「ガンジー精神」のインド人へ暴力振るうポルトガルに、インド政府の怒りが爆発

ゴア

旧ポルトガル領

1510年 ビージャープル王国からポルトガルが奪取
1746年 チラコル村の砦を占領して飛び地とする
1759年 政庁所在地がオールドゴアからパンジン(現在のパナジ)へ移転
1763年 マラータ同盟との戦争でPonda、Sanquem、QuepemやCanaconaなどへ領域を拡張
1788年 マラータ同盟との戦争でPednem、BicholimやSatariなどへ再び領域を拡張
1801〜1815年 イギリスが占領
1961年12月19日 インドが軍事侵攻し占領

  
ポルトガル時代のゴアの旗(右)

ゴアの地図
植民地時代のインドの地図  黄色でマークしてある都市がポルトガル領
1955年のゴアの詳細地図(北部・中央部)  (南部) 
ゴアの衛星写真 (google map)

大航海時代にアジアで多くの植民地を築いたポルトガルの本拠地がゴア。交易のみならずアジアへのキリスト教布教の拠点でもあり、かのフランシスコ・ザビエルもゴアから船に乗って日本へやって来た。

ゴアは11世紀初めから交易拠点になり、14世紀からはイスラム系の王国の下で馬や香料の貿易で繁栄していたが、1510年にポルトガルのインド総督アルブケルケの艦隊が占領。アルブケルケは続いて西はホルムズ、東はマラッカまで征服し、30年はインドにおけるポルトガルの首都をそれまでのコーチンからゴアへ移した。ポルトガルはさらに香料諸島(インドネシア東部)やティモール島、マカオを獲得し、長崎へも進出。ゴアはポルトガルの首都リスボンと同格の都市に昇格し、ふつう植民地へ派遣されるのは総督だがゴアへは副王が派遣されて、アジアと東アフリカ(モザンピーク)の植民地を統括した。1563年に副王はポルトガルの議会をゴアで開催するように提案したが、さすがにこれは国王に拒否された模様。

ポルトガルはアジアとヨーロッパの交易を独占したのみならず、インド西海岸ではインド人による沿岸貿易まで支配して(※)、それらによる富が集まるゴアは黄金のゴアと賞賛されるほどの繁栄を謳歌した。当時のポルトガルの諺には「ゴアを見たものはリスボンを見る必要なし」という言葉も生まれたほどだが、これらの繁栄を謳歌したのはあくまでポルトガル人の話。ゴアに住むインド人はキリスト教への改宗を迫られ、改宗を拒んだ村は焼き討ちされて、ヒンズー寺院やモスクを破壊した跡には教会が建てられた。またゴアには異端審問所が設置され、インド人の伝統を尊重しながらの布教方法を唱えた宣教師らは罰せられていった。

※ポルトガルは沿岸を航行するインド人の船にもカルタス(通行手形)の購入を義務付けるとともに、アラビア海をパトロールしてカルタスを持たない船を発見すれば、乗務員を捕まえ積荷を没収した。そしてアラビア海を効果的にパトロールするためにディウダマンなどを占領した。
「黄金のゴア」の繁栄も、17世紀に入ると色褪せていった。新たにライバルとして登場したオランダによってゴアは1603年と39年に攻撃され、ポルトガルはどうにか守り抜いたものの、インド沿岸の大部分の植民地やスリランカ、マラッカ、香料諸島はオランダの手に陥ち、長崎との貿易もオランダ人に奪われてしまった。また18世紀半ばにはコレラやマラリア、チフスなどの伝染病の蔓延で人口が急減し、それまでのゴアの町(オールド・ゴア)は放棄されて、首都は海岸沿いのパンジム(現在のパナジ)へ移転した。

この頃、ムガール帝国の弱体化に乗じて、南インドではヒンズー教の農民たちを基盤にしたマラータ同盟が勢力を伸ばし、ムガール帝国やイギリスと戦争を起こすが、ゴアもたびたび攻撃を受けた。一時は副王が捕虜となって処刑されたり、貢税を差し出して存続を許されたりと惨めな状態になったが、やがてマラータ同盟の内紛に乗じて反撃に転じ、ゴアの領土はそれまでの4倍にあたる3700平方kmへ拡大した。

