世界約50ヵ国が正式な外交関係を結ぶ、砂漠の中の亡命政府

サハラ・アラブ民主共和国
 
首都:ラユーン(アイウン) 人口:26万7000人(2004年)

1884年11月3日 スペインが西サハラの領有を宣言
1975年11月14日 スペインとモロッコ、モーリタニアがマドリード協定を締結。スペイン撤退後の西サハラ分割について密約
1976年2月26日 スペインが西サハラを放棄
1976年2月29日 ポリサリオ解放戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言
1976年4月14日 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定
1979年8月5日 モーリタニアが西サハラの領有を放棄
1979年8月14日 モロッコが西サハラのほぼ全域を占領
1991年4月 国連の斡旋で停戦が発効

西サハラの詳細地図(1958年) スペイン領だった時代。地図上方のモロッコの部分は「スペイン領南部保護領」だったので国境線ではなく州境
西サハラの地図(1989年) 
西サハラの地図(2005年) 赤い二重線が「砂の壁」

   昔の地図(左)と今の地図(右)

アフリカ北西部の地図を見ると、モロッコの南側に「西サハラ」という、国なのか国でないのかよくわからないような地域があります。一昔前の世界地図を見ると「スペイン領サハラ」で、スペインの植民地だったことがわかりますが、その後独立して西サハラになったのかといえば、その辺がなんとも微妙なところ。「サハラ・アラブ民主共和国」という国が独立を宣言して、多くの国々が承認していますが、領土のほとんどはモロッコが占領し続けていて、サハラ・アラブ民主共和国はアルジェリア領内の難民キャンプで亡命政府を作っています。

西サハラの大半は砂漠で、ベルベル人やイエメン系の遊牧民が部族ごとに散在して暮らしていたが、ここに目をつけたのがスペイン。19世紀後半の列強によるアフリカ分割で領有権を主張して、スペイン領サハラと称した。しかしスペインが支配したのは海岸沿いのいくつかの拠点だけで、長い間放任状態が続いた。スペインが内陸部も統治するようになったのは、1930年代にフランコ将軍がスペインの総統になってからのこと。

当時モロッコはフランスの植民地になっていたが、一部はスペインにも分け与えられ、ジブラルタル海峡に面した北部とスペイン領サハラに接した南部、それと中部の港町・イフニはスペインの保護領になっていた。スペインはサハラと南部保護領、イフニを合わせて「スペイン領西アフリカ」と呼んで支配した。

戦後、アフリカ諸国の独立が相次ぐなかで、モロッコも1956年にフランスから独立。スペインは同年に「はるか昔から領有していた」というセウタメリリャを除く北部保護領をモロッコに返還し(※)、58年には南部保護領も返還。イフニは死守する構えだったが、セウタとメリリャの領有をモロッコが黙認することを条件に、これも69年に返還。最後の植民地となったサハラも、フランコ総統が死んだ75年にスペインは領有権の放棄を決めた。

※本当はこの他にも、ペニョン・デ・ヴェレス・デ・ラ・ゴメラなどの超ミクロなスペイン領の飛び地も残っている。
スペイン撤退後の西サハラについて、モロッコは「他の保護領と同様に返還されて当然だ」と主張し、西サハラの全人口より多い35万人のモロッコ人が西サハラへなだれ込む「緑の行進」を行って、スペインに圧力をかけた。こうしてスペインとモロッコ、モーリタニアの間で西サハラの分割について秘密条約が結ばれ、76年2月にスペインは撤退し、西サハラはモロッコとモーリタニアが南北に分割した。

ところがこれに抵抗したのが、73年5月からスペインを相手に地元で武力闘争を続けていたポリサリオ解放戦線だ。「2ヵ国による分割は新たな植民地支配」だと、スペイン撤退の直後にサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言して、アルジェリアの支援を受けながらモロッコとモーリタニアを相手に武力闘争を継続する。解放戦線はまず「弱いほう」のモーリタニアを集中的に攻め、首都ヌアクショットを攻撃されたモーリタニアは79年に領有権を放棄するが、モロッコはたちまち西サハラの南部も占領。ポリサリオ解放戦線はアルジェにサハラ・アラブ民主共和国の亡命政府を作るとともに、アルジェリア領内の難民キャンプと内陸の砂漠の「解放区」を出撃拠点にしてゲリラ活動を続けた。

