国連暫定統治


 西イリアン  ナミビア  カンボジア  東スラボニア
 東ティモール  コソボ    番外編:レティシア
戦前の国際連盟や戦後の国際連合では、敗戦国の領土を国連管理下の自由市自由地域としたり、委任統治領や信託統治領として特定国に統治を委ねたりすることがありましたが、最近多くなっているのが国連のPKO(平和維持活動)の一環として行われる暫定統治です。

PKOとは、武力紛争で停戦合意が行われた後、国連総会や安保理の決議によって、国連が中立的な立場から現場で停戦や軍撤退の監視を行い、紛争の再発防止や解決を図ることですが、さらに停戦合意に基づいた選挙の実施や新政府の設立、復興や難民帰還などを行うために、国連が一定期間その地域を暫定的に統治することもあります。

これまでの例では、停戦合意で決まったその地域が、(1)A国からB国へ引き渡す、(2)独立させる、(3)内戦をしていた各勢力で統一した新政府を作る、(4)A国の施政下に復帰させる、(5)自治政府を作る、などの目的が達成されるまで、国連が組織した暫定統治機構が派遣されるのですが、現地での実際の行政は、旧来からの政府や新たな政府が行って暫定統治機構はそれを監督するケースと、暫定統治機構が直接行うケースとがあります。

そういえば、イラク暫定統治機構というのがありましたが、これは国連による暫定統治ではなく占領軍(米英)による連合国暫定統治機構で、いわば戦後のGHQのようなものです。またアフガニスタン暫定統治機構というのもありましたが、こちらはアメリカの支援でタリバン政権を倒した反政府各派(北部同盟など)が設立したいわば臨時政府で、国連とは関係ありません。




【過去形】西イリアン 1962年10月〜1963年4月
インドネシアに併合されて「イリアンジャヤ」と改称された西イリアン
西イリアンとはニューギニア島の西半分。かつてはオランダ植民地だったが、現在ではインドネシア領で、パプア州(2002年まではイリアンジャヤ州)と呼ばれている。オランダ領からインドネシア領に移行する間の7ヶ月間、国連暫定統治機構(UNTEA)による暫定統治が行われ、国連西イリアン保安隊(UNSF)が停戦監視と治安維持のために派遣された。

なぜまた国連が統治したかというと、西イリアンを独立させようとしたオランダと、併合しようとしたインドネシアとで紛争になったため。インドネシアもかつてはオランダ植民地(蘭領東インド、略して蘭印)で、1945年に独立宣言をした際に、スカルノ大統領は「西イリアンもインドネシア領に含まれるべき」と主張した。しかしオランダ相手の激しい独立戦争で、インドネシア軍は西イリアンへ進出する余裕はなく、オランダ側は「西イリアンは行政区分も違えば人種も違う」と主張して引き続き植民地統治を継続した。

その後「反植民地」の国際世論の中で、オランダは61年2月に西イリアンで初の選挙を行い、独立派が勝利。議員たちは独立に向けてパプア国民委員会を作り、国名を西パプアと決めて国旗・国歌を制定。61年12月1日にはオランダが西パプア国旗の掲揚を認めた。

これにインドネシアは猛反発。オランダ統治下での西パプア独立への動きは、かつてインドネシア連邦共和国と称してオランダがいくつもデッチ上げた傀儡国家作りと同じだと批判した。55年にバンドン会議を成功させ、ネールや周恩来、ナセルとともにアジア・アフリカ諸国のリーダーを自認するスカルト大統領は、国民に「イリアン奪還」の総動員令を呼びかけ、オランダ海軍と砲火を交えるとともに、スハルト将軍が指揮する落下傘部隊が西イリアンに上陸を敢行した(マンダラ作戦)。

時あたかもネール首相率いるインドが、ポルトガル植民地のゴアダマンディウを武力併合した直後で、国際社会もインドネシアによる「植民地の武力解放」を支持。オランダとインドネシアは62年8月のニューヨーク協定で、西イリアンの施政権は国連による暫定統治を経て、63年5月からインドネシアへ移管することと、69年末までに西イリアンの最終的な帰属を決めることで合意した。