19世紀初めにはポルトガル本国がナポレオン率いるフランス軍によって占領されたため、ゴアはフランスの手に陥ることを恐れたイギリスに占領されたが、この時にインド人たちを苦しめていた異端審問所は廃止された。インドがイギリスの植民地になると、ゴアを脅かす存在はなくなり安定が訪れたが、1947年にインドが独立するとゴアは再び脅かされるようになる。

インドはポルトガル領やフランス領の植民地も引き渡すように交渉を始めたが、拒否された。そこでインド人の間では「ガンジー精神で取り戻すしかない!」とサチャグラハ運動が始まった。サチャグラハ運動とはかつてガンジー翁が唱えた非暴力・不服従運動のことで、イギリスの植民地支配に抵抗し、独立を勝ち取ったのだが、それにあやかってフランスとポルトガルの植民地も取り返そうというわけだ。

具体的にはどうするのかといえば、インド人が集団で押しかけて植民地を占拠してしまうという作戦。こうして1954年にフランスの植民地は次々とインド人の集団に占拠され、フランスは植民地の返還を発表したが、ポルトガルはあくまで強硬姿勢を貫き、国境に軍や警察を出動させて実力で排除した。

ポルトガルが植民地明け渡しを拒んだのは、インド植民地からの撤退が、アフリカなどの植民地での独立闘争に波及して、植民地帝国の崩壊を引き起こすことを恐れたから。イギリスやフランスのような先進国は、直接的な植民地支配から多国籍企業を通じた経済支配へ切り替えつつあったが、後進国のポルトガルは植民地を失ったら何も残らなくなってしまう。また強気の背景には、ポルトガルはNATO(北大西洋条約機構)に加盟していたので、「いざとなればアメリカが助けてくれる」という期待感もあった。

そしてこの時期、ゴアは再び繁栄を謳歌していた。ゴアでは豊富な鉄鉱石が発見されて、戦後日本企業との合弁で採掘が始まっていた。 かつての「黄金のゴア」では潤ったのはポルトガル人だけだったが、鉄鉱のゴアではインド人も雇用が増えてインドより高い賃金がもらるようになった。50年代末のゴアの人口は60万人だったが、労働者不足のためインドの近隣地区からの移民を受け入れたほど。

その一方で自由貿易港のゴアは関税がかからなったので物価は安く、インド政府はゴアを封鎖したが、「敵の敵は味方」というわけで、必要な物資はパキスタンから輸入していた。またそれまでキリスト教とポルトガル語を広めること以外は無関心だった教育も、インド人の批判を避けるため地元のコンカニー語やマラティ語による学校教育が始められていた。

ゴアへ集団で押しかけるインド人と、ポルトガル側の襲撃の映像1955年。うまく観れない場合はVLCをダウンロード
しかし1955年にゴアへ入ろうとしたインド人のデモ隊がポルトガルの警察に発砲されて、死者20人以上、負傷者500人近くを出す惨事が起きると、ゴアのインド人の間でもポルトガル統治に対する反感が高まった。その後もサチャグラハ運動では毎年のように流血の事件が繰り返され、非暴力のインド人へ暴力を振るうポルトガルにインド政府の怒りが爆発。61年12月についにインド軍はポルトガル領に侵攻して、わずか26時間の戦闘で占領した(※)。アメリカは「NATOによる共同防衛範囲はあくまでヨーロッパに限定だ」とインドによる武力併合に見て見ぬふりをした。そうしなければ植民地からの独立たけなわだったアジア、アフリカ諸国からの信頼を一気に失い、インドによる武力併合を支持したソ連を利することになるのは明白だったからだ。
※ポルトガル軍はたいした抵抗をしないまま降伏したが、「ポルトガルは一発も反撃せずに降伏した」と言われているのは、さすがに嘘。この戦闘でインド軍に20人、ポルトガル軍に17人の戦死者が出た。インド軍のゴア武力解放の成功で、俄然はりきりだしたのがインドネシアのスカルノ大統領で、具体的に何をしたかというと、こちら
  
降伏の白旗が揚がるゴア総督府(左)と、降伏したポルトガル兵に説教するインド軍将校(右)

