国連管理地域
 
 ダンチヒ自由市  ボスポラス海峡地帯  トリエステ自由地域  ザ−ル  

第一次世界大戦や第二次世界大戦では、敗戦国の領土の分割が行われましたが、領土分割をめぐって揉めた場合、国連の管理下でとりあえず自治政府を成立させることが行われました。また敗戦国の植民地で「現地住民がすぐに自治政府を作るのは無理」と判断された場合は、国連の委任統治領信託統治領になりました。




【過去形】ダンチヒ自由市

ダンチヒ自由市の領域 (ドイツ語)
ダンチヒ市内地図(1910年) (ドイツ語)
ヨーロッパの地図(1908年 ドイツの領土がまだ大きかった頃(日本語)
現在の中欧の地図  Gdanskがかつてのダンチヒ(英語)

第一次世界大戦で敗れたドイツは1919年のベルサイユ条約で本国・植民地あわせて多くの領土を割譲させられるハメになったが、なかでもさまざまな問題を残したのがポーランドへの領土割譲だ。ポーランドに海への出口を与えるために回廊部分を割譲し、東プロイセンはドイツ本土から分離した飛び地になった。さらに東プロイセン最大の港湾都市・ダンチヒ(ダンツィヒ)は、ドイツから切り離されて「自由市」とされた。

もともと自由市とは、封建領主による支配に属さず、市民の自治によって運営される都市国家のことだが、中世の自由市と違うのは、「大国の狭間で単独独立した都市国家になるのでは存続が危ぶまれる」ということで、国連保護下での自由市になったこと。ダンチヒの面積は1952平方km、人口41万人(1936年)。うち中心部は26万人で、他に4つの町と258の村、2つの森林区で構成されていた。

国連(現在の国際連合ではなくて国際連盟)からは高等弁務官が派遣されたが、内政はダンチヒ自由市憲法に基づいて市民が選出する人民議会が立法権を、市長が率いる元老院が行政権を持ち、対外関連事務はポーランド政府が担当、市当局とポーランド側との折衝が難航した時に高等弁務官が介入した。住民の96%がドイツ人で公用語はドイツ語だが、関税はポーランドと同一となり、ダンチヒ市が徴収した関税はポーランド政府へ納入してその一部が市へ還付された。ダンチヒは軍備が禁止されたが海岸の要塞(ヴェステルプラッテ岬)にはポーランド軍が駐屯し、港はスイス人の委員長の下にダンチヒ市側5人、ポーランド側5人で構成される港務委員会が運営。鉄道はポーランド国鉄と港務委員会で分割して所有し、ポーランド国鉄が運行した。またポーランド側の通信の自由を保障するために、ダンチヒ市の郵便局とは別にポーランドの郵便局が市内に設置された。

つまりダンチヒは自由市とは言うものの、実質的には国連管理下でポーランドが多くの特権を持っていたのだ。

ダンチヒ自由市の誕生は、ドイツにとってもポーランドにとっても不満だった。ダンチヒに住むドイツ系住民の間では当初は不満は少なかったが、ドイツ本土ではダンチヒと回廊部分の喪失は屈辱と映り、また回廊部分に住む住民もドイツ本土と往来するのに税関や出入国検査が必要で煩わしくなった。一方、ポーランドにとっては「海への出口を与える」と言われながら、肝心なダンチヒは得られず、割譲された回廊部分は港もなければポーランド内陸部と結ぶ南北の鉄道もない「役に立たない海岸線」だった。

1930年のダンチヒ市内地図(クリックすると拡大します)
ダンチヒ一帯にはもともとポーランド人と同じスラブ系のカシューブ族が住み10世紀頃から王国を立てていたが、12世紀頃からドイツ人移民が増え、1310年にドイツ騎士団が占領した。しかし1466年からポーランド王が統治し、1793年にプロシアが併合。ナポレオンの占領期に自由市になったことがあるが、1814年に再びプロシアが併合した。つまりドイツがダンチヒを統治したのは約260年間だったのに対して、ポーランドはカシューブ族を含めると600年以上支配していたわけで、ポーランドにしてみれば「ダンチヒはベルサイユ条約で獲得して当然」の領土だった。