こうして国連総会によってUNTEAとUNSFが創設され、62年10月1日から国連による暫定統治がスタートしたが、インドネシアへの移管が決められていることから、その行政運営はインドネシア人官吏や警官への引継ぎが中心で、63年5月1日からインドネシア政府による統治がスタートした後も、ニューヨーク協定によって国連スタッフが残ることになっていたが、インドネシアの反対によって不可能となった。西イリアンの最終的な帰属については住民全体による投票は実施されず、それに代わって69年8月2日、国連監視の下でインドネシアが選出した「住民代表」1025人による投票が行われて、全員がインドネシアへの併合に賛成し、西イリアンは正式にインドネシア領となった。

もっともニューヨーク協定自体、西イリアン住民の意向とは関係なく結ばれたもので、69年の「住民投票」もインドネシアが選んだ代表だけが投票したのだから、インドネシア併合に賛成するのは当たり前。住民の間ではインドネシア統治下での同化政策に対する反発もあって、西パプア独立運動はその後も続き、最近では東ティモールの独立に刺激されて、独立への要求はますます高まっているようだ。




【過去形】ナミビア 1989年4月〜1990年3月
独立国(赤字)ではない曖昧な扱いだった頃のナミビア
ナミビアはかつてはドイツ領南西アフリカ。第一次世界大戦後は南アフリカによって長く支配されてきたが、1989年4月から1年間、国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)による暫定統治を経て、90年3月21日に独立した。

第一次世界大戦でドイツが敗れ、没収された植民地は国際連盟の下で委任統治領となり、ナミビアは南アフリカ(1910年からイギリス自治領)が統治したが、ナミビアの大部分は砂漠で人口も少なく、「独立はまず不可能」ということで、南アフリカが実質上自国領として扱っても良いC式委任統治領とされた。戦後の国際連合では、委任統治領は装いも新たに信託統治領となり、国連の監督が強化され最終的に独立を目指すものとされたが、ナミビアをずっと支配したい南アフリカはこれに反発。信託統治への移行を拒否してそのまま委任統治を続けた。

国連は1960年に総会で委任統治の終了を決議したが、南アフリカはそれも無視してナミビアを併合してしまう。そして本国同様にアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施して、ホームランド(黒人を不毛の地に隔離するための傀儡国家)や白人による暫定政府作りに乗り出す。国連安保理では78年に国連監視下で選挙を実施しナミビアを独立させる方針を決定し、国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)を設置することを決めたが、南アフリカが受け入れを拒否したため、ナミビア独立は宙に浮いた形が続いた。

一方で、ナミビアでは58年から南西アフリカ人民機構(SWAPO)が独立を要求していたが、75年に北隣のアンゴラがポルトガルから独立して社会主義政権が誕生すると、南ア軍+UNITA(アンゴラの右派反政府ゲリラ)VSアンゴラ軍+キューバ軍+SWAPOの泥沼の戦争となり、アパルトヘイトで世界各国から経済制裁を受けて疲弊した南アフリカは、88年末にキューバとナミビアの独立承認で合意。かくして南アが設立した暫定政府やホームランドは解体され、89年4月からUNTAGが現地入りして暫定統治が始まった。

暫定統治と言っても、実際の行政は南アが派遣した行政長官が行い、UNTAGは独立に向けた総選挙の監視や、法律の是正、行政の監督などに当たった。停戦監視やゲリラの武装解除などを行う平和維持軍が派遣されたほか、1500人の警察隊も派遣され、南ア時代の警察と共同で治安維持を担当した。

総選挙の結果は、72議席中SWAPOが41議席を獲得して第一党となり、南ア時代の暫定政府与党だった民主ターンハレ同盟も21議席を獲得した。こうして憲法が制定され、ナミビアは1990年3月21日に独立した。

外務省―ナミビア共和国




【過去形】カンボジア 1992年3月〜1993年6月

カンボジアといえば、今は亡きポル・ポト派(別名クメール・ルージュ)が有名でしたね。75年春から79年初頭までポル・ポト派が政権に就いた期間には、すべての都市から住民を追い出して集団農場で強制労働をさせ(大下放政策)、貨幣も廃止し、旧政府関係者のみならずインテリ(高卒以上や眼鏡をかけた人)も片っ端から処刑して、人口700万人のうち150〜200万人が死んだといわれています。マルクスですら「革命から数百年はかかる」と言っていた共産主義社会を、数年間で実現しようという無謀な「実験」でした(※)。

