、ハマスに「イスラエルとの共存を承認するように」と促 し、「国連公認」のPLOと連立政権を組むように圧力をかけたが、イスラエルが軍事侵攻し、アメリカなどが介入すればするほど、パレスチナ人の間ではイス ラエルへの強硬姿勢を貫くハマスの人気が高まるわけで、悪循環ですね。


パレスチナ暫定自治政府の旗=PLOの旗

●関連リンク

外 務省−パレスチナ 





ニウエ 政府は認めているが、国家として認めていないので国交がない国 

ニウエと国交がある国:1ヵ国 
国連:非加盟

太平洋の地図 ニュージーランドの右上にあるのがクック諸島。その左下がニ ウエ、左上がトケラウ

世界で一 番面積の小さな国はご存知バチカン市国だが、人口が一番少ない国もバチカンで900人足らず。しかしバチカンではローマ法王庁の職員3000人が働いてい るので昼間人口はもっと多いし、毎日観光客や参拝者もわんさとやって来る。じゃあ「世界で一番人がいない 国」ということにしたら、おそらくニウエ。ニウエはトンガやサモアの近くにある南太平洋の島で、首都はアロフィ。面積259平方km、人口 は1800人弱で、観光客もほとんどやって来ない。

もっとも、これはあくまでニウエを「国」として認めたらの話。日本政府はニウエを国家とみなしていないし、国連にも加盟していない。 クック諸島と同じくニュージーランドとの自由連合なのだが、ニウエと国交を結ぼうという国は なかなか現れず、2007年12月に世界で初めて中国が国交を結んだ。

ニウエに住んでいるのはポリネシア人で、いつだか年代はわからないけど、むかしむかしトンガやサモアから移住して来たらしい。1774 年に西洋人で初めてここを訪れたクック船長は、島民たちに攻撃されたため「野蛮人の島」と名付けて立ち去り、その後しばらく島を訪れる西洋人はいなかっ た。1830年にキリスト教を布教させるためにやって来たロンドン宣教師協会のジョン・ウィリアムズがとりあえず島の若者2人を拉致し、宣教師を育成しよ うとしたが失敗。2人は翌年島へ戻されて、キリスト教の代わりにインフルエンザや性病を広めたので、島の人口は激減した(※)。

※ジョン・ウィリアムズはその後、1839年にニュー ヘブリデス諸島(現在のバヌアツ)のエロマンガ島で人食い人種に食われてしまった。ま、自業自得。
1846年から改めてキリスト教の布教が始まり、一足早くキリスト教化したサモア人の宣教師たちを送り込んで布教に成功。その後スペインの船が現れてペ ルーの鉱山で働かせるために島民100人以上を連れ去ったり、ドイツとイギリスが進出を争ったりしたため、1887年にニウエの王はイギリスのビクトリア 女王に保護を願い出るが却下された。その後アメリカとイギリス、ドイツの3ヵ国の共同保護領だったサ モアからイギリスが撤退することと引き換えに、ニウエからはドイツが手を引き、1900年にニウエはイギリスの保護領になって、翌年ニュージーラ ンドの管轄に移された。

1903年にニュージーランドの議会代表団が初めてニウエを訪れたが、島民たちはイギリス領にしてもらったつもりなのに知らぬ間に ニュージーランドの支配下にされ、しかもクック諸島の一部として扱われていたことに腹を立て、ニュージーランドとの関係は疎遠になった。そして1965年 にクック諸島が自由連合になると、ニウエはクック諸島から分離して74年に単独でニュージーランドと自由連合を組んだ。

こうしてニウエもクック諸島と同様に、独自の憲法や議会が設置され、首相と3人の閣僚からなる政府が発足。外交面ではWHOやユネスコ に加盟し、太平洋諸島フォーラム(PIF)の加盟国になっているが、クック諸島のように個別の国と国交を結ぶことはしていない。