ポーランドはダンチヒにさまざまな特権を持つとはいえ、ダンチヒ側と協調できなくては意味がない。例えば1920年にソ連の赤軍がポーランドへ侵入した際、ポーランドは軍事物資をダンチヒ港から陸揚げしようとしたが、ダンチヒ港の港湾労働者がストライキを起こしたため輸送できないという事件が起きている。

そこでポーランドはダンチヒから北へ12km離れた自国領内に新しくグディニア港を建設し、自国の輸出入貨物をここで取り扱うようにした。このためダンチヒ港の取扱量は1928年から停滞し、33年にはグディニア港に追い抜かれ、ダンチヒの商工業は著しく衰退してしまう。ダンチヒ側の抗議により、ポーランドは自国貨物の半数はダンチヒ港で取り扱うことを約束したが、その後も高価な商品はグディニア港へ送り、ダンチヒ港へは材木や石炭のような安い割にかさばる貨物が送られるという状況が続き、ポーランドとダンチヒの関係は急速に悪化していった。

ダンチヒでは当初、自由主義者らが政権を担当していたが、経済不振によって市民の間ではドイツ復帰の声が高まり、33年の選挙でナチスが政権を握る。ナチス政権の下でダンチヒはポーランドとの従属関係を脱していくが、39年にヒトラーはポーランドにダンチヒの返還と回廊部分での軍隊通過を認めるように要求。これが拒否されるとポーランドへ攻め込み(※)、第二次世界大戦が始まった。

※ドイツ軍が真っ先に攻撃したのは、ダンチヒ自由市でポーランド軍が駐屯するヴェステルプラッテ岬だった。第一次世界大戦でロシア軍に撃沈されたドイツ巡洋艦の追悼式典に参加するという名目で、ダンチヒを訪れたドイツ海軍の練習艦が、不意を突いて岬の要塞を砲撃したのが第二次世界大戦の勃発。
戦後、ダンチヒはポーランド領となってグダニスクと名前を変え、ポーランド随一の港湾工業都市となる。住民もドイツ人はほとんどいなくなり、代わってポーランド人が移住した。そういえば東欧民主化のきっかけとなった80年代の自主労組・連帯って、グダニスクで結成されたんでしたね。「ワレサ委員長」って、まだ生きてるの?


ダンチヒ自由市の旗

●関連リンク

裏世界遺産>グダニスク 世界遺産の申請を辞退したそうです
ダンチヒ ダンチヒ自由市の切手や葉書




【過去形】ボスボラス海峡地帯

第一次世界大戦後のトルコ分割予定地 1919年10月発行
海峡地帯の地図 (英語)

アルバニアの北にある魏志倭人伝にでも出てきそうな「黒山国」とは、どこの国のことでしょう?
ボスボラス海峡といえば、黒海の出口であり、アジアとヨーロッパを隔てる海の要衝。ローマ帝国の頃からコンスタンチノープル、現在のイスタンブールが栄えた場所だが、第一次世界大戦でオスマン・トルコが敗れると、1920年のセーブル条約によって、ボスボラス海峡地帯は国際連盟による管理下に置かれることが決まった。

海峡地帯の範囲にはセーブル条約でギリシャへ割譲されることになった島々やヨーロッパ側の大陸も含まれ、国際連盟の海峡委員会が管理。海峡委員会はイギリス、フランス、イタリア、日本、アメリカ、ソ連の6大国(当時国連未加盟だった米ソは、「国連に加盟したならば」の条件付き)と、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、ギリシャの合計10カ国で構成され、議決権は6大国が2票ずつ、その他の国は1票ずつ持つ。海峡委員会は独自の国旗や財政予算、組織を有し、航路や停泊地の改修や維持管理を行う。陸上の行政はトルコ政府とギリシャ政府がそれぞれ行うが、衛生管理については委員会が権限を持ち、独自の警察を設置する。それらの費用を賄うために、委員会は海峡を航行する船から水先案内料や曳航料、埠頭使用料などを徴収して充てることとされた。また司法権についてはトルコ人とギリシャ人はそれぞれの政府の裁判所に従うが、第一次世界大戦の戦勝国(連合国)は領事裁判権を持つことになった。