※革命で社会主義政権が誕生し企業や土地を国有化したところで、「この茶碗は俺のもの」といった私有財産の意識はなくならないし、政府がいくら宣伝したところで家族関係によって代々伝えられるから、理想の共産主義社会が実現するには長い年月がかかる・・・というのがマルクスの考え。それなら機械的に強制結婚させて集団生活をさせ、生まれた子供は親と引き離して「純粋培養」し、やがて大人は殺してしまい、生まれながらにして私有財産の意識を持たない人間だけにしてしまえば、共産主義社会はすぐに実現できる・・・というのがポル・ポト派的発想。
そのポル・ポト政権(民主カンプチア)は79年1月にベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)に倒され、タイ国境地帯のジャングルへ追いやられて旧政府ゲリラになったのですが、日本やアメリカ、中国をはじめ世界のほとんどの国はカンボジアの大部分を実効支配するカンボジア人民共和国を承認せず、国連の議席も相変わらず民主カンプチア、つまりポル・ポト派が確保し続けていました。そういうおかしな状況も、92年3月から93年6月までの国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による暫定統治の下で総選挙が行われ、現在のカンボジア王国が発足して、ようやく解消されました。

カンボジアは19世紀後半からフランスの保護領となったが、その下で王制は残され、1941年に19歳で王に即位したのがシアヌーク。カンボジアは日本軍占領下で独立を宣言するが、日本の敗戦とともに再びフランス植民地に逆戻りし、シアヌークの粘り強い交渉で、49年には外交・防衛を除く限定独立、53年にカンボジア王国として完全独立を果たした。こうしてシアヌークは国王になったのだが、55年に「国王じゃ政治家になれない」と王位を父親に譲って退位(※)。人民社会主義共同体(サンクム)という政党を旗揚げし、全議席を獲得し首相に就任。「仏教社会主義」のスローガンを掲げて、政府主導の計画経済を進めた。

※国王は60年に死去したが、シアヌークは国王を空位のままにして、以後71歳まで「殿下」と呼ばれ続ける。ちなみに本当はシハヌークなのだが、日本ではフランス語式にHを発音しないまま「シアヌーク」で定着したようだ。
シアヌークは外交では「非同盟・中立路線」を掲げつつ、中国やソ連に接近して、西側を含めた先進各国に援助を競わせる一方、内政では共産党を非合法化して徹底弾圧(※)。シアヌークのやり方は「気まぐれ」「綱渡り」と言われながらも、当時ベトナムからラオスへ戦火が広がる中で、カンボジアは「奇跡的な平和」を維持し続けた。しかしやがて弾圧された共産党はジャングルに潜って武装闘争を開始し、アメリカはカンボジア領内が南ベトナムの共産ゲリラの秘密基地になっていると不満を強め、シアヌークの綱渡り路線も限界に達する時が来た。
※当時カンボジアでは「秘密の虎の谷」があって、逮捕された共産党員はそこへ投げ込まれたという話もある。クメール・ルージュ(赤いクメール)というのは、この頃シアヌークが共産党につけたアダ名。
そして1970年、シアヌークが外遊中にCIAの支援を受けたロン・ノル将軍がクーデターを起こし、クメール共和国を樹立して大統領に就任。カンボジアへ戻れなくなったシアヌークは、周恩来の斡旋で今まで宿敵だったクメール・ルージュと手を結び、カンプチア民族統一戦線を結成し議長に就任してしまう。もっとも、シアヌークはずっと北京に滞在して外交を担当し、統一戦線の実権は国内のジャングルでゲリラ戦を続けるクメール・ルージュが握っていた。それでも農村部で圧倒的に人気のあったシアヌークがクメール・ルージュについたことで、ゲリラ側はたちまち国土の大半を「解放区」にしてしまい、ロン・ノル政権は首都プノンペンやいくつかの都市を支配するだけになってしまった。

こうして75年春、クメール・ルージュは大攻勢をかけ、アメリカの議会が援助を渋るとロン・ノル政権は瓦解。首都を制圧したクメール・ルージュはカンプチア王国民族統一政府を旗揚げするが、元首のはずのシアヌークは帰国を許されず、冒頭で書いたような暴政が始まった。半年後に帰国したシアヌークは幽閉されて元首を「辞任」し、76年に民主カンプチアが成立。それまで無名の人物だったポル・ポトが首相に就任した(※)。