なにしろ人口1800人では、国どころか村としての存続も危ういのだ。ニウエはココナッツなどの栽培に適した土地が少なければ水も少な く、ハリケーンの常襲地帯でたびたび壊滅的な被害を受けている。このため1960年代には5000人以上が住んでいたが、自由連合結成で島民全員がニュー ジーランド人と平等のニュージーランド国籍を持つことになったら、島を出て移住する人が相次いだ。現在では島 の人口の10倍に及ぶニウエ人がニュージーランドで暮らし、「国」の経済は彼らからの送金に支えられている状況だ。

そこで1990年代にニウエが生き残りを賭けて取り組んだのが観光客の誘致だ。ニュージーランドの援助で空港の拡張やリゾートホテルが 建設されたのだが、山を中心にした島のニウエは周囲にゴマンとある珊瑚礁の島々と比べると、魅力のあるビーチに欠けるため人気はぱっとせず、訪れた観光客 は1年間でたったの974人で(1998年)、ニウエに乗り入れていた航空会社は採算が取れずに次々と撤退、2001年には唯一の定期便だったトンガ航空 も運航を止めてしまった。

困ったニウエでは首相の音頭取りで国営航空会社を設立して観光客を運んで 来ようとしたが、野党は財政破綻に拍車をかけると猛反発。議会に内閣不信任案が提出されて賛否同数(10人ずつ)で否決されたり、再提出は可能かどうかを めぐって裁判沙汰になっていたが、ゴタゴタしている間に国営航空の重役たちが嫌気が差して辞めてしまった。首相は新たな出資者を求めて世界を回っていた が、2004年にはニウエ史上最悪といわれたハリケーンの襲来で、国営ホテルが吹き飛ばされてし まった。

現在ではニュージーランド航空がフライトを再開して、「世界で一番人がいない国」の国営航空騒動は一段落着いたようだが、飛行機は週に 1便なので、いったんニウエに足を踏み入れたら1週間は滞在しなければならない。ハリケーンで壊滅的な被害を受けた首都アロフィは内陸部に移転して再建中 だが、これを機に島を離れる人が増えていて、実際の人口はすでに1500人を割っているとも。最終的に島に残りそうなのは500人足らずと言われ、本当に 「人口が一番少ない国」になってしまいかねないことが心配されている。

ところでニウエは世界最大の「ポルノ大国」でもある。どういうことかというと、ニウエはインターネットのカントリードメイン「nu」を割り当てら れているが、ニウエではほとんど使いようがないので、アメリカの団体にドメインの登録管理権を譲り渡して、うまくいかない観光産業に代わって島の収入源に しようとした。その結果、「nu」はヌードを連想するということで、アダルト業者の人気を集め(※)、「nu」ドメインのアダルトサイトはのべ294万7800ページで世界第4位。人口1人当たりにすると1638ページで、ダントツの世界第1位なのだ (ちなみに日本の「jp」はのべ270万0800ページで、人口1人当たりだと0・02ページ)。

※ドメインを管理しているアメリカ人は、「nuはスウェーデン語でnowを意味す るので、人気を集めた」とトボケたことを言っているらしい。
アメリカの団体は98年から02年までに14万人(社)に「nu」ドメインを売り、800万米ドルの売り上げを稼いだ。ニウエには中継局の建設やネット接 続無料サービスの提供などで150万米ドルを還元したと言うものの、教育や医療充実のための還元を求めるニウエ政府に対しては「収益はネット普及のためだ けに使う」と拒否。「ポルノ大国」の濡れ衣を着せられたニウエ人の間では、「アメリカ人に騙された」という声が挙がっているとか。

 
ニウエの国旗

●関連リンク

外 務省−ニウエ 
ニウエ投資情報 ニウエの永住権は11・4ドル+285ドルで買える?
JA1KAJ  DX-VACATIONのページ 太平洋のあちこちの島でアマチュア無線をしている人のHP.ニウエの旅行情報についても詳しいです
国立航空会社設立で揺れるニウエ 社団法人太平洋諸島地域研究所のサイトに掲載されているレポート
チャンネ ルK ニウエもインターネットドメインで稼ごうとしたが、アメリカ人に利益をほとんど持っていかれている話
google力  世界のオタク国を探せ  ニウエは「hentai大国」でもあるらしいです
Welcome to Niue ニウエの観光案内(英語)

