人口五千人の町で1日何千組もの結婚式が開かれたワケ

ヤナム

旧フランス領

1723年 フランスが獲得
1727年 フランスが放棄
1742年 フランスが再建
1753〜65年 イギリスが占領
1778〜85年 イギリスが占領
1954年6月13日 インド人が占拠
1954年11月1日 インドへ行政権を返還
1962年8月16日 正式にインドへ併合
 
ヤナム交通図
ヤナム詳細図
植民地時代のインドの地図  灰色でマークしてある都市がフランス領で、 「ヤナオン」というのがヤナム
1955年のヤナムの地図 インド返還後ですが、Yanamがどこにあるか見つけられましたか?

ポンディシェリーから北へ870km離れた位置にある旧フランス領インドの飛び地。ベンガル湾に注ぐゴウタミ・ゴダバリ川の河口から14km内陸へ入った河岸の町で、東西2つの地区とそれをつなぐ細長い土手、川の中州で構成され、面積約30平方km。フランス領だった1951年の人口はわずか5853人だったが、現在の人口は約3万人。5000人が漁師をしているほか、土地も肥沃で米、胡麻、マンゴーなどの農業も盛ん。ようするに、半農半漁の田舎町だ。

こんな小さな町をフランスは一体なぜ植民地にしたかというと、貿易のため。帆船で風任せの航海をしていた時代、ヨーロッパからアジアへは季節風を利用して1年に1回しか往復できなかった。この風がすなわち貿易風。そこで当時のヨーロッパ各国はアジアやアフリカの沿岸に競って商館を建て、船が来るまでの間、周辺で買いつけたヨーロッパ向け商品を商館に保管しておき、船が着けばヨーロッパの商品を商館に移して売りさばいた。

フランス人がヤナムに上陸して商館を建てたのは1723年のこと。フランス人は当時この地方を支配していたラジャに商館を建てたいと交渉していたが、なかなか認められず、地代を払うことを約束してようやく実現した。戦国時代の日本でもヨーロッパ人が長崎や平戸、島原などで地元の大名と交渉して商館を建てたが、インド沿岸に戦後まで存在したフランスやポルトガルの飛び地のような領土は、そういう商館が植民地となり、20世紀まで残ったものだ。

当時ヤナムからヨーロッパへ輸出した商品は主に布で、他にベンガル向けに塩が輸出されたが、これらの商品はヤナムで作られるわけではなく、周囲の村々の産物だ。そこでフランス人は毎週火曜日に市を開き、インド人から商品を買い集めていた。しかし間もなくイギリス人が対抗してわずか3km離れたNeelapalle村で毎週火曜日に市を開くようになり、双方激しい客引き合戦の末、フランスはイギリスに土曜日に市を開かせるようにした・・・なんて争いをしているうちはのどかなものだが、18世紀半ばにフランスがイギリスとインドの覇権を争い、中央インドにあったハイデラバード藩王国の王位継承戦に介入すると、ヤナムは貿易拠点よりも軍事拠点として重要になる。ヤナムを流れるゴダバリ川はハイデラーバードへの入り口なのだ。

こうしてヤナムはイギリス軍からしばしば攻撃を受けたが、フランス軍に助けられた王は、防衛の便宜を図るために商館の周囲の土地もフランスへ割譲し、当初は建物1つ分の面積だったヤナムは、1750年までにほぼ現在の大きさへ拡大した(※)。

※地元の王に「援軍の拠点」と見なされず、建物1つ分の広さのまま終わったのが商館区
1954年6月15日付『毎日新聞』
19世紀になり、イギリスによるインド全土支配が固まると、軍事拠点や貿易拠点としてのヤナムは役割を終えた。ところがヤナムが歴史上最も繁栄したのは実はこの時期。インドでは幼い子供のうちから親同士が相手を決め結婚させてしまう風習があるが、イギリスがこれを「非人道的だ」と禁止したところ、イギリスの法律が及ばないフランス領のヤナムで結婚式を挙げちゃえばいいと、中央インド一帯から幼女婚をさせたいインド人が殺到。ヤナムのヒンズー寺院では毎日何千組もの結婚式が行われたという。

フランスやポルトガル領の飛び地は、インドにおける法の抜け穴として、反英活動の拠点にもなった。例えば1857年に起きたセポイの乱では、反乱が鎮圧された時にセポイ(英軍にいたインド人の傭兵)たちはポルトガル領のゴアへ逃げ込み、今度はポルトガル軍の傭兵となって東ティモールへ出稼ぎに行ったし、反英闘争を指導していたおなじみガンジーも、しばしばポンディシェリ−やシャンデルナゴルを根拠地にして活動していた。

さて戦後、英領インドの独立が決まると仏領インドでも独立するインドへの併合を求める運動が始まった。そこでフランスはとりあえず大幅な自治権なら認めるとして、48年に5つあった飛び地ごとに市議会選挙を行った。ところが、シャンデルナゴルを除いていずれもフランス残留派が勝利し、インドへ併合されたのは1つだけだった。これは47年に英領インドがインドとパキスタンに分裂して独立し(回印分離)、ヒンズー教徒とイスラム教徒との間で激しい内乱となって、100万人以上の死者と数千万人の難民を生む事態になったため。「ひどい混乱に巻き込まれるくらいなら、とりあえずフランスのままでいいや」と多くの人が考えたのも無理からぬこと。

しかし、何年かたってインドの政情が落ちついてくると、それまでフランス派だった住民たちも再びインドへの併合を求めるようになる。1954年春にはポンディシェリ−をはじめ各飛び地の市議会でインド併合要求決議が次々と挙がり、ヤナムでは市長や議員をはじめ200人以上がこぞってインドへ亡命してしまった(といっても、隣の村へ行っただけ)。これに対して、フランスの警察がインド領へ越境してヤナム難民たちを襲うという事件も起きたが、数ヵ月後に市長を先頭に戻ってきた市民たちがヤナムを実力占拠する(詳しくはこちらを参照)。これがきっかけとなって、他の飛び地もインド人たちによって占拠され、8月になってフランスはついに植民地のインド返還を決めたのでした。

●関連リンク
Home Page of Yanam  ヤナム市役所の公式サイト(英語)


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