※「ポル・ポト」が無名だったのも当然で、実は偽名。本名はサロト・サルで、教師をしていたが共産党の活動家となって地下に潜伏し、シアヌーク政権時代に逮捕され処刑されたと思われていた。
やがてポル・ポト政権はベトナムとの国境紛争(※)を起こすが、前線へ派遣されたクメール・ルージュ師団長のヘン・サムリンがベトナムと結んでカンプチア民族救国統一戦線を旗揚げし、ベトナム軍の全面支援を受けてわずか数週間でカンボジアのほぼ全土を占領。カンボジア人民共和国を樹立した。慌てて首都を逃げ出したクメール・ルージュはタイ国境のジャングルへ入り、ここで細々と活動をしていたソン・サン派(元ロン・ノル政権の残党)や、北京へ脱出したシアヌークとともに三派連合を組んで、タイ領内の難民キャンプをベースにゲリラ戦を開始する。
※ホーチミン市をはじめとするメコンデルタはもともとカンボジア領だったが、歴代ベトナム王朝の南進(ナムティエン)政策で18世紀にベトナムに奪われた。そのためカンボジア人の反ベトナム意識は高く、クメール・ルージュが領土奪還の「聖戦」に乗り出したのが国境紛争のきっかけ・・・といわれているが、かなり怪しい。むしろベトナム側が中国のウルトラ友好国だった民主カンプチアを葬りたがったのだろう。
ヘン・サムリン政権は都市を再建し、貨幣制度も復活させて、カンボジアは「実験共産主義」からフツーの社会主義国になった(※)。85年には若手のフン・セン首相が後を継ぎ、国民の生活もとりあえず落ち着いたが、ベトナム軍による占領に支えられた状態で、中国や西側諸国は「ベトナム軍による傀儡政権だ」とこれを認めず、シアヌークが再び代表となった民主カンプチアの連立政府を承認し続けた。これは中国やアメリカ、日本そしてタイはじめ東南アジア各国がベトナムの陰にいるソ連が東南アジアで勢力を拡大することを恐れたためと、シアヌークの巧みな外交手腕のためだった。シアヌークは国連で「ベトナムの侵略」を非難したかと思えば、ポル・ポト派の「悪行」を批判してみせたりもして、バランスを取りつつ求心力を維持したのだった。
※ヘン・サムリン政権が成立してから80年3月に通貨(リエル)を復活させるまでの間、カンボジアでは「ミルク缶に入れた米」がお金の代わりとして通用していた。例えば自転車のパンク修理は「ミルク缶の米4杯」といった具合。当時テレビのカンボジア報道では、プノンペンに戻ってきた市民が旧国立銀行前に散乱した「通貨として使えない紙幣」を拾い集めて燃やし、「通貨としても使えるミルク缶の米」を炊いている映像がよく流れていたが、あまりにデキ過ぎた光景だったし、あれはひょっとしてヤラセ?
しかし占領が長引くにつれベトナムの経済負担は重くなり、特に中国の開放改革政策の後を追ってドイモイ(刷新)政策を導入したベトナムにとって、カンボジア問題での国際的孤立はなんとか解決したかった。またソ連・東欧圏の崩壊でフン・セン政権への援助がガタ減りしたことや、中国やアメリカ、日本にとっては「ソ連の進出」を警戒する必要がなくなったことから、ようやくカンボジア和平に向けての動きが具体化。89年のパリ会議、90年の東京会議で三派とフン・セン政権(89年にカンボジア国と改称)の話し合いが行われ、91年に国連の暫定統治の下で総選挙と新政府樹立を行うパリ協定が結ばれた。

これに基づいて92年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジア入りし、各派の武装解除や動員解除、外国軍隊(ベトナム軍)の撤退監視のほか、自由で公正な選挙を実現するために、各派政府の外交、防衛、財政、公安、情報の行政機関を直接管理できるとされた。しかし現実には、カンボジアの行政は引き続きフン・セン政権が行っていて、UNTACはこれを監督し場合によっては干渉するに留まった。世界各国から派遣されたUNTACの行政官にカンボジア語ができるスタッフはほとんどいなかったのに、フン・セン政権の行政機関を接収して直接管理するのは不可能だった。またフン・セン政権の人民党のほか、シアヌーク派は長男のラナリット殿下がフンシンペック党を作り、ソン・サン派は仏教自由民主党を組織して選挙戦に臨んだが、ポル・ポト派は「ベトナム軍がまだ残っている(ウソ)」「国連の直接管理が行われずフン・セン政権の秘密警察が活動している(ホント)」と主張して選挙をボイコット。再びゲリラ戦を始めてUNTACスタッフを攻撃した。