間もなく自由連合の「国」に?:トケラウ

太平洋の地図 ニュージーランドの右上にあるのがクック諸島。その左下がニ ウエ、左上がトケラウ 

ニュー ジーランドにはトケラウと言う自治領もある。クック諸島やニウエよりもニュージーランド本土から離れた場所で、3つの珊瑚礁の島にポリネシア系のトケラウ 人が1400人住んでいる。トケラウには1994年から自治政府が設置され、各島1人ずつ計3人の内閣と、各島15人ずつ計45人の議会がある。首相は3 人の閣僚が毎年1人ずつ交代で就任する仕組みで、首都というものは特になく、その時の首相が住む島の村が事実上の首都になるという感じだ。

ニュージーランドは国連から「トケラウの自決権を認めるように」と求められ、2006年2月にクック諸島やニウエのような自由連合へ移 行するかどうか住民投票を実施した。その結果、60%の人が自由連合に賛成したが、規定では 3分の2以上の賛成が必要とされていたので現状維持のまま。しかし2007年か2008年に再び住民投票を行う話もあるので、近々トケラウも「国」になる かも知れない。もっともトケラウでも島を出て行く住民が相次いで、ニュージーランド本土には6500人のトケラウ人が住んでいる。

トケラウはニュージーランド本土から4000kmも離れているうえ、空港がなく直接本土と行き来する交通手段もない。外部との交通は月に2回サモアとの間を運航する船だけ。となると世界から隔絶した秘境の島のようだが、 2003年に某財団の援助でトケラウの島々に高速ブロードバンド回線が開通し、島民は無料でインターネットが使い放題とか。2005年にはトルコ政府が 「テロ組織のク ルド労働者党が、トケラウから反政府放送を流しているから取り締まれ」とニュージーランド政府に抗議したが、おそらくインターネット放送なんで しょうね。トケラウの産業はコプラ生産とわずかな農業・漁業のほかに、世界の収集家向けに独自の切手を発行していたが、最近ではインターネットのドメイン 「tk」の販売も収入源だ。

トケラウは地理的にサモアとつながりが深いが、特にアメリカ領サモアのスウェ インズ島とは目と鼻の先だ。トケラウとスウェインズ島をめぐってはかつてイギリスとアメリカが領有権を争っていたが、1983年にニュージーラン ドとアメリカの間で最終的に解決した。しかしトケラウ自治政府はスウェインズ島の領有権を主張していて、トケラウの旗には島を現す星が4つ描かれている。 トケラウが「国」になったら、アメリカとの国境紛争が再発しそう。もっとも、海抜2m以上の土地がないトケラウは、地球温暖化が進めば真っ先に水没するとも言われていて、せっかく「国」になっても住民はすべてニュー ジーランドへ移住という事態になりかねない。


トケラウの旗

●関連リンク

南海ナマコス トケラウに旅行中の人のブログ。行くまでが大変ですね・・・
トケラウの甲虫切手 
Official Tokelau Travel and Information Service トケラウの観光案内(英語)




過去形:クック諸島 政府は認めているが、国家として認めていないので国交がない国 

クック諸島と国交がある国:25ヵ国 
国連:非加盟

太平洋の地図 ニュージーランドの右上にあるのがクック諸島。その左下がニ ウエ、左上がトケラウ

「キャプテン・クック」ことクック船長にちなんで命名されたというクック諸島は、南太平洋に散らばる15の島々。位置はトンガとタヒチ の中間・・・ と言っても、わかるようでわからないですね。南と北では1000km離れているが、面積は全部の島を合わせてもわずか237平方km。人口は2万1000 人で、うち1万1000人が首都アバルアのあるラロトンガ島に住んでいる。