それまでオスマン・トルコの首都だったイスタンブールは、引き続きトルコの首都として主権が残されたが、トルコ政府が少数民族の権利を尊重しなかったり、条約に違反した場合は、主権を取り消すことがあり得るとされた。また海峡地帯は非武装地帯に指定されたが、イギリス、フランス、イタリアの軍隊は駐屯できることになった。

セーブル条約ではこのほか、トルコの属領だったアラビア半島の独立を認め、シリアやレバノンはフランスの、イラクやヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治領とされたが、トルコ本土についても、アルメニア人地区は独立(暫定的にアメリカの委任統治領とされたが、アメリカは拒否)、クルド人地区は自治地域となり、ヨーロッパ側の領土(トラキア地区)はイスタンブールを除いてギリシャへ割譲し、アジア側でもイズミールイズミル(スミルナ)一帯はギリシャへ割譲、さらに南部はイタリア、南東部はフランスが占領することなどが定められ、トルコの領土は小アジアのほんの小さな部分だけしか残らないことになった。

この亡国の危機に立ち上がったのが軍司令官のケマル・アタチュルクだった。ケマルはセーブル条約に調印したスルタンのイスタンブール政府に対抗して、アンカラに新政府を作り、国民軍を組織してイズミルから内陸部へ攻め込んだギリシャ軍を追い出したほか、フランス軍も撤退させ、海峡地帯に駐屯するイギリス軍と対峙。この間にスルタンは海外(マルタ島)へ亡命してイスタンブール政府は崩壊した。

こうして1923年に新たにローザンヌ条約が結ばれ、エーゲ海の島々がギリシャ領とされたことを除いて、トルコは本土の領土をすべて取り戻し、ボスボラス海峡地帯の主権もトルコが回復した。海峡地帯は引き続き非武装とされ、ボスボラス海峡はすべての国の船が自由に通行できることになったが、海峡委員会の権限は水域だけに限定されて、軍艦や軍用機の自由通行の監視が主な任務になった。そして1936年のモントルー条約で、海峡地帯へのトルコ軍の配備が認められ、海峡委員会は廃止されてトルコは敵国船舶の通行を制限できるようになった。第二次世界大戦ではソ連がボスボラス海峡の共同管理を要求したものの、トルコに断られています。

★幻に終わった「コンスタンチノープル自由国?」 

コンスタンチノープル自由国?の地図 「コンスタンチノープル自由国とギリシャとの間で分割される地域」は結局ギリシャ領になりました

第一次世界大戦が終わった後、勝利した連合国がドイツと結んだ講和条約が1919年6月のベルサイユ条約で、オスマントルコと結んだ条約は1920年8月のセーブル条約。つまりベルサイユ条約が結ばれた時点では、戦後のトルコの処理がどうなるかはまだ決まっていなかったはずだが、当時日本の報道各社が発行した「戦勝記念」の世界地図では、ボスボラス海峡地帯のヨーロッパ側にコンスタンチノープル自由国?なるものが描かれている。地図に「?マーク」が付いていることからして、いかにも謎な存在だが、地図の説明によれば・・・