93年5月の選挙が近づくと人民党とフンシンペック党の間でも相手事務所に手榴弾を投げ込んだり、ロケット弾を打ち込んだりの混乱騒ぎとなったが、とりあえず選挙は終了し、フンシンペック党が第一党、人民党が第二党で、ラナリット第一首相とフン・セン第二首相の「2人首相制」の連立政権が実現し、ソン・サンも国会議長に就任。93年9月にはシアヌークが38年ぶりに国王に即位してカンボジア王国が再び成立した。

その後、人民党とフンシンペック党が銃撃戦になったりと幾度か政治危機を迎えたが、そのたびにシアヌークが「国王を辞める」「もう引退する」と言い出し、フン・センとラナリットが「思い留まってくださいよ」と駆けつければ、「じゃあおまえらケンカをやめろ」と収めてしまうパターンの繰り返し。しかしシアヌークもついに2004年に81歳にして次男のシハモニ殿下に王位を譲って引退。一方、タイ国境のジャングルへ戻ったポル・ポト派は分裂と脱落が相次ぎ、ポル・ポトが98年に死亡したことで解体することになりました。

カンボジア命がけ汽車の旅  私が国連統治時代(92年)にカンボジア旅行したときのお話
UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)  公式サイトです。だから英語




【過去形】東スラボニア、バラニャおよび西スレム 1996年1月〜1998年1月
赤はクライナ・セルビア人共和国の領域。このうち右側の部分が東スラボニア
「東スラボニア、バラニャおよび西スレム」といちいち書くと長いので、まとめて「東スラボニア」ということにしますよ。

かつて多民族共存国家のモデルといわれたユーゴスラビアも、1980年代末に社会主義体制の崩壊と民主化で民族対立が激化し、バラバラに分解。1991年にクロアチアがユーゴスラビアから独立すると、人口の12%を占めたセルビア人はセルビア人が多く住むクライナ、西スラボニア、東スラボニアで「クライナ・セルビア人共和国」を作り、クロアチアからの独立を宣言。隣のセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナも含めて泥沼の戦争が続いたが、95年にクロアチア軍がクライナと西スラボニアを制圧。残る東スラボニアも95年11月の和平協定で「2年以内にクロアチアへ統合されること」が決まり、96年1月から国連東スラボニア、バラニャおよび西スレム暫定機構(UNTAES)が暫定統治を開始。統治期間は幾度か延長されながらも、98年1月に東スラボニアの施政権はクロアチアへ移された。

クロアチア人とセルビア人の対立が激化したきっかけは、90年の民主化選挙でトゥジマンがクロアチアの大統領に就任したこと。トゥジマンはユーゴスラビアの中で経済先進地域だったクロアチアの独立を掲げたが、「クロアチア人による純血国家」を強調。独立に向けた新憲法には「クロアチア語を読み書きし、カトリックに改宗しないと(セルビア人はセルビア正教徒)クロアチアの市民権を与えない」と明記した。91年6月にクロアチアが独立を宣言すると、反発したセルビア人は居住地域に「自治区」を作り、セルビア人民兵が武装蜂起を開始。ユーゴスラビア連邦軍(=セルビア軍)もこれを支援して、セルビア人側がクロアチアの約3分の1の地域を占領し、同年12月にクライナ・セルビア人共和国の独立を宣言した。

ECの調停で連邦軍は92年2月に撤退することになり、かわってクロアチアのセルビア人地域(=クライナ・セルビア人共和国)にはPKOの国連保護軍(UNPROFOR)が派遣されて非武装化されることになった。しかしセルビア人民兵の非武装化は一向に進まず、その頃本格化したボスニア・ヘルツェゴビナの三つ巴の内戦(セルビア人VSクロアチア人VSモスリム人)でも、国連軍に「保護」されたセルビア人地域は、ボスニア・ヘルツェゴビナへの出撃拠点になっているとクロアチアは批判。停戦協定を無視してセルビア人地域への攻撃が繰り返された。