で、このクック諸島は永らく日本政府は独立国として認めず、国連にも加盟していないのだが、世界25ヵ国が主権国家と見なして国交を結 んでいる。25ヵ国 が承認といえば台湾並みなのだが、台湾政府を承認している国は小国ばかりなのに比べて、クック諸島を承認している国はフランス、ドイツ、イタリア、スイ ス、ベルギー、スペイン、ポルトガル、ノルウェイ、ボスニア、バチカン市国、中国、タイ、マレーシア、東ティモール、インド、イラン、南アフリカ、キュー バ、ジャマイカ、オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、フィジー、ナウルとそれなりの大国もあって、EUも公認。だから「国際的地位」 では台湾より上なのかも・・・?

(ニュー)に注目
では日本政府はクック諸島をどう見なしていたかというと、クック諸島の政府は正統なもの だが、ニュージーランドとの自由連合な のでニュージーランドと国交を結べばとりあえず十分だし、独立国なのかどうかいまひとつハッキリしないので、様子を見ておこうというものだった。だから クック諸 島との交渉はニュージーランドにある日本大使館が管轄し、日本で発行される世界地図を見ると、クック諸島のところにはたいてい赤字で(ニュー)と記されている。

この自由連合と言うのはあまり聞きなれない言葉だが、外交や防衛などの権限を他国に委ねた関係のこと。かつて世界各地にあった保護国と 似ていなくも ないが、保護国の場合は大国側が内政干渉権や治外法権、経済利権などを握っていたのに対して、自由連合はあくまで対等な立場での連合。他にパラオやマー シャル諸島、ミクロネシア連邦がアメリカとの自由連合になっているが、これらの国々は国連に加盟していて、日本政府も独立国として国交を結んでいる。

果たしてクック諸島は国なのか?クック諸島には独自の憲法があり、議会があって、首相が率いる政府がある。国家元首はイギリス国王(女 王)で、これは英連邦加盟のニュージーランドと同じ。ただしイギリスから女王の名代として派遣される総督は、ニュージーランドとは別々になっている。クッ ク諸島の憲法には「クック諸島は自治国(self-governing)である」と書かれていて、独立国家であることを否定しているが、1973年の ニュージーランドとの共同宣言では「クック諸島は独自に諸外国と外交関係を持ち、主権国家として国際機関に加盟する権利」を明らかにしている。ようするに「独立国じゃないけど主権国家」だというわけで、かなり矛盾したような曖昧な立場だ。

そしてクック諸島の住民は、全員ニュージーランドの国籍も持っていて、海 外へ行くときはニュージーランドのパスポートを使う。クック諸島を独立国として考えたら、住民はすべて「外国人」でもあるわけで、「そんなの独立国とは言 えないだろ!」と思うが、その点ではバ チカン市国というもっと上をゆくアヤシイ存在だってある。

クック諸島の住民はニュージーランドの先住民と同じマオリ人だ。南クック諸島の島々は1888年にイギリスがラロトンガ島の酋長と協定 を結 んで保護領にし、1901年にニュージーランドの管轄に移した。一方で北クック諸島ではイギリスが1892年に領有を宣言したものの、すでにアメリカ人が 定住して綿花やコプラ(椰子の実を乾燥させたもの)を生産し、アメリカ政府も領有を主張していたため、どこの国の領土かは曖昧だった。しかしイギリスもア メリカもわざわざ小さな島に役人を派遣して統治する気はなく、ナサウ島などは何度か転売された後、イギリス(オーストラリア)のバー ンズ・フィリップ社が購入して支配していた。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、南太平洋の島々でプランテーションを経営するのが危険になったバーンズ・フィリップ社は、イギリ スと アメリカにナサウ島を買い取るように求めた。これに応じたのがイギリスで、ニュージーランド政庁に命じて島を買い取らせ、北クック諸島も正式にニュージー ランドの一部になった。