コンスタンチノープル自由国 欧州に残存する土耳其の領土は、之をコンスタンチノープル自由国として国際管理に附せらるる筈なるを以て、十四世紀に於いて初めてその地歩を得て以来、オツトマン帝国として栄えたる土耳其人の国は今や欧州に於いて全く滅亡に帰したり。新自由国の領域は、旧欧州土耳其領域並びにボスボラス、ダルダネンス海峡と共に、多分亜細亜土耳其のマルモラ海沿海地方より成ることならん。依って其面積は約1万二三千里(我台湾)人口二百万を越ゆ可し。(時事新報『世界改造国別地図』1919年10月)
コンスタンチノープル自由国の領域は、1453年に滅んだビサンティン帝国の末期のころの領土とほぼ一緒。当時のヨーロッパの戦勝国ではイスラム教徒に奪われたコンスタンチノープルを奪い返したということに沸き立ち、ここをイスラム社会から切り離すことを主眼に置いていたようだ。「自由国」というのは、ダンチヒ自由市と同じで、封建領主(オスマン皇帝)の支配から脱した地域ということで、ダンチヒ同様に国連保護下の独立国が想定されていたようだ。

しかしセーブル条約が結ばれるまでには、「コンスタンチノープルの解放」よりも「ボスボラス海峡の開放」に主眼が移った。地図の説明でも示唆されているように、海峡の両岸が国際管理地帯となる一方で、住民に対する行政はトルコ政府(とギリシャ政府)が行うこととされ、イスタンブールは引き続きトルコの首都として残された。こうしてコンスタンチノープル自由国?構想は?マーク付きのまま消滅したのでした。




【過去形】トリエステ自由地域 

イタリアの地図(1921年) トリエステやイストリア半島全域がイタリア領だった頃
現在のイタリアの地図 トリエステの町だけがイタリア領

  
トリエステ自由地域の全体図(左)と現在のイタリア領トリエステ=旧A地区の大部分(右)。左図の水色の線は現在のスロベニアとクロアチアの国境線

トリエステもイストリア半島の付け根にある都市ですが、ここは第二次世界大戦後に国連管理下の自由市ならぬ自由地域(フリー・テリトリー)になったことがありました。

トリエステもかつてはベネチア領だったが、1382年からオーストリア領となり、オーストリアの海への出口として重要な拠点だった。もっとも住民はダルマチア地方と同様に、沿岸の港町にはラテン系(イタリア人)が集中し、後背地の農村部にはスラブ系(クロアチア人やスロベニア人)が多い。第一次世界大戦でイタリアはトリエステを得てベネチア以来の失地回復を実現したが、イタリア政府がスラブ系住民の同化政策を進めたために、クロアチア人やスロベニア人の反発が高まっていた。

さて、第二次世界大戦でムッソリーニ政権が崩壊するとドイツ軍が占領したが、ドイツ降伏の直前に北からはイギリスの連合軍が、南からはチトー率いるユーゴスラビアの国民解放軍が同時にトリエステへ殺到。両軍の協定で市街地を中心とした北部は米英が、農村部の南部はユーゴスラビアが占領した。戦後トリエステをどうするかについて、ソ連は全てユーゴスラビアに割譲するよう要求し、米英はイタリア人が多く住む地区はイタリアに残すよう主張して対立。1947年2月の対イタリア講和条約では、国連安保理の管理下でトリエステを非武装・中立の自由地域とすることが決まった。

トリエステ自由地域は独自の憲法を制定して、独立した行政・立法・司法権を持つ、いわば独立したミニ国家のようになり、国連安保理が任命した総督がそれを監督するという制度が定められた。しかし総督の人選をめぐって安保理では米ソが対立し続け、現実には米英軍とユーゴスラビアによる分割統治が続いた。

米英軍占領地域はA地区と呼ばれ、面積222・5平方kmで人口は47年2月時点で26万2406人(うちイタリア人21万1660人、スロベニア人3万2427人)。ユーゴスラビアが占領したB地区は515・5平方kmで人口7万1000人(うちイタリア人5万4651人、スロベニア人とクロアチア人1万6287人)。A地区とB地区は通行も制限され、B地区に住むイタリア人がA地区の市街地へ通勤することは10時間以内に限って認められたが、B地区のスロベニア人の農民・漁民がA地区の市場へ収穫物を売りに行くことは不可能になった。