インド軍による占領後のゴアは、5ヶ月間の軍政を経て連邦直轄地域になり、87年からはゴア州になっています。現在でも人口135万人のうち30%がカトリック信者で、ポルトガル系の混血の人たちを中心にポルトガル語を話す人たちも数万人暮らしています。60年代から70年代にかけてゴアは「ヒッピーの楽園」として有名になりましたが、現在では荘厳なキリスト教会などを見所にしたリゾート地。自由貿易港ではなくなったものの、特別措置で関税が安く、ショッピング目当てのインド人観光客を集めているとか。

ポルトガル時代のゴアの紙幣(  )と、マカオの紙幣( )。


★ゴアの飛び地:Tiracol村

チラコル村の衛星写真 河口の北側の何もなさそうな一角((WikiMapia)

この地図 をよ〜く見るとわかりますが、ゴアの中心地・パナジから北へ42km、河口を挟んだ向こう岸にTiracol(またはTerekhol)という飛び地がありました。面積は約5平方kmで、ここにはポルトガルの砦と教会、そして小さな村があった。

この砦は16世紀の初め、進出してきたポルトガル人を監視するために地元の王が建てたものだが、1746年にポルトガルが占領。当初はゴア本土から20km近くも離れていたが、1763年に入り江の手前までゴアの領域が広がった。

こうしてチラコル村の砦はポルトガルにとってゴアの北の守りを固める存在になったが、川を挟んで本土と隔てられているため、しばしば反乱の拠点にもなり、1825年には初のゴア生まれの総督・ベルナルドが、チラコル砦に立て篭もってポルトガルに叛旗を翻したことも。そして1954年に、「ガンジー精神」で植民地を取り戻すサチャグラハ運動が始まると、チラコル砦は真っ先にインド人に占拠されて、61年にインド軍がゴアを占領するまで、ゴア解放運動の前線基地と化した。

砦は現在でも きれいに保存されていて 、リゾートホテルになっています。


★ゴアの飛び地:アンジェディバ島 

アンジェディバ島の衛星写真 現在は本土との間に橋があるようです(google map)

ゴアの南端から20km近く離れた沿岸にアンジェディバ島と言うポルトガル領の飛び地があった。当時の地図を見ると、他の島は「×× ISLAND」と英語で書かれているのに、この島だけ「ILHA DE ××」とポルトガル語になっている。

アンジェディバ島は面積わずか1・5平方kmで、やはりポルトガルの砦と教会があった。じゃあこの島もTiracol村と同様にゴアを防衛するためにポルトガルが占領したのかといえば、むしろ逆だ。ポルトガルがゴアを占領したのは1510年だが、アンジェディバ島を占領したのは1500年で、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰回りでインドへ到達した翌年のこと。アンジェディバ島はゴアに先立つポルトガルの拠点だったのだ。

アンジェディバ島は紀元前2世紀にローマ帝国で作成された地図にも存在が記されていたほどの交易拠点で、それより前からギリシャ人が訪れていた。4〜5世紀からはインドへ馬の買い付けにやって来るアラブ商人たちの拠点となり、住民はやがてイスラム教へ改宗した。そういう海外にも名の知れた島だったから、インドへやって来たポルトガル人がまず目に付けたのも、無理からぬこと。

もっともゴアがポルトガル領になってからは、交易の拠点はゴアへ移り、アンジェディバ島の存在は影が薄くなった。伝染病の蔓延もあって19世紀末には島の人口は100人以下となり、1954年にゴアの返還を要求するインドとポルトガルとの関係が悪化すると、周囲のインド領との行き来が制限されて、ポルトガル海軍の船に輸送を頼るようになり、海が荒れれば外部との交通は途絶。1961年にインド軍が占領した時は、30人の島民とポルトガルの守備隊がいただけだったという。

島には1506年にフランシスコ会がインドで最初の教会を建て、現在の建物は1729年に建設されたもの。アジアで最も古いカトリック教会の1つということで、島には巡礼者も訪れていたが、2003年以降はインド海軍の基地となり、一般人の島への立ち入りは禁止され、キリスト教団体から抗議の声が挙がっている。
 

●関連リンク

ゴアの教会と修道院  世界遺産ですね
ポルトガルとアジア(1)  増田義郎氏の論文(PDFファイル)。ポルトガルとアジア(2) もあります
Mahek's Kitchen   チラコル村への旅行記。写真がたくさんあります(英語)
Goancauses  アンジェディバ島の写真や昔の絵、地図があります(葡語)
 


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