1947年にそれまでイギリスの自治領だったニュージーランドが独立すると、ニュージーランドはそれまで放任状態だったクック諸島の統 治 を本格化させようと、手始めに土地の所有権を明確にしようとしたが、それまで「土地は村全体のもの」という伝統的な慣習で暮らして来た島民たちは反発し た。さらにほとんど唯一の輸出商品だったコプラの品質向上を図るために指導を強化しようとしたことも島民たちの怒りをかった。こうしてクック諸島では自治 を要求する声が高まり、1965年に独自の憲法や議会が設置され、防衛・外交以外の権限を持つクック諸島政府が誕生してニュージーランドとの自由連合を結 成。73年には外交権も持つようになった。

ニュージーランドとしては、宗主国だったイギリスの命令で勝手に島を譲り渡されたり買収 させられたりしたものの、ニュージーランド本土からラロトンガ島までは3450km、北クック諸島までだと4000km以上も離れているう え、産業育成を図ってまじめに統治しようと思えば島民たちは反発するわで、できればさっさと独立してもらい たいのが本音。住民投票と議会で3分の2以上の賛成があれば、ニュージーランドの同意がなくてもいつでも独立できることになっている。

しかし、クック諸島側が欲しいのはあくまで自治であって、独立したくないのが本音だ。独立したらニュージーランドからの財政援助が減る し、 何よりも島民たちがニュージーランドの国籍を失ったら、ニュージーランドへ自由に出稼ぎに行けなくなってしまう。そんな双方の駆け引きの結果が、「独立国 じゃないけど主権国家」という正体不明の地位になったようだ。

※その後、 2011年3月25日に日本政府はクック諸島を国家として承認し、国交を結びました。


クック諸島の国旗

●関連リンク

外 務省−クック諸島 
クック諸島は 楽園(パラダイス) クック諸島の現地情報・観光案内
ココナッツブラ ラロトンガ島の滞在記です




過去形:モナコ公国 国家として認めていたが、「仏の親分」の意向で国交を結べなかった国 

国連:1993年加盟

モナコの地図

赤線の左がフラン ス、右がイタリア
モナ コといえば、世界でバチカン市国に次ぐミニ国家で、面積は日本の皇居の約2倍。バチカンは周りをすべてイタリアに囲まれているが、モナコは三方をフランス に囲まれ、残る一方は海。カジノにカーレース、映画祭にスポーツ大会、花火大会・・・その他もろもろのイベントを年中開催して観光客を集める、テーマパー クのような国だ。

さて、そのモナコは最近まで日本と国交がなかった。ただし台湾のように日本政府が国そのものの存在を認めていないわけでもなければ、北 朝鮮のように存在は認めても政府を承認していないわけでもない。日本政府はモナコという国が存在していることを認め、モナコ政府を「正統な政権」がある独 立国だと認めて国家承認していたのだが、国同士として正式なお付き合いがなかったというこ と。

なぜかといえば、モナコは1918年にフランスと結んだ条約で、他国と外交関係を結ぶ場 合にはフランスの事前の同意が必要と決められていたから。この条約では、モナコは外交だけでなく、防衛も完全にフランスに委ね(モナコは軍 隊なし)、通貨や関税制度もフランスと同じとされ、さらにモナコの大公家に男子の跡継ぎがいない場合はモナコはフランスに併合されてしまうと規定された。 つまりモナコはフランスの属国で、フランスが生殺与奪を握っている状態だった。

もともとモナコはイタリアと関係が深く、ジェノバの要塞が築かれていた。13世紀末にローマ法王と神聖ローマ皇帝との争いが起きた時、 法王派のグリマルディが修道僧に化けて要塞に潜入して占領し、この功績でグリマルディ家がローマ法王からモナコの領主として認められたのが国の始まり。 18世紀後半のフランス革命では、モナコは周辺の封建領地とともにフランスの市民軍に占領されるが、ナポレオン失脚後に開かれた1815年のウィーン会議 ではイタリアのサルディニア王国の属国として再興を認められた。その後、1848年にサルディニア王国がイタリア半島の統一に乗り出すと、モナコも領土の 大半をサルディニア軍に占領されてしまう。困った大公はサルディニア軍に占領された領土をフランスへ売却し、イタリアとの国境を接しないようにすることで かろうじてモナコの独立を守ったが、これによってモナコは領土の95%を失い、王宮の周りだけを残したミニ国家になってしまった。そこで観光収入で財政を 支えようと、フランスから得た金でカジノを建設したという次第。