独立を要求している亡命政府は世界中あちこちであるが、西サハラの場合は少なからぬ国がサハラ・アラブ民主共和国を「国家」として認めて、正式な外交関係を結んでいる点で、そんじょそこらの亡命政府とは「格」が違うのだ。例えばチベット亡命政府は、ダライ・ラマを国賓待遇で招待する国はあっても、チベットを「国家」として承認し外交関係を結んでいる国は、亡命政府があるインドも含めて存在しない。ところがサハラ・アラブ民主共和国は、アフリカやラテンアメリカを中心に約50ヵ国が承認し、大使館を置いている国もある。84年からはアフリカ統一機構(OAU)にも国家として加盟している(憤慨したモロッコはOAUを脱退)。

サハラ・アラブ民主共和国を承認している国 地図の緑は国交があり西サハラの在外公館(大使館など)を置いている国、黄緑は国交がある国、赤は国交があったが取り消した国。
それにもかかわらず、米英仏や日本など西側諸国やその同盟国は、サハラ・アラブ民主共和国を承認しようとしなかった。これはポリサリオ解放戦線が社会主義国アルジェリアの全面支援を受けていたため。一方で、モロッコは北アフリカ随一の親米国だ。しかし、東西冷戦が終わりアルジェリアも88年に民主化を発表すると、西サハラを取り巻く国際環境も一変した(※)。88年にモロッコと解放戦線が国連の和平プランを受け入れ、92年にようやく停戦が実現。西サハラが独立するかそれともモロッコに併合されるのかは、国連監視下で住民投票を行って決めることになった。
※アルジェリアは民主化の結果、91年にイスラム救国戦線(FIS)が80%の議席を獲得したため、軍部がクーデターを起こして内戦となり、FISは非合法化されたが、フランスやアメリカは軍部を支援した。西側諸国にとっての脅威は、もはや左派勢力よりもイスラム勢力ということ。
ところが、当初92年に実施することになっていた住民投票は毎年のように延期され、現在に至るもさっぱり実施のメドが立っていない。

これは「誰が投票権を持つか」でモロッコとポリサリオ解放戦線が対立しているため。スペイン撤退当時に西サハラに住んでいた住民の多くは、モロッコ軍の侵攻や弾圧でアルジェリアの難民キャンプへ逃れ、現在その数約10万人。一方で現在西サハラには27万人が住んでいるが、モロッコ統治下で移住してきた人が少なくない。いちおう投票できるのは「スペイン統治時に西サハラに住んでいた住民とその子孫」と決まり、難民でも当時西サハラに住んでいた証明があれば投票できることになったが、もともと住民の多くは遊牧民で移動しながら生活していたから、スペイン時代に「住民登録」なんてしなかった人が多い(※)。またポリサリオ解放戦線は、モロッコがかつて西サハラ以外のスペイン領(イフニや南部保護領)に住んでいた人たちを西サハラに移住させて投票に参加させようとしていると非難している。スペイン時代はこれらの地域も「スペイン領西アフリカ」で一緒に統治されていたから、区別がつきにくい。

※スペイン時代末期の73年の統計では、西サハラの人口は5万人しかいなかったことになっている。
こうして住民投票がズルズル延期されている間に、モロッコでは「砂の壁」を建設して、西サハラの主要部分をゲリラの「解放区」と切り離して、モロッコ支配の既成事実作りを進めている。この砂の壁とは、砂漠に鉄条網を張り巡らして、都市がある沿岸部とゲリラが出没する内陸の砂漠との行き来を遮断するというもの。なんだかイスラエルがパレスチナ自治区を取り囲んで建設した壁に似ているが、実際にイスラエルの協力で建設しています。
 

●関連リンク 
 
西サハラ支援 西サハラ歴史や現状、独立運動について
 
 

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