トリエステでは独自の通貨や切手が発行されたが、切手はA地区ではイタリアの切手に、B地区ではユーゴの切手にそれぞれ加刷されたものが使用され、48年にはB地区の通貨がユーゴ・リラに交換されるなど、A地区とB地区の分断は進んでいった。

アメリカとソ連の対立が強まる中で、トリエステの問題はイタリアとユーゴスラビアの民族的対立よりも、資本主義陣営と社会主義陣営の対立に巻き込まれ、トリエステは東西冷戦の最前線になってしまったのだ。そういえば有名なチャーチル英首相の鉄のカーテン演説も、「バルト海のステッセンからアドリア海のトリエステまで、大陸を縦断して鉄のカーテンがおろされている」でしたね。

1952年に米英はA地区の行政を、警察を除いてイタリア人の政治顧問に任せることにしたため、ユーゴスラビアは猛反発してイタリアとの紛争になり、B地区では迫害されたイタリア人約4万人がA地区へ逃亡したが、結局54年にイタリアとユーゴスラビアは協定を結び、A地区の一部をユーゴへ割譲することやA地区にある港を自由港とすることで合意して、トリエステを分割。イタリアは75年にB地区の領有権を公式に放棄して、トリエステの問題は最終的に解決した。

・・・と思ったら、1991年にユーゴスラビアが解体したためトリエステはさらに分割されてしまい、旧B地区のうちキョペール(Koper、イタリア名はCapodistria)を中心とした一帯はスロベニア領に、それより南はクロアチア領になっています。


トリエステ自由地域の旗。非武装なのに剣というのはアレですが、古くからのトリエステ市の紋章を採用したそうな

●関連リンク

役所工事@ITALIA  トリエステ ちょっと昔のトリエステの写真がたくさんあります
トリエステの路面電車 ケーブルカーと連結して急勾配を上る珍しい電車が走っているそうな




【過去形】ザール 

ザールの領域 (ドイツ語)

1919年10月発行の地図。ザールには「国際連盟管理」と「十五年後ニ於テ住民投票ニヨリ所属ヲ決定ス」の文字
  

小学校の時、『最後の授業』という話を習いませんでしたか?ドイツとの国境に近いフランスの町が舞台で、フランスが戦争に負けたためその町がドイツに占領されることになり、学校の先生が「フランス語で授業ができるのは、今日が最後です・・・」とかなんとか話すという内容。その話の舞台となっているのはフランス東部のアルザス・ロレーヌ地方だが、そこと国境を挟んで向かい合っているドイツ側がザール

ロレーヌは鉄鉱石の産地だが、ザールは石炭が豊富。両方を結びつければ近代産業に不可欠な鉄鋼ができるということで、フランスとドイツが争奪を繰り広げ続けた場所だ。近代まではザールブリュッケンの公爵領や公国だったが、1792年にナポレオンのフランス軍が占領。普仏戦争により1815年にプロシアとバイエルンの領土になり、やがて両国はドイツ帝国になった。第1次世界大戦にドイツが敗北したことで、フランスはザールを併合しようとしたが、英米などの反対で1919年にザールは国際連盟の管理下に置かれた。

ダンヒチの場合、独自の憲法と立法・行政権が与えられ、その憲法施行の保障とポーランドとの調整のために国際連盟から高等弁務官が派遣されたが、ザールでは国際連盟のザール施政委員会が施政権を持っていた。いわば国連の直轄地のような立場だ。施政委員会はザール住民から1人、フランスから1人、仏独以外から3人の計5人の委員で構成されたが、26年までフランス人が委員長となり、炭坑はフランスに経営権が与えられたりと、事実上ザールはフランスの強い影響下に置かれた。

ザールの最終的な帰属は15年後に住民投票を行って決めるとされていたが、その結果は投票率97%で90%の住民がドイツ復帰を望んだので、1935年1月にドイツへ返還された。ザールの人口は90%がドイツ人だし、前年にヒトラーが総統に就任してドイツの威勢は上げ潮だったから、そういう結果になるのは当然のこと。ザール併合はヒットラーにとって領土拡張の第1歩となり、同年3月の再武装宣言、36年のラインラント進駐、37年のオーストリア併合、39年のチェコスロバキア解体とメーメル(現在リトアニアのクライペダ)併合、そして同年のダンヒチ返還要求とポーランド侵攻へと繋がっていく。