さて、フランスの許可がないと他国と付き合えないモナコが国交を結んだのは、イタリア、ドイツ、ベルギー、スペイン、スイスくらいだっ たが、その代わりモナコは日本も含めて69ヵ国に名誉総領事館を置いている。名誉総領事とは、本国から外交官を派遣する代わりに、主に現地の民間人を任命 して自国民の保護や自国文化・経済の宣伝活動を行うというもので、日本政府もモナコで名誉総領事を任命している(※)。

※日本政府の場合は、名誉総領事館ではパスポートやビザの発給は扱っていないが、 カリブ海や南太平洋の小国などでは名誉総領事館がパスポートの販売代理店になっているケースも。香港では移民コンサルタント会社が小国の名誉総領事館を副 業で経営していて、新聞に「英連邦加盟国だから信用抜群!×××国のパスポートを独占販売」なんて広告が並んでいるのも、ようあること。
近年はフランスからの自立が着々と進み、1993年には国連に加盟。2002年にはフランスとの条約を改定して、大公家に男子後継者がいないとフランスに 併合される条項を削除。そして2005年12月からはフランスの事前同意がなくてもモナコは外国と国交を結べるようになった。

となれば、日本とモナコも国交を結んで良さそうだが、なにしろ人口3万5000人しかいない国だけあって、世界各国と1つ1つ条約を締 結して外交関係を樹立するとなると、外交担当の事務能力がパンクしてしまうということで、日 モ国交樹立はそのままお預けになっていた。

その後、モナコ外務省の事務作業がはかどったのか、ようやく日本の番が回ってきて、2006 年12月に日本とモナコの国交樹立が実現した。


モナコ公国の国旗




番外編:ソマリア 国交はあるけど、承認する政府が存在しない国

国連:1960年加盟

2002年のソマリアの地図  いちおう「統一国家」のように描かれています

黄色は事実上分離独 立しているソマリランド
「民主国 家」「独裁国家」「社会主義国家」「資本主義国家」「封建国家」「宗教国家」「先進国」「発展途上国」・・・と、国にはいろいろな分け方がありますが、最 近では「弱い国家」「失敗国家」「崩壊国家」という分類もあるそうな。

弱い国家とは国内対立や経済政策の失敗で、教育や医療、インフラの維持・ 整備など国民に対する行政サービスが満足に行えなくなった国のこと。失敗国家は反政府ゲリラ の武力闘争が長期間にわたって続いて内乱状態となり、政府は国土の一部しか支配できず、経済や行政サービスは麻痺状態で、政府を守るための軍だけが機能し ているような状態の国。そしてその究極の姿が崩壊国家で、それまでの政府指導者は逃亡するか 殺されるかして中央政府が存在しなくなり、反政府側も新政権を樹立するほどまとまらず、軍閥や武装勢力、部族勢力などが群雄割拠して各地の住民を勝手に支 配している状態だ。

ようするに、『北斗の拳』をイメージしてもらえばいいのだが、そんな国が 果たして存在するのかといえば、ソマリア。ソマリアは社会主義国だったが、10年に及んだ内戦の末、1991年にバレ大統領が亡命して政権が崩壊。その後 首都を制圧した反政府ゲリラ同士の内乱が続き、アメリカ軍を中心とした国連の平和維持軍が介入したものの、軍閥に襲撃されて95年に撤退。北部ではソ マリランド共和国が誕生して独立を宣言したり、南西ソマリアやプントランドのような自治国が生まれているが、15年以上にわたって中央政府は存在せず、30派以上と言われる軍閥、武装勢力、氏族勢力が勢力争いを 繰り広げている。

