兵糧攻めにさらされて、フランスがあえなく放棄

マヘ

旧フランス領

1725年 フランスが獲得
1761〜1765年 イギリスが占領
1766年 マイソール王国がフランスへ内陸の飛び地2つを割譲
1779〜1783年 イギリスが占領
1793〜1816年 イギリスが占領 
1954年7月16日 インド人が占拠
1954年11月1日 フランスがインドへ行政権を返還
1962年8月16日 正式にインドへ併合
 
マヘ交通図 かなり大雑把です
マヘの地図 赤い部分のParakkalとその上のValawilが海に面しています
植民地時代のインドの地図  灰色でマークしてある都市がフランス領
1955年のマヘ一帯の地図 インド返還後ですが、州境として旧国境線が描かれています
マヘの衛星写真 (WikiMapia)

1954年7月17日付『朝日新聞』
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マヘは面積わずか9平方km。人口はフランス領だった1950年代前半で1万8000人、現在は3万6000人。ココナツやマンゴー、そして胡椒の積出港という小さな町。海辺の中心部の他に、内陸に小さな飛び地と山道一本で繋がった大きな飛び地があるという、実にフシギな形をしている。

マヘはもともとMayyazhi(黒い河口という意味らしい)という町だった。ポンディシェリの商館で赤字経営に悩んでいたフランスは、1721年に商館をMayyazhiに建てたいと地元の王に求めた。王はそれを認めたが、フランスは胡椒貿易のほかに、当時開拓を進めていたマダガスカルへ奴隷を輸出しようとした。このため王はイギリスの圧力もあって商館設置の認可を撤回すると、フランス海軍のMahe de La Boundonnaisという将軍が25年に占拠。フランスは将軍の功績を称えて町をMaheと改称した。フランス語ではHは発音しないので、フランス領時代は「マエ」だったことになる。

18世紀前半はフランスがインド洋へ積極的に進出していた時期で、マダガスカルやセーシェル、モーリシャス、コモロなどを占領していた。インドのフランス植民地がシャンデルナゴルを除けば南部に集中していたのは、インドとの貿易拠点の他にインド洋の軍事拠点としての役割もあったから。Mahe将軍は後にモーリシャスの総督になり、セーシェルにもマヘ島がある。

1760年代になるとマへ一帯ではハイダル・アリが率いるマイソール王国が勢力を拡大し、イギリスとの間でマイソール戦争が勃発した。ハイダルはフランスと手を結び、マイソール軍には400人のフランス人傭兵が参加した。このためマヘはイギリス軍に占領され、砦と町は徹底的に破壊されてしまう。フランスは一時マヘの放棄も考えたが、マイソール王国の首都に一番近い拠点だったので再建することを決め、いざという時に再びフランス人の応援を得たいハイダルも、フランス人をマヘに引き止めようと1766年に周辺の村をフランスへ割譲した。こうしてマヘは内陸に2つの飛び地を擁することになった。

もっともマイソール王国に続いてマラータ同盟も破り南インドを固めたイギリスとの協定で、1816年以降インドのフランス植民地が非武装化されると、マヘの重要性は失われた。そして戦後、1954年にインド併合派がマヘの周囲を通行止めにして「兵糧攻め」にすると、フランスはあえなくマヘから立ち去っていった(詳しくはこちらを参照)。

そういえば最近インドでは、ヒンズー教急進派の政党が台頭して植民地時代からの都市名を現地語による伝統的な名前に改称する動きが続いてる。ボンベイはムンバイ、マドラスはチェンナイ、カルカッタはコルカタと、日本人にも馴染み深かった地名が相次いで消えたが、なぜかマヘについては今のところ改称されていない。連邦直轄地だから簡単に変えられないのか、小さな町だからどうでもいいのか、それともフランス語読みのマエがマヘになったことで、植民地色は払拭したということなんですかね?

●関連リンク

Official web page of Mahe マヘ市の公式HP。写真もいろいろありますが、何もなさそうな町です・・・


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