94年に国連とEU、アメリカ、ロシアは「セルビア人に一定の自治を認める和平案」を提示するが、クロアチアは拒否。逆にクロアチアは「国連保護軍の存在が、クライナ・セルビア人共和国独立の既成事実化につながっている」とPKO本来の中立性が保たれていないと批判し、国連保護軍の撤退や削減を要求。このため国連保護軍は95年3月に撤退し、停戦監視に専念した国連クロアチア信頼回復活動(UNCRO)に代わると、クロアチア軍は5月から停戦ラインを突破してクライナ・セルビア人共和国に総攻撃を開始し、5月に西スラボニアを、8月にクライナを制圧。11月に和平協定が結ばれて、残る東スラボニアも2年以内にクロアチアへ統合されることが決まり、96年1月から国連東スラボニア、バラニャおよび西スレム暫定機構(UNTAES)による暫定統治がスタート。クライナ・セルビア人共和国は名実ともに消滅した。

UNTAESはクロアチア政府による行政の回復をサポートしたほか、非武装化の難民(主にクロアチア人)の自発的帰還、さらに97年に行われた総選挙などを監視した。この間、クロアチアとユーゴスラビア(=セルビア)との関係回復も進み、両国は96年9月に国交を回復。クロアチア人難民の帰還が進む一方で、30万人のセルビア人がセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人地区へ去り、紛争前にクロアチアの12%を占めたセルビア人は、4・5%へ減少した。




【過去形】東ティモール 1999年10月〜2002年5月

東ティモールの地図 

●まだ準備中です

とりあえずこちらを参照してください
 

ひがちも野次馬紀行  私が国連統治になる直前(99年)に東ティモールへ行ったときの話です
ひがちも再び野次馬紀行  私が国連が統治していた時(2000年)に東ティモールへ行ったときの話です

UNTAET(国連東ティモール暫定統治機構)  公式サイトです。だから英語
 




コソボ 1999年6月〜
コソボの地図 
コソボに駐留するNATO軍の各国別兵力と警備担当地区図 

セルビア・モンテネグロの地図。右下がコソボ自治州

●まだ準備中です

とりあえずこちらを参照してください

外務省・コソボ概要
 





【番外編】レティシア 1933年5月〜1934年5月

戦前の国連、つまり国際連盟にもPKOの暫定統治と似たようなことを行った事例があるので、「番外編」として紹介します。舞台はコロンビア、ペルー、ブラジルが国境を接するアマゾン川奥地の町・レティシアです。

レティシアはもともとペルーが支配していてサンアントニアと命名されていたが、1911年からペルーとコロンビアとの間で国境紛争となり、22年にコロンビアはプトゥマヨ川以南の領有権を放棄する代わりに、アマゾン川への出口としてレティシアへ至る約150kmの細長い地域を獲得した。しかしペルー側ではこの国境画定に不満が募り、1932年9月にペルーの武装勢力200人がアマゾン川を越えてレティシアを占拠。コロンビアの警官を追い出した。これに対し、コロンビアは軍用機を出動させたり、アマゾン川を遡って艦隊を派遣しようとしたりするなど緊張状態が高まり、ブラジルによる調停も失敗。こうして国際連盟の理事会が調停を行うことになり、国連が派遣する国際委員会がレティシアを1年間統治し、その間に当事者間で新たな合意がない限り1年後にコロンビアへ引き渡すという解決案を勧告した。

この解決案をコロンビアとペルー双方が受け入れたため、1933年6月に国連はアメリカ、スペイン、ブラジルの将校で構成される国際委員会を現地に派遣して施政権を行使し、治安維持のためコロンビア軍が国際委員会指揮下の「国際軍」として進駐した。こうして1年後の34年6月、レティシアはコロンビアへ返還された。

コロンビアとペルーの国境紛争はいちおう解決したが、コロンビアでは再びペルーが侵入してくることを警戒して、戦後レティシアへの移住奨励策を実施。しかしレティシアの人口は増えても目立った産業がないため、地理的なメリット(コロンビア本土とアマゾンのジャングルを挟んで隔たれているので支配が及びにくい)を生かして一時は麻薬取引の拠点となってしまいました。まぁコロンビアという国自体、80年代末まで麻薬カルテルが大きな勢力を持っていて、89年に国を挙げての「麻薬戦争」が起きましたけどね。

現在の国境(左)と1920年頃の国境(右)
 
 
 

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