見かねた周辺各国の働きかけで、いちおう何とかしようという動きもあって、2000年には氏族勢力の代表らが集まり「国内には危なくて政府が置けない」と 隣国のジプチでソマリア暫定政府が発足したが、軍閥たちに認められずに頓挫。2004年には各軍閥や自治政府のリーダーたちも参加して、今度はケニアで新 たな暫定政府が発足し、翌年から徐々にソマリア国内へ拠点を移しはじめた。

しかし目下のところ、日本政府の見解は「1991年より無政府状態」「現在に至るまで対立氏族間の抗争が続いており、全土を実効的に支 配する統一政府は存在しない」ということで、政府承認はしていない。日本は以前からソマリアと国交を結んでいるが、付き合う相手の政府が存在しないということで、外交関係は事実上停止状態だ。ソマリアの日本大使館は内 戦が激化した90年から閉鎖されたままになっている。

それにしても、政府が存在しなくなったということは、強盗、強姦、殺人なんでもやりたい放題かといえば、漫画じゃあるまいしそれでは住 民が住めなくなってしまう。そこで政府に代わってイスラム教の聖職者たちが裁判所を運営し て、無政府状態の中でイスラム法に基づいた秩序の維持を図った。これらイスラム裁判所は訴訟当事者が支払う手数料で運営され、やがて政府の代わりに住民へ 教育など最低限の行政サービスを提供するようになり、「犯罪を減らすため」と企業から税金を徴収して治安維持のための警察も作った。

そして果てることない軍閥や武装勢力同士の抗争にしびれを切らせて、各地の裁判所が「イスラム法廷連合」を結成(※)。イスラム国家樹立に よるソマリア再統一を目指し、軍閥の連合体である暫定政府に対して武装闘争に乗り出した。

暫定政府側は南西ソマリアを拠点に、イスラム法廷連合を「アル・カイダに関係するテロ組織」と見なすアメリカの後押しで、「平和回復と 反テロ同盟」を結成して対抗したが、イスラム法廷連合(※)は軍閥支配に嫌気が差していた民衆の支持を集め て、あれよあれよという間に勢力を拡大。2006年6月には首都モガティシュを制圧して、ソマリア南部の大半を支配下に置いた。

※首都制圧後、イスラム法廷会議に 改称した。
イスラム法廷会議は、長年公共サービスが止まり荒れ放題になっていた首都で「大清掃運動」を呼びかける一方で、結婚式での西洋音楽の演奏を禁止したり、女 性の水泳を禁止したり、ワールドカップの中継放映を禁止して抗議した住民を殺害したりと、なにやらアフガニスタンの今は亡きタリバン政権の再来を思わせる。イスラム法廷会議は暫定政府が立て篭もる南 西ソマリアの首都・バイドアも包囲して、ソマリランドを除く全土を支配する勢いだった。

しかしタリバンもどきのイスラム法廷会議に危機感を抱いたのが、隣接するキリスト教国のエチオピアとアメリカだった。2006年末にエ チオピア軍が暫定政府を全面支援して介入し、首都からイスラム法廷会議を駆逐。イスラム法廷会議はケニアとの国境地帯に逃れて体勢を立て直し、首都を奪還 しようと試みたが、米軍の空爆で散り散りになった。

こうして暫定政府がソマリアの全土掌握をしたかといえば、ソマリランドは相変わらず「独立」したままで、プントランドも自治を続けてい る。イスラム法廷会議はゲリラとなってテロ攻撃を始めており、ソマリアで政府承認すべき「安定統一政権」が確立するのはまだ先になりそうだ。


ソマリアの国旗

●関連リンク

外務省−ソマリア  「政体」「元首」「議会」の欄に注目
外務省 海外安全ホームページ ソマリア
崩 壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」  進藤貢氏の論文です(PDFファイル)
図表1 弱い国家、失敗国家、崩壊国家のリスト