さて、第2次世界大戦でドイツが負けると、再びフランスはザールを併合しようとするが、他の連合国に反対されて断念。とりあえず47年に親仏的な自治政府が設立されて、フランスと関税同盟を結びザールは経済的にフランス・フラン圏に入った。そして50年には西ドイツの抗議を無視してフランスは自治政府と協定を結び、ザールの炭坑を50年間租借することになった。

フランスの思惑は、ザールの併合が無理ならWEU(西ヨーロッパ連合=英仏とベネルックス3国で構成)の管理の下で独立させ、実質的にはフランスの衛星国にしてしまおうというものだったが、55年の住民投票の結果はWEU管理下での独立に68%が反対。また同年行われたザールの総選挙では親独派が勝利して、親仏政権は退陣し、ドイツ復帰を求める住民の意向がはっきり示されることになった。こうして56年からはザール返還に関する仏独交渉が始まり、1957年1月に西ドイツに統合。経済面でも59年7月にドイツ・マルク圏に切り替わった。

仏独国境の天然資源をめぐる争奪はこれまで何度も戦争の原因になってきたので、それらの地域を国際管理下に置こうという試みが繰り返されたが、結局そこに住む住民のアイデンティティを無視した形ではうまく行かなかった。そこで戦後、新たに考えられたのが「じゃあ天然資源を国際管理下に置けばいい」という方法で、これが1952年に発足した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)だった。58年には欧州原子力共同体(EURATOM)や、農産物の共同市場化を目的とする欧州経済共同体(EEC)の設立に拡大し、67年にそれらを統合して共同市場を目指す欧州共同体(EC)となり、93年には外交や安全保障、司法、内務、通貨などの範囲に共同体を拡大させて欧州連合(EU)へと発展した。

ザールのをめぐる争奪は紛争の火種だったが、ヨーロッパの恒久平和を目指した体制作りのきっかけともなったわけですね。

  
第一次世界大戦後のザール施政委員会の旗(左)と、第二次世界大戦後の自治政府の旗(右)

●関連リンク

おでかけ ドイツ・ザールブリュッケン 現在のザールランドの様子。国境近くのドイツ・フランス庭園など
ザール 国連統治時代や自治政府時代の切手があります

参考資料:
『世界改造国別地図』 (時事新報社 1919)
『平和記念改造世界地図』 (東京日日新聞社 1919)
『世界新地図』 (大阪朝日新聞社 1919)
『波蘭事情』 (日波協会 1929)
『最新世界現勢地図帖』 (新光社 1933)
村川堅固 『世界時局地図』 (宝文館 1936)
『世界地理第12巻 南欧東欧』 (河出書房 1940)
『世界年鑑 1951』 (共同通信社 1951)
『世界年鑑 1955』 (共同通信社 1955)
『世界地理風俗大系. 第17巻』 (誠文堂新光社, 1965)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
永田雄三 『中東現代史1』 (山川出版社 1982)
ドイツの葉書 http://www1.plala.or.jp/stein/index.html
第一次大戦 http://ww1.m78.com/
元老院議員私設資料展示館―エンヴェル・パシャとケマル・パシャ http://www.kaho.biz/turkey.html
The Treaty of S?vres, 1920 http://www.dalebroux.com/assemblage/20021019TreatyofSevresSectionI.asp
HR-Net http://www.hri.org/
The Convention Relating to the Regime of the Straits, 24 July 1923, http://www.lib.byu.edu/~rdh/wwi/1918p/straits.html
FREE TERRITORY OF TRIESTE http://triestenet.tripod.com/ftt.htm
Fact Monster Trieste http://www.factmonster.com/ce6/world/A0849411.html

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