22年間も「承認する政府」がなかった国:アフガニス タン

今ではどうにか立ち直っていますが、近年「崩壊国家」として世界的に注目されていたのが、ボ スニア・ヘルツェゴビナとアフガニスタン。

ボスニアの場合は、1992年にユーゴスラビアから独立したと同時にセルビア人とクロアチア人、ムスリム人の三つ巴の内戦が勃発したわ けで、いわば崩壊からスタートした国。だから日本がボスニアを国家として承認し国交を結んだ のは、内戦が終わった後の96年になってから。

一方、アフガニスタンとは1931年以来国交を結んでいたが、1979年から2001年 まで、日本政府的には「国交はあるけど承認している政府がない国」だった。

アフガニスタンでは78年のクーデターで社会主義政権(アフガニスタン民主共和国)が成立した が、翌年政権内部で内紛が続き、ソ連の軍事侵攻による介入でカルマル議長が政権の座に就くと、日本はアメリカに倣って「ソ連軍の傀儡政権だ」と政府承認を しなかった(※)。

※ついでに1980年のモスクワオリンピックも、アメリカの呼びかけに従って、西 ドイツや中国など50ヵ国とともにボイコットした。
この時点ではアフガンには政府は存在していたのに「気に入らないので認めない」というものだっ たが、89年にソ連軍が撤退すると、それまでアメリカやサウジアラビアの支援で反ソ戦争を続けていたムジャヒディーンと呼ばれるイスラムゲリラ(※)の攻 撃が活発になり、92年に社会主義政権は崩壊。ムジャヒディーンたちの連立でラバニ政権(ア フガニスタン・イスラム共和国)が誕生したが、軍閥各派に分かれて主導権をめぐる内戦が続い たために崩壊状態となり、国外へ逃げ出した難民はソ連軍占領当時から合わせて数百万人にのぼった。
※で、当時アメリカから支援を受け ていたゲリラの1つが、ご存知ビンラディン率いるアル・カイーダ。
こうしてパキスタンに逃れた難民の間で生まれたのがタリバンだ。タリバンはイスラム神学校の教 師や学生たちが結成した組織で、「イスラム世直し」に立ち上がり、軍閥支配に嫌気が差していた民衆の支持を集めてあれよあれよという間に勢力を拡大して、 96年に首都カブールを制圧し、タリバン政権(97年にアフガニスタン・イスラム首長国と命 名)が誕生した。アフガン北部に逃げたラバニ政権や軍閥たちは反タリバンで結束して「北部同 盟」を結成したが、98年までにタリバンはほぼアフガン全土を制圧した。

しかし国連での代表権は北部同盟のアフガニスタン・イスラム共和国が維持し続け、タリバ ン政権はアフガニスタン・イスラム首長国に代表権を交替するよう国連に求めたが認められなかった。そして世界でも、タリバン政権と国交を結んだのはパキス タンとサウジアラビア、アラブ首長国連邦だけで、日本政府は「全土を実効的に支配する政府は存在しない」ことを理由に、引き続きどの政権も承認しなかっ た。

そして2001年9月、北部同盟の指導者・マスード将軍が暗殺され、北部同盟はあわや壊 滅かと思いきや、その2日後に9・11テロが勃発して、アメリカ軍がアフガニスタンへ侵攻。アルカイーダと密接だというタリバン政権を崩壊させ、代わって 北部同盟が首都カブールを奪還し2001年末に暫定政府を樹立。日本はこれを「アフガニスタンの正統な政権」と見なして、22年ぶりに政府承認をした。アフガニスタンの政府 は04年から再びアフガニスタン・イスラム共和国の国名で正式に発足しています。

  
アフガニスタン民主共和国の国旗。78〜80年(左)、 80〜87年(中)、87〜92年(右)。

  
アフガニスタン・イスラム共和国の国旗。北部同盟も同じ (左)、タリバンの旗(中)、アフガニスタン・イスラム首長国の国旗(右)。

 
アフガニスタン暫定政権の国旗、02〜04年(左)、現在の アフガニスタン・イスラム共和国の国旗、04年〜(右)。
 
 

「非公認の国々」 へ戻る

『世界飛び地領 土研究会』TOPへ戻る





(最終更新:2011・7・16)